失意の先に・漂泊の海を越えて⑦
燃え滾る劫火を背にジェインは星座の儀式を開始する手筈を整えていた。
床一面に浮かび上がる淡い緑色の輝きを発する魔法陣。ジルが乗り込むより以前にジェインが描き上げ不可視の魔術で覆っていたそれを再び顕現させたのだ。
彼は彼のやり方で、このハルリスの住人を生贄にする方法で儀式を進めていた。
本来の魔術儀式から独自のアレンジを加えた至宝ならぬ死宝の顕現。そのために必要な獣はすでに野に解き放たれている。
時間が経つにつれ人々の血を肉を魂を貪り、すでに街の人々の半数を蹂躙し尽くしていることだろう。
だが、それもジェインにとっては作業であり通過点の一部。彼にとって耳に届く銃声も抵抗の叫びも、ただの雑音でしかなかった。
他者の痛みや苦しみを嘆く心など、とうの昔に消え失せていたのだから。
「ユリウスからの連絡は……まだ数分は来ないだろうな。あの魔力の迸りからして戦闘はまだ続いているのだろう。だがヤツめ、遂に奥の手を出したな。無駄に魔力を消費をするなど何を考えている。限られた魔力は儀式のためにとっておけとあれだけ忠告しただろうに」
眼下に広がる魔霧の大海。
蠢く災厄の予兆を眺めながら今後の動きを錬る。
「無事に生き残ったとして、あれはもう儀式の役に立たん。ここからは私ひとりで動かざるを得んだろうな。世話のかかるやつだよ、まったく」
魔法陣に己の内に秘めた魔力を移し終えたジェインは後ろに振り返り炎の柱を眺めながら儀式開始の時を待つ。
「……とはいえ、こちらも人のことは言えんな。この魔術師のしぶとさ。劫火の中でまだ死に絶えないとはね。これでは計画に狂いが出かねない。君が息絶えなければこちらは先に進めないのだよ。まあ、刻限まではまだ余裕があるからそこまで気にすることではないのだが……」
このまま耐えるようならいっそのこと自らの手でやればいい。ジェインはそう考え、流れるような動作で躊躇うことなく大鎌を天に掲げる。
大鎌はジェインの手を離れて宙に舞い、囚われたジルと同じ高さまで到達したところで高速回転を始め黒き光の環へと変貌した。
環の支配権はもちろんのことジェインにある。このまま手を振りかざすだけで環はジルの下に跳んでいき、その身体を切断することだろう。事実、その行動に移そうとしたジェイン。
しかし、その直前に炎の柱の中から聞こえる微かな声。
「――――ジェ……イン……」
自身の名を呼ばれ反射的に動きを止めたジェインは、その醜い人の影を見て溜め息を吐いた。
なんとこの状況下でジルの意識はまだ残ってたのだ。
今は残る魔力のすべてを治癒に回して生き延びているが、これも時間の問題だった。いずれ尽きるのは目に見えているはずなのに、その激痛に耐えながらも足掻き生きようとする。
その理由がジェインには分からなかった。
「――――今……は、……時、間……は……」
興味本位で黙って耳を澄ましていたジェインに再び言葉が伝わってくる。
今にも消えてしまいそうな弱々しいそれであったが、ジェインは律義に返答をする。
「時間……今の時間のことかい? 今は二十時半だが、それがいったいどうしたのかね? ……ああ、獣の数がどれだけ増えたか気になるのかい。そう言えば、さっきは一分ごとに一体ずつ増やしていくって言ったからね。確かに君のことだ。街の様子が気になるのも無理はない。
だがね、あれはただ君を挑発するためだけに放った戯言だ。今は私の力とは無関係に際限なく獣が生まれ落ち街を襲っている。伝承に聞く霧の悪魔の再現さ。今はこの地での儀式を成就させるため機敏に働いていることだろう。ここからだと音しか聞こえないのか不満ではあるがね」
言って、ジェインは再び聖堂の外に耳を向ける。
聞こえてくるのは獣の雄叫びと銃声の数々。
目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ地獄の景色。
今まさに蹂躙され続けている絶望の悲鳴。
聞こえてくるのは、獣たちの雄叫び。
絶えず鳴り響く破壊の音。
「――ん?」
何が理由なのか、その判断はできない。
しかし確実な違和感がジェインを再び戦闘態勢に引き戻させた。
目を開ければ、そこに映るのは鎖に縛られ、炎の柱に囚われて、それでもなお原形を保つジルだった何か。それは壊れた玩具のように声を上げる。
「――くくく、くは、はははっ、ははははははッ――!!」
その様子はまるでジェインを無能と見下し嘲笑うかのようだった。
ジェインの理解が追い付かない。
普通に考えれば激痛に耐えられなくなり狂った人間の末路と考えてよさそうではある。しかし、その嘲笑には間違いなく意志がこもっている。
目の前に立つ敵を必ず殺すという、明らかなる殺意がそこに。
「ジル、何がそんなにおかしいのかね。今まさに君の愛するハルリスが地獄と化そうとしているのだよ。それを知りながら何故笑えるのか。まだ口を動かせるようならぜひ教えてくれないかい」
「くくく、これが笑わずにいられるか。ジェイン、あんたは負けたんだよ。僕との戦いではなく、このハルリスという街の意志にね――!!」
「――?」
続けられる一見意味不明なジルの言動。瞬時にジェインは反芻しその真意を探る。しかし、ジェインにはそんな一瞬の時間さえ与えられなかった。
突如、空気を震わせるほどに重く響き渡る爆音。
塔の外から轟々と飛行機のジェット音のような轟音が連鎖する。
「なんだ。何が起きている」
その状況にジェインは惑う。しかし決して恐れはしない。
今から起きる事象。それをジェインはただ悠然と待つのみ。
たとえどのような手でこようとも、ジェインはその全てを否定しよう。
「――さあ今だ。君の出し得る最大の火力を以てして、ハルリスを脅かす悪を撃ち落とせッ!!」
その叫びが、これより見せる反撃の合図だった。
絶えず続く轟音の中、ガシャガシャガシャと響く機械の駆動音。
そして次々と姿を露わにさせるどこか見覚えのある機銃。四方八方から塔の中心へと連射された光の筋は十や二十では収まらない。
降りそそぐはまさに無数に煌めく流星の如く。
塔に着弾した魔弾はいともたやすく石造りの塔を粉砕にしていく。まさしく粉微塵へと。無残にも砂礫と化した美しき造形物の一端は、さながら塔の頂上を覆い隠す雲のようだった。
天井を破壊した魔弾の雨は続けてジルを、ジェインを、炎の柱や床の魔法陣諸共打ち崩す。
数秒の間続けられた暴虐の果て、そこには何も残るはずがなかった。
――それでも、悪夢は未だに健在だった。
「――流石に驚いた。私の礼装がここまで引き裂かれようとは。一つ一つの魔弾にそれぞれ別の特性を持たせているのだな。敵の弱点を無理やり暴き出し、最も最適な特性を持たせた魔弾を浴びせる戦術か。面白くはあるが惜しいな。あと一歩のところで私を打ち抜けなかったようだな。これでは時間が掛かり過ぎるのだよ。私を殺したいのであれば、対策させる暇すら与えない最初の一撃ですべてを終わらせなければな」
黒の外套はずたずたに引き裂かれ、剥き出しになった肌からは血がしたたり落ちる。致命傷ではなくとも外傷を負ったことには違いない。
周囲の壁はもちろんのこと、床さえも崩れ落ちている。そんな中、残すは宙に貼り付けられたかのように固定されたままの緑に輝く魔法陣のみ。
それを足場に佇む魔術師ジェインは襲い来る災害を己の技量のみで耐え抜いたのだ。
「ところでこの大がかりな魔術を行使した君は一体誰なんだい。早くその顔を拝みたいものだね」
塔の頂上を覆い隠す砂礫が風にあおられ次第に薄まり、内側にいる者から見れば星の輝く夜空が顔を出す。
そこで初めてジェインは先の襲撃を行った者の姿を視認する。
そこにあったのは宙に浮遊する人ひとりを乗せることができるくらいの巨大な大砲。その上に佇む一人の男。五つの機銃を背後に配し、その手には機械じみた大剣を携えた魔術師がそこにいた。
「あんたがジェインか。確かにあいつの言う通りだ。これだけ離れていても、あんたからは強烈な力の気配をヒシヒシと感じるよ。けれど、あんたの陰謀はここで潰える。現れた魔獣もこの街の魔術師たちが総出で対処にかかっているからな。今のところ犠牲は一人も出ちゃいない」
どこからどう見ようと、そこにあったのは魔術師ジルの姿だった。
ジェインはそれを見た瞬間、首を振り今までにない大きなため息を吐いた。
「君はジルなのか? 私の目がおかしくなった、というわけではないと信じたいが。だとすれば何故君がそこにいるんだい。私の鎖に囚われているあれは何だというのだ」
ジェインを取り囲む煙が晴れる。
そこにはいるはずなのだ。ジェインに成す術なく返り討ちにされた哀れな魔術師が。しかし、その気配を再び感じ取った時にはすでに遅かった。
鈍い衝撃がジェインを貫く。水飛沫が地に叩きつけられる音を耳にした直後、腹部に耐えがたい激痛が走る。
霞む視界。重い視線を下に移すと、そこにあったのは腹から突き出た巨大な爪を持つ竜のような腕。
「……あっ……」
背後から声がする。
数分前まで鎖で拘束されていたはずの、今目の前に現れ対峙している、ジルではない別の男の声が。
「対策させる暇すら与えない最初の一撃、か。まさにその通りだよな。数か月前のロゼさんの大魔術を思い出すよ」
首を動かし背後に位置する男の正体を目にする。
緑の髪に薄い緑色の瞳。整った顔立ちに、黒のスーツで身を包んだその姿。見紛うはずもない。やつがいったい何者であるか。それはこのハルリスにいる誰よりもジェインが一番理解しているはずだ。
故にジェインには亡霊を見たかのように、信じられない事実だった。
それは確かにあの日、死したはずの能力者ネロ・ヴァイスだったのだ。
「貴様は、まさかネロなのか――」
声が震える。
だが、それはジェインの視点での話。彼は知り得なかったのだ。数多くの犠牲を払ったあの闘争を経て、命からがら生き延びた二人の能力者がいたことを。
「なぜ生きている、なんて小物じみた言葉はよしてくれよ。あんたにはまだ僕たちにとって最大の壁であり続けてくれないと困るんだよ。そうでなくちゃ、死んでいったあいつらが報われない」
「……そうか。生きて、いたのか。これは流石に予想もしなかった。
貴様のその能力は確かに強力だ。絶大な威力を誇るともいえよう。だが、その欠点が致命的だ。直接的な力技故に不意打ちでもなければいくらでも対処のしようがある。そのためのジルの大技。本命と見せかけて、その実、真の決定打は既に私のそばにあったか。
全て貴様の一撃から気を逸らすためのカモフラージュ。ここに至るまで存在そのものを隠匿するほどの技術。見事だ。久方ぶりに心の底から称賛を与えられそうだよ。
だがね、結局のところ今となっては全てどうでもいいことなのだよ――」
ふふ、とジェインは微笑む。
今この瞬間をもって、初めて本当の意味で認識されたのだ。
目の前の疑似能力者がジェインとって意味のある存在であると。
目の色が変わる。ジェインは取り戻したのだ。今まで奥底に潜めていたある男に対する限りない憎悪の感情を。
ジェインの魔力、とは言い難い何かしらの力が迸る。それは逆巻く黒き暴風となって、背後のネロを強引に引き剥がした。
穿たれた大穴の蓋が開き、大量の血液がこぼれだす。だが、そんなこと構いやしない。
「――ああ、こんなことがあり得るのか。ここ数か月、私は生きた心地がしなかった。私がずっと追いかけてきたロゼという存在が滅んでから、私の心はずっと空虚だった。もうこの隙間を埋めてくれるモノはいないんだと絶望に駆られたこともあった。だがどうだ。今こうして私の目の前に現れた男はなんだ。この私の魔術を止めようと正義を行う貴様はなんだ。あのロゼが手掛けた最高傑作の魔導人形じゃないか。これは何たる僥倖か。私はまだあいつに復讐を執行できる。ロゼという天才を潰すという快感がまだ味わえるじゃないか」
ジェインは笑う。
周りの全てを排斥して自分の世界に入り込んだかのように、ただひたすらに笑い狂う。
「そうか。おまえはまだロゼさんという亡霊に囚われているんだな」
「はははははっ――君は幸運だ。こうして本来の姿を現さなければ、貴様は私にただの羽虫のように殺されていたことだったろう」
「どういう意味だ」
くくく、と妖しく笑うジェイン。
「私には別の用事ができた、という意味だよ。貴様は自分が何故今もこうして生きていられるのか考えたことはあるかい? 君はロゼをおびき寄せるいい餌だ。君はどうあがこうとロゼの人形。君が生きていること即ち、ロゼがまだ生きているという証明に他ならないのだよ!」
ジェインの膨れ上がる憎悪が力の大きさに現れる。
ネロは地に伏せ、ジェインに近づくことすらままならない。
飛行するジルも同じだった。襲い来る風に圧され高度を保つのがやっとだった。
「ジル、もう待機する必要はない。今すぐに撃て!」
「やれるならもうやっているさ。この暴風のせいで標準が合わないんだよ」
暴風は止むことはない。留まることなくさらに勢力を増していく一方だ。
「さあ、お勉強の時間はここまでだ。君たちにはそれ相応の対価を払ってもらわないとね」
腹に大穴を開けながら、その表情は平静のまま。
消えたはずの銀の鎖が再び姿を現す。
五つでは収まらないその何倍もの数がジルの機銃を撃ち落とす。
「ジル、いいから撃て!」
「だから撃てないんだよ。残っている機銃の位置からだと外せば街に被害が出る」
「そんなこと気にするな。今ここでジェインをやらない方が被害が大きくなるんだぞ」
「おまえ、正気か? 何を言ってるんだよ」
「君こそ怯むな。今地上で戦っている人たちを信じるんだ。そのための仲間じゃないのか!」
惑うジル。
確かに地上で戦う魔術師の仲間は、きっと降りそそぐ魔弾の雨をも打ち払ってくれることだろう。だが、それは最初の一回目に限りの話だ。先の大技が原因で既に街に破壊された塔の残骸が降り注いでいた。加えて着弾せずに直接落ちていった魔弾も確かにあったはずだ。
その全てを防がせた上で、もう一度それを繰り返せというのか。だとすればそれは悪魔の所業だ。やるにしても間隔が短すぎる。
「――くっ……」
しかし、悩んでいる暇など二人にはなかったのだ。そもそも、次の行動に移す機会すらもうなかったのかもしれない。
銀の鎖が二人の前に踊る。その切っ先が首に向かって奔る。
避ける余裕などなかった。
反撃する余地などありはしなかった。
やられる。
このまま首を貫かれ、苦しみ悶え、絶命するのだろう。
もしかしたら、苦しむこともなく死に絶えるかもしれない。
ここで終わり、なのか……
そう悟ったその刹那、鎖の動きは石のように固まっていた。
「――え?」
驚く二人。しかしそれは鎖が動きを止めたことに対しての反応ではなかった。
二人の視線は常にジェインに向いている。
そこで見たものは二人にとっても、ジェインにとっても異常だった。
ごふっ、とジェインの口から血がこぼれ落ちる。
「――ぐッ!?」
ジェインの身体中に直接衝撃が走る。どこからか攻撃を受けたわけではない。それなのに何故か感じるこの痛み。
「何だこの痛みは」
痛みの理由は分からない。
しかし、己の身体に何が起ころうとしているのかは察することができた。
内からコントロールが効かずに流れ出す力の奔流。ただし自然に出ていくのではない。何者かの仕業で強制的に抜き取られていくような感覚。
「まさか私の魔力が、至宝の力が奪われていく、だと――!?」
突如としてジェインを中心に発生していた黒き暴風は、ジェインの身に起きた異変を境に瞬く間に消えていく。
舞い踊る銀の鎖は砂のように崩れ、夜空の向こう側へと散っていった。
先ほどまでの戦闘が嘘のような空気の静けさ。身体を震わせ後ずさるジェイン。今の今まで優勢を維持し続けてきた彼に真の意味で劣勢が訪れる。
ネロは立ち上がり竜の腕を構え直す。
ジルは残された機銃と自身の騎乗する大砲の銃口をジェインに向ける。
力を奪われつくし、魔術を発動できなくなったジェインにもう成す術はなかった。
「そんな馬鹿な。馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。このようなことがあってなるものか。有り得ん有り得ん有り得ん。無くしてなるものか。失ってなるものか。奪われてなるものか。幻の至宝の所有者は、この私だッ!!」
瞬間、全てを飲み込む閃光が迸る。
スタングレネードを炸裂させたかのような衝撃と爆発音は、ジルとネロの全感覚を一時的に麻痺させた。
そのたった一瞬。それだけあればジェインはすぐさま優位に立つことができたはず。しかし、今回に限りそうはならなかった。
閃光が収まり、二人の瞼が開かれた時。
残されたのは崩れた塔の頂上と、綻び役割を無くした魔法陣の残骸のみ。
そこにジェインの姿はどこにもなかった。
その強烈な重圧も、邪悪な気配さえも。
全ては深い深い、闇の中へ――




