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12. まっとうに生きる

 

 ルカは商会事務所の机の上で、顧客のマンティーニ家宛ての手紙の封に上質な蝋を垂らしてゆっくりと慎重に閉じた。

 こうした作業は、近所にある酒場や食堂宛ての手紙には必要ないが、ブルジョワの屋敷に宛てた手紙には欠かせない。

 ルカの勤めるタッシ商会の得意先で必要なのは、マンティーニ家とヴァルツィーノ家だけだが、ルカがここで封に蝋を垂らした手紙はもう一通あった。

 リーズに手紙を送ってもうすぐひと月になる。


 彼女のことだからきっと一週間もしないうちに返事をくれるに違いない、そう思っていたのだが、次の週もそしてその次の週も、リーズからの返事はなかった。

 もしかして俺の手紙が届かなかったのだろうか。それともリーズが返事を送った後に何か問題があったのか。最初はそんな風に考えていたが、最近になるともうリーズは自分のことは忘れてしまったのかもしれないと思うようになった。稀にではあるが社交界に出ているのだから、良い人と出会った可能性もある。あるいはシャレロワの名前を勝手に使われて愛想を尽かしてしまったのかもしれない。

 ルカはそう諦めつつも、どこかで明日こそはと期待して毎日を過ごしていた。




「シャレロワ君、君は来ないかい?」


 突然話しかけられて、ルカははっと振り向いた。

 事務所の同僚たち男女数人が、出口の方に立っている。

 ルカはきょとんとした表情を浮かべた。


「食堂だよ、君も腹減っただろ。みんなと行かないかって話してたんだ。タッシ会長はまだ残るらしいけどね」


 そう言ってくれたのは、上司である専務のロイド・グルーニだ。自分よりもひと回りほど年嵩である彼はいつもこうして声をかけてくれる。

 ルカは小さな声で「いえ……私は」と首を振った。


「そうか、まあ気が向いたら来いよ」


「ちょっとロイドさん、早く行きますよ」


「ほらほら」


 彼は部下たちに引っ張られて、事務所を出ていった。

 扉の向こうから「ロイドさん、なんであの人誘うんですか」「そうですよ、シャレロワさんは誘ったって一度も来たことないんですから」などという声が聞こえてきたのに、ルカはふっと苦笑いを浮かべた。



 この商会に入るとき、ルカは“紳士”の姿であろうと努めた。

 あの酒場で会ったグイド・タッシ大尉の言った通り、舞踏会のときのような貴公子のふりとまではいかないが、商会の皆には丁寧な物腰で接しており、ルカ自身もその方が良いと思っていた。普段のような粗野な態度を出せば、育ちを問いただされてクビになるかもしれない。せっかく新しい生活に馴染んできたところだ、それは避けたかった。

 だからルカはあまり彼らと深く接しないようにしていた。一緒に酒など飲んでしまえば、ボロが出て態度を崩してしまうに違いない。

 商会の会長であるシルヴィオ・タッシや、その補佐をしている専務のロイド・グルーニはただ真面目に黙々と仕事をする青年に好感を持ってくれていたが、同僚たちはルカの態度をお高く止まった気取り屋と判断した。

 前にルカが出先から戻ったとき、事務所内で彼らがこっそり自分の話をしているのを聞いたことがある。「いつも一緒に食事をしようとしない」というのはよく聞くが、「きっと没落した貴族なんだ」というのには笑ってしまった。

 まあ、路地裏で泥を啜って生きてきた詐欺師よりずっとましかとルカは思った。



 ルカは帰りの支度を済ますと、会長室の扉を叩いた。


「はーい」


 返事がしたのでルカは扉を開けた。


「タッシさん、私もそろそろ帰りま……どうかなさったんですか?」


 開けた先で大きめの机に座っていたシルヴィオ・タッシは、軍人の兄に似た顔をぐっと歪めて書類を睨んでいた。


「明日までに用意しなきゃいけない注文があるのに、今気づいたんだ……しかも念願の新しいブルジョワの注文だ」


「えっ、それじゃコッラット家の案件、うまくいったんですね」


「今すぐおじゃんになりそうだがな……私のばか野郎、ちくしょうめ」


 ルカは「失礼します」と言って机の上の注文表を見た。ワイン、二種類それぞれ12本ずつ。二種とも品質の高いものだが、そこまで大量というわけではない。


「仕入れが済んでいないんですか」


「揃っているのは一種類だけだ。もう一種の方がうちに届くのはたぶん来週だ……明日お届けの予定なのに。ああ、もうだめだ」


 タッシ氏は黒い髪をばりばりとかきながらうわああと絶望的な声をあげている。

 ルカは揃っていない種のワインのことを考えた。味はあまりわからないが、どれが高級と言われ人気があるのか、どのような味が好まれているのかという傾向はこの3ヶ月で学んできた。あとは顧客の信用を保つことができるかだ。

 ルカは少し考えてから「タッシさん、こういうのはどうでしょう」と言った。


「揃えた種類のワインと一緒に、別のワインをお届けするんです。確か今、うちの倉庫には似たような味のロト産のワインが12本ありますよね。品質と値段は同じか、ロト産の方が上だったと思います。それを代わりにお出ししましょう。期限は明日ですから必ずワインはお届けしなければなりません……そしてもちろん、こちらの手違いですからワインの金額は一種類分だけいただくんです。ロト産ワイン12本分の損失となるとこちらには痛手ですが、それでコッラット家の信用を得られますし、これからの繋がりも伸びます」


 これは、ルカが詐欺をやっていたときの手口だった。相手を油断させるために最初にこちらが損失したように見せかける。そして向こうが信用したところを一気に畳みかけるようにして大金を奪うというやり方だ。もちろん今回の目的は大金をせしめるためのものではないが。

 ルカの話に、シルヴィオ・タッシは目を瞬かせて聞いていたが、「なんと、なんと……」と呟いてからルカの両手をぐっと握って言った。


「それでいこう! ロト産ワイン12本でコッラット家の信用が買えるのなら安いものだ……シャレロワ君、君は天才だ!」


 そう言って力強くぶんぶん手を振るので、ルカは身体ごと一緒に振り回されそうになった。


「よ、よかった。では、私は急いでコッラット家宛てにその内容の手紙を書きます」


「おおありがたい! 私は商品を詰めて運送の手配をしておこう……遅いのにすまないね」


 ルカは「とんでもありません」と笑みを浮かべてから会長室を出て自分の机に戻った。

 さて、夕飯どころではなくなったな。ルカは腹を鳴らしながら、片付けたばかりのインク壺と紙を取り出して文字を綴り始めた。




 ルカはコッラット家宛ての文章を考え、何度か書き直してやっと手紙を書き終えた。インクを乾かしていると、バタンと勢いよく事務所の扉が開いた。

 何事かとルカが顔を上げると、大きな腹を抱えた中年の女が入ってきた。眉を寄せ、怒った顔をしている。機嫌が悪いときの顔だ。


「これは……タッシ夫人」


 立ち上がったルカに、彼女は「あの人はまだ終わらないの?」とわめいた。

 その声を聞きつけたのか、奥の倉庫の方からガタガタと音を響かせて、タッシ氏が慌てて事務所に戻ってきた。


「イリーナ! 来なくていいのに!」


「あんたが身重の妻を放っていつまでたっても仕事してるからよ! 全く私がいないとほんと要領が悪いわねえ。ほら帰るわよ」


「でもイリーナ、まだ明日までの注文の用意が……」


 夫がそう言いかけたのに、イリーナはギロリと鋭い目を向けた。まるで猛禽類だ。

 おっかねえおかみさんだな。ルカはそう思いながら「大丈夫ですよ」と申し出た。


「私がやっておきます、もう手紙も書き終わりました。タッシさんは奥さんとお帰りください」


「ほ、ほんとかい? 箱詰めは済んだから、あとは事務所の発送口に運んでもらえるかな。書いた手紙は受付に置いてくれたまえ。すまないねえ、事務所の鍵は今夜は君に任せるよ、ほんとうにありが……」


 タッシ氏はまだ話している最中のようだったが、妻に事務所から引っ張りだされていってしまった。


 ルカは「やれやれ」と呟いてから倉庫に向かった。

 安請け合いしたものの、ワイン24本が詰められた商品はルカにとっては相当重かった。いつもこういう仕事はタッシか、力自慢の同僚がやっていて、ルカの役目ではなかった。

 ふうふう言いながらやっとの思いで荷物を発送口まで運び終わると、ルカは椅子に座って息を吐いた。

 乱れた息を落ち着かせると、事務所内が静まり返っているのを感じる。同僚も会長もいない。

 ここには安いものから高級のものまでの大量のワインが置いてある。皆の給料が入っている金庫もあるし、高価な陶磁器の壺や置き物もある。

 今、もしルカがこれらをすべて持ち出して金に換えたなら、相当な金になるだろう。また町を移ればその金で新しいことができるかもしれない。詐欺、カード賭博の賭け金、いや贋金の材料にもなる。今日1日やっていたことがばかばかしくなるほどに、ルカは簡単に金を稼ぐ方法を知っているのだ。

 ルカは考えを巡らせた後、自分の机に戻った。そこにはコッラット家宛ての手紙が広げて置いてあるままになっていた。おっとそうだ、インクを乾かしていだんだ。

 ルカは反射的に机の前に座ると紙を丁寧に折り畳んだ。そして蝋を垂らして封をする。そうすると、やはり例の女の顔が思い浮かんだ。

 やっぱり、もう少しここで頑張ってみるか。きっと彼女は俺がまっとうな仕事をしていることを喜んでくれる。真面目に生きている俺をえらいと、返事で送ってくれるかもしれない。そうだ、明日こそはきっと彼女から返事の手紙が届く。

 そんな風に思った自分に、ルカは自嘲気味に笑ってまた「やれやれ」と呟いてから立ち上がった。そして書いたばかりの手紙を事務所受付に置くと、タッシ氏が置いた鍵で事務所を閉めた。



 ルカは空を見上げた。雲の切れ間に星と月が見える。すっかり遅くなってしまったとルカは足を早めたが、酒場の近くで立ち止まった。

 今日は疲れたから一杯やってから帰るのもいい。そう思い、ふらふらと入り口に近づいていったときだ。

 突然角からなにかが勢いよくドンッとぶつかってきた。不意打ちだったので、気づいたときには鞄を盗られていた。


「お、おいこらっ、待ちやがれ!」


 子どもだ。怒鳴りながら彼を追いかける。

 幸い気づくのが早かったのと、犯人が動きづらそうなぼろぼろの服を身にまとっていたため、すぐに彼の腕を捕まえることができた。10歳前後の少年だ。


「はなせ、はなしやがれっ!」


 少年はじたばたしながらそう言ったのに、ルカは小さく笑った。


「聞いたことある台詞だな」


「な、なにがだよう、悪かったよ! もうやらないって、離してくれよ!」


 手足を振り回してわめく少年に、ルカは言い聞かせるように言った。


「鞄を返すんだ、早く」


 少年は悔しそうにルカの鞄をドスッと地面に落とした。

 ルカは少年の腕を捕まえたまま鞄を拾うと片手で中身を確かめた。あるべきものがあることを確認すると、そのまま彼の手を離そうしてーーやめた。

 再び片手で鞄の中を探り、タッシ氏から預かった事務所の鍵と下宿先の鍵、そしてまだ何も書いていないメモ用の紙の束と買ったばかりのペンを取り出す。そしてそれらを上着のポケットに入れてしまうと、鞄を再び少年の腕に戻した。


「な、なにしてんの……なんだよこの鞄」


 驚いたように暴れるのをやめた少年に、ルカは口の端を上げて少年に言った。


「俺の必要な物は返してもらった。あとはお前にやる。まあ、俺だって金持ちってわけじゃねえからあんまり持ち合わせちゃいねえけどな……中に入ってる財布でパンくらいは買えるだろ。金は無駄に使うんじゃねえぞ」


 ルカはそう言って彼の腕を解放して、小さな頭にぽんと手を置いた。

 少年はルカを穴が開くほどに見つめてから後ずさると、鞄を抱きしめたままさっと暗闇に消えていった。


「……あーあ、俺も存外お人好しになっちまったな」


 ルカは小さく呟いてから笑みを浮かべた。結局酒場には行けなくなってしまった。しかたねえ、下宿の食堂で何か作ってもらうか。

 ルカはひどく腹をすかせていたが、いつもより凪いだ心で帰路に着いた。




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