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13. ザンキ女将の下宿

 財布も鞄もなく、腹を空かせたままですっかり疲弊したルカは、やっとのことで下宿先に辿り着いた。

 あまり高級感のない、小汚い建物“ザンキ女将の下宿”である。


 タッシ商会で紹介された下宿のうち、ルカは一番安かったここを選んだ。他にも良さそうな下宿はあったが、同僚がいるところは避けたかったし、きれいすぎても嫌だった。自分の性にあった肩のこらない空間の方がよかったのだ。



 帰ってきたルカは建物の玄関扉に鍵を入れ、ガチャガチャと開けようとした。すると内側から鍵が開けられ、勢いよく扉が開けられた。


「ああっ旦那! やあっと帰ってきたね!」


 珍しく出迎えてくれたのは、ザンキというこの下宿先の女将だ。

 ルカは目をぱちくりさせた。


「な、なんだよ突然……ザンキさん、悪いけど俺、腹減って死にそうだから何か食べれるもんあったら……」


「それどころじゃないんだよっ!」


 女将は怖い形相でルカに詰め寄るように言った。


「あんたを訪ねて女が来てるんだよ、どうしてもあんたに会わせてほしいって食堂のテーブルでじっと待ってんのさ、三時間もだよ! あたしゃ三回もお茶を換えたよ」


「はあ? 女? 娼婦なら断ってくれって……」


「それがどうも違うんだ、服装もきちっとしてるし、態度もまるでどこかのお嬢さんみたいなんだよ。それに、ここいらで泊まれる宿屋はあるかって聞いてきたんだ、まあうちにしときなって言ったんだけどね……それでそうそう! 彼女の名前にびっくりしたんだよ、あんたとおんなじ姓なんだ! あんた天涯孤独だって言ってただろ? 一体どういう……」


 ルカは女将の言葉を最後まで聞いていられなかった。俺と同じ姓? そんなまさか。

 ルカは女将を押し除けてロビーの中に入り、バタバタと急ぎ足でまっすぐ奥の食堂へ向かう。そしてバンッと扉を開けた。


 その大きな音で、椅子に座って俯いていた客が、はっとこちらに顔を向ける。

 ルカはいつも頭に思い浮かべていた人物の姿に、目を見開き、息をのんだ。


「え、リリリ、リーズ……!?」


 信じられずにどもってしまう。名を呼ばれた彼女は満面の笑みを浮かべた。


「ルカ!」


 そう叫ぶなり、彼女は青年の方へ駆け寄ってくると迷わずに両腕を彼の首に回した。ふんわりと彼女の匂いに包まれる。そのことにルカは胸がじんわりと温かくなるのを感じたが、「おやおやまあまあ」と言った女将の声が後ろから聞こえたので、ひとまず後ろ手で食堂の扉を閉めた。


 しばらく抱擁していたが、リーズが我に返ったのか少ししてから恥ずかしそうに「あの、ごめんなさい、会えてとっても嬉しかったの」と言いながら身体を離した。

 その赤らめた顔に、ルカは胸がぎゅっと苦しくなった。なんだこれ。前に会っていたときはこんなことなかったのにと思いながら、ルカは「と、とにかく座ろうぜ」とリーズを椅子の方へ促した。




「ええっと……それで、リーズ」


 ルカはリーズの前に腰かけながら言った。


「なんで急に、こんなところに……いや、そうじゃねえ、ええと、その、返事もくれなかったのに、いや、そ、その、て、手紙は読んでくれたのか?」


 迷ったあげくに無難な質問に変えると、リーズは眉尻を下げて微笑んだ。


「読んだわ。素敵なお手紙でほんとうに嬉しかった。すぐに返事を書こうとしたわ……でも書けなかったの」


「書けなかった? なぜ……あ、怪我でもしたのか!?」


 リーズは首を振った。


「いいえ、そうじゃないの。うまく文章にできなかったのよ。言いたいことはたくさんあるのに、手紙に収めることがどうしても無理だったの。ずっと返事を書けずにいた。二週間そうしていたら、姉が“直接会いに行けばいい”と言ったわ。会えば言いたいことも全部言えるって。それで、知らせもなくこうして押しかけることになったの……突然でほんとうにごめんなさい」


 ルカは目を丸くさせた。手紙に書けねえからわざわざ直接会いに来たのか? 国境を越えるくらい離れてるってのに?

 そのとき、女将がガチャリと扉を開けて食堂に入ってきた。新しく淹れなおしたお茶と、ルカの夕飯であるソーセージとパン、チーズをテーブルに置く。


「ありがとうございます」


 リーズがお礼を言うと、女将は不器用な愛想笑いを浮かべて「いやいや」と返した。下宿の主はその後もぐずぐずとその場に留まって二人の会話を聞きたそうにしていたが、ルカが「ザンキさん、どうもありがとう」と言って食堂から追い出してしまった。


 ルカは「ええと……手紙を書けなかったから、こっちまで来たって?」と確かめるように復唱しながら席に戻った。

 リーズは頷いた。


「ええ。でも会ってみてわかったわ、私、ほんとうは手紙よりなにより、あなたにこうして会いたかったんだわ。あなたの顔を見ることができて、ほんとうに嬉しいもの」


 リーズがにっこりと微笑んで言うと、ルカはまた心臓が苦しくなるのを感じた。なんだこれ。

 ルカは咳払いをすると彼女から目を逸らそうとして目の前の食事に目を移したが、腹をすかせていることを思い出し、すぐにリーズに視線を戻した。


「お、俺、あんたからの返事が来ねえもんだから、もうあんたが俺のこと忘れちゃってるって思ってたんだぜ。あんたなら手紙の返事は一週間もしねえうちに返すって思ってた。まさかこんな風に会いに来てくれるなんざ思いもしなかっ……」


 そのとき、ルカのお腹がまるで地鳴りのように盛大に鳴った。ルカは耳まで真っ赤になったが、リーズははっと気づいたような表情を浮かべた。


「ごめんなさい。遅くまでお仕事してきたのよね、食べてからにしましょう。私はお茶をいただくわ」


 ルカは恥ずかしそうに頷いてから「ごめん」と言うと、目の前の皿にあるソーセージにかぶりついた。




 腹が減っていたので、ルカは女将が用意してくれた食事をただがつがつとむさぼるようにして食べた。

 ルカは、もしかして食べ方が下品だとリーズに嫌な顔をされるかもしれないと思ったが、彼女は気にする様子もなく彼に微笑みかけながら話を続けた。


「手紙に書いてあった住所を頼りにここまで来たの。マジェントという町で列車を乗り換えたんだけど、そこまでは姉がついてきてくれたわ。姉は楽譜を買いに音楽好きの友人とよく通っているらしくて……ああそうそう、ジョゼフィーヌ様を覚えてる? 彼女から手紙が届いたのよ。旅行を終えてから今は亡きお母様のご親戚の家に居らっしゃるみたい。社交界には出ていないけど、オペラは観にいくみたいで、不自由なく暮らしているそうよ」


 パンを咀嚼しながらルカは頷いた。ジョゼフィーヌーーギュイヤール男爵令嬢か、懐かしいな。

 ルカはかつての婚約者になるはずだった人物を思い浮かべた。彼女も新聞を読んだのなら、ルカが腹違いの兄に当たるのだということも知っただろう……本人は認めたくないだろうが。


 ようやく腹が満たされて、ルカはふうと息を吐いた。


「……あんたが俺のことを忘れてなくてよかったよ。手紙には恥ずかしいことばっかり書いちまったから」


「忘れるわけないわよ。手紙が来るまで毎日あなたの幸せを祈っていたわ……良いところで働いているみたいね」


「紳士のふりしてるから、同僚たちとは馴染めねえけどな。真面目に仕事してるよ……商会の事務所勤めなんて自分でもびっくりだ」


 ルカが肩をすくめて言うと、リーズは笑みを浮かべた。


「ルカはなんでもできるのよ。ダンスだって最初はあんなに嫌そうにしてたのに、すぐにうまくなったもの。真面目に仕事をするって、なかなか難しいことなのにすごいわ」


 リーズが言う言葉はルカをくすぐったい気持ちにする。

 ルカはへらっと笑って言った。


「あんたはいつも俺に甘いな。だが勝手に名前を使われたことに関しちゃ、さすがの聖女様も怒ったはずだ……あんた、ザンキの女将に名を名乗ったとき、びっくりされただろ。あんたの方が本名なのに」


「そうね、手紙で“シャレロワという姓を使う”と読んだときは驚いたわ」


 リーズは言った。


「でも怒ったりなんてしないわよ。言ったでしょう、私はあなたが好きなんだから。嬉しいに決まってるわ」


 ルカは瞳を揺らしたが、同時に後ろの食堂の扉の奥から「ええっ!?」という声が聞こえた。

 ルカはむっと口を引き結んで立ち上がると、ずんずんと出口に近づいて勢いよく扉を開けた。

 そしていたずらがばれたような表情をしてそこに立っている女将に言った。


「盗み聞きは悪趣味だぜ」


「わわ、わかってるよ! あたしゃその……ほら、旦那が食べ終わったかと思って皿を下げにきたのさ」


 女将の言い訳に、ルカは仏頂面を浮かべたままテーブルの空になった皿を引っつかむと彼女に渡した。


「うまかった、ありがとう。けど、頼むから邪魔すんな。俺たちの会話も聞くな。必要があったら呼ぶ」


 ルカの有無を言わせない低い声は迫力があった。普段は青年に強気の女将もこのときばかりは「わ、わかったよ」と小さく返事をすると空の食器を持って行ってしまった。


 ルカはその後ろ姿にため息を吐くと扉を閉めてリーズの前の席に戻った。

 リーズはその様子にくすくす笑った。


「そんなに怒らなくてもいいじゃない。あなたの怒った顔、初めてみたわ。怖いのね」


 ルカは眉をぐっと寄せてなんとも言えない顔をして「からかうない」と言った。


「話を戻すけどよ。その、さ、前にも言ってくれただろ……それでちょっと考えたんだけど、あんたが俺を好いてくれてても……俺は、その、ごめん、どうしたらいいかわかんねえ」


 ルカに素直に好意を伝えてくるのは、実は人生でリーズが初めてだった。

 貴族の令嬢たちが彼の周りに集まっていたのは爵位と財産目当てであることは明らかであったし、これまで一緒にいた路地裏の連中はもちろん、友人だったトマからでさえも「好き」だなんて言われたことはなかった。いや、トマの場合は互いに心でわかっていた部分もあったが、特段言う必要のないことだった。

 だから初めてリーズからの好意を知ったとき、ルカは戸惑うばかりだった。なんだか急に自分の外面も内面もすべて見られているような気がして、それがひどく恥ずかしく感じるのだ。


 言いにくそうにしているルカを見て、リーズは目をぱちくりさせてからふふっと笑った。


「わかってるわ、別にどうもしなくていいのよ」


「えっ」


「変なことを言ってごめんなさい。でも、あなたにも私を好きになってほしいとか、他の女の人を好きにならないでほしいとかそういうことを言うつもりはないの。ただこうして私と会って話をしてくれるなら、それでいいのよ」


 ルカはほっとした表情を浮かべて「そうか、そんならよかった」と言った。

 彼のそんな様子を、リーズは穏やかであるが少し寂しそうな表情を浮かべて見ていた。


「……そうそう、シャレロワの名前のことだけど、ぜひ使ってくれと父が言っていたわ」


「えっ!」


「商人として少しでも知名度を上げたいらしいの。国境を越えた地でも名前が広がるに越したことはないからよろしく頼む、ですって」


 ルカはぽかんとした表情で驚いた後で「よ、よろしく頼むって……は、はは……」と笑いが浮かんだ。


「そんじゃ、リーズの親父さんの売ってるワインをうちの商会に教えなきゃならねえな……なるほど、名前を勝手に使われたことに怒るどころか逆手に取るたあ、さすが商売上手だぜ」


「単に抜け目ないだけよ……ねえ、あなたのこと聞かせて。どういう経緯でその商会で働くことになったのか知りたいわ」


 興味津々で尋ねるリーズに、ルカは照れたように頭をかくと「つまんないぜ」と言ってティーポリの酒場での出来事やタッシ大尉のこと、そしてその後仕事のことを話した。



「……それじゃあ、そのグイド・タッシという軍人さんの弟シルヴィオさんのところで今働いているのね」


 ルカは「そうさ」と頷いた。


「発送とか経理とかいろいろ手伝ったりするけど、顧客相手に手紙を書くのが主に俺の仕事だ。字のうまさも言葉の使い方も認めてもらえた。給料も良いし、死にかけたりしねえし、誰かを騙したりなんかもしねえ。信じられねえって思えるほどに穏やかなんだぜ」


 得意そうに言ったルカに、リーズは目を細めて微笑んだ。


「そう、素敵ね。お客さんに手紙を……なんだかそれって……」


 言いかけて、リーズはテーブルに目をやって口をつぐんだ。


「それって、なんだよ」


 ルカが尋ねると、リーズは迷いながら答えた。


「その、読み書きはベロム伯爵が家庭教師を用意して身に付けることができたんでしょう? もしかして……もしかしてあの人はあなたの過去の埋め合わせをしたかったのではと思ったの」


 ルカは眉をひそめた。


「過去の埋め合わせ?」


「ええ。もしあなたを産んだミレイユさんが身投げしなければ、あなたは伯爵の孫としての教育を受けていたかもしれないでしょう……もちろん伯爵は、確かにあなたを憎んでいたわ。娘の仇の子として、生きていること自体疎ましく思っていたかもしれない。でもーーどこかであなたを気の毒に思う心があったのかも。そうでなければあなたの人生に役に立つようなことを仕込んだりしないわ。もちろん、あの人自身は否定するでしょうけど」


 あの伯爵が俺のためを思っていたって? ルカはリーズの話に、そんなばかなと否定しようとした。だが笑い声をあげようとしても、わずかでもそうであることを願う自分がいて、笑うことができなかった。

 しかし、あの恐ろしい目つきでこちらを射殺さんばかりに睨んでくる伯爵の姿を思い出せば、そんなことは全く想像できない。


「……確かにあの男は牢獄から出してくれたし、衣食住だって、知識だってくれた。けど、俺はいつだってあの男の奴隷だ。たぶん今でもあいつに会ったら俺はびくびくしっぱなしになる。家族だってことも真っ向から否定されちまったしな。前にも言ったけど、あんたのおかげで俺は今ここでこうして生きてるんだ。あんたがいなきゃ確実にあの男に殺されてた。でも……」


 ルカはリーズに笑みを浮かべた。


「あんたのそういう考え方は好きだぜ。あの男にも人間の心があったかもしれねえって思えるからな……あっ、そうか。そういえばあんたはあの男を平手ではりたおしたんだったな」


 ルカの言葉に、リーズは思わず「ちょ、ちょっと!」と立ち上がりそうになりながら言った。


「そんなどうでもいいこと思い出さなくていいわよ。それにはりたおしてません」


「国境を越えてこんな遠いところまで怖がりもせずによく辿り着いたなって感心してたけど、そうか、リーズは強いんだったな。怖い伯爵も黙るリーズ様々だぜ」


「ルカ!」


 リーズが赤い顔で大きな声をあげたのに、青年は「へへっ」と笑った。


「そういえばさっきザンキの女将から聞いたけど、宿屋に泊まるつもりか? 冗談は抜きにして、この辺りの宿屋はあんた一人じゃちょっと危ねえぞ」


「そうなの?」


 リーズはきょとんとした表情を浮かべた。


「下が食堂みたいで上が宿屋になっているお店は、ここに来るまでいくつも見かけたわ。女性ばかりで、怖い人たちもいないようだったけど」


 ルカは「げっ」と声を上げた。


「そりゃ娼館だ、どこ通ってきたんだよ全く……!」


「そんなのわからないわ、それに日がまだ高かったから平気よ」


「平気よって……あんた、やっぱりどこか箱入りだよなあ」


 ルカは呆れたような、心配そうな声を出した。


「仕方ねえ、女将に空き部屋を貸してもらおう。質は悪りいが値段はばか高いわけじゃねえんだ、ここは」


 ルカはそう言うと席を立って、食堂の扉を開けた。と、またしてもすぐ目の前に女将の姿があった。どうやらこちらに耳を向けていたようである。

 ルカはぎゅんと眉を寄せた。


「……ザンキさん?」


 ルカの低い声に、女将はまたもやいたずらがばれたような顔をしたが「ち、違うんだよ」と慌てたように言った。


「そ、その、お嬢さんはここに泊まるんだろ? 空き部屋を掃除しといたからって言いにきたんだよ、ほ、ほら鍵も持ってきた!」


 やっぱり盗み聞きしてやがったのか。ルカは不服そうに、ちゃりちゃりと鍵を振り回す女将を睨みつけたが、それを食堂から聞いていたリーズが「まあ、ほんとうですか!」と立ち上がってこちらに駆け寄ってきた。


「ありがとうございます、ではお世話になります」


 律儀に頭を下げたリーズに、女将は「はいはい、よろしく」とにこにこと笑みを浮かべた。


「ザンキさん、ふんだくるなよ」


 ルカがじとっとした目で言ったのに女将はふんと鼻を鳴らして「わかってるよ」言ってからリーズの方には笑顔を向けた。


「それであんた、どれくらいここに居るつもりなんだい?」


「あ……その、できれば、一週間ほどいいかしら……もし、ルカが良いって言ってくれるのなら」


 リーズがちらりと青年の方を見るので、女将も彼のほうを見る。

 ルカは目をぱちくりさせながら「え、お、俺? 俺は別に……かまわねえけど」と答えた。


「よし、じゃあ一週間だね。朝食と夕食込みでこの値段だ、確認しとくれ」


 女将が差し出した紙をリーズは受け取る。ルカもそれを覗き込んで値段を確認した。


「もうちょっと安くならねえのか」


「うるさいねえ! あたしはお嬢さんと話してんだよ」


「だって値段のわりに、夕食が手抜きだったりするじゃねえか」


「なんだって!?」


 二人がガチャガチャ言い始めた横でリーズは言った。


「ルカ、大丈夫よ。知らないホテルに泊まるよりずっといいわ。女将さん、よろしくお願いします。先ほどのお茶も美味しかったですわ」


 それを聞くと女将はにこにこした顔になって「おやそうかい」と言うと、食堂に入ってリーズの旅行鞄を持ち上げた。


「ついてきな、部屋まで案内してやるから」


 そのまま女将に続いてリーズとルカは3階へ上がった。

 階段は暗く、登るたびにギィギィと音が鳴った。


 辿り着いた部屋の燭台には火が灯されていた。部屋の奥の窓辺には小さな机と椅子が見える。壁には大きな洋服ダンスが置かれてあり、その脇にベッドがあった。装飾は少なく、至ってシンプルな部屋だ。

 女将は中へ入るとベッドの前に鞄を置いた。


「一応さっきベッドに新しいシーツを被せておいたよ。定期的に掃除はしてるけど、あんたが来たのはいきなりだったからまだ汚れてるところもある」


 リーズが頷こうとすると、後ろから部屋を見たルカが「埃だらけじゃねえか」と言った。


「旦那、あんたなんでついてきたんだい? 若い娘の部屋なんか覗くもんじゃないよ」


 女将がわめくように言うと、ルカは舌を出した。リーズはふふっと笑って言った。


「いいんです、ザンキさん。ルカは大事な友人ですから。私の心配をしてくれているの。シーツを用意してくださってありがとうございます。部屋の掃除は明日自分でやりますから大丈夫です」


 リーズはそう言って女将から鍵を受け取った。ルカはそれを見ながら、彼女を埃まみれのベッドに寝かせるくらいなら、今夜だけ自分のベッドを譲ってやろうかと思った。だが自分の部屋が恐ろしく散らかっていることを思い出し、すぐにその考えを打ち消した。


「朝食は食堂に下りてきたら用意してあげよう……なにかあったら大声をあげるんだよ、鍵はかけて眠ること、いいね?」


 女将はそう言ってリーズが頷くのを見ると、ルカの方に牽制するような視線をやってから階下に下りていった。

それを見送ってからルカが鼻を鳴らした。


「ったくあの女将、俺のことなんだと思ってんだよ」


 リーズは「良い人ね」と微笑んでから中に入ろうとして、足を止めた。そして迷いながら問いかける。


「……ねえ、ルカ。私が一週間もここにいると聞いて、怒ってない?」


「怒る? なんでだよ」


 ルカはきょとんとした表情を浮かべた。リーズはそれをじっと見つめていたが、やがて首を振った。


「いいえ、なんでもないの……明日は朝からお仕事なのでしょう? その、夜はまた会えるかしら」


「う、うん。朝は早いけど、夜は今日みてえには遅くならねえはずだから、もうちょっと早く帰るつもりだ。一緒に夕飯は食えるかもな」


 リーズはその答えに「うわあ、よかった!」と嬉しそうに笑みを浮かべた。


「それじゃあまた明日ね。お勤めがんばってください……おやすみ、ルカ」


「お、おやすみ」


 そう言ってパタンと閉じた扉を、ルカはしばらく見つめた。


 ルカは戸惑っていた。なぜ彼女はそんなにも自分に会いたがるのだろうか。会ってなにか得があるわけでもないのに。しかも一週間もここにいるらしい……自分に会うために。おそらく理由は「ルカを好きだから」だろう。

 ルカは頭をばりばりかきながら階段を下りた。



 ルカは自室に入ると、上着を脱いで鞄の中を探ろうとしてーー鞄と財布は街中にいた少年にあげてしまったことを、今になって思い出した。

 あれからあいつはどうしたかな。あれでパンでも買っただろうか、それとも服を買ったか。いや、違うなとルカは思った。いくら服がぼろぼろでも着れるものであればなんでもよかったと、かつての自分の感覚を思い浮かべる。金を手に入れたらまずは空腹を満たすはずだーーそれとも、あの少年にも病気の友人がいたりするんだろうか。


 ルカはそんなことを思いながら、机の下の金庫を開けて、入れていたお金を取り出した。自分が前から貯めている貯金だ。

 かつてカードのいかさまで儲けたときの金はすぐに散財してしまっていたが、この町に来て真面目に働いて得た金はこうして貯めておきたいと思っていた。

 ルカは金庫から取り出したいくらかの金をベッドに並べてから上着に入れた。

 やっぱり鞄も財布もないと不便だな。明日仕事帰りにでも買うかと思ったとき、先ほどのリーズの顔が浮かんだ。

 そうだった、明日は早く帰ると彼女に約束したんだった。そう言ったときのリーズはほんとうに嬉しそうだった。

 ルカはまた頭をばりばりかいた。


 ルカにはわからなかった。彼女が自分を「好き」だということに対して、どうしてやったらいいのだろう。リーズはなにもしなくて良いと言ったが、彼女がわざわざ国境を越えて俺に会いにきたのだと思うと、なんだかむずがゆかった。

 やめだやめだ、明日は早い。早く寝てしまって先のことは後で考えよう。ルカはそう決めてベッドに横になった。





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