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10. 分岐点


 夜の帳が下りる頃、ルカはティーポリで列車を降りた。


 ルカ自身は今までほとんどルブロンの町を出たことがなかった。べロム伯爵とともに王都カルヌに行ったことはあったが、すべて馬車移動であったし、訪れたのは王城と貴族の屋敷だけだ。

 とにかくルブロンからできるだけ遠く離れたところへ行こうと思い、列車の終点であるこのティーポリの町まで来たが、ここ以外にはどこに行けば良いのか見当もつかなかった。伯爵がつけた家庭教師のおかげでルカにもここが国境沿いであるという程度の地理的な知識はあったが、実際に来るのは初めてだ。だがその一方で、行く先々で詐欺師に騙されるという世間知らずでもなかった。むしろ彼はそういう社会には敏感だった。

 それにベロム伯爵からの報酬で十分な金は持っていたが、すぐに使ってしまおうとも思っていなかった。経験から言えば、これほどの大金があれば大きな詐欺の材料にできる。だが悪事に手を染めれば伯爵に牢に戻すと脅されているし、リーズにもまっとうな仕事を探すと言ってしまった。


 ルカは頭をがりがりとかくと、ひとまず“宿あり”と書かれた看板の下がった酒場に入った。


 店の中はそこまで広くはなさそうだったが、地元の者たちが集まっているらしく、がやがやと賑やかであった。

 入った瞬間にあちこちから視線を感じたが、ルカは気にせずカウンターにいた髭面の店主に「宿は空いてるか」と尋ねた。

 店主はルカの商人風の姿を上から下までじろりと眺めてから「ひと晩14リラ、食事なしだ」と言った。


「じゃ20リラ払うから、夕飯付きにできるか」


 ルカがそう言うと、店主は一瞬目を見張ったが、すぐに「いいとも」と鍵を渡してきた。


「そこに座りな……エールでいいか?」


 ルカは頷くとカウンターに座った。

 後ろで賑やかだった連中の中でぎゃあぎゃあと言い合いが始まったが、「俺の酒が飲めねえのか」「うるせえ、お前に負けてたまるか」などと聞こえるので、喧嘩ではなくただの酔っ払いの戯言だとわかる。

 酔っ払いたち以外は落ち着いた雰囲気で、ルカと少し離れたところのカウンター席に座っている男のように、静かに酒を飲んでいる客が多かった。ただ、どこかで騒ぐような声が聞こえるような気がしたが、それがどこから聞こえるのかはわからなかった。


 店主がエールとサンドを持ってきてくれると、ルカは「ありがとう」と言ってまずエールを煽った。そういえばここのところワインばかりだったなと思いつつ、今度はサンドを口に入れーールカは思わず咀嚼をやめた。

 ひどく懐かしい。サンドのパンの部分は、バターがひとかけらも入っていない、紙を食べているような味だった。

 ここのところずっとベロム伯爵家で食事をしていたからすっかり忘れていたが、長い間自分が食べてきたパンはこういうものだった。否、今食べているパンは柔らかい方だ。昔やっとのことで手に入れたパンは歯が折れそうになるほど固く、川の水に浸して食べたこともあった。


 ルカがエールを煽りながらサンドを味わって食べていると、腰を曲げた小男がにやにやとした笑みを浮かべながら「へへへ、どうも旦那」と言いながら近づいてきた。

 ルカは彼を見た瞬間に堅気の者ではないと悟ったが、顔には出さず食事を続けた。

 小男は汚い歯を見せて言った。


「旦那はこの町に来たばかりのようで。そのパン、お口に合わねえでしょう。そんな旦那に耳寄りな話でさあ」


 小男は店の奥の暗がりにちらりと視線をやってみせた。


「実はこの先の階段を下りた地下で、もっと良い酒と上等な食事を提供してんですよ。旦那の持ってるはした金で腹いっぱいに良いものが食えますよ」


ルカは少し目を細めてそちらの方を見た。そうか、どこからか聞こえる騒ぐような声は地下だったんだな。

 小男はルカが視線をやったのに彼が関心を抱いたと思ったようでますます笑みを深めた。


「それだけじゃねえ、下ではカードの遊びなんかもやってましてね、ちょっとした賭け金さえあれば大儲けできる。昨日も没落寸前だった貴族の坊ちゃんが大金を当てたんでさあ。悪い話じゃねえでしょう。それにここの一階じゃ全く想像つかねえでしょうけど、地下の方じゃ良い女だって取り揃えてんですよ。旦那の今日泊まる部屋に何人だって連れ込めまさあ」


 ルカは話の途中まで、行ってみようかと少し迷った。カードを使ったいかさまは、ルカにとってちょっとした特技だった。すりの延長の技を使うのである。17の頃はそれで稼いでいた。その腕を見込まれて贋金つくりの連中に引き込まれたのも、ルカにとっては自慢だった。ここで騙そうとしてくる奴の裏をかくのも一興だ。

 そんな風に思っていたが、女の話を持ち出されると、ルカの脳裏に別れるときのリーズの顔が浮かび、その瞬間に乗り気だった気持ちが一気に冷めた。


 ルカは残ったサンドの欠片を口に放り込むとエールを煽った。その様子に、小男はすっかりルカがその気になったと思って彼の旅行鞄の方へ手を伸ばしてきた。


「ささ、お荷物はあっしが運びまさあ、ご案内いたしますよ」


「やめろ」


 ルカは脚をひっかけて行儀悪く旅行鞄をぽんと蹴り上げると、慣れたように自分の手元に引き寄せた。そして目の前の小汚い男に言った。


「悪りいが俺はお前が思ってるようなお金持ちじゃねえしばかでもねえ。ここの宿で一晩ゆっくり泊まりてえから20リラ払っただけだ。カモなら他を当たりな」


 ルカの物言いに、男は驚いたような表情で「なっ……お、お前……!」と言った後、「くそっ、期待させやがって」と悪態をついてからどすどすと音を立てて酒場を出ていってしまった。

 ルカはふんと鼻を鳴らしてから、隅でこっそり見守っていた店主に「エールもう一杯とサンドもう一つ」と注文した。

 店主が目を瞬かせながら頷こうとしたとき、同じカウンター席の端の方から「おやじ、そのエールの金は俺につけてくれ」と言う声が聞こえた。

 店主は肩をすくめて「へいへい……あんたも物好きだな」と言って奥の厨房へ入っていった。


 ルカは眉を寄せてカウンターの端の方を見た。

 声の主は、先ほど静かに酒を飲んでいると思った男だった。彼はにやっと笑みを見せると、ゆっくりとこちらに移動してきてルカの隣に座った。

 ルカよりも二回りくらい歳上の中年にさしかかった男で、髭はきっちりと整えられ、姿勢もすっと伸びている。どう見ても良い家の男だ。


「誰だ、あんた」


 ルカの刺々しい問いに男は苦笑いを浮かべた。


「そう警戒するな……というのも無理な話か。お前のさっきの男への返しが見事だったのでな。一杯奢らせてくれ」


「質問に答えてない」


 青年が目を細めたのに、男は「はは、ほんとうだな」と笑い声を上げた。


「俺はグイド・タッシという。今日は非番だが、普段は……」


 ここで声を潜めてルカにだけ聞こえるように「軍に所属している。これでも大尉だ」と耳打ちし、上着の下に隠れた勲章をちらりと見せた。

 ルカは「えっ」と声を漏らしてから反射的に少し身を引かせた。軍人など、これまで生きてきた中でずっと逃げてきた存在だ。


「そ、そんなお偉い方がなんで……」


「さっきの男が言ってただろう、昨日貴族の坊ちゃんが来たと。没落寸前だった彼が大金を当てたって。ありゃ大嘘だ、ほんとは名のある家のご子息で、大負けして家族に泣きついたのさ。それでお貴族さまのご命令で、今日俺は非番だというのにここに調査に来たってわけだ」


 ルカはぞっとした。もし先ほどの小男に言われるままに地下に下りて、カードでいかさま勝ちをしていたら、この男に目をつけられていたかもしれなかったということだ。ルカはとっさに頭に浮かんだリーズにこっそり感謝した。

 グイド・タッシと名乗った大尉は続けて言った。


「夕暮れ時からここで見張っていたが、あやしい動きが見られなかった。今日は空振りかって諦めかけてたんだが、そこへお前さんがやってきてくれたおかげであの小男の登場だ。おかげで手口がわかったよ、報告できる内容ができて感謝している」


「そ、そうかよ」


 ルカは軍人にこのように気さくに話しかけられたこともなかったので、彼の方を直視できないままそう答えた。

 そこへ店主が再びエールとサンドを運んできた。ルカはほっとして食事を再開する。

 しかしルカが食事をし始めても、軍人の男は会話を中断しなかった。


「さっきの男も言ってたが、その荷物からしてお前さんはこの町は来たばかりなんだろう。観光客か?」


 なんだよこいつ。ルカは眉を寄せて咀嚼しながら答えた。


「そんなお気楽なもんじゃねえよ……職探しだ。新しい町で新しい仕事をしたくてな」


「ほう、それはそれは」


 大尉は目を丸くさせて関心を寄せたようにルカの方を向いた。


「どんな仕事か決めているのか? 軍部だと三食寝床付きで給料も悪くないぞ。俺が紹介してやるから……」


 ルカはサンドに食いつきながら首を振った。


「兵士なんざごめんだね。剣も銃も腕はからっきしなんだ……読み書きと社交の礼儀をひと通り知ってるから、それで稼げればって思ってるけど」


「社交の礼儀だと? お前さんが? 悪事を断る礼儀の間違いだろう」


 大尉はそう言ってがははと大きな声で笑い出した。

 全く失礼な男だ。ルカはむっとした表情を浮かべ、咀嚼していたパンを飲み込むと、椅子から飛び降りてまっすぐ大尉の方を向いた。

 ピンと背筋を伸ばして胸を張り、左手を右胸に当てる。そしてにこっと愛想の良く微笑み、先ほどとは違う腹の底から響く清々しい声で言った。


「大尉殿、そこまでお笑いになるのは少々品に欠けるかと思いますよ。大尉殿は姿勢もよく、凛々しいお顔立ちであられるのに、これでは部下の方々に示しがつかなくなります。陛下の御前でそのような醜態をさらすわけには参りませんでしょう。以後お気をつけください」


 ルカの耳にこびりついた家庭教師の説教を一部取り入れさせてもらった。

 突然、周りの空気を変えて貴公子然とした口調で話す青年に、大尉はぽかんと口を開けた。


「あ、あんた……それ……いや、その、あなたはまさか」


 驚いた大尉の顔を見てから、ルカはすぐに猫背の姿勢に戻すと椅子に座り直し、顔をしかめて小さく舌打ちした。

 二日ぶりに貴族のふりをしたが、こんなに疲れるものだったのか。仕事ととは言え、毎夜のように舞踏会に参加して令嬢たちの相手をしていた自分が信じられない。


「社交のふるまいってのはこれだろ」


 もとに戻ったルカの様子に、大尉は目を瞬かせてから「そ、そうだな」と少しほっとしたような表情になった。


「驚いたな……すごい変わり身じゃないか。もしや役者なのか?」


 ルカは飲んでいたエールでむせそうになった。


「や、役者って……初めて言われたぜ。舞台に立つ仕事なんざ一度もしたことねえし、するつもりもねえ。とにかく俺は……その、読み書きするような地道で静かな仕事がしてえんだ」


「読み書きだと?」


 テーブルの木目を見つめながら願うように言った青年を、大尉は意外そうな顔をして見た。

 この若者、言動はごろつきのようで先ほどの小男と大差はないが、案外真面目な仕事を望んでいるらしい。一体何が彼にそう思わせているのか、大尉には見当もつかなかったが、彼が心からそう思っているのを感じ取った。


「へえ……まあ本気でそういう仕事を探してるのなら教えてやろう。このティーポリの町じゃ、まずそういう仕事はない。ここいらは国境で森に囲まれてるからな、軍の奴かきこりか、猟師が多い」


 ルカは困ったような表情を浮かべた。木の伐採も狩猟もやったことがない。となると、この町ではだめなのか。

 大尉が続けた。


「読み書きできる奴を雇うってのはたいてい都市が多い。ここから南にあるポレンタの町の方は、そういう意味で賑やかなとこだぜ。鉄道もあちこちから延びてる。実は俺の弟がそこで商会をやっててな、仕入れたワインを町の食堂や酒場、ブルジョワなんかに売るのが仕事だ。だが最近、仕事を手伝っていた弟の嫁がおめでたになった。しかも商会で事務をやってた女二人も妊娠したとかで休みに入ってる。目下人手不足で、まいってるらしい。どうだお前さん、行ってみたら」


「えっ」


 ルカは突然舞い降りた仕事の紹介に、大尉の方を向いて目を瞬かせた。


「で、でも……そういうのって案内所で紹介状とかもらわねえと」


 大尉は「そんなことはないさ」と軽く笑った。


「ぼろを着ているならともかく、お前さんのその格好なら追い返されることもあるまい。もし万一にもないと思うが、弟がすでに新しい従業員を大量に見つけていたとしても、ポレンタの町は商人の町だから、どこかしらに雇い口があるだろう。それでも見つからなかったらティーポリに戻ってこい、俺が軍部の文官にしてやる」


 そう言い切った男を、ルカは穴が空くほどに見つめていたが、やがてくしゃりと笑みを浮かべると「軍部は嫌だよ」と言った。


「言ったな、こいつ!」


 大尉が怒ってわざとらしくこぶしを振り上げてみせたのに、ルカは「ははは」と笑い声を上げ、大尉も一緒になって笑った。

 大尉はひとしきり笑ってから「ああ、でもそうだな」と続けた。


「ちょっとばかり弟宛てに手紙を書いてやろう……まてよ、紙とペンがここに」


 大尉は懐から小さな紙切れとペンを取り出して、さらさらと文字を書き始めた。ルカはその様子に思わず見とれた。

 自分がものを書くときは書き物机で上質な紙とペンを手にし、なんども書き味を確かめて文字の練習をしてから気合を入れて手紙を書く。しかしこの目の前の軍人は懐から当たり前のように紙とペンを出して、試し書きもせずに書き始めたのだ。間違えないと確信があるんだろうか。いつか自分もそういう人間になれるだろうか。


 ルカの視線には気づかずに、大尉は書きながら続けた。


「いいか、商会を訪ねるときは丁寧な口調にするんだぞ。さっきのようにとまではいかなくてもいいがな。弟の名前はシルヴィオ・タッシだ、タッシさんと呼べば問題ない……そういえば、お前さんの名前は? 一応手紙にも書いておこう」


 大尉は顔を上げずにペンを走らせながら尋ねた。

 ルカは口を開こうとして、少し迷い、彼から視線を逸らして「ルカだ」と答えた。


「ルカ……と。姓は?」


「姓はねえよ」


 青年の言葉に、大尉は手を止めて彼の方を向いた。


「ない? 親の姓を知らないのか?」


「親はいねえ。父親の名前も母親の名前も……訳あって使えねえんだ」


 大尉は目を丸くした。青年がテーブルの上に置いたこぶしをぎゅっと握ったのを見て、なんとなく察した。なるほど、親と仲が悪いだけという話ではなさそうだな。

 大尉は大したことはないというような口調で言った。


「そんなら、使いたい姓を使えばいい。商会で働くとなると、姓はあった方がいいぞ。知ってる教区の司祭とか、村の名前とかなんでもいいんだ」


 ルカはきょとんとした表情になった。


「え……そんなの、偽名になるんじゃねえのか」


「大丈夫だろう。犯罪に使うわけでもなし、いくつもあるわけでもなし、これから生涯使うんだから、偽りというわけでもあるまい」


 大尉の言葉は、今まで姓を名乗れなかったルカの苦しかった心をゆっくりと解した。

 大尉はペンを持っていない方の手を顎に当てた。


「さて、どんな姓がいいだろうな。流行りに乗るのもいいな。ロンドとかビアンコなんかはよく聞くが、せっかくだから凝ったものがいいよな、アンブロージオとかメルクリアーリとかどうだ」


「……シャレロワがいい」


 ルカが呟いたのに、大尉は目を瞬かせた。


「シャレロワ? そりゃまたずいぶんと凝った姓だな……んじゃそれでいくか。ええとシャレロワ、綴りがわからん」


 ルカは少し前の自分もきちんと書けなかったことを思い出しながら「こうだ」と彼のペンを取って書いてみせた。


「シャロレじゃない、シャレロワというんだ」





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