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17. 縁談



 秋の試飲会によって客も仕入れ先も増えたタッシ商会は、例年よりも忙しくなった。それに比例して、ルカは暗い表情を見せるようになった。

 ベンは試飲会でなにかあったのかと尋ねたが、ルカは「なんでもねえよ」と答えるだけだった。そしてますます仕事に没頭していくようであった。

 ベンはそんなルカが心配で、彼に常にくっついて仕事を手伝った。



 この日もベンは、ルカと並んで仕事から帰路についていた。

 ここのところルカが見せている浮かない表情に、ベンはなんとも言えない思いを抱えていた。なんせ秋からこの数ヶ月間、ずっとである。ルカさんが考えているのは十中八九リーズさんのことだろうなと、ベンは察していた。


 リーズからの手紙は去年の夏に来たきりで、この冬は来ないままとうとう春を迎えていた。試飲会でなにかあったにせよ、彼女からの手紙がないことがルカの表情を暗くさせているのは明らかであった。そんなに気になるなら、自分で彼女のところに行けばいいのに。



「ねえルカさん」


 石畳みの上を歩きながらベンが言った。


「ルカさんはリーズさんのいる町に、いつになったら戻るのさ」


 ルカはぎょっとした表情でベンを見下ろしたが、眉をしかめながらも答えた。


「も、戻らねえよ、一生。俺はあの町で問題起こしちまったからな」


「一生って……なにそれ。じゃあたとえばさ、リーズさんがどうしようもない悪党の男と結婚するってことになっても助けにいかないわけ?」


 ベンが極端な例を持ち出したので、ルカは思わず笑い声をあげた。


「リーズは悪党と結婚するほどばかじゃねえよ」


「それはそうかもしれないけどさ……じゃ、じゃあ悪党じゃなくて、ほんとにちゃんとリーズさんを愛してる男が現れて、結婚するってなったら?」


 ルカが足を止め、ベンも立ち止まる。


「お前、なにが言いてえんだよ」


「いいから答えてよ。もしもリーズさんが結婚することになったら、ルカさんは式に出る? ちゃんと想像してよ」


 少年の真剣な目つきに、ルカはやれやれと肩をすくめたが、彼の言う通りに彼女が結婚する様子を思い浮かべてみた。

 彼女が教会に立つ姿を見たとしたら、まさに聖女そのものに見えることだろう。


「そうだな。彼女は俺の幸せを願ってくれたから、結婚式ぐらいは参加してやりてえかな。まあ、招待されればの話だけど」


 そう言ってルカは再び前へ歩き始めた。


「……あー、そう」


 ベンは、青年の言葉にあからさまにがっくりと肩を落とした。ルカの後ろを歩きながら「わかんないな、ほんとにルカさんの心は難解すぎる……」とベンがぶつぶつ呟いていると、ルカは後ろを振り向いて小さく笑った。


「なんだよ、俺が嫉妬するとでも思ったのか?」


「思うよ! だって彼女はルカさんのことが好きなんだぜ、ほんとにいいの? ルカさんだって好きなんだろ! ちゃんと考えたことある?!」


 少年がわめくように言うと、ルカはすっと目を細めた。


「前にも言ったがな、ベン。俺たちは生まれが違うんだ、住む世界も何もかもだ。それにそこそこでかい規模の商人ともなりゃ、損得とか利害の一致で結婚を決めるもんなんだよ、俺が踏み込む余地もねえ」


「ルカさんだって、お貴族様相手にぺらぺらそっちの言葉をしゃべれるじゃないか」


 ルカはへっと笑いながら「あんなの、口先だけでなんとでもならあ。根本が違うんだ、根本が」と言ってから、少年の方を見て言った。


「ベン、お前だから言うが、俺はな……いまだに身体に染みついてんだ、すりのくせがな。道端で歩いててもふとしたときに頭の真ん中で考えてやがる……ただやらねえってだけだ」


「そんなの、俺だって」


「ベンとは年月が違う。お前はあのとき11だったっけな。あの歳で足を洗えてよかったよ、俺はもっと遅かった。長いこと踏み外したとこを歩いて、手を汚しながら生きてきた野郎が“まともな人間”として暮らすっていうのは、なかなか難しいもんなんだ……それに俺がここでいくら頑張ったって、所詮彼女とは住む世界が違うんだよ。今までも、これからもな。いいか、この話はこれで終わりだ」


 ベンはむっと口を引き結んで立ち止まった。しかしルカの方はこちらを睨むベンをそのままにして先を歩き、彼を置いていってしまった。


 ベンはわからないと頭を振った。

 最近リーズについて話そうとすると、ルカは決まって嫌そうな顔をする。それに自分を否定するようなあの言い方。前はあんな風じゃなかったのに。彼女とはもっと親しげで、少なくとも友人だということを誇らしげに話していた気がする。

 そういえば、ルカさんはリーズさんのことをよく聖女様と冗談めかして呼んでいたっけ。彼女は彼にとって“愛しい人”ではなく“ありがたい聖女様”だったのだろうか。

 確かにリーズさんがこの町にいたときも、そして去るときも、ルカさんは彼女ほど哀しそうには見えなかった……。


 しかし、その後の彼女から手紙が来たときの、ルカのあの喜びに満ちた顔を、ベンは知っている。彼が待ち焦がれているように彼女の手紙を望んでいることも、そばで見ているベンにはよくわかっていた。


 ベンは頭をひねった。

 ルカさんにとって、どうするのが一番良いんだろう。前にリーズは、ルカの平穏な幸せを見守ってほしいとベンに頼んできた。あの人がこのままずっとここにいて、あんな劣等感にまみれたままで幸せなのだろうか。特に最近のルカは塞ぎ込んだまま、笑わなくなった。

 それなら、他人の俺が少しくらい背中を押してみてもいいんじゃないか? いや、きっといいはずだ。

 ベンは意を決すると、踵を返して商会事務所の方へ駆け出していった。



***************



 数日後、事務所の会長室からルカに呼び出しがかかった。


 扉を叩き、「失礼します」と声をかけて会長室に入ったルカは、中にいた人物に目を見開いた。


 いつも見慣れている会長シルヴィオ・タッシの横には、彼の顔によく似た知らない男が立っていた。いや知らない顔ではない、ルカは一度だけこの男に会っていた。

 この商会のことを教えてくれた、いつかの酒場で会ったあの軍人であり、タッシ会長の兄である。


「えと……グイド大尉?」


 目を丸くさせたルカが名前を言ったのに、彼はにかっと笑った。


「お! 覚えていたようだな!」


 大きな声でがははとうるさく笑う様子に、ああそうだ、この男はこういう笑い方をするのだとルカは思い出した。


「おい、なんだその嫌そうな顔は! 久しぶりに恩人に会えたんだぞ、もっと嬉しそうにしろ!」


 恩人って自分で言うなよ。ルカがそう思ったのを、隣にいた弟の会長が代弁してくれた。


「兄さん、恩人って言葉は自分では言わないようにした方がいいよ……うるさくてごめんね、ルカ君。兄がどうしても君に会いたいって言っててさ」


「あ、いや、その……とんでもありません。あまりに驚いてしまって。大尉殿にはその節は大変お世話になりました。こちらの町に配属になったのですか?」


 きっちりと丁寧に頭を下げたルカに、グイドは肩をすくめた。


「いや、今休暇中なんだよ……あれ? お前、そんな感じだったっけか……あっそうか! 職場でそういう風にふるまえって言ったのは俺だったな。お前も大変だな! がはは!」


 うるせえな。ルカが目を細めて嫌そうな目を大尉に向けると、彼はまた笑った。


「まあいいじゃないか、俺には最初に会ったときみたいに話してくれよ。弟の方はお前の上司だろうが、俺とは酒場仲間みたいなもんだからな」


 そう言われてルカがちらっとタッシ会長の方を見ると、彼はにこっと笑った。


「そうしてくれ。私は気にしないから大丈夫だよ」


「それにな」と大尉が言った。


「今日来たのは仕事の話じゃない、もっと私的なことだ、お前のな」


「私的なこと?」


 会長は「そうだよ」とルカに微笑みを向けて、近くに来るように手招きした。扉のすぐ近くにいたルカは言われるままにタッシ兄弟の方に歩み寄る。

 会長はルカの方を向いて言った。


「君が勤めてもう三年になるだろう。実はね、そろそろ縁談の提案をしようと思って、君を呼んだんだよ」


「え、えんだん、ですか……?」


 ルカは目を瞬かせた。


「そう。君はよく働いてくれている。忙しくさせてるからプライベートの時間も取り上げてしまっているだろう。私はときどき社員たちに縁談を世話してやることも引き受けていてね。君は兄の紹介でうちに来ただろう、それで彼にもその話をしたんだ」


「安心しろ、好条件の女を集めてきた」


 グイドは得意そうに言うと、上着の内ポケットからごっそりと紙の束を取り出した。


「まず、エンマ織物商会のヴェルレーヌ嬢、趣味は刺繍と料理。明るく少し勝気な性格。次にランティエーリ出版の家のロンダ嬢、読書が好きで博識だ。ラムゼル少尉の娘マチルド嬢、社交的でダンスとおしゃべりが好き……」


「え、ちょ、ちょっと、まってくれ!」


 ルカが慌ててグイドの言葉を遮った。


「大尉殿には悪りいが俺はそんなの頼んでねえし、そんな女どもと結婚するつもりもねえぞ!」


「おっ、口調が戻ったな。だが贅沢言うな、せっかく集めてきたんだから黙って最後まで聞け。みんなべっぴん揃いの財産持ちだぞ。ええと、マチルド嬢、は言ったな……次にマリー・オーベル嬢、オーベル領主の娘で、領地の運営に関しては一通り学んでいる。それからガラス商会のセシリア嬢……」


「い、いや頼むから、ちょっとほんとに待ってくれ!」


 ルカは再び声を上げると、会長に向かって言った。


「タッシさんすみません、お気遣いはありがたいのですが、俺は結婚なんてできません。妻なんて、む、無理です」


「おや、一生結婚しないつもりかい? なにも商会のために結婚してくれって言ってるわけじゃないよ。君もいつまでもあそこの下宿先にいるわけにはいかないだろう」


「あ、あの下宿を出ろというのなら、自分でどこか部屋を探します。結婚せずとも、私はこの商会でちゃんとやっていける自信があります!」


 ルカが必死にそう言うのを横で見ながら、グイドが言った。


「まあ、とりあえず最後まで候補を聞け。家業を継ぐ必要はないと言っている家もあれば、継いでくれるのを望んでいる家もある。俺の手にかかればよりどりみどりだぞ」


「うるせえ、嫌なもんは嫌なんだ。ご大層な嫁なんかいたらめんどうだろ。俺は自分のことで精いっぱいなんだ」


 会長が「おや」と口を挟んだ。


「でもルカ君、自分のことで精いっぱいなら、ベン君のめんどうを見たりしてないと思うんだけど」


「そ、それは……妻とは違いますよ、彼は仲間だし、同僚です。私には家庭なんて持てません……タッシさん、どうか、どうかお許しください」


 頭を下げたルカに、タッシ会長は目を細め、大尉の方はわからないと言うように眉を寄せた。


「どうしてそんなに嫌なんだ。なんか嫌な思いでもしたのか?」


「そうじゃねえけど……俺にはそんな住む世界の違う女たちの相手なんか務まらねえ」


「住む世界が違うだと? みんな平民だぞ。お前と同じような商人の娘だってこの中にはわんさかいる」


 大尉がけろっとした顔で言うと、ルカは苦い表情を浮かべて「そうじゃねえ、そうじゃねえんだ」と首を振った。そして頭をがしがしとかいてから言った。


「……あんたらにはわからねえだろうが、平民にも線引きがあんだよ。はっきりとは言えねえが、いっつも日の当たる場所にいる連中と、時々当たる場所にいる連中、それから日の当たらねえ地下や路地裏でしか生きていけねえ連中だ。俺は明らかに三番目なんだ、あんたらとは違う。そっちの側じゃねえ、生まれたときから決まってんだよ」


「ルカ君、まってくれ」


 タッシ会長は青年の目を見て、いつになく力強い声で言った。


「確かに私は社交界の人たちが苦手だ。でも大昔みたいにそれぞれ違う人間だと思ったことはない。君やベン君、それに他の社員のみんなもそうだ、一度もないよ。線引きをする必要はない。みんな一緒じゃないか」


「いいやタッシさん、違う人間なんですよ、なにもかもが。もう性根から違うんだ……あなたは人から奪ったりなんか、したことないでしょう」


「……盗んだことはない。でも商人だから似たようなことをしている自覚はあるよ。それに人間の性根なんか一番わからないものだよ。心の中で思うのは仕方ないさ、私だってときどき人を殺したくなるときがある、めためたにね」


 会長の発言に、ルカは思わずぎょっとして顔を上げた。

 会長は笑顔で続けた。


「でももちろん行動はしない。してはいけないとわかっているからさ。それが判断できるかできないかというだけの話だよ。ちょっと理屈っぽい話だけど」


 ルカは黙り込んだままなにも言わなかった。会長はルカの肩に手を置いた。


「シャレロワ君、君に劣等感に似たような感情を抱かせたまま仕事をさせていたのなら申し訳なかった。それは私の不手際だ。だが私は、君がこの会社で誰よりも一生懸命にやってくれていることを知っている。不正をすることも、客に不誠実な態度を取ることもなかった。それとも君は、みんなの目を欺いて、この会社で悪事を働いたりしたのかい?」


 ルカは下を向いたまま「それは……ありませんけど」と呟くように言った。


「そうだろう、わかっているよ。君は善悪の判断ができるんだ、大丈夫、もっと自信を持ちなさい。かつては後ろ暗い生き方をしていたかもしれないが、今ではタッシ商会の営業を任されているルカ・シャレロワ君だ。社交界でも立派にやり遂げてくれた。仕入れ先からも、お客からも信頼されてるんだから」


「それに」と、今度はグイド大尉の方が口を開いた。


「ティーポリで初めて会ったとき、お前は“読み書きするような地道で静かな仕事”がしたいって真面目なことを言っていたじゃないか。名前だってあのとき新しく決めて、三年間ここで働いてきたんだろう。その名前に汚名はないはずだ。自分じゃだめだという卑屈な態度は捨てろ。お前は十分良家の子女と結婚できる資格がある。俺が保障する」


 名前ーーそうだ。もう今ではすっかり馴染んでいるが、ルカ・シャレロワという名前を名乗るようになってから三年になる。


 三年も?

 他人の口から聞いたその事実に、ルカは少し驚いた。


「三年も……まともな生活してたのか……俺が」


 すりも詐欺も一度もやってこなかったのか。暮らしているうちはあっという間に過ぎるものだが、三年という年月はルカには貴重な年数に思えた。

 なんで、なんで俺にそんな生活ができたんだろう。

 「いいか」と大尉が言った。


「確かに線引きが好きな連中はいる。特に上の方にな。けど、結局そんなのは思い込みだ。大事なのは、自分がどういう人間になりたいかだ。線引きに振り回されて一生を終えたいのならそれでもいい。だがお前に望みがあるというのなら、俺はいくらでも手を貸すぞ」


 グイド大尉の言葉は力強く、暗い気持ちだったルカの心に希望の光を照らした。

 青年はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「少し」


 ルカはまっすぐに会長の方を見た。


「少し、考えさせていただけますか」


 タッシ兄弟は笑みを浮かべた。


「もちろんだよ。自分の人生のことだ、じっくりと考えてほしい……結論が出たら、教えてくれるかな」


 会長が穏やかにそう言った横から、兄の大尉が紙の束をルカに突きつけた。


「俺特製の見合いリストを渡しておく。その中からめぼしい女性を見つけるんだぞ……俺もお前の返事を楽しみにしてるからな」


 ルカは戸惑いながらも、しぶしぶそれを受け取った。




 タッシ会長はその後、ルカに休みをとってじっくり考えた方が良いのではと提案したが、ルカは首を振った。仕事は仕事だ。商会の信用のためにも自分が任されている案件をそのままにするわけにはいかない。本人が気づかないうちに、ルカは仕事に対してすっかり真面目になっていた。

 ルカは昼間はいつも通りに働いたが、その代わり、夜にぼんやりと考える時間が多くなった。


 ある夜、女将ザンキは下宿の食堂でベンを捕まえた。そして一点を見つめながらスープをすする青年を遠巻きにしながら小声で少年に尋ねた。


「なんだいありゃ。借金でも背負ってるかのような顔つきじゃないか。ここ最近ずっとあれだよ、どうかしちまったのかい?」


「いいや、借金じゃないよ」


 ベンは首を振った。


「これからのことを考えてるんだ……ルカさんにとって大事なことだから、ほっといてやってよ。毎日のご飯にケチつけるよりましだろ」


「そりゃそうだけどさ……なんか調子くるうじゃないか。いつになったらもとに戻るんだろうね」


 ベンは「さあね」肩をすくめてから、しばらくルカを見つめていたが「あのさ、ザンキさん」と小さな声で言った。


「もしかしたら、ルカさんは近いうちにーー」


 ベンの言葉に、女将は「おやまあ」と目を丸くさせた。




 ルカは、将来というものを初めて考えていた。

 自分の未来のことを考えるのは、カード賭博でどれだけ稼げるかを思案するのとも、商会での翌月の売れ行きの見通しを考えるのともわけが違った。

 これまではとにかく明日を生きるために金を稼ぐという日々だったのだ。今の商会に入ったのも、ルブロンの町を出てきてすぐに仕事に就きたかったからで、深くは考えていなかった。

 このままあのタッシ商会にいる自分を想像し、悪くはないと思った。三年働いたのだ、なにもしなければきっとこのまま時は流れていくだろう。


 ルカは部屋で一人ベッドに腰かけると、持っていた紙の束に目を落とした。大尉から受け取った、女性の名前や詳細が載っている紙だ。知らない女の名前がずらりと並んでいる。

 この俺に縁談。

 笑える、と思ったが、タッシ兄弟は冗談を話しているようではなかった。なによりこのリストが証拠である。

 きっとこういう縁談なんかの話は、これからも来るのだろうーー結婚するまで。

 この中の誰かの夫になるのか、俺が?


 ルカはリストの一番上の人物を見た。“エンマ織物商会のヴェルレーヌ嬢、趣味は刺繍と料理。明るく少し勝気な性格”と書いてある。ルカはこのヴェルレーヌ嬢の夫になった自分を想像してみようとしてーー無理だと紙を見るのやめた。想像なんかできるはずがない。

 ルカは紙をぐしゃりと握りつぶすと、後ろのベッドに倒れ込んだ。

 そうして天井を見ながらまた考える。


 もしかしたら、知らない女が相手でも、会う回数を重ねてたくさん話をすれば、仲を深められるかもしれない。外面の良さを保つのは得意である。

 しかし、結婚相手は外面だけではうまくいかないだろう。これは人生をかけた選択である。過去の自分を隠し通すことなんてできない。人生をともにする相手に、ずっと嘘をつき続けるなんてルカはごめんだった。

 確かに、タッシ兄弟の言う通り、ルカ・シャレロワには犯罪歴がなかった。そもそもそれがベロム伯爵との約束だったからだ。


“今後一切悪事には手を出すな。万が一こちらに悪い噂が広がっても困る。もしそうなれば、私は容赦なくお前を闇へ葬る”


 恐ろしい目で睨まれながらそう言われたことはよく覚えている。だが今にして思えば、伯爵は俺にまっとうな人生を歩ませようとしていたのかもしれない。脅すような形ではあったが、実際のところ自分は町を移って、人並みの生活ができている。

と、ここまで考えてからルカは、いや違うなと思い返した。伯爵の脅しよりも、ルカにとってもっと大きな歯止めになったものがあった。


 他でもない、リーズの存在である。


 わかりきったことだった。彼女は、人として生きることを諦めかけていた俺に、絶対にできると信じて励ましてくれた。

 タッシ商会に勤め始めた頃も、揺れ動いていたルカの心は、リーズが会いにきたことによって、まっすぐに定まった。

 そして一番彼に影響を与えたのは、シャレロワの名前であった。その名前を使うようになってから、リーズの顔がいつもちらついた。その名を傷つけてはいけないと、名乗るときは無意識に自分の行動を顧みた。こうして、仕事に真面目なルカ・シャレロワという人物が出来上がったのである。


 去年の夏から彼女からの便りは届いていない。仕事に忙しいか、あるいは誰かと結婚してしまったか。実際、ポレンタの町でもあんな風に噂になっている彼女だ、恋人くらいいてもおかしくない。そうなっては、友人といえどもう気軽に会えないのではないだろうか。

 いや、秋の試飲会で彼女を見かけたときは、すでに近寄りがたくなってしまっていた。あそこにいた彼女は貴婦人そのもので、自分には声をかけることも、彼女の視界に入ることもできなかった。

 口ではいつも“彼女とは生きてる世界が違う”と言っていたが、いざそれが可視化される場面に遭遇したとき、ルカはひどくショックを受けた。リーズが遠い存在になってしまうことが、こんなに堪えることだったなんて。

 彼女のことを思うと、前は腹がくすぐったいような感覚になるだけだったのに、今ではただ苦しかった。

 ただ聖女と崇めるだけで、ルカは彼女とのことを真剣に考えたことは一度もなかった。ばかだなあ、彼女はあんなに俺を思ってくれていたのに。


 ルカはむくりとベッドから起き上がった。

 もう遅いかもしれない。今更になって虫が良すぎる話だと突っぱねられる可能性もある。

 でも、会いにいくくらいは許されるはずだ。会って……それから考えてもいいんじゃないか。

 ルカは無性にリーズに会いたかった。もう一度だけ、もう一度だけ前のように一緒に笑い合える瞬間があるのなら、それだけでいいとさえ思えた。



***************



「ただいま帰りまし……えっ、なにしてんの……?」


 ベンが出先から事務所に戻ると、同僚全員が会長室の扉に耳を押しつけて、中の様子を伺っていた。


「おっベン君、おかえり」


「さっきシャレロワ君が中に入ってったんだ」


「会長さんとそのお兄さんと三人で話をするって言ってたわ」


「絶対あれだ、お見合いの話」


 ベンは目をぱちくりさせた後、「へーそう」と言っただけで自分の仕事机に戻った。


「えっベン君、興味ないの? シャレロワさんと仲良いじゃない」


 ベンは隣のルカの引き出しから帳簿を取り出してぱらぱらとめくりながら言った。


「いや……その、大体想像がつくからさ。たぶん、ルカさんはこの町を出ていくと思うよ」


「「えっ!?」」


 扉に耳を押し当てていた全員が、少年の方を向いた。彼らの視線を針のむしろのように受けているにも関わらず、彼は「あーこれだこれだ。そうか、コッラット様は先月のうちに今月分もお支払い済みだったんだな」と帳簿を見返してメモを取っている。


「ちょ、ちょっとベン君!」


「詳しく話してくれよ、なんか知ってるのか?!」


「仕事なんかしてる場合じゃないわよ!」


 周りに群がる先輩たちに、ベンは「いやあんたたち、仕事しろよ」と言いながら、かまわず帳簿をめくった。




 事務所内でそんなやり取りが繰り広げられている間、会長室ではルカがタッシ兄弟と向き合っていた。


「わざわざお時間を取っていただきありがとうございます、タッシさんも大尉殿も」


 改まって言うルカは、もう決断したような表情をしていた。

 会長はそのことに目を細めて頷き、グイド大尉はにやりとして「いいってことよ」と言った。


「その様子だとどうするか決めたようだな。それで? 誰にするんだ、俺がすぐに会う日取りを……」


「いや待ってくれ、大尉殿」


 ルカは大尉の言葉を遮ると、会長の顔を見て言った。


「タッシさん。俺、自分がどうしたいのかやっとわかりました。ここを出ます、見合いはしません……悪りいな、大尉殿」


 ルカはそう言って、大尉に女性の名前が書かれた紙の束を返した。大尉は「な、なんだと」と受け取りながら目を瞬かせたが、タッシ会長は「そうかい!」と嬉しそうに微笑んだ。


「行くの、彼女のところに?」


 会長の問いにルカは「はい」と力強く頷いた。


「ずっと、目を逸らしていました。自分じゃだめだって言い聞かせていて、向き合おうとしていませんでした。でもタッシさんとお話しして、このままではいけないと気づきました。どうなるかわかりませんが、とにかく会いにいこうと思います」


 ルカの言葉に、会長は「そうかそうか」と嬉しそうに頷いた。


「ここのところ、君はずっと塞ぎ込んでいたからね。そう決まってよかったよ」


「あ、でも、まだ俺が担当している案件がいくつかあるので、ポレンタの町を出るのはワインの仕入れの時期を見て……」


 すると、会長は「だめだめ」と手のひらをこちらに向けた。


「思い立ったらすぐ行動したほうがいい。商会としては君みたいな大きな戦力がいなくなるのは痛手だけど……こっちのことは大丈夫。実はね、もうすでにベン君に君の仕事を引き継げるように準備してもらっているんだ」


 ルカは目を見張ったが、ふっと笑みを浮かべた。


「そう、でしたか。書類を見せてくれとやたら言われるので変だなと思っていましたが……もしかして、今回のことも彼が言い出したのでしょうか」


「まあ、きっかけはベン君が相談してきたことだけど、でも私だってずっと気にしていたんだよ……ああ、もちろん君から知らせが来るまでは、商会に君の籍を残しておこう。追い出すつもりはないんだ、戻ってくるのも大歓迎だから」


「ありがとうございます、タッシさん」


 ルカが丁寧に頭を下げ、上司の男はいやいやと手を振った。

 その様子を目の前にして、置いてけぼりにされていたグイド大尉は「おい!」と二人の間を割るようにして声を上げた。


「お前ら、俺の存在を忘れるな! なんの話をしているのか、俺にはさっぱりわからんぞ。見合いはしないとは何事だ!」


 怒りの声をあげる兄に、シルヴィオ・タッシは仕方ないなというように説明した。


「まあ……早い話が、ルカ君にはきちんと心に決めた女性がいるということだよ。兄さんには取り越し苦労をさせてしまったようだけど」


「なにっ!?」


 グイドは驚いたように弟とルカを交互に見た。


「どういうことだ、心に決めた女性? そんなのがいるなんて聞いてないぞ、シルヴィオ!」


「言ってないね、兄さんにはルカ君の縁談を考えてあげたいって言っただけだもの。その先のことを話そうとしたら、兄さんが急に“俺に任せろ”って言って、その後の話を聞かないから」


 グイド大尉は歯ぎしりをして、こぶしを握りしめた。一緒に例の紙の束がぐしゃりと潰れる。


「ぐぬぬ、せっかく苦労して集めたというのに……!」


「兄さんもいい加減に、そうやって妙齢のご婦人の情報をばらまくのはやめたらどう? 直接会って頼まれたわけでもないのに失礼だよ」


「ばらまいてなどいるか! ルカ・シャレロワのためと聞いてこの俺が人肌脱いだんだぞ……おい、ほんとうにその女でいいのか、お前。こっちは良家のべっぴん揃いだぞ」


 持っていた例のくしゃくしゃのメモ書きを大尉がペンペン叩きながら言ったのに、ルカは小さく笑みを浮かべた。


「大尉殿には感謝してるさ。けど俺は初めっから彼女しか考えられねえんだ」





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