M女教師
M教師――教育現場の隠語で問題(M)を起こした不適格教員のこと。再教育センターで一年間の研修を受け、他校で再び教壇に立つことが多い。
◇
「じゃあ、今のパラグラフを柴田君、読んで和訳をしてください」
教卓の出席簿に目を落とし、小林有紀が言うと、男子生徒が教科書を手に立ち上がった。英文を読んだ後、和訳を口にする。
「そうですね。The frog in the well knows nothing of the great ocean. 直訳では井戸の中のカエルは大きな海を知らない。この英文ではofの使い方がポイントです」
有紀は of が持つ対象への関係性について解説した後、付け加えた。
「ちなみに井の中の蛙、大海を知らずに似たことわざとして He that stays in the valley shall never get over the hill. 谷の中に住み続ける者は決して山を越えることはない、というものがあります」
有紀の視線が南側の窓辺でとまった。女子生徒がぼんやりと窓の外に目を向けている。
チャイムが鳴り、有紀は視線を前に戻した。
「今日はここまでにします。次の授業までに次章の和訳をしておいてください」
そう告げ、教壇を降りて教室を出ていった。職員室に戻り、自分の席につき、教科書や資料をしまう。
近くで教師たちが顔を付き合わせて話をしていた。有紀がそれに加わらず、教科の校務分掌に関する資料に目を通し、既読を表す印鑑を押す。
教師たちがチラチラと有紀の方を見てくる。
「小林先生――」
四十年配の男性教師が声をかけてきた。
「次の土曜日、バドミントン部の引率をしていただくわけにはいかないでしょうか? 顧問の佐々木先生が怪我をされて……大会の規定上、引率の教師が一人必要らしいんです」
「申し訳ありません。週末は私、もう予定が入っていますので」
有紀は丁寧に断り、席を立つと、ランチバッグを手に職員室を出ていった。
「なにあれ……感じ悪ぅ」
「36歳で独身の女に何の予定があんだよ」
「あー、島先生、それセクハラですよー」
教師たちは付き合いの悪い同僚の話題でひとしきり盛り上がる。ジャージ姿のベテラン男性教師がぽつりとつぶやく。
「まったく、あれだからM(問題)教師は……」
若い男性教師がその単語に反応した。
「Mって……何やったんですか? あの人」
「噂だけど、前の学校で教え子に手を出したって……再教育センターに送られてウチに異動。預けられる方はたまらんよな」
職員室でそんな陰口を叩かれている頃、有紀は校庭の片隅にあるビニールハウスに向かっていた。
一昨年に定年退職した教師が手入れをしていたハウスで、辺りには背の高いツツジやモッコウバラが植えられ、外からの視界が遮られていた。
ビニールハウスの中にはアンティークな木製のベンチが置かれていた。有紀は腰を落とし、膝の上に弁当箱をのせ、フタを開ける。いただきます、と手を合わせて箸で卵焼きを口に運ぶ。
目の前にはクレソン、タイム、バジルなどが植えられ、ハーブの匂いが漂っている。有紀は一人で食事をとる、この時間を気に入っていた。
人の気配がした。ビニールハウスの出入り口に制服姿の少女が立っていた。手に菓子パンを持っている。中に先客が、しかも教師がいるとは思わなかったのだろう。
「あ――」
と言ったきり、口を開けた。
顔に見覚えがあった。さっき英語の授業で窓の外を見ていた生徒だ。
名前はたしか椎名千春。髪色をハイライトにしたり、耳にピアスを付けたりして、風紀担当の教師によく絞られていた。
「すいませんっ!」
踵を返そうとする少女を、待ちなさい、と有紀は呼び止めた。
「いいわよ、別に私の場所ってわけじゃないんだから……座りなさいよ」
有紀はそう言ってベンチの端に移動した。少女はどうしたものか、一瞬迷った表情を見せたが、とぼとぼとやって来て「失礼ます……」と端にちょこんと腰を落とした。
「なんで教室で食べないの?」
「……昼休みって友達同士で机を合わせて食べるじゃないですか。私、友達がいないから……」
「あんた、南さんたちと仲良くなかった?」
南沙織をリーダーとする、クラスの派手めな女子グループとよく一緒に行動していた。
「……今はちょっと……」
「なんかあったの?」
「私が沙織と土田が付き合ってるって言い触らしたって……」
「言い触らしたの?」
「……たまたま外で二人が歩いてるときに会っただけだよ。ツッチーたちとはたまにカラオケも行くし……二人でいたからって別に付き合ってるなんて思わないよ。だいたいあの二人、付き合ってないからね」
「そうなの?」
「沙織が一方的に熱を上げてるだけ……とばっちりだよ。ほんといい迷惑……」
有紀がくすっと笑い、少女は唇を尖らせた。
「こっちは深刻なんだよ」
「ごめんごめん。友だち付き合いも大変ね」
ギャル同士にも色々あるらしい。生徒同士の交友関係など、見た目じゃわからないものだ。
「先生こそ、なんでこんなとこでご飯食べてるんですか?」
「ここの方が気楽でいいのよ。まあ、あなたと似たようなもんね」
惣菜パンのラップを破り、少女がかぶりついた。有紀は横からそれをチラッと覗き込む。
「ご飯それだけ? お腹減らない?」
「……いま、ちょっと太ってるから……」
「ダイエット? そんなに細いのに?」
「ほっといてよ」
パンを掴む少女の指を有紀が見つめる。視線に気づいた千春があわてたように弁解する。
「ネイルじゃないです。磨いてるだけです」
「別にいいじゃない。オシャレが好きなのね」
「信じられます? この前、橋本が爪が光ってるってだけで違反だって……」
学校の校則でネイルは禁止されているので、せめてもと爪を磨いてピカピカにしていたら注意されたらしい。
「別にいいんじゃないの。爪を磨くぐらい」
「……先生って案外いい人なんですね」
「案外って何よ」
「いえ……なんかイメージと違うっていうか……」
「どんなイメージなのよ?」
少女は視線を外し「まあ、いろいろ……」と口ごもる。聞かないでもわかった。教え子に手を出したヤバい女教師。生徒の間でもそう噂されているのは知っている。
「男子たちが……先生がさせてくれるって……」
ふっと有紀は鼻先で笑った。自分は童貞狩りをする淫乱女教師らしい。
「……怒らないんですか?」
「勝手に言わせておけばいいのよ。それに、させてくれって実際に言ってきた度胸のあるやつはいないしね」
有紀の脳裏に過去の情景が思い浮かんだ。
そこは前の学校の校長室だった。有紀は土下座をしていた。顔を真っ赤にした四十年配の女性が有紀を見下ろしている。
「この淫行教師! あんたはウチの子供の将来を台無しにしたのよ」
「……申し訳ありません」
有紀は両手をつき、床につくほど額を下げた。そばのソファには憮然とした顔で父親が座り、隣では少年が膝の上で拳を握りしめていた。
告白してきたのは教え子の方からだった。
父親は医者で、母親は税理士。共働きの両親のもと、少年は親の愛に飢えていた。
有名国立大学の医学部合格を厳命され、プレッシャーにも苦しんでいた。そんな環境を不憫に思い、哀れんでしまった。
両親は世間体が傷つくことを何よりも恐れ、ことを大きくしない方向で話がまとまった。有紀は再教育センターに送られ、一年間の研修を積み、この学校に異動になった。
弁当箱の蓋を閉じ、有紀はベンチから立ち上がる。
「この場所、あなたに譲るわよ――」
出入り口に向かいかけた足を止め、少女の方に振り返る。
「The frog in the well knows nothing of the great ocean. 井の中の蛙、大海を知らず。あんまり悩み過ぎない方がいいわよ」
ベンチの少女が唇を尖らせる。
「そりゃそうだけど……嫌な人間関係でも我慢してやっていくしかないじゃん……」
有紀は顎に手をあて首をひねると、軽い感じで口にした。
「……じゃ留学でもすれば?」
「無理だよ……ウチは貧乏で、そんなお金もないし……」
「奨学金の制度もあるわよ。調べてみたら?」
「勉強のできる人しか申し込めないんでしょ? それに私、英語が苦手だもん……」
英語は好きだが、中学の男性教師がスパルタ気質で嫌いになったという。
「英語なら私が教えてあげるわよ」
言ってからしまった、と思ったが遅かった。
「いいんですか?」
少女がぱっと顔を輝かせ、有紀はしぶしぶ「やる気があるなら……」とつぶやいた。
◇
翌週から放課後、有紀は少女の英語の勉強を見てやることになった。一人の生徒だけを特別扱いしては問題があるので、補講という形で他の生徒も募った。
だが、最初は十人ほどいた生徒は、一人減り、二人減り……最後には椎名千春だけになった。
「教室が広くなったわね……」
教壇から見渡し、有紀が感慨深げにつぶやく。
あっさり辞めるかと思ったが、千春はまじめに補講に出席した。なんでも将来、海外で仕事をするのが夢だったらしく、英語は得意になりたかったらしい。
授業が終わると、二人で教室を出た。薄暗い廊下を歩きながら千春が訊いてきた。
「先生、あの噂って本当なんですか?」
「噂って?」
「先生が前の学校で教え子に手を出したって……」
「本当よ」
否定はしなかった。事実だったからだ。
「……なんでバレたんですか? 手をつないで遊園地でも行ったんですか? 学校でチューでもした?」
有紀はふっと笑った。若いチンピラが前科者の先輩になぜ捕まったのか訊ねる感じだったからだ。
「期待を裏切るようで悪いけど、現実は清らかなもんよ。学校の外では一度も会ってないし、キスひとつしてないわ」
「……それ、付き合ってるって言えんの?」
「プラトニックな結びつきってやつね。あんたも大人になればわかるわよ」
「逆でしょ……小学生の付き合いじゃん。で、なんでバレたんですか?」
「学校に通報があったのよ。勘の鋭い人っているのね。あんたも気をつけなさい」
その話題はこれで終わり、とばかりに有紀は次の補講の話に変えた。
◇
「小林先生、ちょっといいですか?――」
その日、昼休みに教頭に呼び出された。
「先生が生徒に個人的に勉強を教えているとお聞きしたんですが……」
「はい。ですが、ちゃんと申請をしていますし……補習という形で他の生徒も募りました」
「でも、今はその生徒一人だけなんですよね? まずいんですよ、先生。そうやって特定の生徒だけを特別に扱うのは。あなたは問題を起こした教師だ。教育委員会からもマークされてるんですよ」
「やる気のある生徒に応えるのは教師の仕事ではないですか?」
教頭はあからさまにため息をついた。
「補習はすぐやめてください。これは命令です」
だが、有紀は補習を止めようとしなかった。教頭と対立し、有紀は再び別の学校に異動させられることになった。異動先は、いずれ廃校になるとも噂されている田舎の高校だった。
有給の消化日に有紀は学校にやって来て、私物を手に職員室を出た。授業中なので校舎は静かだった。玄関を出たところで、背後から「先生!」と声がした。
椎名千春が立っていた。授業を抜け出してきたのだろう。ハァハァと荒い息をついている。
「学校に――」
息を荒げながら千春が続けた。
「学校に密告したのは先生じゃないですか?」
有紀は黙って少女を見つめ返した。
「学校でしか会ってないし、キスもしてないんでしょ? 教師と生徒が学校の中で一緒にいるなんて普通じゃん。いくらでも言い逃れできるんじゃん」
有紀が目を伏せた。少年は学校を辞めて駆け落ちをしようと言ってきた。このままでは彼の将来が台無しになる――そう気づき、有紀は自ら密告の手紙を出した。
「井の中の蛙、大海を知らず。その後があるのを知ってる?」
「後?」
「井の中の蛙、大海を知らず――でも空の高さを知る」
有紀は頭上の空を指さした。
「周りを見たら息苦しいかもしれないけど、あなたの頭の上には高くて広い空がある。それを忘れないで」
青空を仰ぎ見た後、少女は女教師に顔を戻した。瞳には強い力があった。
「先生、私、絶対に留学する」
「きっとできるわ、あなたなら」
「先生は教師を辞めないでね」
「辞めるわけないじゃない。こんなおもしろい仕事、他にないもの」
鼻先で薄く笑うと、有紀は踵を返し、校門を出ていった。
◇
それから10年後――
田舎の高校で有紀は教師を続けていた。46歳になり、顔にはシワが刻まれ、髪には白いものが混ざるようになっていた。
職員室の壁の時計を見上げ、読んでいた新聞を机の上に置き、椅子から立ち上がり、次の授業に向かった。
新聞には米国のアカデミー賞でメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞した女性の記事が載っていた。27歳の大人の女性になった椎名千春が顔写真付きでインタビューに答えていた。
記事の見出しは「高校の先生が私の人生を変えてくれた」――
(完)