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16. 遠い存在


“大切な友人ルカ


また返事が遅れてしまってごめんなさい。最後の手紙が確か夏だったから、ずいぶん日が開いてしまったわね。心配させてしまったかしら。

最近ちょっと忙しくなってしまったの。今までずっと暇だったはずなのに、変だなと思うでしょう。

実は姉のキャロルが先日結婚したの。お相手はヴォルゼンバークの劇場主。まあオペラ好きの姉だから、驚くことはないわよね。でもヴォルゼンバークだからとっても遠くて、なかなか会えなくなってしまったわ。

それから兄ジョゼフ。彼はなんと王都に行ってしまったの、カルヌの王都よ。キャロルの結婚を祝う宴のときに、舞踏会で兄のダンスに目を止めた方がいらっしゃったの。それがカルヌ宮廷のダンス教師だったみたいで、ぜひ自分の後継にと兄に話を持ちかけてくださったのよ。ジョゼフも二つ返事で了承して、あっという間に王都に行ってしまったわ。二人とも続けざまにいなくなってしまったから、私もちょっぴり寂しくなったわ。

私はと言うと、父の仕事を手伝っているというのは前回の手紙に書いたかしらね。あれからだんだん注文を受けたり、注文を受けたワインを用意したりするようになったの。それが発端だったわ。

父の商会が南方ポリーヌ島の葡萄を使ってワインを売っている話は知ってるわね。それで悪いことに、私に仕事の手伝いを任せられると判断した父は、私を残して直接島に行ってしまったの。前にも行くことはあったのだけど、あのときは兄や姉がいたから。しかもどうやら向こうの経営に不備があったみたいで、手紙ではまだ帰れないという知らせしか来ないのよ。

おかげで、この町のシャレロワ商会は今は私が回しているの。信じられないでしょう、私があちこちの夜会でワインを出しているのよ。もちろん父のように押し売りなんかはしないけど、どんな味なのか、他とはどう違うのかというくらいの説明はできるようになったわ。

でも働くというのは大変ね。少しでも時間を作るのにこんなに苦労するのね。

夜会の波が途切れたので、私もようやく今日こうして手紙を出せました。

ルカは元気ですか。職場の方々とは仲良くなれたかしら。無理せずに自分を大事にしてね。ベンはもうすっかり仕事に馴染んだのではないかしら? よろしく伝えてね。

またいつか会いにいきたいと思っています。

もしかしたら、仕事を理由に行くという手を使うかもしれないわ。私の実力ではまだまだ先になるかもしれないけど。

それでは。


あなたの友人リーズ”



 職場に届いていたリーズからの手紙を読んで、ルカは自分の席でほうっと安心した様子で息を吐いた。

 結婚か病気か、それか愛想尽かされたのかって思ってたけど違ったか。


 リーズからの手紙はおよそ半年ぶりになる。

 最近までちょうど秋のシーズンだったから、ワインを売り物にしている商会は仕事が多かったはずだ。リーズも父親の手伝いをしているのだから、その例に漏れず忙しかったのだろう。


 そのとき、「ただいま帰りましたあっと」と少年が出先から戻ってきた声がした。

 ベンだ。入ってきた彼に、事務所にいたみんなが顔を上げる。


「ベン君、おかえりー」


「ねえ、外は雪が降っていなかった?」


「まだ降ってなかったよ。けどやっぱり湿った匂いがするから、今夜あたりは怪しいな」


「えっ降るの、今日!?」


「早く仕事終わらせちゃいましょう」



 リーズが去ってからルカの助手として雇われたベンは、このタッシ商会の事務所の人たちにすっかり馴染んでいたーールカ以上に。ルカは、ベンへの態度は兄弟のように親密であったが、仕事場ではやはり慇懃な態度で臨んでいた。そうしなければ、客と会ったときにヘマをしてしまうと思ったからである。

 変わらぬ態度のまま敬語を使う他人行儀なルカと違い、ベンの方は皆と早いうちに親しくなった。子どもだからと、みんながめんどうを見てくれるので、仕事もすぐに覚えた。最近ではルカの仕事の雑用ばかりでなく、会長であるタッシ氏に頼まれた仕事もしている。


 ルカの元に書類を持ってきたベンは、青年の表情に目を瞬かせた。


「あれルカさん、どうかしたの、そんなほっとした顔して」


「……リーズから手紙が来た」


「えっ! リーズさんから?!」


 ルカは頷くと、読んでも良いというように少年に手紙を差し出した。


 仕事で毎日使っているせいか、あるいは毎日読書をしているおかげか、ベンはもうすっかり字を読めるようになった。

 リーズが帰ってから、すぐに手紙を書いて送ったルカと一緒にベンも手紙を書いたが、なんだか書いていると照れくさくなってしまうので、少年からはその一度きりしか送っていなかった。そのため、彼女の近況は文通を続けているルカから伺っていた。


 内容に目を通した少年は明らかにほっとした表情を浮かべた。


「そっか、忙しくなっちゃったから返事が書けなかったのか……すごいな、リーズさん。お貴族様のお屋敷に出入りして夜会でワインの宣伝か」


 ルカは頷いた。


「親父さんがいない中だから余計に大変だろうな。しかし、長男も長女も後を継がないことにびっくりだ」


「ねえねえ、リーズさんってあのときのシャレロワさんのお友だちの? 夜会に出るようになったの? お仕事で?」


 すぐ後ろでそう言われ、ルカとベンは振り返った。後ろの席のティナという同僚だ。彼女は前に一度だけリーズを見ている。

 ルカは丁寧に「ええ」と頷いた。


「どうやらそのようです。お父上が夜会にワインを提供していたので、彼女も商いの手伝いをしているとか」


「うーん、ちょっと心配だな」


 今度は左の仕事机の方から声がした。専務のロイドである。みんなルカとベンの会話を聞いていたらしい。


「彼女は夜会でワインの宣伝をしているんだろう。しかもそのワイン、シャレロワ君の話だと金持ちを相手に売れているらしいじゃないか。ますます心配だ」


 ロイドの言葉に、ベンは眉を寄せた。


「心配って……どこが? よく売れてるんならいいことなんじゃないの」


「まあ、ベンったら。商いをしている女はね、その婿の座を狙われやすいのよ」


「婿の座?」


「そう。そもそも夜会なんてね、お腹の真っ黒な連中が集まる溜まり場なのよ。貴族の娘に話しかけてくるのは爵位を狙っている男、商人の娘に話しかけてくるのは財産を狙っている男。どちらも愛を囁いておきながらほんとうの目的は違うってわけなの」


 ティナの知ったような言い方に、ルカは目を細め、ベンは「へ、へえ」と少したじろいだ。

 ロイドが「それに」と続けた。


「目に見えてうまくいっている商会には誰かが嫉妬心を起こすものだ。女性が一人で回しているということに、変なことを企む奴がいることも考えられる。彼女が悪い連中に騙されないといいが」


 皆が心配そうに顔を見合わせている中、ルカはそれはどうかなと心中で思っていた。

 かつてルカがあの町にいた頃、夜会にはあまり出席していないと言っていた彼女は、ベロム伯爵の頬をはりたおしたのだ。

 なにかをされそうになったら返り討ちにするあのような度胸があれば、ちょっとやそっとではひるまないし、簡単に騙されないだろう。


 案の定、その後に来た手紙には、ルカが吹き出しそうになる内容ばかりだった。


“この前の夜会ではね、なんと兄とルカ以外で初めてダンスに誘われました。びっくりでしょう。でも相手の男のきらきらした笑顔がうさんくさかったから、踊るかわりにワインを2箱売りつけてやったわ。今後もそういう人間がいいカモになりそうなんて思ったけど、これは内緒ね”


“明らかに財産目当てですって顔に書いてある中年男が、急に親しげに私の生活について心配してきたから、顧客の元帥に相談したの。次の夜会には男の存在が消えていたわ。その人、いろいろ問題を起こしていたみたいで、なんと軍部から感謝状までもらっちゃった”


 恐るべしリーズだな。

 ルカは彼女の得意そうな笑顔を思い浮かべた。思った通り、彼女は簡単に騙される人間ではない。そして企む連中の逆手を取る。それも確実に向こうが損をするように仕向けるんだ。リーズは明らかに父親と同じように商いに向いているーー彼女にとっては不本意かもしれないが。

 この調子なら、きっとそのうちにこの業界で成功するな、とルカは確信した。



 ルカの予想通り、それから2年も経たないうちに、リーズが任されているシャレロワ商会の噂は、ポレンタの町のワイン業界でも流れるようになった。


「リーズさん、すごいわね。お父さんが健在とはいえ、離れた原産地の南の島にいるから、ほとんど彼女が取り仕切ってるらしいじゃない」


「品質はずっと変わらないのに買い手が増えてるってことは、女商人が珍しいからかな」


「それに、収益の半分は寄付に使ってるって噂よ。きっとその慈善的な面にも注目されてるわ」


「でも王都には移ってないみたいだな。うちみたいな小さな商会はこの町にくっついてるようなもんだけど、噂になるほどの大商人ともなれば、やっぱり都会に出向くもんじゃないか」


 タッシ商会の同僚たちの間でもそんな話が交わされている。ルカは話を聞きながらも黙々と仕事机に向かっていた。


 結局、リーズがあれからこの町に来ることはない。やはり商会の担い手となると忙しいらしい。手紙が来るのも、夏と冬の2回だけになっていた。

 ルカはリーズがなんだか遠い存在になってしまったなあとぼんやり感じていた。同僚から話を聞けば聞くほど彼女が別人になってしまったかのようだった。



*************



 ルカがポレンタで働き始めて3年目の秋のある日のことだった。


 いつものように皆が事務所で仕事をしていると、「ただいまあ」と気の抜けるような声で誰かが帰ってきた。商会の会長タッシ氏である。

 疲れたような困ったような表情を浮かべて事務所に姿を現した彼に、おかみさんに怒鳴られたのかなと、ルカは仕事机で作業しながらこっそり思った。


「ど、どうかしたんですか、会長」


 ちょうど受付で作業していたマリオという名の青年が目を丸くさせて尋ねる。

 タッシ氏は「いやあ困ったことがあってね」と言いながらよろよろと受付前に置いてある客用の椅子にどっかりと腰掛ける。ただならぬ様子に、事務所にいた全員が顔を上げた。


「なにがあったんですか、タッシさん。できることがあればおっしゃってください」


 ロイドが気を利かせてお茶を持ってくると、タッシ氏は力なく微笑んで「ああ、ありがとう」と口をつけた。


「いや、実はね……お得意先のコッラット様が、私に試飲会にぜひ参加してワインの種類を増やしてほしいと言うんだ」


「試飲会? ワインの? いいじゃないですか。前にも4丁目のピーボ亭でやってましたよね」


 マリオの言葉に、「やってたやってた」とみんなが頷く。しかしタッシ氏は苦い顔で言った。


「今回はそんな気軽なものじゃない、カルヌ郊外のベルセルク邸で……あちこちから名だたる商会が集まる試飲会なんだ」


「ベルセルク邸! 王都郊外の!?」


 聞いていた同僚のティナが声を上げる。


「すごいじゃないですか、あそこの試飲会なんて、紹介がないと参加できないんですよ! これで王都近くを拠点にしてるワイン商会を仕入れ先にできるわ!」


 ティナの言葉に、彼女の隣にいたバリーという男が口笛を吹いた。


「そりゃすごい、得意先も仕入れ先も増えて万々歳ですね」


 しかし、タッシ氏は項垂れたように「全然そんなことないんだ」と言った。


「名だたる商会が集まると言っただろう? 社交界に出入りしているような洗練された連中が集まるんだ。貴族もたくさん来るらしい。私が行ったらどうなる? 場違いにもほどがある。社交界のしゃの字も知らない私はきっと粗相をして、いい笑い者になってしまうよ。そしてその噂はコッラット家にも届いてそのうち買い手がつかなくなってしまう、ううう……」


 会長の絶望的な言い方に、聞いていた事務員たちはみんな顔を見合わせた。


「だ、大丈夫ですよ」


 彼の目の前にいたマリオが明るい声を出す。


「会長は見た目が落ち着いてるじゃないですか。別に王様に会うわけでもないし、いつも通り営業すれば……」


「いや、いつも通りというわけにはいかないかもしれないな」


 横からロイドが言った。


「我々の商会は今までブルジョワを相手にしてきた。それ以上の身分の方々とは接する機会がない……でも、タッシ会長のお兄さんは確か称号のある軍人でしたよね? 会長も式典に出席したのでは?」


 タッシ氏はため息を吐きながら答えた。


「式典なんか、ただ隅っこで拍手してればそれで終わりなんだ。今回はそういうわけにもいかないだろう、コッラット家に頼まれたからには、どこかしら仕入れ先を増やさなければならない……はあーあ、本格的に困った」


 タッシ氏がもう一度ため息を吐いたときだ。

「そんなの、問題ないよ」と事務所の玄関から小さな声がした。皆が一斉に声のした方を見る。

 そこには、出先から帰ってきた様子のベンが腕を組んでこちらを見ていた。


「も、問題ないって、ベン君、今の話聞いてた?」


「子どもの君にはわからないかもしれないけどね、社交界ってのは恐ろしく……」


「とんでもないところなんでしょ。でもさ、みんな忘れてるみたいだけど、俺たちにはルカさんがいるじゃん」


「「えっ、シャレロワさん……?」」


 全員がルカの方を見る。急に話を振られて、ルカはぐっと机に顔を伏せた。せっかく傍観してたってのに、ベンのやつ。


「俺もあんまり知らないけどさ、ルカさん、前は社交界で貴族の人とダンスしてたんでしょ」


「「ええっ!?」」


 こいつ、余計なことを! ルカはぐっと眉を寄せて少年を睨んだが、ベンはぷいと素知らぬ顔をしてみせた。


「ほ、ほんとうかい、ルカ君!?」


「シャレロワさん、社交界に出入りしてたの!?」


「ダダ、ダンスってまさか舞踏会で!?」


 矢継ぎ早に質問され、ルカは「え、ええと」と口ごもった。


「……前に、勤めていた先で、な、何度か夜会に出席したことがあるだけです、でも、もうずっと離れてるから……」


 遠慮がちな言い方に、同僚たちはガッと席を立ってルカの周りに集結した。


「ブランクなんかどうってことないよ!」


「私たちはゼロなのよ!?」


「シャレロワさんなら行けるよ、絶対!」


「頼むよ、ルカ君! 私と一緒に同行してくれればいいんだ。タッシ商会の運命が君にかかっている!」


 タッシ会長の詰め寄るような懇願に、ルカは若干身を引いた。ここは引き受けるほかなさそうだ。


「こ、今回だけですよ……ああいう場所は私も苦手ですから」


 歓声をあげ万歳をして喜ぶ商会の皆を前に、ルカは困ったなと頭をかきながら考えた。

 まずは一張羅がいる。新しいワインの特徴を書きつけるメモも。誰が来るのか、それも目星をつけておかなければならない。それから良い馬車の確保だ。試飲会とはいえ社交界、あまり貧相な状態で行くと受け入れてもらえない可能性もある。

 ったく、めんどうなことになっちまったな。もう二度と足を踏み入れることはあるまいと思っていた場所に行くことになるとは。

 ルカは貴公子のようだったかつての自分を思い返し、あの頃からはずいぶん時が経ったなと感じていた。




 試飲会当日。催しは夕暮れ時からの開催であった。

 ルカはタッシ氏とともに上等な衣服に身を包み、馬車で王都カルヌの方へ向かった。


「ああ、とうとう着いてしまったよ、どうしようルカ君」


「大丈夫ですよ、ちゃんと目星はつけてきたんですから。それよりも良い服をあつらえてもらってありがとうございます」


「うう、良い服を着てるだけで今夜乗り切れたらよかったのに」


 そりゃそうだ。

 ルカは隣を歩く上司を気遣いながら、試飲会の会場ベルセルク邸に足を踏み入れた。


 ベルセルク邸のホールは煌びやかに飾られ、大きなシャンデリアの下に集まる人々もやはり煌びやかであった。

 ただし、ホールの真ん中にはダンスする人々ではなくたくさんのワイングラスが乗ったテーブルがいくつも置かれている。それぞれには札が置かれてあり、産地や商会が書かれているようだった。


 へえ、やっぱりワインがメインなんだな。

 ルカは舞踏会には散々参加していたが、試飲会は初めてだった。まあ、あちこちで交わされている上っ面の会話に潜む腹の探り合いと蔑みは、舞踏会とそう変わらねえか。

 ルカがそんな風に思っている横で、タッシ氏は青い顔をしていた。


「ル、ルカ君……すごい人たちがいっぱいいるよ」


「大丈夫です、タッシ会長も充分すごい人に見えますから」


「いや、なんかもう着ている服が違う、あそこにいる人なんか生地がピカピカしてるよ」


タッシ氏の視線を辿ると、はははと高笑いをしている貴公子が目に映った。明らかにあれは貴族だ。きっと輸入生地で仕立てたのだろう。


「ああいう連中はワインというより社交のために来てるんですよ、我々の目的は違うでしょう……まずはここベルセルク邸の主人に挨拶しましょう」


 ルカがすたすた行ってしまうのをタッシ氏は「ああちょっと! 一人にしないで」と慌てて追いかけた。


 試飲会の会場であるベルセルク邸の主人は気位の高そうな男ではあったが、親切な様子で歓迎の意を示してくれた。


「コッラットの紹介で来た方々だったね。ぜひこの機会に君らの商会のワインの種類を増やしていってくれたまえ。コッラット家当主だったら、きっと南東の産地を気に入るだろう……あそこにいるヴィルチス商会はその辺りの畑を手広く扱っているし、アグアス家の葡萄なんかも好みだろうな」


 ヴィルチス商会にアグアス家。ルカは彼らのテーブルを確認すると、きれいな笑みを浮かべて「それは良いことを聞きました、ありがとうございます」と主人に礼を述べた。タッシ氏も一緒になってにこやかに頭を下げた。

 しかし、ベルセルクの主人が去った後にいつのまにか後ろにいた奥方がこちらに蔑むような視線を向けてこちらに聞こえるように言った。


「こんな下賤な者たちまで招いているだなんて。早く帰ってくれないかしら」


 奥方は気取ったようにふんと鼻を鳴らすと優雅に身を翻してどこかへ行ってしまった。

 なんだあのばばあ、態度が最悪だな。ルカが冷めた視線を彼女の背中にやっていた横で、中年の男が「ううう、だめだだめだだめだ」と低い言葉を漏らしたかと思うと、ズンズンと壁際の方へ行ってしまった。


「ちょ……タッシさん!」


 ルカは慌てて彼に駆け寄った。


「あんなのただの社交界の洗礼ですよ、承知の上というか、身分が違うのはわかりきったことじゃないですか」


 タッシ氏は今にも吐きそうな顔をしていた。


「いやいや、帰ってほしいなんて言われちゃもうここに居られないじゃないか。ベルセルク邸の主人への挨拶は済んだんだ、ルカ君、もう帰ろう」


「ちょ、そんなわけにいかないでしょう。私たちはコッラット家のためにここに来たんですから、仕入れ先を一つでも増やさないと。目星はつけてきましたし、今ご主人からもおすすめを教えていただきましたから、せめてそこだけには当たりましょう」


「ルカ君は強いね……申し訳ないけど、私はもう誰とも話せそうにないよ。お願いだルカ君、私の姿を消してくれ」


 無茶言うなよ。ルカは困ったように頭をかこうとして、髪をきれいに撫でつけていることを思い出し、その手を下ろした。

 しかしタッシ氏がここまで怯える気持ちも、ルカにはよくわかっていた。自分もそうだったからだ。初めて夜会に参加したときはほとんど前を見ずにべロム伯爵の後ろをついて歩いていた。


「わかりました」


 ルカは言った。


「それじゃタッシさんはここにいてください。俺……じゃなかった、私はひと仕事やってきます。タッシさんはもしお知り合いがいたらぜひ話しかけてくださいね、きっと安心しますから」


 ルカの言葉に、タッシ氏は心からほっとしたような顔になって「ありがとう」を何度も何度も繰り返した。

 上司に見送られて、ルカはよしと気合を入れてホールの真ん中の方へ繰りだした。


 今日来た一番の目的は、コッラット家のために仕入れ先を増やすこと。先ほど邸の主人から教えてもらったヴィルチス商会とアグアス家に話しかけよう。もともと目星をつけていたいくつかの商会もある。全てうまくいくとは限らないが、影からタッシ氏が見守っているので、やることはやらなければならない。

 ルカはまず、ヴィルチス商会のワインが置いてあるテーブルに向かった。

 テーブルにはたくさんのワイングラスが置いてあり、誰でも試飲できるようになっている。テーブルのそばにはその所有者が立っていて、直接取引できるようになっていた。何人かの紳士がテーブルの周りに集まっている。

 ルカもその中に混じってグラスを手に取った。ええと、まずは匂いを嗅いで、色を見るんだったな、それからちょっとだけ飲むんだったっけ。

 ルカは上司ほどワインに関して詳しくはない。だから試飲するときは必ずメモを取るようにしていた。

 今回のヴィルチスのワインもひと口飲むと、上着から紙の束を取り出してワインの特徴をできるだけ言葉に書き出す。

 しかし、その後ルカがヴィルチス商会の主人のもとへ行って話しかけようとすると、商会の主はあからさまに彼に背を向けた。あれ?


「失礼、ヴィルチス様。ワインのことで少々お伺いしたいのですが」


 ルカが丁寧な物腰でそう声をかけたが、ヴィルチス商会の会長はまるでなにも聞こえていないかのようだ。もしかして耳が遠いのかと一瞬考えたが、ルカの後から声をかけた貴族らしい紳士には「おお、これはゴルフ伯爵。今年は良い葡萄ですよ」と対応している。

 あーはいはい。お客はお貴族様だけで、俺なんかは相手にしねえってことか。さすが、社交界だな。

 ルカは小さく肩をすくめるとヴィルチス商会のテーブルを去った。


 次にルカはアグアス家のテーブルに向かった。アグアス家は公爵家である。ワインのラベルにもでかでかと“公爵家アグアス”と貼られているので、ルカは少し警戒してテーブルに近づいたが、こちらは先ほどとは雲泥の差であった。


「やあやあこんばんは。うちのワインに興味がおありかな」


 灰色の髪に灰色の髭を口元に蓄えている男が気さくに話しかけてきた。アグアス家の人間だろうか。

 ルカは「こんばんは」と丁寧に頭を下げた。


「ベルセルク邸の主人がこちらのワインをぜひとおっしゃっておられたので。試飲してもよろしいでしょうか」


「もちろんだよ、飲んでみたまえ」


 ルカはグラスを受け取った。さて、ここからが大変だ。あまりワインの知識はないので下手なことは言えない。ただ口に含むと、さっき飲んだヴィルチス商会のワインとはなにか違うなと感じた。


「これは……なんというか、華やかですね。ここではないところで飲んだワインは渋みがありましたけど、こちらはもっと……」


「花のような香りがするだろう、それも甘ったるくないから飲んだ後もすっきりしているはずだ。その一方で重くないから、肉料理ではなくオリーブなんかと合うようになっている。私の領地では女性に人気だ」


 特徴を次々と述べてくれる紳士に、ルカは「あ、ちょっとお待ちを」と慌ててメモの紙に書き込む。こういう情報は貴重だ。


「ほう、私の戯言をわざわざ書いてくれるのかい、嬉しいねえ」


「あ、いやこれは……その、恥ずかしながら、私が覚えられないので」


 紳士は「ははは」と笑った。


「仕事熱心な正直者でよろしい。君はどこから来たね?」


「ポレンタです、ご存知でしょうか。タッシ商会と言います」


 紳士は「あー知らんな」と最初は言ったが、考えるように眉を寄せた。


「いや……待てよ、タッシ? タッシ……確か、軍部にそういう名前の男がいたな」


 ルカはおやと思った。


「もしやグイド大尉をご存知ですか」


「おお、そうだそうだ! グイド・タッシ、大尉だったなーー何度か会ったことがあるが、すると奴は商会も持っているのか?」


「いいえ、グイド大尉の弟さんが商会の会長をやっています。小さな商会ですが」


「ほう、弟だったか。まあ、あの男は商人という柄ではないな」


 紳士は納得したように頷き、ルカも全くその通りだと心の中で頷いた。


「君はそこの従業員なんだね、名前を伺ってもよろしいか……私はアグアス家当主、フラビオ・ドン・アグアスだ」


 うわ、公爵本人だったのかよ! ルカは慌てて高位貴族に向けた礼節を取った。


「これは……当主様でしたか。大変失礼いたしました、私はルカ・シャレロワと申します」


 胸に手を当ててお辞儀する礼儀正しい青年に、アグアス公爵は「ほほう」と笑みを浮かべた。


「これはこれはご丁寧に。だが、形式張らんでも良い。私にとっては君は客だ。これからはぜひうちのワインをよろしく頼むよ」


 公爵が手を差し出したのに、ルカは笑みを浮かべて握り返した。


「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」



 アグアス家との契約を取りつけた後、ルカは事前に目星をつけていた商会のテーブルに向かった。

 一つ目のボーヌ商会は、無視こそしなかったもののルカを見ると客にしたくないような態度を示したので、早々にそのテーブルを立ち去った。

 二つ目のトルファン商会と三つ目のロータ商会は隣同士のテーブルで、商会の会長が友人同士らしかった。彼らはまだ若く、ルカよりも一回りほど歳上のように見える。人当たりも良さそうだった。

 この二つの商会については事前に値段も調べていたので、ルカは具体的な商談をすることができた。


「へえ、わざわざ調べてきてくれたのかい、嬉しいね」


「こいつのとうちのは比較的安価だから、相手にしてくれる人間がいるかわからなくて、ここに来るか迷ったんだ。君が来てくれてよかったよ」


 ロータ商会の会長はルカに少し近づくと、小声で冗談めかして言った。


「君ももしかしたら経験したかもしれないけど、お高くとまってる連中がいるんだ。ヴィルチスなんか、品出しのとき俺たちに挨拶もしなかったんだぜ」


 ルカは苦笑いを浮かべた。庶民派はみんな同じ目に合っているわけか。


「ま、今回はアグアスのおっさんみたいに珍しく親切なお貴族もいるけどな」


 トルファン商会の若い会長が大きい声でそんなことを言うので、「ばか、声がでかい」と友人に頭を叩かれている。


「それにしても君、シャレロワと言ったね。偶然にもあの人と同じじゃないか」


「あの人?」


 ロータの会長は「ああ」と頷いて上の階を見上げた。


「離島組の人だよ、ほらあそこの。大陸じゃなくて島に畑持ってる連中はみんな2階なんだ。離島組に、確かシャレロワって名前の商人がいたなって思ってさ」


 ルカは上を見上げた。そして、手すりの向こうに見えた姿に、ルカはあっと叫びそうになった。


 紛れもなくリーズがそこにいた。


 クリーム色のドレスを着て美しく髪を飾り、集まっている貴族たちを相手に談笑している。皆ワイングラスを手に話し込み、リーズも楽しそうに笑っているようだった。


 一緒になって上を見上げていたトルファン商会の会長が「しかしまあ、あっちは別世界だよなあ」と言った。


「え……別世界?」


「離島のワインはひと味違うっていうからな。そもそも値段がばか高いだろ。2階の商品は桁が違うし、客層も貴族ばっかりなんだ。ヴィルチスだって気取ってるけど、上の連中と比べたら俺たちの方に近いんだぜ。あ、アグアス公爵は例外な」


 ロータの会長がそう言ったのを聞いて、ルカは再びリーズの方を見上げた。

 シャンデリアに近いからか、彼女たちの方に光がきらきらと反射している。華やかなその様子は、まるで金の額縁にはめられた美しい絵のようだった。


 ルカはこのとき突然、自分とリーズの距離が恐ろしく離れているように感じた。まるで幾重もの壁に阻まれているような、あるいは谷底から山の頂上を見上げているような、そんな距離だった。

 確かに、今から階段を駆け上がって彼女に声をかけるなんてことは、間違ってもできそうにない。おかしい、こんなに遠かっただろうか。

 初めて会ったときから存在していた距離だ。だが前はもっと、ずっと、近かった。

 一緒に夜会で踊ったのに。劇場のロビーで長いこと話をしたのに。下宿の食堂で向かい合って食事をしたのに。雨の中、二人で一つの傘をさして歩いたのに。

 ルカには、あのときの彼女がもう完全に過去のものになってしまったように感じた。これがほんとうの俺たちの距離か。

 そう思うと、もう上を見上げることはできなくなっていた。首が動かなかった。



 ルカが壁際に置いてきた上司の元へ戻ると、青い顔をして縮こまっていたはずのタッシ会長が、一人の紳士と楽しそうに話し込んでいるようだった。


「おお、ルカ君!」


 青年の存在に気づいたタッシ氏がこちらに向かって手を挙げた。

 ルカが彼の方に歩み寄る。


「新しい仕入れ先は3件、契約済みとなりました」


 タッシ氏は目を細め、拝むように「ありがとう」と言った。


「君のおかげでほんとうに助かったよ……こちらは私の旧友のコールテンだ。コールテン、彼が私の有能な部下ルカ・シャレロワ君だ」


 紹介を受けたルカは「はじめまして」と上司の友人に丁寧に頭を下げた。

 コールテンという名の男は、タッシ氏と同じ歳くらいで、見るからに上等なスーツを着ているが、ひょうきんな雰囲気をまとっている。


「はじめまして、コールテンだ。シルヴィオの部下にしちゃ、ずいぶんスマートで礼儀正しいじゃないか」


 タッシ氏は咳払いをした。


「私の部下だから、だろう。失礼な奴だな……コールテンは北西部に畑を持っているんだ。彼から新しい顧客の話をもらったよ。ブルジョワの家が2件だ」


「ブルジョワを2件も!?」


 ルカは目を丸くしてタッシ氏を見た。この人、弱気なときはぽんこつだけど、やっぱりなんだかんだ人脈と実力あるよな。


「シルヴィオには昔から貸しがあるからな。2家とも近いうちにポレンタに引っ越すって言ってたから、私からお前の商会については伝えておくよ……それにしても、ルカ・シャレロワ君、だったかな? もしかして今日来てるシャレロワ商会の親戚かい?」


 コールテン氏の問いに、ルカは息をぐっと飲んで押し黙ってしまった。

 代わりにタッシ氏が「えっ、シャレロワ商会が来てるって?」と驚いた声を出した。


「親戚とかではないけど、でも確か、シャレロワ商会はルカ君の……」


「違います」


 急に青年の声の温度が下がったのに、タッシ氏とコールテン氏はびくっとして彼を見た。

 ルカは自分でも気づかないくらいに低い声になっていた。


「親戚でもなんでもありません。たまたま姓が同じなだけです」


 青年の突然の突き放したような言い方に、タッシ氏は目を瞬かせた。あれ、前は仲の良い友人だとか何とか言ってたなかったかな。

 明らかに雰囲気の変わった部下に、タッシ氏は恐る恐る言った。


「ル、ルカ君、どうかしたの……?」


「その……私がなにか、失礼なことを言ったかな」


 中年の男二人が彼の顔色を伺うように尋ねる。すぐにルカは「はっ」と我に返った。


「いえ、その…………申し訳ありません。タッシさん、私は気分が優れないので、会場の外におります。コールテン様、失礼いたします」


 丁寧に挨拶をしてから身を翻して去っていく青年に、タッシ氏とコールテン氏は不思議そうに顔を見合わせた。





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