3. 劇場でのひととき
次にリーズがルカと会ったのは、夜会から2ヶ月も経った頃だった。
リーズはその夜、姉キャロルとともにオペラを観るために劇場に来ていた。姉のおかげでゆったりとボックス席で観賞できたので、リーズは大満足であったが、問題はその後だった。
演目が終わった途端に、キャロルは妹をロビーまで連れていくと、「悪いけどここで待っててちょうだい。ちょっと俳優たちに挨拶してくるから。先に帰ったら承知しないわよ」と言い残して、楽屋の方へ駆け込んでいってしまったのだ。
ちらりと楽屋の前を見たが、そこはファンで溢れかえり、まるで地獄のようだったので、リーズは顔を引きつらせてロビーに戻った。近づくのも恐ろしい。
仕方なくロビーの隅に置いてある長椅子に座り、観客たちがホールから出てきて帰っていく姿をぼんやりと眺めていた。
「リーズ?」
突然名前を呼ばれて、リーズははっと顔を上げた。
目の前に立っているのはルカだった。上等な黒いフロックコートに身を包んでいる。
「まあ、ルカ……じゃなかった、ええとフィ、フィルベルト・カラーネ子爵様!」
リーズが記憶を辿って思い出したように言ったが、青年は笑みを浮かべて「“カルデローネ子爵”な……けどルカでいいよ」と言った。
「今日はあんた一人なのか?」
リーズは首を振った。
「いいえ、姉と来ているの。でも姉は今夜のソプラノ歌手の大ファンだから、今は楽屋で戦争中というわけ。すごい人の数だから長期戦になりそうなの」
リーズのおどけた言い方に、ルカは「ははっ」と軽く笑った。
「ダンス好きの兄貴に、オペラ好きの姉貴か。退屈しねえな」
「どちらも嫌いじゃないけど、限度ってものがあるでしょう。自分の趣味を妹に押し付けるのもどうかと思うわ……ね、少し話さない? あっちに向かい合って座れる椅子があるの」
リーズはルカをロビーの出入口近くに連れていった。そこには大きな椅子が二つ置いてあり、二人は小さな机を挟んでそこに座った。
椅子に座ったリーズは身を取り出すようにして尋ねた。
「それであなたは? ここへは社交目的で来たの?」
ルカは頷いた。
「そうだ。そのーー例の標的の女が音楽好きらしいから会えるかなと思ってさ。案の定彼女は来てたんだけど、人が多すぎて見失っちまった」
「無理もないわ、劇場だもの。今夜はあの、あなたに指示を出してるっていう紳士の方は来ていないの? ええと……そうだわ、父から彼の名前を聞いたの、ええと確か伯爵、ベロム伯爵というのよね?」
「ああ、旦那の名前はジョルジュ・ベロム伯爵ってんだ。最近は俺の貴公子面も様になってきたから単独行動が許されててよ、こうして地道に標的の女に近づこうとしてんだ」
「そう……ダンスはどう? もうステップは迷わず踏めるようになったの?」
ルカはへへっと得意げに笑った。
「迷わずどころか完璧にリードできるようになったんだぜ。あれから王都のカルヌにも行って、舞踏会に5、6回は参加したんだ。今じゃもう令嬢たちの方から俺にダンスを申し込んでくるようになった。すげえだろ」
「まあまあ、2ヶ月あれば変わるものねえ……それで、件のご令嬢とは仲良くなれたの?」
リーズの問いにルカは眉尻を下げて苦い笑いになった。
「あーいや、そっちはさっぱりだな。嫌ってほどに避けられてる。さっきも話しかけようとしたんだけどよ、完全に無視されちまった。お貴族様ってやつは気取ってやがる」
リーズは目を丸くさせた。無視ですって?
仮にも貴族令嬢である。身分を理由に見下す者もいるだろうが、仮にも子爵を名乗る彼に一体誰がと言おうとして、リーズの頭にふと1人の女性の名前が浮かんだ。
「ねえ、ルカ。その、詮索するつもりはないんだけど……その、あなたが目的としている方って、もしかしてギュイヤール男爵のご令嬢ジャクリーヌ様かしら」
ルカは目を丸くさせて「よくわかったな」と言った。
「そうだ、ベロム伯爵にギュイヤール男爵家のお嬢さんって初めっから決められてた。金をチラつかせりゃ女なんかすぐに落とせるって思ってたけど、あんたの言う通り難関でさ、ろくに会話ができたこともねえんだ」
リーズは目を細めて険しい顔をした。
「……決まってるわ、彼女は大の男嫌いだもの。というより男性は眼中にないの、女性を愛する方なのよ」
「へえ、そうなのか? 詳しいな」
ルカは冗談を聞いたように笑ったが、リーズは真面目な顔で言った。
「ほんとうよ、社交界に出入りする娘の間では有名だもの。男性の間にはゲームのように彼女を落とそうと仕掛ける無礼な人がいると聞くけど、全く無駄なのよ。ジャクリーヌ様はそれにうんざりしているの」
いつになく真剣な表情で言うリーズに、ルカは笑いを引っ込めて首元のクラバットを緩めてから弁解するように言った。
「ゲームのようにって……その連中はそうかもしれねえけど、俺は遊びじゃなくて仕事だぜ」
「ええ、わかってる」
リーズは頷いた。
「だから、絶対に不可能なことをあなたに仕事として任せているということがおかしいのよ……。うまくいきっこないもの、不毛だわ。あなたの雇い主は一体なにを考えているのかしら」
目を細め、顎に手を当てて考えているリーズを見て、ルカは頭に手をやってガリガリかいた。その後で今夜も髪の毛をきれいに撫でつけていたことを思い出し、慌てて直そうとしたが、もう元のようには戻せなくなってしまった。
はあと息を吐いてから、ルカは言った。
「あんたに言ってなかったことがある」
突然改まった態度になった青年に、リーズはきょとんと彼を見た。
「俺はまだ一度も彼女と話したことはねえんだがよ、ベロムの旦那は、その、ギュイヤール男爵の娘と俺の縁談を進めてる」
「縁談? あなたと?」
リーズが目を丸くしたのに、ルカは顔を歪めて頷いた。
「旦那はギュイヤール男爵と話し合って、俺と娘を婚約させるってもうとっくに決めてんだ。俺も男爵とは話をしたけど、十分乗り気みてえだった。そのうち公に発表すると思う、俺が彼女を落とす落とさねえにかかわらずな……ただこれには続きがある」
ルカは一層声を潜めたのに、リーズはさらに身を乗り出す。
「いいか、絶対に誰にも言うんじゃねえぞ……旦那はーーベロム伯爵はさ、彼女の父親、ギュイヤール男爵を嵌めようとしてんだ。社交界から奴を締め出す気らしい」
リーズはあまりのことに「ええっ!」と叫び声を漏らしてしまってから、まずいと思い周りをきょろきょろ伺ってから再びルカの方に顔を寄せた。
「“締め出す”ですって? 一体どうやってそんなことを……!」
「いろんなところから手を回してるらしいが、詳しいことは知らねえ。わかってるのは、俺もその一つを任されてるってことだ。俺の仕事は、財産持ちの子爵フィルベルト・カルデローネのふりをすること、男爵の娘ジャクリーヌとの縁談を持ち込んで持参金を巻き上げた後に公に正体をばらして婚約を破棄させることだ。だから結局、俺は彼女と結婚はしねえんだ」
リーズはぽかんと口を開けた。突拍子もないことだが、これが事実だとしたらとんでもないスキャンダルになる。
「そんな、一体ベロム伯爵はギュイヤール男爵にどんな恨みが……いいえちがう、そんなことはどうだっていいわ」
驚きの次にリーズの中にふつふつと湧いてきたのは怒りだった。
「親の問題に子どもを利用するなんてどうかしてるわ! どうして……どうしてジャクリーヌ様が婚約破棄だなんて、そんな屈辱を受けなければならないの? 彼女が何をしたと言うの?」
「え……い、いや、俺にそんなこと言われても……」
突然怒り出したリーズに、ルカは少し身を引いた。
リーズは眉を釣り上げて続ける。
「自分勝手もいいところよ、父親に恨みがあるのなら二人で喧嘩でもすればいいじゃない。ジャクリーヌ様が巻き込まれる筋合いはないわ! 罪のないあの方の人生を狂わそうなんて許せない! それにあなたもよ、ルカ!」
「へ、お、俺?」
「そうよ、仕事とはいえ身分を偽っていたと公に晒してしまったら、あなたはこの町に居られないじゃない! せっかく文字も書けるようになったのにひどいわ」
ルカは頭に手をやって言った。
「い、いや、俺はいいんだよ、それなりの報酬をもらえることになってるし、高飛びは承知の上で引き受けてる」
ルカの言葉に、リーズは一瞬驚いたように目を見開いた。
「それじゃあルカは、いずれはこの町を出ていくつもりなの?」
青年は「そうさ」と肩をすくめた。
「この町にゃ、嫌な思い出ばっかりだからな。トマの……仲間の墓を見舞ってやれねえことが心残りだが、俺は新しい町で一からやり直すのも悪くねえと思ってる」
「……そう」
先ほど怒ってわめいていたのが嘘のように、リーズは急に押し黙ってしまった。
二人の間には沈黙が降りた。
ルカは、リーズが口を閉ざしてしまったのに気まずくなり、ちらと辺りの様子を見た。話をやめて気づいたが、ロビーにはもうすっかり人がいなくなっている。
もう一度リーズの方を見ると、彼女は怒りの表情ではなくどこか哀しげで、なぜか傷ついたような表情をしていた。
ルカは舌打ちしようとしたのをやめて咳払いをすると、「なあ」と沈黙を破った。
「その……じゃあ、あんたはどうしろって言うんだ。男爵の娘との嘘の婚約は俺の仕事だぜ? どうすりゃいいってんだよ」
ルカはわからないというような問いに、リーズは小さな声で答えた。
「わからない……わからないわ、私にも。ベロム伯爵の思惑もわからないから、関係のない私が口出しすることもできない。ただ……」
それからリーズは顔をあげてルカをまっすぐ見つめる。
「私はやれることをやるわ。まずは自分で調べてみる。それで、どうにか考えるわ」
「けどさ、あんたが調べたってどうにもならねえ……」
ルカがそう言いかけたときだ。
「リーズ、おまたせー!」
楽屋から戻ってきた姉のキャロルがこちらに駆け寄ってきたのに、リーズもルカも立ち上がった。
「すっかり待たせちゃったわねえ、とにかく人が多すぎたのよ。でもマルグリット様は今夜も素敵だったわあ……あら、どなた?」
キャロルは嬉しそうにひとしきり喋ってから、リーズの向かいにいる人物に気づいた。
リーズは咳払いをすると、先ほどとは表情を一転させて明るく言った。
「こちらはフィルベルト・カルデローネ子爵よ。私が一人で退屈で退屈で死にそうだったのを見かねて、話し相手になってくださったの……フィルベルト様、こちらは私の姉キャロルです」
リーズの姉への皮肉たっぷりの紹介に、ルカはにやつきそうになったが、きれいな笑みに変えて片手を胸に当てて言った。
「お初にお目にかかります。フィルベルト・カルデローネです、以後お見知り置きを」
「まあまあまあ、子爵の方でしたか……へえ」
キャロルは驚いたように妹に意味ありげな視線を向けてから、青年に微笑み返した。
「妹がずいぶんと長い間お世話になりましたわね。この子の話はつまらなかったでしょう、ありがとうございました」
「いいえ、私の方は十分にお喋りを楽しませていただきましたよ。できればまたお付き合い願いたいものです」
「あら、お優しいのね」
キャロルもルカも社交辞令がうまいことだ。リーズは二人に感心しながら「お姉様、いい加減お暇しませんと」と促す。
「そうね。カルデローネ様、私たちは失礼いたしますわ。ごきげんよう」
キャロルがそう言うと、ルカも「ごきげんよう、おやすみなさい。道中お気をつけて」と答えた。
姉の後に従いながら、リーズは少しだけ青年の方を振り向いた。彼とはちゃんと話がまとまらないままになってしまったわ。
社交界からある貴族を締め出すなど、とんでもない思惑だ。ルカはその片棒を担がされている。全てが終わったとき、彼は無事で済むのだろうか。
しかし、リーズが不安そうな表情を向けたのに、ルカは彼の元来の性格を表すような茶目っ気のある笑みを浮かべて手を振ってくれた。
その様子に、なぜだかリーズはほっとした。
そうだ、私は自分がやれることをやると決めたのだ。それにルカならーー母の形見を返してくれた彼なら、きっと動いてくれるはず。
リーズはそう願って、手を振る青年に微笑み返した。