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再臨少女編(上)


 あなたは「奇跡」なるものを信じるかしら。


 無論、私は奇跡を信じている。なぜなら " 私 " という存在自体が奇跡なのだから。


 私はこの身で3度の奇跡を成している。


 ───第1の奇跡、それは「産まれ出た奇跡」。


 ───第2の奇跡、それは「生き返った奇跡」。


 私は何千億に一という大き過ぎる壁を越え、この世界に生を受けた。それは私に限った話じゃなくて、私以外の生者全てに言えることよね。


 もっとも、それは私にとって最高にありがた迷惑な話なんだけど。



 私はいわゆる、「被虐待児」と呼ばれる民の一角だった。両親からは愛の代わりに拳をぶつけられ、抱擁に代わり毎朝毎晩身体中を絞め上げられた。


 物心つく頃には、私の四肢はほとんど動かせなくなっていた。


 いつしか私は時を感じることすら止め、一人だけ静止した空間を這っていた。そしてそんなことを続けているうち、私の身体は、私の命はぜんまいを巻くことを放棄した。


 生物的な意味での「死」を迎えたのだ。


 …が、めでたく終わりを迎えたと思った矢先、私はまだ終わっていなかった。


 気付けば、私は大きな門の前にいた。立ち上がることすらできなかったはずなのに、大門を眼前にした私は半ば無意識に半身を起こす。そして、ゆっくりと " その先 " に向け歩みを始めた。


 視線の先にあったはずの2本の柱が、今度は振り返った先に現れるようになった。私は大門をくぐり抜けたのだ。


 その行為が何を意味するものなのかは、多分私含めた人類のうち誰にもわからない。でも、私は一人、それを知る " 何か " に心当たりがある。



『君は、まだ駄目だ』



 男なのか、女なのかわからないノイズがかったその声は、私に奇跡を起こしやがった。



 瞬きをした次の瞬間には、私は見知ったリビングで眠っていたのだ。



 最初、私は夢を見ていたんだと思った。何故なら目覚めたそこは、私がいつも起床するフローリングの上だったから。


 いつもみたいに、また「あいつら」がやってきて私を玩具にするんだと思っていた。


 だから私は、いつも通り心を殺そうと目を閉じた。しかし、一向にあいつらの来る気配がない。不思議に思い、私は起き上がって辺りを見回した。


 ───そのとき、私はさっき見た夢が " 夢でなかった " ことに気が付いてしまう。


 おかしい。ここ数年、ろくに動かなかったはずの身体を、私は今当たり前のように動かしている。それどころか、ボロボロだった歯も、殴られ続けて変色した皮膚も、ひびが入っていたであろう肋の痛みも………全てがきれいに完治している。


 間違いない、私は一度生き返り、そして生まれ変わったのだ。


 そしてそれから数分後、私はさらなる衝撃に晒されることとなる。


 ガチャリ。


 ドアノブを撚る音がする。私の一番嫌いな音だ。


 そして、一人の女が現れた。私はそいつの顔をよく知っている。毎日飽きもせず、私で遊ぶ物好きの顔だ。



「おかあ、さん」



 喉から音が出たなんて何年ぶりだろうか。しかし今更驚きはしない。それよりも、目の前にいる女の方がよっぽど驚いた顔をしている。


 彼女の手にぶら下がったビニール袋は手放され、中に入っていた缶ビールやらコンビニ弁当やらは散乱してしまう。


 しかし、それすらにも気が付いていないといった様子で、女は一言私に問うた。



「あんた………誰?」



 私はこの瞬間ほど、心の底から「喜び」というものを感じたことはないと思う。そしてこれから先も、この瞬間に勝る程の幸福は得られないだろうということを予言しておく。


 なんと、私の肉親である彼女は我が子ことを忘れてしまったのである。



 そしてこれこそが第3の奇跡、「忘れられた奇跡」だ。



 結局その後、当然ながら私は家を追い出された。まぁ、居座る気なんてさらさら無かったけど。


 私は「名無し」になってしまった。


 住む家もなく、食べるものもない、頼れる人もいない、何もない………何もないはずなのに、私はこの上なく満ち足りた気持ちだった。


 頭上で大空を舞うあの鳥が、ありえない程近く感じた。木の葉の上で蠢く昆虫が、考えられないほど美しく見えた。私は自由を手に入れたことに対し歓喜し、自由を与えてくれた奇跡に対し信仰に近い想いをはせた。


 その「生の実感」こそが、瞬きの夢であるということにも気が付かずに。


 私は幼くして働くこととなった。生きるためには食い扶持が必要なことくらい、私にも分かっていたさ。でも、私は「生きる」ということをあまりにも軽視しすぎていた。それは今まで " 生 " を感じたことがなかったから。


 就労を志願するため何十もの店のドアを叩いたが、まともに取り合ってくれるところはどこにもなかった。


 そしてついに、私は「叩いてはいけないドア」にまで手をかけてしまう。


 ───ここから先は少し割愛しようと思う。


 大して面白い話でもないし、全てを赤裸々に語るというのも、秘密主義者たる私に言わせれば美点に欠ける。ドキュメンタリー小説が不幸自慢全集と化するなんて笑い話にもならないし、あえて口にするならアレね、『ご想像にお任せします』。



 ………さて、そんなこんなで私は何とか日銭を稼いで暮らしていた。


 しかしそんな日々すらも、長くは続かなかった。


 歳を重ねるごとに、私に対する需要は減っていく。お給金は何年勤めたところで水平を辿り、身体の傷だけが増えていった。


『え、君の身体傷だらけじゃないか』


 私に向けられたと思った言葉も。


『こんな中古品寄越しやがって。流石に使えねーわ』


 それは私に対するものではなかった。


 皆、私という名のついた肉塊しか " 私 " だと認めない。私は自分がモノであることを他者から強引に押し付けられ、他者は私という人間の確立を決して許しはしない。


 結局、私は誰かの玩具として生きることしか許されなかったのだ。


 親元を離れたからといって、自由になれたわけじゃなかった。そもそも、この世界に「自由」なんてものは存在しない。何故なら、誰かと生きるとするならその誰かに、集団の中で生きるとするなら環境に、独りで生きるとするならその「生きること」に───私は縛られ続けたから。


 まるで長い夢から覚めたような気分だった。それも、とびきりの悪夢から。


 その日を境に、私は働くことを辞めた。


 「自由」なんてものはただの絵空事だったのだという現実を突き付けられ、私は人生という旅路の道標を失ってしまったのだ。


 店を出る際にくすねてきたお金があるから、当面の生活には困らない。衣服の方も、店の衣装であった「ゴシック・アンド・ロリータ」なんて派手な上動きづらい代物であることに目を瞑れば問題はない。


 勤め先は法的に色々と問題を抱えていた分、警察に捜査の協力を仰ぐことはできない。つまり、私が盗人として全国に晒し上げられる可能性はかなり低い。


 そこから導き出される結論はただ一つ、私は自由になったのだ。


 ───だが、私はこれより前に述べた筈だ。『自由なんてものは存在しない』と。


 他者や環境からの束縛からは、確かに開放されたとも。しかし、今度は「生きること」に縛られてしまうのだ。


 生きるためには何が必要か、…そう。「食事」である。



 言い忘れていたが、私は " 生き返って以来人間の食べ物が食べられなくなっていた " 。



 厳密に言えば、「食べられなくなった」のではなく「食べても食欲が満たされなくなった」のだ。


 生き返ったことに起因するものなのか、はたまた単純におかしくなってしまっただけなのか。


 つまるところ、私はここ数年何も食べていないことになる。これまでは何も考えず、何も感じずに玩具を演じていたため、己の欲求と向き合うことなんてなかった。


 そもそも、私の持つ欲なんて「自由になりたい」ただそれだけだった。したがって、それ以外の欲望になんて浮気しなかった。病的なまでに、一途だったのだ。

 

 なのに、私はその唯一を失くしてしまった。だから私は無意識下で欲しているのだ。


 欲望に代わる新たな欲望を。


 私は数年をかけて調べ上げた。私自身が、一体何を欲しているのか。


 鰊の缶詰めから靴クリームまで、口にできるものは何でも口にした。この頃からか、私は自分自身のことを人間だとは思わなく…いや、思えなくなっていた。


 そしてついに、私は私の欲を満たしてくれる食べ物を発見する。



 それは「死者の骨」だった。



 私はついに人間を辞める日が来たのだと、暗雲の立ち籠める空を仰いだ。


 ───いや、既に人間なんかじゃなかったのかな。産まれたその瞬間から、私は自分が人間だという夢を見続けていたんだ、きっと。


 夢に夢を重ねて、あたかもそれが現実のものだと錯覚してきた自分が、別世界に住む「他人」になった。


 でも、結局私はそんな「他人」を忘れることができなかった。自分が自分という人間でないことは理解しつつも、心の片隅では人間で在り続けることを渇望する私が居座り続けた。



 混在する2人の自分と、「生きること」に苦しめられ続ける日々に耐えていたある日。


 私は1匹の " 仔犬 " を見つけた。


 そいつは鉄橋の影に身を潜め、小さく鳴いていた。


 自分だけの世界に、いつぶりかの「異物」が映り込んだ瞬間だった。


 少しでも気を紛らわせるため、少しでも自分という他者からの束縛から逃れるため。



「君に道を標してやろう」



 私はそいつを飼い、旅に連れ出すことを決めた。

 

 「異物」といっても、そいつは私と同じ人外だった。私はまず、そいつにそいつ自身の在り方・在るべき姿を教えてやった。


 そいつは教えた通り、仔犬らしく骨を喰み、…これは別に教えたわけではないのだが、仔犬らしく私に従順だった。


 共に旅路を歩き、共に同じ飯を喰らい、共に身を寄せ合って眠りについた。そんな日々を繰り返していると、人間を模していた頃の名残りなのか、私はそいつに愛着なるものが湧いていた。


 ある日、私はそいつに名前を付けてやった。



「いい? お前は今日から『ナナシノ』よ」



 そいつ───ナナシノはキョトンとした顔で私に問う。


「僕、ちゃんと自分の名前あるんだけど」


「知ってる。でもお前を知る人間なんて、この世界には一人もいないわ。じゃあ、そんな旧い名前なんて持ってるだけ未練がましいわよね」


 ナナシノは一瞬悲しい顔で俯くが、再び私に向き直る。


「『ナナシノ』って、どういう意味なの?」


「私の苗字よ。下の名前は自分で適当に考えなさい」


「じゃあ、主の下の名前はなんていうの?」


「秘密よ」


 そう言って、私はナナシノの頭をワシャワシャする。


 ちなみに、「ナナシノ」の由来は私の源氏名。ことあるごとにオーナーから『名無しの』と呼び出されていたため、いつしかそれが源氏名に繋がってしまったのだ。「お前には名を呼ばれる程の価値もない」という意味らしい。


 もう1つちなみに、私はナナシノから「主」と呼ばれていた。よく覚えてはいないのだが、多分最初に、私がそう呼ばせたのだろう。



 彼に自分と同じ名を付けて以来、私は更にナナシノのことを可愛がった。といっても、ただ溺愛するだけの馬鹿主人に成り下がったつもりはない。あくまで「先駆者」として、どこまでも我流ではあるが世の渡り方を教え込んだ。


 特にナナシノの場合、一般的な捨て子(そもそも子供が捨てられている事からして一般的ではないのだが)とは訳が違った。


 ナナシノは私と同じく、一度死を迎え再びこの世界に生を受けた。そして私と同じように、誰の記憶からも忘れ去られてしまった身なのである。


 いつの間にか私は、ナナシノに対し過去の自分を写していた。───のかもしれない。


 ナナシノの笑う顔を見ると、自分まで嬉しいと錯覚してしまう。ナナシノが人間らしい表情を私に見せる度、「やはり私は人間なんじゃないか」と。…本気でそんなことを考えてしまう自分がいた。


 ナナシノと2人なら、私はナナシノにとっての「主」で在り続けることができる。混在する「自分」という定義に苦しめられずとも、この子が私を示してくれる。



 そしてそれは、いけないことだ。



 ナナシノと出会い旅を始めて、2年が過ぎた。


 私とナナシノは、ある町で一台の自転車を発見する。


「こいつ、拝借していこうかしら」


 私の提案に、ナナシノは最初良い顔をしなかった。


「泥棒はよくないよ」


「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。───この自転車、前輪がパンクしてるしチェーンも切れてる。フレームの錆具合からもわかるとおり、捨てられたのよ」


 私の指差す自転車は、お世辞でも「アンティーク調の廃材アート」が限界の、それは酷い有様であった。

 

 しかし、だからこそ私はそこに魅力を感じた。


 もし私達の手でこの自転車を生き返られることができれば、こいつは私達と同じ境遇に立つ仲間になるということ。


「ナナシノ。この自転車、私たちで直すわよ」


「その後は?」


「勿論、仲良く相乗りさせてもらうわ」


「道交法違反はよくないよ」

 

 文句を垂れるナナシノのことは無視し、私は錆取りとリペアキットを買ってきた。


 ここまで何かに対して夢中になれたことなんて、ただの一度もなかった。何時間と磨き続けることでフレームにも光沢が戻り、それはさながら息を吹き返した人間の瞳のようであった。


 ナナシノに言われるまで、私は時の流れを完全に忘れてしまっていた。もともと、時間を遮断することには長けていたつもりだが、今回のそれはむしろこれまでの用途とは真反対に働いていた。


 「生」から背を向ける為に磨いたスキルに、私は「生」を感じされられたのだ。


 娯楽により時間を忘れるなんてことは、生きることへの自覚とほぼ同義。そしてそれは、生粋の人間にしか分からぬ感覚だ。


 その事実に、私は言葉にならない感情を抱いていた。


 私はまた、かつて過ちとした行為に身を落とそうとしているのだ。


 ───自分が人間であるという自覚。


 それは即ち、自分が「人間でない」という自覚も同時に呼び起こしてしまうもの。そしてそれらに伴う葛藤、苦しみ、束縛………それらを身に刻むことになろうとも、その時の私はそれすらも容認してしまいそうな程 " 酔っていた " 。



「主! 自転車、きれいになったね」



 ずっと、見て見ぬふりをしていた。


 君が人のように笑うから。


 君が人と同じように振る舞うから。


 私は自分が、人間であることへの期待を拭えきれずにいてしまう。



 私は、ナナシノと別れることを決めた。



 


 私は過去に一度、ナナシノに訊いたことがある。


「ナナシノ。君は自分のことを『人外』だと思ったことはあるのかしら」


 私の質問に、ナナシノは少し考える素振りを見せてから。


「人間でいるつもり」


 とだけ答えた。


 私は更に質問を重ねた。


「それってこう………辛くない?」


「『足のない人』とかが視えるのはちょっと怖いけど、でも辛くはないよ」


 私にはまだ、ナナシノの言うような『足のない人』の類は視認できていない。


 しかし、私はこの子と比べ例の "食欲 " がかなり強い。多少の違いはあれど、やはり私とナナシノの身体は、もはや人間と呼べるような代物ではなくなっている。


 ナナシノもすでに気が付いているはずだ。


 ───この地へ再臨することの代償を、私たちは支払い続けているということに。


 …それなのに、ナナシノは己を「人間」とする。


 私はその時、たまらなく怖くなった。今まで自分と同じだと思っていた存在が、自分とは決して相容れない別の何かだったのではないのかと。


 というか、私は本当の意味で「ナナシノ」を見たことがないのではないか。最初から私の眼に映るナナシノは、 " 私が期待した " ナナシノという偶像だった。


 そんな、嫌な考えが耳元で小さく鳴いた。


 だとすれば。だとすれば、私はこの先ナナシノというモノを拘束し続けることになる。かつての自分が、そうされ続けてきた例のように。


 今はまだいい、ナナシノも真実までは視えていない。


 でも、いずれそれが明るみになる。そしてその時が、ナナシノの最後だ。


 思うことは色々とある。…でも、私はただナナシノに気付いてほしくない。ずっと、夢を視続けてほしい。それは私にできなかったことだから。

 


 それこそが、世を渡る術なのだから。



 ───自転車の修繕を終えた次の日。



「お別れだ、ナナシノ」



 私は、なるべく笑顔を崩さぬようにそう告げていた。


「…なんで?」


 せっかく笑顔を貼り付けて、湿ったい空気にならないよう努めてやったというのに。この馬鹿犬はさも当たり前の如くそれを無意味化してしまう。


「君に教えることが尽きたからよ。私最初に言ったわよね? 『君に道を標してやろう』って。杖になってやるとまでは言ってないわ」


 我ながら、すごく突き放したような言い方だ。


 ナナシノの方も、今にも泣き出してしまいそうな面で私のことをジッと見ている。


「…あのね、何も永遠の別れだなんて言ってないのよ? これから二人、別々の旅路を進むだけ。きっとどこかで交わるわ」


 真っ赤な嘘だ。この先、私たちの道が交差する日なんて二度と来ない。


「嫌だ。僕は主と一緒がいいよ」


「それじゃナナシノのためにならないのよ」


「ならなんで僕なんて拾ったんだよ!」


 ナナシノは叫んだ。草木の揺れがピタッと止み、風は沈黙を始める。自分だけでなく、世界が停止してしまったようだった。



 『ナンデボクナンテヒロッタンダヨ』



 まるで自分の全てを他人に委ねているかのようなその文言に、私は底冷えするような既視感を覚えた。


 それは少し形を変えて、私がまだ幼かった頃によく口にしていたものだった。



 『なんで私なんて産んだのよ』



 耳の奥に、かつて自分の発したその呪詛が、先程のナナシノと重なってエコーのように響く。


 止まってしまった世界でわかることは2つだけ。


 ナナシノの " 怒り " と、私の " 怒り " だ。


 ナナシノは怒っている。かつて自分を拾っておいて、今度は置いていこうとする私の無情に対して。


 そして私も怒っている。軽率に彼の道を歪めてしまった、彼を自分と同じようにしてしまった私に対して。


 私は下唇を強く噛み、閉じた拳は血が滲まんとする熱さと震えだ。



 ナナシノは、夢など見ていなかった。



 夢なんかじゃなくて、ずっと " 私 " を見つめていたのだ。


 …考えてみれば当然か。


 私の標す道も、まずは私を見ていなければそれが何なのか、それがどこにあるのかなんてわからない。


 ───私には、ナナシノの先駆者になり得る資格なんてなかったんだ。


 私はいつも、一拍遅れてようやく気が付く。


 本当の意味での自由なんて、どこにも存在しないということ。


 私は最初から、人間なんてものではなかったということ。


 「ナナシノ」は自分とは違うモノだということ。


 そして、私はナナシノを、 " 私と同じように歪めてしまった " ということ。


 気付いた時にはもう遅い。いや、遅すぎた。


 今までの私なら、恨むことしかできなかっただろう。


 感傷に浸ることしかしなかったのだろう。


 でも、今は違う。ナナシノが私という「歪み」にあてられたのと同じように、私もナナシノとの日々を経て変化したのだ。


 私は、意図せずではあるがナナシノに過去の自分を投影して育ててきた。そしてナナシノも、私の軌跡をなぞるように育ってしまった。だから、私はナナシノにある程度の未来視が効いてしまう。


 限りなく過去の自分に近い存在を客観的に見ることのできる私は、いわばタイムトラベラーに準ずる者だ。


 一拍遅れで後悔してきた過ちも、今なら修復することができる。


 「もし過去に戻れるなら───」なんて他愛もない世間話の題材を耳にすることは、これまで何度かあった。その時はあくまで聞き流していた話題だが、いざそれが可能な立場に放られるとなると…いや、行動に躊躇いを覚えてしまうものなのね。


 まぁ、ここで躊躇したとして、きっと私はまた後悔することになるのだろう。だからここは、己の欲望に懐柔されるとしようではないか。



 ───もし過去に戻れるなら、私は作りたい。


 私の、…いや、私がいる世界を。


 他者から決められた私じゃない、私自身がその存在を確固たるものにした " 私 " の住まう世界を、押し付けの私が定着してしまう前に作りたかった。



 そして、繰り言にはなってしまうが。


 そんな世界に、私は不要だ。





「───ようやく見つけたぞ」



 突然、後方から大きな声が聞こえる。


 私とナナシノは反射的に、声の鳴る方に体を向ける。


 振り返った先、そこにはコートを纏った白髪のジジイが1人。ついでに、彼の両脇には数十人もの警官が置かれている。よく言う、「お前は完全に包囲されている」というやつか。


 私は最初、以前の勤め先からくすねた金の件かと思った。…が、それはどうやら違ったようだ。


 ジジイは眼光鋭く、私に向かって言い放つ。



「2年前に起きた『南区惨殺事件』───忘れたとは言わせないぞ」



 ………『惨殺事件』、なるほど。そういうことか。


 私はその文言を耳に、このおかしな状況の全てに合点がいった。


 ジジイの威光に同調するように、私らを囲む警官は一斉に武装する。特殊警棒を握る者、宙に刺又を突き立てる者、様々だ。


 そんな彼らの鬼気迫る様子に、ナナシノはすっかり怯えてしまっている。


 「なんで」「どうして」と身体を震わせ、歯はガチガチと音をたてる。この2年で随分と大きくなった、しかし。されどまだ年端も行かぬ子供だ。


 怒気立ち込める修羅の場に放られて、冷静を保てる人間などそうそういやしない。無論、私は別だけど。


 そして私はジジイの、望み通りの回答をくれてやった。



「───えぇ、勿論覚えているわ。ちょうど2年前、確かに私は人を殺した。 " 暗雲に満ちたあの空 " を、私は生涯忘れないでしょうね」



 私の言葉に、ナナシノは驚愕と絶望を浮かべた。



 ───そうだ。私は2年前、ナナシノを拾うちょうど前日、人を1人殺したのだ。



 あれは確か、若い女だった。


 別に私と何か接点があった訳でもない。ほんとうに通りすがりだったと記憶している。


 ただ、一度目が合ってしまった。


 そしてその時、思ってしまった。



『人間は喰えるのか』



 と。


 その頃はちょうど、食欲を満たしてくれる何かを探し周り、今よりも少しだけ " 狂っていた " 時期だった。


 結局、私はその女を食べることはできなかった。すごく単純な理由になるけど、不味くて食えたもんじゃなかった。


 けど結果的に、私はその女の死のおかげで自分の「生」を見つけることができた。


 その女を殺さなければ、私は私が「死者の骨」を欲しているなんてこと、気付けなかっただろうから。


 よって私は、この日の出来事を忘れはしない。


 暗雲の立ち籠める空を仰いだあの夜、私は血溜まりの上を立っていたのだ。


 ジジイは眉間のしわをより深く刻み、再び私に問を投げる。


「…隣のガキは、貴様の仲間か」


「いや、ただのペットよ」


 私は間髪入れずそう返した。


 ナナシノはその場にへたり込み、ポロポロと涙を流し始める。いつもは青空のように澄んだ瞳が、今は海底の如く深く、そして暗い。零れ落ちる水粒の数が、その深さを物語るようだった。


「今すぐそのガキを解放しろ。でなければ、ガキごと殺して俺も死ぬ」


 ジジイはそう言うと、コートの内から一丁のピストルを取り出した。


 そしてセーフティを解除するような動作を見せ、私の眼前でトリガーに指をかける。

 

「ナナシノ」


 私はナナシノの名を呼ぶ。


 当然、ナナシノは応えない。


「………ナナシノ」


 もう一度だけ、私はナナシノの名を呼んだ。


 これでナナシノが顔を上げてくれなければ、私はこの子を殺す。殺して、全てを終わりにする。


 でも、ナナシノがもう一度だけ、私の名を呼ぶというなら、私は──────



「………主?」



 恐る恐る、目に涙を溜めたナナシノが、私の方へと顔を上げる。


「…ナナシノ!」


 私はたまらず、ナナシノの身体を抱き締めていた。


 もう、誰の血も見たくなかった。君のことは、ずっと生かしていてあげたかった。


 私の行動にジジイはピストルを握り直すが、どうやらまだ引き金は弾いていないらしい。でなければ、私はこの子の熱をこうして感じていられているわけがないのだから。


「………主、人を殺したって…本当?」


 ナナシノが私に尋ねる。


「本当よ」


 私は真っ直ぐに答えた。


「…なんで、殺すの」


「殺さなければ、私が生きていられなかったから」


 ───そして。


「そして君は、私のようになってはいけない」

 

 私は続けた。


「………ナナシノ、よく聞いてね。君はこれからも旅を続けるの。でも、それはただ生きるための旅じゃない」


 私は最初、これまで生きてきて出したことのないほど優しい声音を無理くり捻り出し、訴えるような切実さを纏い切り出した。


「作るために旅をするのよ。───他の誰の物でもない、ナナシノの世界を作るために」


 そして次は懇願するように。


「それは私にはできなかったことだから」


 悲しさを引きずるような表情を織り交ぜて。


「君ならまだ、ちゃんと人として生きていけるわ」


 真っ直ぐナナシノの瞳を覗き込んだ。吸い込まれてしまいそうな、淡い黒だった。


「それが、君の幸せに繋がるから」


 言い終わると、私はナナシノの返答も聞かず、再びジジイの方を向く。


「………どうした、早くガキを解放しろ」


 ジジイの怒声により、再び空気は硬直する。


 心做しか、ジジイの脇の警官がジリジリとにじり寄って来ている気さえする。


 しばらくの間、風の音のみがその存在を許される時間が続いた。


 そして、そんな空気を断ち切るように、私はゆっくりと口を開いた。


「白髪のジジイ。アンタに一つ質問よ」


「…何だ」


「アンタ、私の殺した女の親族ね?」


 ジジイは一瞬考える素振りを見せ、そして答えた。


「そうだ。貴様の殺した女───それは私の娘だった」


 ピキッと、空気の張り詰める音がした。


 今度は風の音すらも、この場には留まろうとしない。


 ナナシノや数人の警官は驚いた顔で静止するだけだが、私やジジイ、事情を知っていたであろう2、3人の警官は一層顔を顰めた。


「俺はここで、娘の仇を取るつもりだ。どうせあと少しで定年なんだ、貴様1人手にかけたところで俺にとっちゃ不利はねぇ」


「そう。なら、アンタは私を " 殺せない " 。…絶対にね」


 私は断言した。


 過去のために戦う輩に、これから未来を変えようとする者を止められるはずがない。


「今度こそ本当にお別れだ、ナナシノ」


 私はナナシノに背を向けたまま、そう言った。


「私はもう、綺麗な夢なんて見ない。何が本当なのかはわからないけど、少なくとも、これからはナナシノやジジイ、この場にいる私以外の人間全てにとっての『本当』として───」



 道を標してやろう。



「主!」


 ナナシノが叫ぶ。私はもう、振り返らない。


「ナナシノ、約束よ。私とは対の道を進みなさい。それが、君にとっての道標になるから!」


 そう言い残すと、私はぐっと目を瞑った。


 ───えぇ、いいわよ。私の全部、 " あなた " に移すわ。


 ───私は " あなた " を受け入れる。私は人間なんかじゃない。人間であってはいけない。


 ───私に代わって、存分に生きなさい!!!



 『おめでとう』



 暗転する世界で、聞き覚えのある声が響いた。


 この声は確かそう…「大門」の先で聞こえた声だ。



『君は " 真理 " に辿り着いた。残念だけど、君の旅はここでおしまいだ』



 嗚呼、間違いない。間違いようもない。



『でも、安心したまえ。君の旅路は、 " 彼女 " によって紡がれ続ける』



 十数年前、私に " 奇跡を起こしやがった " その声は、実に愉快といった調子でそうのたまった。


 薄れゆく意識の中、私は虚空に手を伸ばす。


「ナナシ…ノ………」


 どうか、彼が前に進めますように。



 そして私は、 " 終わり " を迎えた───

 




 さっきまで眩しいほど明るく冴えていた青空が、段々と陰りを見せ始める。


 どこから来たのか、灰を含む暗雲が太陽を完全に覆い隠す。


 風は唸りを上げ、陽気は一瞬にしてその姿を消してしまった。


「な、何だ…?」


 その異様な空気の流れを感じてか、ジジイや警官たちは臨戦態勢を崩し、そして辺りを目でなぞる。



 余所見なんてしてる場合かしら。



 ハッとしたような顔で、奴らは再び私の方へと向き直る。


 …その数秒後。私の顔を見た奴らの顔は、仰天、懐疑、戦慄、不穏………揃いも揃って、青い顔だ。


「お、お前…、か、髪がッ………!?」


 震え声の警官が一人、私の髪を指さす。


 私は何事かと思い、風に靡く長髪を一房手で掴む。


 …なるほどな。確かにそりゃ驚きもするだろう。


 私の手中には見慣れた黒髪………ではなく、透き通るように美しい…違うな。


 蜘蛛の糸を思わせる白銀の髪が、上品に光沢を滑らせていた。


 どうやら、「反転」に際して変色してしまったらしい。


「───お前、何者だ」


 ジジイは責めるような物言いで、私に銃口を突き付ける。


 別に、今更拳銃ごときでビビリはしないが、私はそれよりも気になるものが1つ、視界の隅に留まって離れない。


 そいつは底のないような目を見開き、ただ私という外郭一点をずっと見つめてる。


 それがどうも、気に入らなかった。


「そこの少年」


 私はそいつに声をかけた。


 そいつは肩を震わし、私に尋ねた。


「…主………なの?」


 …『主』?


 はて、どうしたものだろう。



 私はその名にまるで聞き覚えがない。



「おい、貴様! いいから答えろ。…一体何者だ?」



 目線を再びジジイに戻し、そして私は問に答えた。



「『冥界からやって来た人外なる者』………これでいいかしら?」



 ───私はここに、再臨した。



 

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←今作の序章にあたる作品です。是非。

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