湖の神殿・目覚めし天秤の脈動①
八月十一日の火曜日。
燦々と太陽の光が照らす中、俺は大学に向かって街道を歩いていた。
真昼に近い時間のおかげで気温が上昇し、そのせいで体力が奪われいく。
汗もかき気怠さが全身を襲う。
炎を扱う魔術師なのに、暑さに弱いとは情けないものだ。
「ねえ、ロイドくん。わたし、思ったことがあるんだけど」
そう言う隣で歩くティアも扇子で扇ぎながら気怠そうにしていた。
「なんだよティア。今日の夕食のことでも考えていたか?」
「なんでよ。わたし、そんなに食いしん坊じゃないし。それに言うなら昼食でしょ。まだ昼前なんだし、――ってそんなことじゃなくて。ロイドくんは徒歩で大学まで行ってるの? バス使えばいいじゃない。そっちの方が涼しいよ」
「確かに涼しいよな、バスの中って。俺も乗れるなら乗りたかったよ」
「だよね。ほら、そこにバス停があるよ。ちょうどこっちにバスも向ってきてるし――って、あ、ちょっと。なんで通り抜けていくのさ」
ティアの言うように、俺はバス停で脚を止める素振りもせずに歩き続けた。
「本当に乗ると思ったか? この距離だと二駅で大学についてしまう。あり得ないだろ。お金の無駄遣いだ」
とは言え、家から大学までは歩いて三十分くらいの時間がかかってしまう。確かにバスを使えばものの数分のうちに大学に到着する。加えて車内には冷房が付いていて涼しく、汗をかくようなことはない。メリットばかり目立つが、やはりお金がかかるという一点が俺を惑わせる。
けれどこういう日くらいはいいのでは、と思いもした。
が、すぐに考え直す。一度贅沢を知ってしまえば後に引けなくなるのが人間の性。やはり徒歩だな、と一人で納得した。
「うぅー、ですよね、知ってた。じゃあ、バイクは? いや、せめて自転車を」
「それも無理だったよ。どっちも一台しかないうえに二人乗りは禁止だ」
「そうですかー……」
一層強く扇子をぶんぶんと振り回し少しでも涼しくなろうと躍起になるティア。
「そんなに熱そうにするなよ。おまえ、何でついてきたんだ。家で待っておけばよかったのに」
「そりゃあ家には扇風機もあるし、家の構造からなのかやけに涼しいし、冷房いらずだし。でも、この一週間はほとんどエレナさんと一緒にいたから、せっかくだしロイドくんとお出かけもいいかなって思ったんだよ」
「嬉しいことを言ってくれる。そりゃどうも」
「あー。なにその興味なさそうな言い方」
「おいおい、怒るなよ。別にお前と一緒にいるのが嫌ってことじゃないからな」
「うん。ならばよし」
ティアが家に来てから一週間近くが経過したが、依然としてこいつとの距離はこんな感じだ。
近すぎもせず、遠すぎもせず。特に意味のない何気ない会話だけが繰り広げられていく。
テレジアでのことを思えば、たとえあれが仮初の関係だったとしても、今のような冷めた関係になっているのは少しだけ寂しい。そう思ったときにもっと自分から近づいていければよかったのだけれど、今の自分にはそんな度胸もなかった。
むしろ資格が無いのか。俺の中の何かがティアとこれ以上親密になるのを避けようとしている。俺にはティアに対してやるべきことがあるはずなのに。そんなことさえも見当がつかなかったのだ。
◇
そうこうしている内に俺たちは大学の正門まで辿り着いた。
夏季休暇に入り授業はないのだが、それでも普段と変わらない数の学生が歩いている。
それもそのはず。今日は休暇前にあった期末試験の結果発表が貼りだされる日なのだ。だから、この日に単位が取れたかどうか、学部内で自分の順位が何位なのかが分かる個人的には一大イベントでもあった。
ただし、貼りだされるのは名前でなく学生番号。これにより個人の情報はある程度守られていることになる。
「到着だ。試験結果の貼りだしは十二時ちょうどだし、そうなるとまだ時間はあるな。どうする?」
現在午前十一時半。あと三十分の待ち時間をどうしようかティアに求める。
「涼しくて水を飲めるところに行きたい」
ティアの手にある水筒には、もう水の一滴も残っていなかったらしい。
そういや、大学に着く直前にティアが独りでに絶望の表情を浮かべていたが、これが原因だったんだな。
「だったら喫茶店にでも行くか? あそこ、休日でも開いてるから休憩くらいならできるぞ」
「じゃあすぐに行こう」
清々しいほどの即答だった。
一号館に向かい、エレベーター最上階まで登る。目指すは試験最終日にエイラたちと夏至祭に関して話し合ったあの場所だ。
二人でカウンターまで歩き、店員さんに軽い食べ物と飲み物を注文する。しばらくして二人分のサンドイッチとアイスコーヒーを受け取った後、空いているテーブルまで歩いていった。
そこで最上階からの景色に気が付いたティア。「わぁーお」と歓喜の声を上げ、トレーを持った俺を置き去りにして窓際まで走っていった。
「転ぶなよ、ティア」
「転ばないもん!」
やりやれと首を振り、俺は窓際の開いているテーブルにトレーを置いてからティアのもとに行く。
窓に貼り付いて離れる気配のないティア。その目は今まで見たことがないくらいに輝いていた。
「そんなに珍しいか」
「うん、すごく。こんな風景初めて見たよ。テレジアからだと海ってどうしても見ることができないからね。それにこんなに高い場所から見渡すことができるなんて夢のよう。……ん? どうしたの」
ティアは横目に俺の顔を見ると何やら不思議そうに聞いてきた。
「いや、何でもないよ」
不意に目を逸らす。
いい表情をしているななんてそんな言葉、恥ずかしくて言えるはずもなかった。
◇
「ねえロイドくん。ロイドくんはこんな話を知っているかな」
窓から見える景色の感想を出し尽くしたティアはズズッとコーヒーを飲んでから話を切り出した。
「こんな話ってどんな話だよ」
「『白銀の妖精』の話だよ」
それってハルリスの御伽噺じゃないか。ティアの口からその名前が出るとは思わなかった。
たぶんティアはこの話をした後こういう展開にしたいのだろう。
『実はこれハルリスの御伽噺なんだよ、ロイドくん知ってた? え、知らなかったの? えーハルリス出身なのに? じゃあ私の方が物知りだね。えっへん』
ってな感じで。
正しく話せたらよく勉強してるって誉めてやれるし、もし間違っていたとしても笑い話として会話を広げられるだろう。
「へえ、興味深いな。いい暇つぶしになりそうだから話してみてくれよ」
と言って、ここはティアの話を聞いてみることにした。
「うん。ではでは――」
こほん、と上品に咳ばらいをしてからティアは本を音読するように語り始めた。
遠い遠い昔の話。この街がハルリスと呼ばれるより以前のお話です。
小さな集落として栄えていたその村には、とある信仰があったのです。
白銀の妖精。またの名を霧の妖精。
それはそれは美しい人の形をした神様のような存在でした。
村人たちは神様とあがめる妖精に貢物をして豊穣を祈ります。
妖精、と言っても魔術師が操る使い魔とは別のもの。あくまで神秘的な存在として想像してください。
村の人たちが平和に暮らしていたある日のこと。
その村に悪さをする集団がやってきました。
言うことを聞かなければ村を焼き払う、と。
次第にその者たちに支配されていき勝手を繰り返され、村人は日に日に疲弊していきます。
そんなある日のこと村人たちは祈りました。
白銀の妖精よ、あの悪者をどうか退いてください、と。
するとどうでしょう。数日後の霧の深い日。
その夜が明けた次の日、その悪者たちは全員一斉に姿を現さなくなりました。
そして次の日も、また次の日も現れません。
平和を取り戻した事を理解した村人たちは歓喜の声を上げたのです。
そして白銀の妖精を今まで以上に崇めることにしました。
そんな出来事を堺に深い霧の出る日には決まってこう言われました。
妖精が舞い降りてくださった、と。
そして人々の活気も上がっていきました。
このまま幸福な村として発展していくのだと、そう信じていました。
――ですが、幸福はそう長く続いてはくれませんでした。
村人たちは知らなかったのです。
今まで崇めていた妖精がどのような存在だったのかを。
数か月経ったとある日、白銀の妖精と遊んだ事のある村の人々が次々と霧のように崩れていったのです。
大人も子供も、男も女も、分け隔てなく平等に。
そう、白銀の妖精は村人と遊ぶふりをしていただけ。
実は村人を次々と喰っていたのです。
悪者の集団が現れなくなったのも、白銀の妖精が喰らったためだったのです。
すべては妖精が本来の力を取り戻すために。
いつしか人々から恐れられる存在となり、霧が出る日には決まってこう言われました。
霧の悪魔がやってきた、と。
村人たちにはどうすることもできないと悟ったある日、村長から助けを乞われ徳の高い僧侶さんがやってきました。
僧侶さんは霧の悪魔の退治を引き受けると、様々な道具を用いて悪魔への対策を講じます。
そうして対峙した僧侶さんと霧の悪魔。人と災害の一騎打ち。
僧侶さんは道具を用いてあらゆる悪魔の攻撃を防ぎ、隙をついて姿のないはずの霧の悪魔に実態を持たせました。
そして最後には五つの身体に引き裂いて別々の場所に封印しました。
以後そこには石碑が立てられ、封印が解けないよう未来永劫村人たちに監視されてきましたとさ。
めでたし、めでたし。
「――めでたし、めでたし」
という言葉でティアの話が終わる。
何がめでたしなのか全く分からないが、昔話をするうえで最後にその言葉を入れるのはもはや定石となっている。文章的なつながりは見えなくても、まあ許してやることにしよう。
パチパチパチ、と拍手をする。
「はい。よくできました。概ね合ってるよ、それ。あまり外に発信してる話じゃないのにすごいな。ここまでハルリスのことを調べてくれたのは、直接俺に関係しないことであっても嬉しくはある」
それを聞いてティアは目を丸くする。
「え、なに。ロイドくんこの話のこと知ってたの?」
「当たり前だろ。この話はハルリスの人なら誰でも知ってる御伽話だ。夏至祭の由来だってここからきてるんだぞ」
「そんなぁ~。せっかくロイドくんを驚かせようとしてアーネストさんから事前にネタを仕入れてきたのに」
マーベルさんから聞いてたのかよ。
褒め損じゃないか。
感動を返せ。
「でもね、アーネストさんには訊けなかったことなんだけれど、御伽噺って大抵何かの教訓だったりを仄めかすものがあるじゃない? このハルリスの御伽噺って何を指してるんだろう」
「さあな。それは知らないよ。これって御伽噺ではあるけれど、どのようにして生まれたかが未だに不明なままなんだ」
「じゃあロイドくんの解釈でいいから教えてほしいな。有名な話には変わりないんでしょ?」
「くっ、これ見よがしに痛いところを突いてくるな。……そうだな。俺個人の回答をするならば、だけれど。こういうことなんじゃないか。人は誰しも未知の存在に惹かれ、頼りたくなる。でもそれは人間の弱さで、結局は自分の力で立ち向かわなければならない。そんな意味だと思っている」
言って自分の過去を思い出した。
エレナを救いたいあまり、星座の魔術という未知の存在に手を出して身を滅ぼしかけたことを。ちょっとどころじゃすまされない目の前に座る彼女への後悔と罪悪感。それは決して消えることはないだろう。
「ふーん。そっか、ロイドくんはそう思っているんだね。でも、わたしはちょっと違う印象を持ったかな」
「違う印象?」
「うん。そうだね。こんな感じの解釈はどうかな。たとえどんなにピンチな状況でも希望を捨てずに立ち向かえば、きっと救いのヒーローが現れてくれる、ってかんじ」
「……」
そりゃあまた他人任せな思考だな。
俺の人生観からは遠くかけ離れている
たとえ助けを求めたところで、力になってくれたところで、最後に答えを出すのは自分自身なのに。
それを忘れちゃいけないんだ。
「……そうか。そういう考えもあるんだな。覚えておくよ。それはそうと、だ。これは魔術師の間では知る人ぞ知る有名な話でもあるんだ。何せ星座の魔術にかかわるんじゃないかって代物だからな。ティアはそのことを知っていたか?」
「ううん。それは知らなかった。どうしてなの?」
「さっきの御伽話の中で五つの石碑っていうのが出てきただろ。それが現実の話であるかのように、この街には立てられた経緯の分からない石碑が五つあるんだ、ほら」
そう言ってサンドウィッチを包んでいた紙に手持ちのペンで簡単に地図を描いた。サラサラ、と。
「そして、それを地図上で繋ぎ合わせてみると――」
石碑の位置は星マークにしてそれぞれを線で繋ぐ。
すると、その形が何であるか気付いたティアが言う。
「あ、これって天秤座?」
「おお、よくわかったな」
ふふん、と腰に手を当て胸を張る。
「もちろん。あの事件以来、星座の形や恒星の光の強さはしっかり勉強したから」
「いい心がけだ。とまあそんな話もあって、この街ハルリスには幻属性の至宝が眠っているのではないかと予想されている。天秤座の守護神はライブラ。その司る属性は幻といわれているからだ。だけれど、まだ封印を解いた魔術師は一人もいなから真相は分からないんだけどな」
という知識を披露するも、実のところ何故俺にこんな知識があるのかが分からなかったりするのだ。
三か月前、テレジアの旧校舎でのティアとの決戦の末。
俺の身に起きていた異常。
何故、何処で星座の魔術のことを知りその発動を測ったのか。
その理由の一切を忘却していたのだ。
星座の魔術の知識だけを残したまま、俺を操った者の正体の記憶が霧のように霧散していった。
ふと、時計を見てみると現在時刻は十一時五十五分。
成績開示まであと五分だった。
「――さて、丁度いい時間だ。そろそろ掲示板の前に向かおう」