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7. 洗礼名:ルカ


 舞踏会の翌日、ルカが目を覚ましたとき、太陽はもうすっかり高いところまで昇っていた。


 酒を飲んだわけではないが身体がひどく疲れていた。昨夜はダンスばかりしていたので脚も痛い。とにかく誘われるままに踊ったので、何人相手にしたかは覚えていなかった。

 昨夜のことを思い返しながら、結局リーズとは踊れなかったなあとルカはぼんやり思った。昨夜はそれどころではなかった。


 舞踏会が始まるとすぐにルカはギュイヤール男爵の相手をしなければならなかった。今後の話し合いをする必要があったからだ。その結果、男爵の娘ジャクリーヌとの婚約は一年延ばし、持参金もそれにともなって婚姻まで待つということになったのである。最もそんな未来は永遠に来ないのだが。

 ギュイヤール男爵は終始落ち着きがないようだった。娘が屋敷の財産を持ち出したからか、または別件のせいか、話を聞く限り何やら資金繰りが大変そうだと感じられた。今後の取り決めの話が終わると早々に男爵は屋敷を出ていってしまった。

 今夜の仕事は終わったとルカが喜んだのも束の間、リーズを探そうとダンスホールに出たところで、あの女が現れて飲み物を差し出してきたのだ。

 あれは完全に油断した。ルカの脳裏に、扉が開かれたときに見えたリーズの固まった顔が浮かび、ため息が漏れた。

 薬を盛られたとは言え、リーズにあんなところを見られてしまって、ルカはいたたまれなかった。

 別段リーズとは恋仲というわけではないが、彼女は良家の子女だ。あんなところを見せたくはなかった。自分が見境なく舞踏会でああいうことをしていると思われたのではないかと不安に思った。

 しかし驚いたことに、リーズはルカに軽蔑の目を向けるどころか、薬を盛られたということを見抜いた。そしてべロム伯爵と会話したことから彼の将来を案じてくれていた。

 ほんとうに彼女は聖女か、あるいは天からの使いなんじゃないかとさえ思えてくる。



 ルカはしばらくベッドの上で転がっていたが、そのうちお腹が空いてきたので、むくりとベッドから起き上がった。服を着て階下に下りていく。

 朝の残り物をもらおうと調理場に行こうとしたとき、食堂に主人が座っているのが目に入った。

 彼も遅い朝飯だったようだ。


「起きたのか」


 何気なく通り過ぎようとしたのに言葉をかけられ、ルカは肩をぎくりとさせて立ち止まった。


「また調理場なんぞに行こうとしていたな。こちらへ来い」


 命令である。ルカは仕方なく食堂に足を踏み入れた……と、そのときベロム伯爵の顔を見て目を瞬かせた。


「ど、どうしたんです、その顔」


 屋敷の主人の頬の片方が赤く腫れ上がっていた。硬いものにぶつけたのだろうか。

 伯爵は空になったスープ皿を見下ろしながら、むすっとした顔で言った。


「どうしたもこうしたもない。あのシャレロワの娘にやられたのだ」


「えっ」


 リーズが? 彼女が伯爵に手を上げたというのか?


「……お前から彼女を引き離そうと画策したのだが、すべて無意味に終わってしまった。それどころかあんな大騒ぎを起こしよった。変に噂になってギュイヤールに知られても困るゆえ、周りにいた連中の火消しもこの私がしたのだ。全く、ひどい夜にしてやろうと思ったのに、こちらの方が散々な目にあってしまった。ほんとうにあの娘は何者だ」


 なるほど、リーズはこの男が社交界の噂をもみ消そうとするのを承知だったのかもしれない。噂になって困るのは、社交界に出入りしないリーズよりもベロム伯爵の方だからだ。あのとき怒りの矛先は自分ではなく伯爵へ向いていたらしい。

 ルカはリーズを怒らせるとこうなるのだと伯爵の頬をまじまじと目に焼きつけておく。


「……つまり、もう二度と誰かに薬を盛らねえ方がいいってことじゃねえですか」


 ルカがぼそっと言ったのに、伯爵はギロリと視線をよこしてからふんと鼻を鳴らす。

 そのとき給仕係が食堂に入ってきた。彼はルカが座ったところに彼の分のスープとパンを用意してくれる。温かいスープを口に入れると、疲労の残る身体に染み渡っていくのを感じた。

 給仕係がまた去っていくと、ベロム伯爵は突然ルカの方を真っ直ぐに見て「今朝裁判所から許可が出た」と言った。

 ルカは柔らかいパンをかじりながら彼を見る。


「早ければ明日、ギュイヤールを捕らえることができる。裁判は明後日だ」


「え……そんなに早く?」


 ベロム伯爵はルカの問いには答えず、立ち上がった。


「裁判では、お前に証言してもらうと言ったな。それを食べ終わったら書斎に来い。私がお前を死ぬほど嫌っている理由を教えてやろう」


 伯爵はそう言って食堂を出ていった。


 死ぬほど嫌ってたのか……もちろん好かれてる気はしなかったが、リーズの言った通りだ。

 しかし嫌っているのにもちゃんと理由があるらしい。そしてそんなことをわざわざ聞きにいかなければならないらしい。

 ルカは書斎に行くのが嫌で、時間をかけてちびちびとスープをすすった。

 給仕係が並べたパンの皿さえもとうとう空になってしまうと、ルカはため息を吐きながら立ち上がった。

 仕方ない、伯爵が裁判は明後日と言っていた。それまでにきっと準備が必要なのだろう。ということは荷造りもしておく必要がある。


 ルカはのろのろと廊下を歩いた。しかしたいして離れているわけでもないので書斎にはすぐに辿り着いてしまった。嫌だなあと思いながら、ゆっくりとこぶしを上げて扉を叩いた。

 今ではあたりまえに行うようになったこの扉を軽く叩くという動作も、この屋敷に来てから身につけた作法だった。俺もずいぶんと洗練された身になったもんだ。


「入れ」


 中から声がして、ルカは扉を開けた。




 書斎は暗かった。昼間なのに、いつも開かれている分厚いカーテンがきっちり閉められている。代わりに燭台が灯されていた。まるで大切な大切な秘密を打ち明けようとしているようだ。

 ルカはなんだろうと思いながら、ベロム伯爵が座る机の前へ歩み寄った。

 伯爵は一冊の本をパラパラとめくりながら目を細めていた。


「お前は自分のことをどこまで知っている」


「へ」


 突然の意味不明な問いに、ルカはきょとんとした。


「答えろ、お前はどこで誰から生まれたのか知っているのかと聞いているのだ」


 苛立ちを隠さない声で言った伯爵に、ルカは慌てて答えた。


「し、知らねえです。たぶんこのルブロンの町で産まれたはずで、その、ち、小せえときに孤児院もどきのとこにいたことは覚えてるけど……そこを追い出されちまってからはずっと路地で転がってました。いつのまにかすりをするようになってて、いくらかましな物を食べれるようになって……」


「母親の名前は?」


「え?」


 ベロム伯爵はルカの話を遮るようにして尋ねた。


「母親の名前だ。孤児院ではお前は何も聞かされていないのか」


 ルカは首を振った。


「母親も父親もさっぱりです、たぶんここじゃねえかっていう孤児院もつぶれちまったし」


 ルカの返事に、ベロム伯爵は「そうか」と言ってから少しだけ目を閉じて鼻で笑った。


「まあ、それもそうだろう。私もお前を見つけ出すのに4年はかかった」


「俺を見つけ出す?」


 ルカは目を瞬かせた。


「旦那は手頃な詐欺師を探してたんでしょう、今回の計画に使えそうな。それでカルデローネ子爵の末裔に似てた俺を見つけて……」


「違う。実際のところは探し出したお前がたまたま詐欺をやっていただけだ。カルデローネに似ていたなんてのは後付けだ」


 ルカが意味がわからずぽかんとした表情を浮かべると、ベロム伯爵は蔑むような目を向けた。


「……私がお前に最初に会ったとき、私がギュイヤールに復讐しようと考えるまでに至った経緯は話したな」


 突然話が変わったので、ルカはおやと思いながらも頷いた。


「聞きました、あんたの庶子の娘さんのミレイユさんが嵌められたからって……」


 ルカがそう言ったのに伯爵は重々しく「そうだ」と言って手元に置いてある本をぱらぱらとめくった。どうやらなにかの記録のようだが、ずいぶんと古い。


「これは娘の日記だ。5年前、私が見つけ出したものだ。全てはここから始まった」


 伯爵は日記の表紙を撫でながら言った。


「ミレイユは私の婚外子で、一緒に暮らしてはいなかったが、一年に何度か顔を合わせていた。これは以前話したな」


 娘の名を語るとき、どことなく伯爵の目が優しい光になった気がしたが、すぐに黒く曇った。


「ミレイユが自ら命を絶ったのは20年前だ。そのときの理由は長い間わからないままだった。だが5年前、娘の遺品の中からこの日記を見つけて、ミレイユとギュイヤールのほんとうの関係を知った。お前には金銭の貸し借りがあったとだけ話していたが、具体的には婚姻の約束をしていたようだった。ギュイヤールは娘の持参金を狙っていたーー婚姻の詐欺だ」


「えっ。婚姻の詐欺って、俺がやろうとしていた……」


「そうだ。お前はジャクリーヌ嬢に見向きもされなかったがな。ミレイユはギュイヤールに完全に騙されていた……心から愛していた。だがギュイヤールはミレイユと結婚の約束をしている一方で、別の貴族の令嬢と婚約していた。それゆえ真実を知ったとき娘のショックも大きかったのだ」


 ルカは目の前の男にぞっとした。ギュイヤールのやり方を非難しているが、結局こいつは俺に同じことをさせようとしていたんだ。

 ベロム伯爵は日記に目を落としながら続けた。


「川に身を投げたミレイユの姿を見つけたのは司祭だった。彼は今はもう亡くなっているが、彼の教区教会の日誌にそのときの様子が書かれていたーーミレイユのお腹が大きかったと」


「えっ……そ、それじゃ彼女は」


 伯爵は悔しそうに顔を歪めた。


「妊娠していた。ミレイユの日記を辿っても、赤ん坊の父親はギュイヤールとしか考えられなかった。日誌によると、医者のところへ連れてこられたとき、ミレイユは虫の息だった。死の間際にミレイユがギュイヤールの名を呼んだので、司祭は死に目に合わせてやろうと苦労してあの男を医者のもとへ連れてきてくれたらしい」


 伯爵は机の上でこぶしをぎゅっと握った。


「ところがギュイヤールは彼女の遺体の前でしらじらしく、“未婚のまま身篭って自殺したなど彼女のためにも良くない”と言い張ったらしい。司祭も医者も反対したがギュイヤールは意思を曲げず、結局妊娠のことは公にせず伏せることになった。そして赤ん坊は、何日か医者のもとにいたが、そのうち孤児院に預けられた」


 ベロム伯爵はすっと顔を上げて目の前のルカを見た。部屋が暗いために彼の表情は読めなかったが、ギロリとした目で青年を睨みつけていた。


「赤ん坊は孤児院に入る前に司祭に洗礼を施された。その洗礼名が、ルカという」


「え……?」


 青年の戸惑う言葉を無視して、伯爵は淡々と続けた。


「お前の言っていた通り、孤児院はとうに閉鎖していたから、私は人の伝手しか頼るところがなかった。孤児院の院長や世話係を見つけ出すのに骨が折れたが、そこから詐欺のトロワ団、カード賭博のルクエ家、贋金つくりの組織を辿り、ようやく牢獄でお前を見つけた。これでわかったな、お前はギュイヤールがミレイユに産ませた子どもなのだ」


 ルカは目を見開いた。


「そ、そんな、そんなことって……う、嘘だ……」


 動揺したように後ずさりながら言った。


「だ、だって、ルカなんて名前、どこにでもいるじゃねえですか! 孤児院にも道端にも牢獄にも……」


「亡くなった司祭の日誌には、洗礼時の赤ん坊のことが細かく記載されていた。鳶色の瞳、首筋に2つのあざ、少し変形した形の左耳、と」


 ルカはどきりとして髪の毛で隠している左耳を押さえた。誰にも見せていないのに。

 伯爵は嫌そうな声で言った。


「すべてお前に当てはまる。耳やあざは隠せても、その鳶色の瞳はギュイヤールと同じだ。顔の造りも似ている。お前はあの憎むべき男の卑しい私生児なのだ。産まれるべきではなかった。娘と一緒に溺れ死ぬべき命だった」


 伯爵の言葉の一言一言は、ルカの胸に鋭く尖った釘を打ちつけるようだった。「で、でも」と言った青年の声は小さくか細いものだった。


「俺を産んだのがミレイユさんなら……俺の母親は彼女で、俺は、あんたの孫で……」


「黙れっ!」


 伯爵が突然声を張り上げたのに、ルカはびくりとして口を閉ざした。


「ミレイユはあの男にただ孕まされたのだ。卑しく穢らわしい男のせいでお前が産まれただけだ。お前ごときが彼女を母親などと決して思うな。お前は路地裏で育った、どぶを這いずり回ることしかできなかったねずみだろう。あんな牢屋にいたくせになにを言うか、私とお前の間にあるものは今もこれからも主従だけだ」


 ルカは唇を噛んで下を向いた。伯爵の突き放した言い方に、ルカは喉元をぐっと掴まれているように感じていた。

 伯爵は蔑むような言い方で続けた。


「ほんとうなら、この計画の後にお前には死んでもらうつもりだった……お前を道連れにしようとしたミレイユのためにも、この世から消えるべきだと。殺さなければ奴隷として売り払うか、過去の罪を蒸し返してもう一度牢に入れてやろうかとも考えていた、もっとひどい監獄を選んでもよかった」


 そう言われて、ルカは動悸が激しくなるのを感じた。目の前の人物に、自分は殺意を向けられている。路地裏での出来事ならよくあることだが、圧倒的に権力の差がある相手ではルカの身体は縮こまるばかりだった。

 しかし、伯爵は「だが」と鼻を鳴らして目を逸らした。


「それはやめた。もしお前を手にかけたとしたら、あのシャレロワの娘が黙ってはいないだろう」


 リーズのことだ。ルカが俯いていた顔を上げると、伯爵は不服そうな顔をしていた。


「昨夜彼女にお前の痴態を見せてお前を嫌うように仕向けたつもりだったが逆効果だった。あれはてこでも動かないようだ。貴族ほど誇りはないくせに抜け目なく、しかも手強い……お前に報酬を渡してこのルブロンの町を移ってもらうと、昨夜私はあの娘に約束してしまった。ならばそうするしかあるまい」


 ああ、リーズ! ルカは唐突に彼女の前に平伏したくなった。


「最初に言った通り、裁判が終わって報酬を渡したらお前は私と縁を切り、町を出ていってもらう」


 こくこくと頷くルカを見下ろして、伯爵は「それから」と続けた。


「今後一切悪事には手を出すな。万が一こちらに悪い噂が広がっても困る。もしそうなれば、私は容赦なくお前を闇へ葬る。異論はないな」


 伯爵は鋭い目でこちらを睨んでそう言った。ルカは小さな声で「はい」と返事をするだけで精いっぱいだった。

 伯爵は青年のそんな様子に鼻を鳴らしてから、紙とペンを彼に差し出した。


「裁判でお前が発言するべきことをまとめる。今から伝えるゆえ、全て書き留めて明後日までに覚えておけ」


 ルカはただ頷いて、それから伯爵の話す言葉を一生懸命に書き留めた。

 時折伯爵からの殺意のこもった視線を感じて手が震えそうになったが、リーズの存在を思い出して大丈夫、大丈夫と心の中で言い聞かせていた。





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