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2. 詐欺師のダンスの練習台


 7年後。



「こんばんは」


「こんばんは、ごきげんうるわしゅう」


 きらびやかなシャンデリアの灯りと、ずらずら並ぶ美しいドレスが目に映える。

 リーズは両親と兄姉たちとともに、王都でも名高いナントゥイユ侯爵家の舞踏会に参加していた。

 リーズの家ーーシャレロワ家は貴族ではないが、ナントゥイユ侯爵家に気に入られている商家の一つであった。他にも軍人や銀行家など、侯爵家と通ずる者たちが身分を問わず招待されているようなので、規模の大きい夜会のようだ。


「大商人でもない家の私たちがここにいるのは場違いな気がしてならないわ。お父さんも見栄を張ったものね」


 リーズの隣で、姉のキャロルが目を細めるようにして言った。姉は首元に真珠を光らせ、大人びたデザインの藍色のドレスを完璧に着こなしていた。すっかり社交界の華やかな空間に馴染んでいる。

 何を言うのかとリーズは言った。


「キャロルなら公爵令嬢くらいには見えるから大丈夫よ。それにほら、ジョゼフはもうどこかのご令嬢と踊ってるわ。まるで本物の貴公子みたいじゃない?」


 リーズが指したホールの真ん中には、彼女の兄の姿があった。上等な黒いコートが光り、首元の白いクラバットも引き締まって見える。こうして見るとなかなか紳士に見えるではないかとリーズは思っていたのだが、姉は「目を洗ってきなさいよ」と一蹴した。


「本物の貴公子っていうのはあんな風に片っ端からご令嬢をダンスに誘ったりしないの……我が弟ながら抜け目ないというか、恐ろしい男だわ。身内じゃなかったら絶対近づきたくない部類ね」


 姉の辛口に、リーズは苦笑いを浮かべながら頷いた。


「確かに、もうずっとダンスホールから出る気配がないわね。疲れないのかしら」


「ああいうのを体力おばけって言うのよ……え? ちょ、ちょっとまって、あれは!」


 キャロルは弟から視線を逸らして視線を遠くにやると、突然驚きの声を上げた。


「マルグリット様……マルグリット様だわっ! やだ、信じられない、あの方がここにいらっしゃるなんて!」


 リーズは姉の視線を辿って目を細めた。遠くにあるピアノの周りに女ばかりの人だかりができている。人が多い上に距離があるのでリーズにはよく見えなかった。


「マルグリットって、あのソプラノ歌手の?」


「そうよ、ああ、もうこんな幸運ってあるかしら! ぜひともお近づきにならなくちゃ……行ってくるわっ!」


 声を弾ませてそう言った姉は、リーズが返事を返す間もなく去っていってしまった。

 仕方ない、キャロルはオペラ狂いなのだ。毎週のようにオペラに通っており、どうやって伝手を見つけたのか貴族でもないのにいつもボックス席まで確保している。リーズからすれば、姉も兄ジョゼフに負けず劣らず抜け目ない人物である。

 それにしても、歌手まで来ているということは、今回の舞踏会はほんとうに広い範囲で招待されているようだ。ナントゥイユ侯爵は寛大な人物であるが、普段舞踏会など滅多に招待されないリーズたちからすれば、周りは皆知らない顔ばかりだ。

 怪しい人物とは踊らないようにと父からきつく言われているが、これでは誰が怪しいのかわかったものではない。

 とにかく目立たない方がいいのかもしれない。リーズがもう少し壁際に移動しようとしたときだ。


「おやリーズ? 兄さんと姉さんはどうした」


 突然後ろから声をかけられ、リーズは振り返った。そこにいたのは父だった。手にはワイングラスを持っている。

 リーズは肩をすくめた。


「ジョゼフはずっとホールの真ん中で踊ってる。キャロルはほら、あそこ」


 リーズの指したピアノの方の人だかりを見ると、父はああとわかったように頷いた。


「そういえばオペラ歌手が来ていたな……全く、妹を一人放っておくなどあの二人と来たら」


「いいのよお父さん、私だってもう19よ。お守りは必要ないわ」


「わかっている。わかっているが、今夜の舞踏会には誰が来ているのかわからないだろう。ナントゥイユ侯にご家族でぜひと言われたから連れてきたものの、お前はやはり置いてくるべきだったかな」


「あら、私だけ留守番なんて嫌よ。それに私のこの桃色のドレスを選び出すのに、キャロルがどれだけ気合を入れていたか……」


「失礼」


 突然横から声がかけられて、親子二人は同時に振り返った。

 初老と言えるくらいの、髭を蓄えた身なりの立派な紳士が立っていた。後ろにいる青年は連れのようだ。

 髭の紳士は「突然で申し訳ない」とにこやかに言った。


「ご主人、そちらに持ってらっしゃるワインは美味しいですか? もしよろしければ銘柄を教えていただけないでしょうか」


 そう言われた途端、リーズの父の目は爛々と輝き出した。

 うわ、始まるとリーズは身構える。


「もちろんですよっ! このワインは実は我がシャレロワ家だけが取り扱う特注の商品になります。こちらの侯爵家に販売させていただいておりまして、南方の島のある一角の畑で育てているのですが、今回のものは決まった時期にしか出せない味になっております。よければあちらのテーブルに並べてあるのでぜひご賞味ください。他のワインとどのような違いがあるのかご説明いたしますよ」


 よくこうもべらべらとしゃべるものだとリーズは父から少し身を引いた。


 リーズの父はワインを売る商人だ。ぶどう畑を所有しており、それを元に製造から発注まで行なっているのだが、本人が先ほど言った通り畑は南方の島のある一角だけなので、小さすぎることはないが大きくもない商会であった。

 リーズの父の話し方は、娘が引くほど熱がこもっていたが、紳士の方は微笑んで頷いた。


「ありがたい、ぜひともお願いしたいですね。それから……今度はお嬢さんへのお願いなのですが、こちらにいる青年フィルベルト・カルデローネ子爵と一緒に踊っていただけないでしょうか。彼は今夜が社交デビューなのですよ」


 突然話を振られて、リーズは目を瞬かせきょろきょろと周りを見回した。


「あ、あの……私におっしゃっているのでしょうか」


「もちろんです」


 老紳士は微笑みを崩さずに言った。


「実はこのカルデローネ子爵は長いこと地方におりましたので、今夜が初めての舞踏会なのです。緊張しているようで、まだ誰とも踊っておらず……どうか一曲お相手してあげてくれませんか」


 リーズはちらりと紳士の後ろに佇む青年の方を見た。彼は下を向いてこちらを見ようともしていない。まるで嫌々来たみたいじゃないの。


「あの……子爵、と言いましたわね。貴族のご令嬢でダンスが得意な方でしたら、あちらの方にたくさんいらっしゃいますが」


「リーズ!」


 リーズの言葉に、すかさず父親は叱責すると娘にしか聞こえないような小声で言った。


「子爵の身分の男性と踊れるなんて機会は滅多にないのだ、一曲お相手してもらいなさい! このままだとお前は壁の花のまま帰ることになるのだぞ」


 壁の花でけっこうと言いたいところだが、目の前にいる紳士が熱心な口調で「どうかぜひお願いします」と言うので、仕方なくリーズは「私でよければ喜んで」と頷いた。


「よかった! ……カルデローネ子爵、こちらのお嬢さんが一曲ご一緒してくださる。踊ってくると良い、さあ」


 呼ばれた青年は、ぎくりと肩を強張らせてようやくリーズの方へ進み出てきた。そして「あ、ありがとうございます」と言いながら、丁寧にリーズの手を取る。


「今宵あなたのお相手ができること、光栄に思いま……」


 途中までそう言って、青年はリーズと目を合わせると言葉を途切らせた。

 突然どうしたのだろうと思ったが、青年の驚いた顔を正面から見たリーズも目を見開いた。


「あら、まあ……あなた、あの時の……!」


 目の前にいるのは忘れもしない、7年前に市場で会った、あのすりの少年の顔だった。


 あれから少し成長しているが、服装以外は髪の色も顔つきも、鳶色の瞳もほとんど変わっていない。

 ちょっとまって、彼はさっきカルデローネ子爵って呼ばれてたわよね? すりの少年が子爵になったの?

 人違いかと思ったが、青年はすっかり青ざめてこちらを見ているので、あのときの彼で間違いないようだ。


「おや、お嬢さん。彼を知っているのですか」


「え? そうだったのか、リーズ? お前、いつのまに……いつのまに子爵と?!」


 紳士と父が驚いたように声をあげる。


「ええと……その」


 見ると青年は顔を歪め、絶望的な表情をしている。何かわけがありそうだ。

 リーズは考えながら答えた。


「その……ハ、ハンカチを落としたのに気づかなくて、彼に拾っていただいたんですの、ええ、そう。いつどこでだったかは忘れてしまったのですけど、ごく最近の話ですわ」


 リーズが笑顔でそう言ったのに、青年は虚を突かれたようにこちらを見ていたが、口をつぐんだまま何も言わなかった。


「ほう、そうでしたか」


「なんだ、それだけか……ああいや、ありがとうございます。はは、偶然ですなあ」


 老紳士と父が納得してくれたようなので、リーズはほっと胸を撫で下ろす。


「カルデローネ子爵、娘はダンスに不慣れなところがありますので、どうぞお手柔らかに。ささ、我々はワインを飲みにいきましょう……ええと、あなたの名前をお伺いしても?」


 そう言いながら、リーズの父親は紳士と共に奥のワインのある方へ行ってしまった。ほんと、お父さんたら調子いいんだから。

 父はああ言ったが、リーズは不慣れどころか兄ジョゼフのダンスの相手ばかりしているため、毎日の日課のようなものになっている。


 二人の壮年を見送ったカルデローネ子爵は、「初めてなので緊張しております。どうぞよろしく」とリーズに向かって爽やかに言ってホールの真ん中へと導いた。

 その上品で社交的な笑みとしぐさは、市場で会った少年と同じとは考えられなかったので、人違いだったのかしらとリーズは思った。


 しかし、お辞儀をしてから音楽に合わせて動き出すと、青年はぎこちない動きでステップを踏み始めた。

 緊張のせいだろうか、音楽と脚が全く合っていない。これは不慣れどころの話じゃないわ。彼のデビューの日だというのに、このままでは周りの人々に笑われてしまう。

 リーズは慌てて「ちょ、ちょ、ちょっとまって」と一度動きを止めた。そのことに青年は間違えてしまったのかと顔を真っ青にさせた。

 リーズは彼の鳶色の瞳を覗き込んで、できるだけ優しい小さな声で言った。


「大丈夫よ、落ち着いて。まずは音楽を聞いて……1、2、3でステップを踏むの。足元を見ながらでいいから、いい?」


 リーズの言葉に青年はばつが悪そうにしながらも「わ、わかった」と小さく頷いた。

 こうしてダンスホールの真ん中に立ってしまった以上、なんとか荒療治でも側からはうまく踊れているように見せなければはらない。案の定あちこちから視線を感じる。

 リーズは「1、2、3」と繰り返して口ずさみながらステップを踏み、子爵をリードした。

 青年は辿々しい足取りであったが、やがてリーズのかけ声に足を合わせ始めた。彼なりにもちゃんと練習してきたらしく、踊ることでだんだんと自信を取り戻しているようだ。しかしリーズのかけ声なしで彼が問題なくステップを踏めるようになったのは、曲の終盤だった。



「よければもう一曲お相手しましょうか、次の曲で完璧にリードできれば、もう大丈夫かと思いますけど」


 曲が終わって互いにお辞儀をした後にリーズがそう言うと、カルデローネ子爵は言いづらそうに下を向いた。


「あ、ありがとう……ございます、で、でも、その前に……その、少し話せますか」


 リーズは目を瞬かせた。


「ええ、もちろん。あちらの客間に移動しましょうか」





 パートナーに腕を貸して移動する青年のふるまいは、ダンスのときのようなぎこちなさはなく、完全に洗練された貴公子のものだった。歩くときにこちらに合わせてくれる歩調や、扉を開けるときのタイミングも手慣れている。もしこの子爵があのときの少年なら、どれだけの訓練を積んだのだろうかとリーズは独りごちた。


 広い客間にはいくつかの燭台に灯りがともされていたが、人々は皆ダンスホールに出ているようでここには誰もいなかった。壁にはこの屋敷ナントゥイユ家の一族の肖像画がいくつも飾られている。


 辺りに誰もいないことを確認してから客間の扉を閉じた青年は、小さくため息を吐いて言った。


「……ほんとうに助かった。あそこで正体をばらされたら俺は死んじまうところだった。それにダンスも」


 突然彼の声が低くなり、口調も変わった。先ほどのような貼り付けた笑みは消え失せ、心底ほっとした表情を浮かべている。

 やっぱり、市場で会った少年だったんだわ!

 リーズの顔に自然と笑みが浮かんだ。


「どういたしまして。ほんとうだったら気づかないふりをするのが一番だったかもしれないけど、でもほんとうに驚いてしまったの……まさかこんなところで会えるなんて思いもしなかった、ええと、フィルベルトさん? カルデローネ子爵と呼んだ方がいいのかしら」


 先ほどの愛想の良い顔はどこへやら、青年は皮肉っぽい表情を浮かべた。


「そいつは偽名だよ、とっくにわかってると思うけど」


「そのようね。全然聞いたことがないわ」


「一応、末端貴族の名前を借りてることになってんだよ。生きてるのかどうかってのは知らねえけどな」


「ふうん。それじゃあ、あなたのほんとうの名前を教えていただける? 私はリーズよ、リーズ・シャレロワ」


 青年は鼻で笑った。


「舌を噛みそうな名前だな……俺はルカだ、小さいときからそう呼ばれてる」


 ルカ。洗礼名だけで姓はないのだろう。


「ルカね……ねえねえ! どうして偽名を名乗って子爵をやっているのか教えて」


「はあ? んなの教えるわけねえだろ」


「あら、あなたの正体をダンスホールで叫んでもいいのよ」


 リーズが腰に手を当てて仁王立ちして言うと、ルカは眉をしかめてから「くそ、弱味につけこみやがって」と小さくため息をついた。


「ま、あんたは俺が街の片隅でねずみみてえに生きてた人間だってことを知ってるからいっか……おい、誰にも言わねえって約束してくれよ。つまりこういうことだ、俺が生きるために盗みや詐欺をやってたってことは想像つくだろ、これも仕事のうちってことだ」


 詐欺の延長で子爵をやっているということだろうか。

 リーズは首を傾げた。


「だからと言って、今のあなたみたいに洗練されたふるまいや口調を真似るのはなかなかできないことよ。父は完全にあなたが子爵だと思ってる。きっと会場のみんなもよ。なにか特別なことをしないと……優秀な家庭教師でも雇ったの?」


「あんた……意外と鋭いな」


 ルカは頭をかこうとしたが、きれいに撫でつけられていたことを思い出してやめた。


「そうさ、さっきあんたの父親に話しかけた男がいただろ、あの男に俺は雇われた身ってわけだ。ちょいとばかり子爵のふりをしてくれって言われて、奴の指図に従ってる。教師やらなんやらを俺に付けて社交界の何もかもを勉強させたのはあの男だ……誰にも言うんじゃねえぞ」


 リーズは目を細めた。なるほど、あの紳士が食わせ者だったということね。そういえば名前を名乗らなかったわ。父が尋ねているようだったなとぼんやりと思い出して、はっとした。


「彼は……私の父に何かを仕掛けるつもりなの?」


 急に声をかけてきたのだ、思惑があったのに違いない。今頃大丈夫なのだろうか、とリーズは少し父が心配になってきた。

 うちは大きな事業を営んでいるわけでもなく、得意先もさほど多くはいない、小さなぶどう畑を所有しているしがない商家だ。誰かから恨みを買うほどの大それたこともしていないはずである。ちっぽけな我が家を陥れようとしているのだろうか。

 

 リーズはそんなことを考えていたが、ルカは「いや、違う」と否定した。


「あいつがあんたの親父さんに声をかけたのは、あんたがいたからだ。あの男は俺のダンスの練習相手に商家の娘のあんたを狙ってた。貴族の前で恥をかくわけにはいかねえからな。親父さんに話しかけたのは彼の気を良くして、娘に踊るように言わせたかったからだ」


 それで彼の思惑通りになったというわけだ。


「あなたを私で練習させて……それから貴族のご令嬢のどなたかとダンスをさせる、それが彼の目的なのね」


「今夜はな。ほんとの標的の女が、俺みてえなデビューしたての男と踊るような尻軽女じゃねえから、少しでも社交界での俺の評判を良くしてその女の関心を引くっていうところが今の目標だ」


「まっ! そんなことを言ったら、踊った私が尻軽女みたいじゃないの」


 リーズが口を尖らせたのに、ルカはしまったというような表情になった。


「あっ、そ、そういうわけじゃ……その、悪い、口がすべった……くそ、普通に話してるとどうもうまくいかねえ、その、別にあんたを侮辱するつもりは……」


 必死で取り繕う青年に、リーズはふっと笑みを浮かべた。


「わかってるわ、でも気をつけて……目的のご令嬢は難関な女性なのね。誰かしら、私で力になれることがあったら協力するわよ」


 リーズの言葉に、ルカは戸惑ったように下を向きながら言った。


「協力するって……俺はあんたをダンスの練習台として使ってたんだぜ。普通は怒るところだろ」


「だって、演技とはいえあんな風に懇願されたら断れないわ。それに……練習せずにあの調子でご令嬢たちと踊っていたら、あなたは大変な目にあってたと思うわ。私で練習できてよかったじゃない」


 リーズがそう言うと、青年は恥ずかしそうに顔を赤く染めるとぼそぼそ言った。


「ダンスはあの男の指示で教師と練習してたけど、舞踏会に来るのは初めてで緊張してたんだよ。たぶんコツは掴めた……あんたのおかげでな」


 リーズはにっこり笑った。


「お役に立てて光栄です。令嬢たちと踊る前にもう少し練習しておいた方がいいとは思うけど」


「その……さ」


 ルカは少し俯きながら言った。


「俺、なにができてなかったのかな。さっきはなにがなんだかわからなくて、あんたに止められたときは“ああできてなかったんだ”って思ったけど」


 リーズは「うーんと、そうね」と考えた。


「率直に言うと焦っているように感じたわ。緊張して、音楽が耳に入らなかったのね、それでリズムに合わせられずにステップを踏んでいるようだった」


 そう言われた彼は、眉を寄せて「音楽が……それとリズムに合わせられなかったのか……」と呟いて自分を顧みているようだったが、いまいちピンときていないようだ。


「つまりは慣れていなかったということ。理屈じゃないのよ、何度も踊るうちにそれもわかってくるはずだわ。さ、こっちに来て。練習あるのみよ」


 リーズは客間の広い空間のところに移動すると、ダンスをしようと腕を広げてみせる。 

 しかしルカは不安そうに後ずさった。


「で、でも……あんたもダンスに不慣れだって親父さんが言ってたじゃねえか」


「あんなのでまかせよ。私の兄は無類のダンス好きなの。私は毎日ダンスのレッスンに付き合わされているのよ、おかげであなたをリードできたわ」


 ルカはぽかんとした表情になった後、「なんだよ」とぐしゃりと表情を歪めた。


「貴族の言うことは全部嘘ばっかりで信じられねえな」


「うちは貴族じゃないのよ、舌を噛みそうな名前だけどね。まあでも、社交界での言葉は大半が大袈裟な謙遜とお世辞の嵐だから気をつけた方がいいわ……ほら、早く練習しましょう」


 リーズが手招きするとルカは顔を歪めたままだったが、ようやく観念したように彼女の方へ歩み寄り、彼女の手を取った。


「まず、耳を澄ませて。音楽が聞こえるでしょう? 頭の中で1、2、3、1、2、3と数えるの。大事なのはダンスをする相手の目を見ること。二人で一緒に一歩を踏み出すのよ」


「そ、そんなことは俺もわかってらい、途中からわかんなくなっちまうんだ」


「あら? さっきはダンス中どころか、踊り始める前だってあなたは目を合わせてくれなかったじゃない。本番は足元を見るなんて言語道断よ」


「え、そ、それはその、だって……」


 言い訳しようとした青年の言葉が萎んでいく。


「……俺にはやっぱり子爵のふりなんて無理な気がする」


 最終的にぽつりと言った彼に、リーズは「そんなことないわよ」と笑いかけた。


「あなたは紳士としてのふるまいも口調も完璧よ。あとはダンスだけじゃないの。言ったでしょう、練習あるのみよ。暇だからとことん付き合ってあげる。焦らずに、まずはダンスに慣れましょう」





 それから二人は、ホールから聞こえる音楽に合わせて客間で何度も踊った。

 初めの頃はルカはまだ足元を見ていたが、5曲目にもなるとようやく最初から最後までリーズと目を合わせながら自然に踊れるようになった。

 しかしその頃になると、さすがにリーズもへとへとだった。


 客間の長椅子に座って息を整えている彼女に、ルカは飲み物を取ってきてくれた。


「ありがとう」


 嬉しそうにリーズはグラスを受け取る。いちご水のようで、そのほどよい甘さはリーズの喉を潤した。

 その様子を立って見守っていたルカに、リーズは「あなたも座って」と言って隣を指した。

 ルカは少し迷った後におずおずと隣に腰を下ろす。その様子にリーズは目を細めた。


「……休んでいる令嬢の隣には座らない、ただ立つだけと教わった?」


 ルカは頭に手をやろうとして、また髪をきれいに撫でつけていたことを思い出してすっと手を下ろした。


「う、うん。座れって言われてもほんとは断らなきゃならねえって言われたけど、その……あんただし、いいかなって」


 リーズは笑みを浮かべて「ええ、もちろんよ」と頷いた。


「でも不思議な感じ。あなたはほんとうに立派な貴公子だわ。飲み物を持ってきてくれたのもとっても嬉しい……きっと、その難関なご令嬢も好意的に思ってくれるはずよ」


「どうだかな、頑張ってはみるけどよ。手紙や贈り物なんかも送ったってのに、返事が一通もなかったから」


「手紙……?」


 リーズは目を瞬かせた。


「あなた、文字も書けるの?」


 ルカは肩をすくめてみせた。


「ふりでも一応子爵だからな。前も読めねえことはなかったんだぜ。まあ貴族令嬢に出せるような手紙を書けるようになるまで、教師がつきっきりだったけどよ」


「そう、そうなの……よかった」


 リーズは少しほっとして青年を見た。文字が書けるのであれば、ある程度収入のある職につける。たとえこの仕事を終えて子爵でなくなったとしても、もう彼は街中ですりをして暮らすことはないのだ。


 ルカは彼女の視線に居心地悪そうにしていたが、「あんたにききてえことがあったんだ」と口を開いた。


「初めて会ったとき、盗みをしようとした俺に、金になりそうな金品をいくつもくれたろ……あれであんたは困らなかったのか?」


 今度はリーズは肩をすくめた。


「正直に言うと、帰ってから道で落としてきたと父に言ったら、それから1年間は装飾品を買うのは禁止になったわ。でもいいの、元々たくさん持っていたし、姉からもお下がりをもらえるから……あなたは? あれで暮らしの足しになったのかしら。おいしいパンでも食べることができたらと思っていたんだけど」


 リーズの言葉に、ルカはわずかに顔を曇らせて、正面にある机を見つめた。


「ああ、ありがてえことに金にさせてもらった……あれで薬を買ったんだ」


「薬?」


「うん、病気の仲間がいてさ。とにかく咳がひどくって、いつもつらそうだったんだ。薬を買って飲ませたら、その間はずいぶん楽そうにしてたよ……結局血を吐いて死んじまったけどな」


 ルカの話に、リーズは目を丸くさせて沈黙した。返す言葉が見つからなかった。


 リーズは、自分の1年間の贅沢と引き換えに、少年の命が少しでも永らえたとか、装飾品を渡しておいてよかった、役に立ててよかったなどという考えでとどまるような年頃ではなかった。自分がもっと何か、彼のためにできたのではないかという後悔の念に駆られたわけでもない。

 病気であるにもかかわらず、薬一つ満足に与えてもらえない子どもがいるのだというこの社会の無情さを、リーズはひしひしと感じていた。そして、隣に座る青年はその世界で生きてきたのだ。

 ルカはあのときも、そして今も、自分と暮らしぶりの違うリーズに悪態をついたり、恨み言を述べたりはしない。したところでどうにもならないとわかっているからだ。

 リーズは、この暗い顔の青年をどうにかして元気づけてあげたくなった。


 しばらく考えた後、リーズは口を開いた。


「私の母もね」


 リーズも青年が見ているのと同じ方向に視線を向けた。


「私の母も血の出る咳の病で亡くなったの。あなたと出会う少し前よ。ずっと苦しそうだったのに、私は何もしてあげられなかった。なんにも。もしかしたら……あなたのお友達と同じ病だったかもしれないわね。あの頃は咳の病気で亡くなった人は大勢いたらしいから」


 ルカは驚いた表情でリーズを見つめた。

 燭台の灯りで、彼の鳶色の瞳が揺れているのが見える。彼が何を思っているのかはわからなかったが、大切な人を亡くした悲しみなら分かち合えるとリーズは思った。それが慰めになるかはわからないが。


 そのときだ。


 客間の扉がガチャリと開いて誰かが入ってきた。


「こんなところにいたのか!」


 そう言ったのは先ほど父に話しかけてきた老紳士だった。


「踊りもせずにホールから出て、一体何を……おや、あなたは先ほどの」


 紳士がリーズの存在に目を丸くさせてから、二人が隣り合って座っていることに何かを勘繰らせたのか、ぐっと眉を寄せた。


「まさかお前、こんなところで彼女と……!」


「ご、誤解です!」


 青年は慌てたように立ち上がった。声のトーンが変わった。


「彼女はお、私にダンスを教えてくれていたんです! 何度も踊ったので疲れさせてしまって、ここで休んでいただいていました」


 紳士は目を細めて鋭い視線をルカに向けた後にこくこくと頷くリーズの方を見ると、表情を和らげて「そうか」と頷いた。そうしてリーズの方に笑顔を向けて言った。


「シャレロワ家のお嬢さん、今夜はどうもありがとうございました。すっかり彼がお世話になりましたようで」


 ガラリと態度を変えるわね、この人。そんな風に思いながらリーズは「とんでもありません。お役に立てて光栄です」と社交的な笑みを返す。


 ルカの話によれば、この紳士が彼に子爵のふりをしろと指示しているらしいが、一体何を企んでいるのだろうか。そういえばルカからこの男のほんとうの目的を聞くのを忘れていた。


「そうそう、ダンスホールでお父上が姉君とあなたを探していましたよ」


 紳士の言葉にリーズは、練習が終わったから私はもう用済みというわけねと心中で思った。


「あらあら、それなら早く行かなければなりませんわね」


 リーズは腰を上げると、青年の方を向いた。


「カルデローネ子爵。ダンス、頑張ってくださいましね。もう完璧ですから自信をお持ちになって」


 リーズの励ましにルカは一瞬目を見張ったが、小さく微笑んだ。


「……ありがとうございます。ほんとうに今夜はあなたのおかげで助かりました」


 ルカの丁寧な言い方に、リーズはふふっと笑うと紳士に「ごきげんよう」と声をかけて客間を出た。

 後ろの方から壮年の低い声が聞こえる。


「……夜会も中盤に入る。自分の仕事を忘れるな。早く行け」


 耳に入る紳士の冷たい声が、リーズの胸に突き刺さった。





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