5. 伯爵の勘ぐり
ある日の夕方、貴族の茶会から帰ってきたルカは、馬車を降りてベロム伯爵邸の大きな玄関扉を開けた。
この屋敷に来てもうずいぶん経つが、未だにこの扉を開けるのは慣れない。とても重いのである。しかし使用人出口の小さな軽い扉を使うのは屋敷の主人から固く禁じられていた。貴族なら貴族らしい場所を出入りするように慣れろという話らしい。
「ルカ様、お帰りなさいませ。お茶会はいかがでしたか」
ロビーにいた老執事が声をかけてくれたのに、ルカは疲れた笑みを返した。
「めちゃくちゃ疲れちまった。あんたとこうして話すとほっとするな……今日はもうどこにも行かねえから夕食を頼めるかい、まだ腹は空いてねえけど」
「承知しました……あのルカ様、旦那様があなた様がお帰りになったら、書斎に来るようにと仰せでした」
「え、旦那が?」
なんだろう、なにかしでかしただろうか。ギュイヤール男爵に関しては問題ないはずだ、彼は今日の茶会に来ていた。貴族たちの前でも粗相はしていない。今回の計画に変更が出たのだろうか。
考えながら書斎にたどり着いたルカは扉を叩いた。
「入りたまえ」
伯爵の声がしたので、ルカは大きな扉の取っ手を引いた。
ずらりと本の並ぶ書斎は、古くさい匂いでいっぱいだ。窓際の分厚いカーテンは半分閉じられ、夕日も傾いていたので薄暗い。
その中でベロム伯爵は燭台に火を灯しているようだった。その暗闇に佇む姿が彼を余計に恐ろしく見せていた。
ルカはこのベロム伯爵という老紳士が苦手だった。
ロビーにいた執事と同じくらいの歳なのに彼と違って冗談は通じない、融通はきかない、おまけに一度も笑わない。伯爵のおかげでこの屋敷で贅沢に暮らすことができていることはよくわかっている。しかし、この男はルカに常に見下した目を向けており、心底嫌っているという態度をあからさまに表していた。
ルカはどもりそうになる声に力を入れて言った。
「なにかご用で?」
伯爵はすぐには答えず、火を灯し終わってからやっとこちらを振り向いた。そしてなにかをこちらに見せるように掲げた。
「お前宛に手紙が届いていた……シャレロワの次女からだ」
シャレロワの次女……リーズから? 彼女はここの屋敷へ直接手紙を送ってくれたのか。目を見開いた青年に伯爵は続けた。
「悪いが中を改めさせてもらった」
「えっ!?」
そんな野暮なことするか!?
驚いた顔をしたルカに、伯爵はなにが悪いとでも言うようにふんと鼻を鳴らした。
「この状況なのだ、仕方あるまい。それに中身は私にとっても重要な内容だった……おそらく彼女はそう思ってお前に急ぎの手紙としてよこしたんだろうが……しかし彼女は何者だ。お前とどういう関係にある?」
伯爵は問いつめるような言い方で、ルカに刃物のような視線をやった。ルカは後ずさりしそうになるのを堪えて答えた。
「な、何者って……普通の商家の娘ですよ、ただの友達で……その、俺も中身を読んでもいいですか」
伯爵は怪しむように目を細めたが、黙ったまま彼に封筒を渡した。
中を開けると、前にジャクリーヌから受け取ったときと同じ丁寧な文体が並んでいた。
"親愛なるフィルベルト・カルデローネ子爵様
本日ジャクリーヌ・ド・ギュイヤール嬢がご友人とトレポール行きの列車に乗って出発しました。私も姉と一緒にお見送りしましたが、ご友人のエステル様以外に付き添いはおりませんでした。あなたによろしく、そしてありがとうとおっしゃっていました。お二人がきちんとお話できたことがなによりです。
婚約のこともありますので、あなたに早くお知らせしたほうが良いかと思い、取り急ぎ手紙を送りました。
どうか無茶をしないで。ご無事でありますように。
あなたの幸せを祈る友人リーズ・シャレロワ"
そうか、ジャクリーヌは町を出たか。
ルカは少しほっと胸を撫で下ろした。これで父親がこの町でスキャンダルになったとしても、遠い地にいる彼女に大きな影響はないだろう。
ルカが安心した一方で、伯爵は表情を歪ませていた。
「男爵令嬢が町を出ただと? けしかけたのはお前か?」
「けしかけたって、そんな……いやその、そうかもしれねえけど、持参金に関しては別の手を打ったんですよ。ええと、ギュイヤールのお嬢さんが旅費として屋敷の財産を全部持ち出すって言ってたから、今頃男爵家の金庫はほとんど空なんです、あんたの計画の邪魔にはなってねえはずなんだ。俺はその、お役御免になりますが」
ルカは自分の言い訳じみた言い方に、もっとうまく言えないのかともどかしく感じていたが、伯爵はその話にわずかに目を見開いた。
「ほう。お前のやり方で無実の娘を救ったというわけか。酒場のいかさま師が英雄気取りだな」
「え……お、俺、別にそんなつもりじゃ」
ルカは濡れねずみのように身体を縮こめたが、ベロム伯爵は「まあよかろう」と鼻を鳴らした。
「だがギュイヤール自身が勘づくのを防ぐためにも、裁判を起こすのを予定より早めねばならん。それにお前にはまだ仕事してもらうぞ」
「で、でも男爵の娘がいねえから、もうカルデローネ子爵の存在は必要ねえって……」
伯爵はこばかにしたような表情を浮かべた。
「今ここに居ずとも、ギュイヤールは娘がいずれ帰ってくると思っているだろう。裁判までお前は奴と話を合わせておけ。どうせ婚約を延ばしてほしいと要求するにちがいない。それから持参金の相談も持ちかけられるだろう」
ルカはああそうかと頷いた。
確かに伯爵の言う通り、婚約発表は先延ばしになる可能性が高い。娘に関心がないとは言え、さすがに婚約発表前に当の本人が屋敷から居なくなっていることに気づけば、慌てて対策を練るに違いない。それを見越してリーズはこちらに知らせを送ってくれたのだ。
さらに伯爵は続けた。
「それからお前には例の裁判に出てもらう」
「えっ!?」
ルカはまたしても驚きの声をあげた。
「ささ、裁判に、お、俺が? なんで、え、俺が一体何を……」
「心配するな。それは筋書き通りだ。法廷に行く前にちゃんと教えてやる……それよりも私が気にしているのは、リーズ・シャレロワの存在だ」
伯爵はギロリと鋭い眼光でルカを睨みつけた。この視線を受けるといつもルカは背筋がぞくりとして固まってしまう。
「彼女がどういう人間なのか包み隠さず話せ。男爵と何か通じているのか? 嘘をつけばお前を即奴隷にして売ってやる」
「う、嘘なんかついちゃいねえですよ!」
ルカは慌てて言った。
「ほんとにただの商家のお嬢さんです……ただ、その、俺と知り合ったのが……数年前でして」
ルカの言葉に、伯爵は目を細めた。
「数年? 正確には」
「え、ええと、たぶん6年か7年……」
「7年も前だと?」
「え、ええ、俺はその頃、街角でその……盗みをやってました。それで、市場で彼女の首飾りを盗もうとしたんです……だけど、彼女が大事な物だ、返してくれってあんまり言うから、めんどうになって返しました。そしたら喜んでくれて他の装飾品をくれました……あのときから彼女は俺のほんとの正体を知ってるんです。あ、あの夜舞踏会で会ったときは、彼女が俺の正体をみんなにばらさずにごまかしてくれました」
ベロム伯爵はルカの話を聞くと、ふうむと考え込むようにして眉間に深いしわを寄せ、顎に手を当てて呟くように言った。
「彼女の思惑がわからん。なぜそのようなことをするのだ。シャレロワにとって何か利点でもあったのか? 商家の娘らしく、貴族なら誰でもいいからダンスを踊りたいとでも思っていたのか」
「そんなんじゃねえんだ」
ルカは小さい声で言った。
「彼女はそんなんじゃねえんです。単にお人好しなんだ……それも極度のです。じゃなかったら、別室で俺にダンスを教えてくれたりなんかしませんよ」
「別室でダンス……あのときか。あれは極度のお人好しというより、単に彼女がお前を……」
ベロム伯爵は言いかけた途中で言葉を途切らせた。そしてしばらくきょとんとこちらを見ている青年の瞳を見つめていたが、やがてめんどうそうに顔に皺を寄せて「まあ……よかろう」と再び言った。
「私が直接確かめれば良い話だ。計画を邪魔する存在になるかどうかも気になる」
「え、旦那が直接彼女と話すんですか? ど、どうやって」
ベロム伯爵はまたルカをばかにするような視線を向けた。
「私は伯爵だぞ。茶会や晩餐会、舞踏会を開くなりすれば済む話だ」
「そ、それだけの理由で夜会を開くんですか? 一夜だけでばかみてえに金がかかるってのに……え、この屋敷で開くんですか?」
「間抜けな質問はするな、ここ以外にどこがある。ギュイヤール男爵を招待して様子を見たいとも考えていたのだ。お前はまずあの男と接触し今後のことを話せ。おそらく娘とお前の婚約を一年先延ばしにするよう持ちかけてくるだろう。お前はそれに対して……」
ベロム伯爵の話では、この舞踏会でルカがリーズと話す機会は1分もなさそうだった。
大丈夫だろうか、伯爵は彼女に直接会ってなにを話す気だろうか。おそらくリーズの父親や兄と姉も招待するだろうから、伯爵も彼女に直接的な危害をくわえることはないはずだ。だが、もちろん何もないとは言い切れない。
心配になったルカは、リーズに警告の手紙を書くことにした。