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跳馬:ウラヌス

「それじゃあ、行ってくるよ」

そう言って、彼の主人はいつものように首を撫でてくれた。

その手が最期であることは分かっていたが、今日からお前の主人はこの人だと、よく従うようにと知人を紹介された以上、辛いが、彼は忠実にその命令を守り抜く決意をした。

彼は目を伏せてその手を感じ入り、ゆっくりと双眸を開いた。

主人は戦地へと旅立つ。

もうこの方は帰ってはこないだろう。

もうこの方を見ることはないだろう。

もうこの方の声を聞くことはないだろう。

もうこの方を背に乗せることはないだろう。

もうこの方が自分の名を呼ぶことはないだろう。

もうこの方と駆けることはないだろう。

もうこの方へ自分ができることはないだろう。

それらは、例えようもなく深く深く、重く重く、痛かった。

彼はできることなら、すぐそこにある死へと付いて行きたかった。

主人が逝く先が天であるというのなら、自分はきっと空を駆ける天馬になろう。

主人が逝く先が地であるというのなら、自分は土の中さえも駆け、地獄の門へとお連れするのだ。

そう思い続けて生きてきた。

世界の長い歴史の中で希に確認できるが、生きる上で最優先とされるものが、己の外部に存在する者がある。

彼は当にその一人だった。

彼にとって大切なのは、己ではなく己の主人。

彼の喜びはと問われれば主人の喜びであり、彼の誇りはと問われれば主人の愛馬であることだった。

国内を始め、世界に轟いた彼の疾走は、その主人の名を上げた。

主人の名どころではない。当時、卑下されていた国の名さえも上げてみせた。

自分が腕を磨けば、主人の誇りとなる。国の力にさえなる。

それが最大の恩返しになるであろうと、長い間信じて駆け続けてきたが、やがて主人の国は戦を始めた。

主人は戦地へと赴く。彼を置いて。

死す時は隣で死にたかった。

寿命の関係から、間違いなく自分が先に死ぬだろうと、看取ってもらえるのだろうと、何て幸せな死を迎えられるのだろうと思っていた。

それがこれだ。これが現実だ。

傍にいれば弾を避けることは無理でも、盾にくらいはなれるだろうに、引き離されてしまってはもうどうにもならない。

身を切る思いだったが、主人は朗らかな顔で出ようとしている。

ならば自分もいつも通り、ただちょっと数日外出する時のような、そんな態度で送り出すべきだと、彼は少し頭を下げるだけにしておいた。いつも通り。

そんな彼の耳に、主人はゆっくりと言葉をかけた。

「また会おう、ウラヌス」

それは予想外の言葉だった。

“また会おう”。

彼の中を衝撃が奔った。

すぐに顔を上げて鼻先を寄せたかったが、主人の愛馬である自分は、常に凛々しい主人の為に、常に凛々しくあらねばならない。鼻先を寄せて良いのは主人が額を撫でてくれた時のみだ。自分は雄々しい馬であるべきだ。

彼はゆっくりと頭を上げて、主人の微笑みを直視した。

じゃあなと右手を上げた後で、愛馬に向かって敬礼し、主人は門を出た。

彼の足は自然と前に出て、轡が一文字に張って繋いである柱が軋むまで、小屋から身を乗り出して精一杯首を伸ばし、可能な限り見送った。

その背が見えなくなると、落ち尽きなく鼻を鳴らして足場を何度も踏み重ねた。

主人は死へと赴いていった。



彼が馬園に預けられて間もなく、夜の明るいうちに、一匹の蛍が季節外れにも馬小屋近くの庭に留まった。

彼は恭しく、その蛍に頭を下げた。

遅れて、主人の死を伝える電報がその園に届いてから、彼は食事を取らなくなり、やがて病にかかった。

病死か餓死かと聞かれれば、世話をしていた男はおそらく餓死と答えるだろう。








【跳馬:ウラヌス】








彼は今でも、再び主人を背に乗せ、風を切って奔るその日を待っている。

乗せるのが無理であれば、ただ見ていて欲しいのだ。知っていて欲しいのだ。

どうか理解して欲しいのだ。

自分は心から主人の馬であり、主人の為に走っていたということを。

ただ、その忠誠を見せつけたい。解って欲しい。

今も昔も変わらず、そしてこれからもそれは変わることはないだろう。

鬣を揺らし、尾を流し、美しく駆けている姿を見て欲しい。

自分がこんなにも必死に真摯に走れるのは、何もかも、切っ掛けをくれた主人のお陰だ。

殺処分を免れた。たまたま馬舎を訪れた、主人のたった一言で。

反発し、嘶いて、唾を吐いても根気強く接してくれた。


たった一人の一言で、世界はやはり変わるのだ。











日が昇り、町に朝が来る。

歌姫に予約したため、その日は素晴らしく快晴だった。

お祭り好きな演奏家の一人が朝一番にトランペットなどを響かせたものだから、その日は朝っぱらから完全にお祭りムードだった。

さて今日は御者と旅人の勝負日だと窓を開けた町人たちの目にまず飛び込んできたのは、町を中心にぐるりと周囲の樹海から十数メートル上空へ突き出している、土でできた幅広い、うねったコースだった。

ぐるりと楕円を描いているだけではない。山や谷を模した高度の変動も付いていた。

スタート地点である南門周辺は地上コースであるにもかかわらず、その前後が坂になっていてそこから上空コースへ駆け上がる形になっている。

因みに、頼まれてつくったのは不動産屋だ。

別の表現をすれば、彼以外にこのコースはつくれない。

実際につくったのは彼の一族である姉たちなのだが、こういうコースにしようと設計的なものを描いて伝えたのは彼だった。

姉たちは彼の描いたコースが一般の競馬場とはかなり懸け離れていることを承知してはいたが、そんなことよりも一族の王子が時間を割いて考えたものを忠実に具現化する方が重要だった。

小さな子供が懸命に描いた下手な絵は、例えそれが如何に現実離れしていようと可愛いものだ。地上馬が走れるか走れないかなど二の次である。

「もっと普通のつくれよ!」

「…。これは普通じゃないのか」

鍵屋の突っ込みに不動産屋は淡々と尋ねた。

因みに、遠くに見えるが、コース内にはジェットコースターよろしく一回転する場所もある。

恐らく、彼は見本を間違えたのだろう。

「明らかに走れねーだろ!どーすんだよ、あそことか!」

「走れないのか」

「ええっと…。距離が長いし、これは一周で十分ですね」

一回転してる場所を指差して叫く鍵屋の隣で、勝負を決定した詩人が腕組みして呟いた。

イメージしていたのは楕円形の平面なコースを何周かというものだったが、これはもう一周走りきれるか否かの域だ。

勝負開始の時間は午前中というだけで特別指定がなかったが、日が昇って朝食を済ませ、各々ひと息付いてさあ出かけようかという時間は、大体決まってくるらしい。

ルツィエがウラヌスに乗って南門へ登場すると、既にローグリールと相棒の白馬は、多くのギャラリーを背に待ちかまえていた。

以前出会った時と同じく、銀髪の長い髪を結い上げ、腰に簡素な装備をし、白い衣を着ている。だが乗馬の邪魔になるからか、衣の一部である長い裾は結んで短くまとめていた。

ギャラリーのほぼ全てが町人であるためその殆どがルツィエの応援側のように思えたが、中には彼女を見て故郷を思い出す者もいるらしく、一部は勝負を挑んだ半神を応援する者もいるようだ。

若しくは、どちらが勝っても負けても一向に構わないが、ただ面白いからというだけで見に来ている者もいる。実際は、この類が最も多いのだろう。心から他者の勝敗を案じて関われる者はそうそういるものではない。

白馬の前で、仁王立ちしたローグリールが槍を片手に声を張る。

「待ちかねたぞ、女」

「あたしの名前はルツィエってんだよ。覚えてくれ」

ローグリールの傍まで行くと、ルツィエはウラヌスから降りて彼女と対峙した。

いつもの装飾が目立つ御者服ではなく、無駄な飾りのないシンプルな乗馬服に身を包んでいる。

勝負ということで、古い愛用の槍も一応持ってきた。

馬鞭は、ウラヌスが指揮棒であることを理解している以上硬いものを使う必要はなく、結局ゴム製にした。痛みで尻を叩き走らせるのは、乗る馬がMっ気でもない限り彼女自身好きではない。

ローグリールはルツィエから少し離れた場所で傍観を決めているスレイプニルを見つけると、びしりと右手の人差し指を突き付けた。

「貴様。約束は確かに守るのだろうな。スレイプニルを連れてきて私に差し出すというのは」

「ああ。勿論だ。だがそれは、ルツィエにお主が勝てばの話だ。そのようなことは有り得ぬであろう。お主は常通り、滑稽に走っておれば良い」

嘲笑うように冷たい声で吐いて、スレイプニルは顎を上げては顔を背けた。

ローグリールが憤りを露わに槍の柄を地面に叩き付け、足下の土を少し削った。

「では、ルール説明をします」

詩人が二人の傍に歩み寄り、控えめに片手を上げてその場の人々の注意を集めた。

「あそこに置いてあるロープがスタート地点でありゴール地点です。お二人にはコースを一周していただきまして、戻ってきてもらいます。勿論、速く着いた方が勝ちです」

ルツィエは少し背を伸ばし、詩人の肩越しに奥を見ると、彼の背後にロープが一直線に横たわっているのを確認した。

スタート地点は確認したが、コース全体までは確認をしなかった。

確認したとしても、ペガソスなどで上空すらも駆けている彼女の場合、あまり動揺はしなかったかもしれない。

ローグリールの方は何気なくコースの先を見て、例の一回転している部分を目の当たりにして一瞬ぎょっとしたが、横目でちらりとルツィエを見ると彼女があまりにも平然としていたので、それがプライドを刺激して詩人にあのコースは無理ではないだろうかと意見するのを止めた。

「御者さんが勝ったら、旅人さんはお帰りになること。旅人さんが勝ったら、御者さんがお持ちの黒馬を差し上げること。お二人とも、それで宜しいですね?」

「ああ。いいよ」

「うむ」

両者が頷き、詩人も頷いてから傍に立っていた審判を紹介した。

「因みに、勝負中の詳細については、審判さんにお願いしました。公平な判断をしてくださると思います」

審判は一歩前に出ると、ルツィエとローグリールと握手を交わした。

「では、スタートの準備をしてください」

詩人のその声で、それまで静かだったギャラリーがわっと沸いた。

ローグリールが槍の矛先を下にして差し出したので、ルツィエも古い槍の矛先を下にすると、彼女のそれに合わせた。

カツン!と短く打ち鳴らし、素早く槍を離しては互いに背を向ける。

乗馬帽を被りながら、ルツィエはウラヌスの首を片手で軽く叩いた。

「よっし。一丁やってやろうぜ、ウラヌス!」

『…』

それでもウラヌスは無言であったが、彼女が乗りやすいよう少し前へと歩んだ。

馬上へ乗り上げる彼女の耳に、白馬へ語りかけるローグリールの言葉が届く。

「さあ、最善を尽くそう。勝利を我らが手に」

『はい』

ローグリールには聞こえないのだろうが、白馬が短く彼女に応えた。

声が女声だ。牝のようだ。

だとするならば、単純な得意不得意で考えれば、一般に長距離のこのコースは牡であるウラヌスに分がある。

だが問題は、白馬がローグリールに素直に従っている様子だ。ウラヌスの態度との差が見受けられる。

(ちょっとキツくなりそうだ…)

覚悟を決めて、ルツィエは手綱を握るとウラヌスの歩を進めた。

ギャラリーよりも一歩前に出て見守っていた馬たちの声援が届く。

『マスター、ウラヌスさん。頑張ってくださいね』

『健闘を祈るよ、ルツィエ。気楽にね。勝てなくても、然したる問題はないさ』

「あの様な輩、コースから蹴り落としてしまうが良かろう」

「良くないだろうよ。普通に応援してくれよ」

スレイプニルの言葉には流石に突っ込みをいれたが、それ以外の言葉は素直に受け取って、ルツィエは彼らに片手を振ると先にロープの前に並んだ。

遅れて、ローグリールも隣に並ぶ。

旗を持った審判が、ロープの横に立った。

徐々にギャラリーのざわつきが静まり、やがて場に静寂が訪れる。

風の音が辛うじて響く中、審判が大きな旗を下げた。

「始めますよ。…Ready Set!」

両者が目付きを変えて、手綱を握り体勢を低くする。

馬たちの目にも鋭い眼光が灯った。

一際長く感じるたった一、二秒の後…。

「―――GO!!」

短い言葉と振り上げられた旗を合図に、白と茶の馬が同時に勢いよく地を蹴る。

低く散った砂粒を残して、二頭は弾かれたように真っ直ぐ、風のように駆け出した。

口笛や声援、歓声が溢れるスタート地点を残して、二組は南門を離れた。



もう慣れたウラヌスの走りの振動に身を任せながら、ルツィエは真横を一瞥した。

周囲が森林に囲まれる中、幅のある真っ直ぐにコースが続く。

しかしやがて左折する。

今彼女らが走っているのは右側だ。コーナーにかかる前に内側を取っておきたい。

大丈夫だ。ウラヌスはやはり普通に速い。

速い、が…。

「内を許すな、スノヴィット!先制!」

高い声で、力強くローグリールが声をあげる。

スノヴィットと呼ばれた白馬はそれに応えるように速度を上げた。

やがて左コーナーに差し掛かり、白馬が最短コーナーに実に巧みに駆け込んだ。

先に出られたウラヌスはその後を追ってやはり同じ最短を駆けるが、それによってそこまで横並びだった彼らに前後の差が付いた。

ルツィエは焦らず冷静に手綱を握り続けた。

大丈夫。想定内だ。

コース前半の直線、しかもそもそも左に位置していた牝馬相手では左コーナーで先を行かれるのは当然の結果だ。それよりも、如何に引き剥がされずに後半に持ち込むかが鍵だ。スタミナではウラヌスが勝っているだろう。

距離が長ければ長いだけ、勝算は出てくる。

前を行くスノヴィット。後を追うウラヌス。

やがてコースは上り坂に入り、木々の間から空へ突き出たコースへ出ることによって、ギャラリーたちに二頭の並びが公開された。

人々から残念そうな声があがる。

「駄目だ!先取られてる!」

「よく見えねえよ!近くに行こうぜ!」

「そうですね。邪魔にならなければ傍まで行っても構わないでしょうし」

「俺も連れて行ってくれ…!」

「私も私も!」

「狡いわ、飛べる方々ばかり…!」

スタートを切ってからすぐに箒に飛び乗り競技者たちの後を追った審判の後ろを、更に追うようにしてギャラリーたちが動き出す。

空を飛べる者は可能な限り飛べぬ者を連れて、二頭の後を追った。

あくまで邪魔にならぬように、二頭の後ろから距離を空けて着いていく。

空を飛べず、連れて行ってもらえなかった者たちも、皆上を見上げながら地上をどやどやと移動を始めた。

スタート地点であり、ゴール地点である南門に残ったのは、詩人と不動産屋だけになった。

不動産屋がその気になれば町人たちどころか、寧ろ町ごと上空へと持ち上げることが可能なのかもしれないが、そこまでする気は一切ないようだ。

「…」

スレイプニルも人型のまま空へ駆け上がると、パートナーを案じて後を追った。

ペガソスが不在の今、馬たちの間で空を飛べるのは彼と他数名のみだ。

大部分の馬たちは、やはり地上から応援することしかできない。

地上馬と言えど流石に神馬候補の名馬だけあって、スノヴィットもウラヌスも目を見張る速さだった。

背に乗るルツィエの耳にはごうごうと凄まじい音で風が鳴り、ギャラリーの声など一切届かない。

前に見えるのは白馬とその騎手、そしてコースのみ。

自分たちだけ、何処か別の空間にいるように感じていた。

用意されたコースは、実に過酷だった。

上り坂はまだいい。下り坂が厄介だった。

普通の平坦な道でも目に見えない角度というものがある。

そういった道で速度を競う場合、目に見えないそんな些細な角度でさえ、見逃せば勝負を分ける重要なポイントになってくるのだから、目に見えてついている角度のどんなに厳しいことか。

コースの幅からいって、普通に考えて落ちる心配はない。十二分に取られていた。

それでも柵のない上空コース。

地上馬からすれば側面ぎりぎりを走るにはかなり勇気がいるものだろうが、ローグリールの操るスノヴィットは恐れなくその最短距離に飛び込んでいった。

彼女はウラヌスに前を走らせる気はないらしい。真剣だった。

上り坂ではウラヌスが追い上げるものの、追いつき追い越す前にコーナーに差し掛かる。

差し掛かってしまえば、またスノヴィットが前に出た。

下り坂では二頭とも足を滑らせるのが怖くて速度を落とすしかない。

順位は変わらず距離は詰まらず、それどころか徐々に開いていく。

審判に追い返されぬ距離を考えつつ近づき、スレイプニルが背後から声をかけた。

「ルツィエ。あの白馬は直線のみでなくコーナーもそれなりに得意であるようだ。後半にスタミナを残すのは分かるが、あまり引き離されては良策ではなかろう。速度が落ちているが、着いていけるのか」

『大丈夫だよ、ルツィエ。スレイプニルの言うことを構う必要はないよ。彼女は全力で走っているが故にスタミナが切れるのも早そうだ。やはり乗り手が愚かだね。このまま行けばあと少しで速度が落ち始めるだろうから、そうしたら…』

「うるッさい!!黙ってな!」

追ってくるスレイプニルと地上からテレパスを行うユージンを、ルツィエは怒気を含めてぴしゃりと一喝した。

大概の声は遠くに聞こえるが、彼らの声は直に耳にくる。

勝負の最中に外からごちゃごちゃ言われるのは気が散った。邪魔でしかない。

いつの間にか、彼女はすっかり双眸がつり上がっている。

彼女は本来、戦士だったのだ。熱気に当てられてすっかり呑まれていた。

手綱を握る手と風に遮られている聴覚から、ウラヌスの呼吸を感じ取ることができる。

彼は本気を出してはいないが、その一方で息を切らせて懸命に走っていた。

思った以上に、前を走る牝馬が速いのだ。

その事実は彼に屈辱を与えており、彼女に負けじと、ルツィエの指示に的確に従っている。

コースの三分の一辺りに差し掛かり、南から始まった疾走は町の北東へと移っていた。

小振りな上下の波があったコースは、もう一段高い位置へと上がろうとしていた。

一際大きな上り坂に差し掛かる。

ちょっとした山を昇る角度だ。

先にその場に踏み込んだスノヴィットの速度が途端に落ちた。

『チャンスだ。追い抜く…!』

「いよっしゃあッ!」

ウラヌスに同意してルツィエも腹から声を出して手綱を握り直すと、腰を浮かせた。

斜面にかけた足は途端に重くなったが、ウラヌスは鼻息荒く四肢を踏みしめてそれを駆け上る。

開いていた差が追いつき、横に並んで鼻先一つ分追い抜かす。

「おのれ…!」

「このまま出ちまいな、ウラヌス!負けんじゃないよ!!」

ところが、スノヴィットも負けじと歯を食いしばって必死で彼に食らい付いた。

ウラヌスが舌打ちする。

『くそ!女の分際で…!』

コース前半なら兎も角、中盤に牝の脚でこの傾斜はきついだろうに。

思わず吐き出た一言に、白馬スノヴィットは乗り手と同じく真っ青な目でぎっと横目に彼を睨み付けた。

『女…だからって…ッ』

轡を噛み締め、彼女は正面を向く。

『長く走れないと…思うなよ…!私は、速いんだ!観賞用じゃない!美しくなんかなくていい!子供を産む道具でもない!!男なんかに負ける体じゃないんだよ…!! 私を…!』

傾斜を登る速度が落ちれば落ちる分だけ、白い四肢に込めた。

『侮るなああああああァ…ッ!!』

『…!?』

空気を振るわせる咆哮と同時に、スノヴィットが前に出る。

丁度傾斜を登り切り、ほぼ同時ではあったが、先に両足を一段上空に位置した平坦コースに着いたのはスノヴィットだった。

追い抜けるかと思った斜面では順位は変わらず、横一列にまた駆け出し、コーナーに差し掛かるとやはりまた彼女が前に出た。

『クソ…!!』

「焦るな!あっちもだいぶ疲れて来てるよ!こっからはあんたの時間だ!」

ルツィエが短く言って焦りだしているウラヌスに声を張った。

斜面を登り切ったスノヴィットは確かに目に見えて疲労し始めていた。

全身で呼吸を始め、涎が口の端から溢れ出している。

四肢も何とか速度を落としてはいないという状態で、恐らく今以上の加速は無理だろう。この速度をいつまで保てるかの問題だ。

「このまま駆け抜けるのだ!奮い立て!お前の力、この私に見せてみろ!!」

ローグリールは声を上げ、そんな彼女に何度か鞭打った。

健気にもそれに応えようとしているのか、スノヴィットの速度は落ちない。

町の北東から一段上がったコースは直線コースだった。

最初の方よりコースに波もなく、全体的に本当に微々たる緩やかなカーブがついているが、ほぼ一本道だ。

コース全体で最も距離が長い。

向かう先に突然コースが無くなったように見えるのは、そこに下り坂があるからだろう。

下りに入れば速度を抑えるしかない。

でなければ飛び降り事故になりかねない。ここが勝負所だ。

ウラヌスは速度を上げた。

いつの間にか彼も無心に駆けていた。

上空を走る白と茶、二頭の馬。

見る者はその姿を目で追うのに必死になっていた。

手に汗握って、声を上げて応援している。

コースはぐるりと町の北を周り、西の方へと続いている。

西の森上空へと差し掛かれば、当初コース左手に見えていた歌姫の住まう塔が、直線を終える頃には右手に見え始めた。

今日という日を晴れに確定した歌姫は、ルツィエとの約束通り、塔の手摺りに身を乗り出して、勝負当初から高い塔の上で二頭の競い合いをはらはらしながら見詰めていたが、彼女らが塔の傍のコースへさしかかると、細い片腕を上げて振った。

「ルツィエ様―!」

彼女にしては大きな声で、先日会った時にルツィエが着ていた御者服の色である深い茶色の布を振り、笑顔で応援した。

「ルツィエ様、どうぞ頑張ってください。勝利を願っておりますわ…!」

歌姫の声は勝負にのめり込んでいたルツィエには届かなかったが、彼女の言葉の直後、不意に塔の上空に集まり始めた強い風にはすぐに気付いた。

自由気ままだった空気中の気圧や風たちが、突然急速に凝縮されていく。

王を迎える準備を始めたのだ。

「“血統”だ…!」

競技者を追ってきていたギャラリーの中、誰かが叫んだ。

その頃には、歌姫のいる塔の天辺に爪先を付けるようにして、水色の無表情な、全身が透き通っている小さな少女が立っていた。可憐な少女だ。外見だけは。

天空の支配者。“届かない血統”。

ざわりと、途端に町人たちが狼狽する。

彼らを見向きもせず、水色の少女は折れそうに小さな儚い右腕をほんの少し上げた。

ルツィエが双眸を見開いて急にウラヌスの手綱を引いた。

驚いてウラヌスが首と前足を上げ、嘶く。

『何を――!』

「横風が来るよ!重心低く!踏ん張れ!!」

『な…』

ルツィエの言っている意味が分からないウラヌスは反射的に彼女の言葉に従ったが、それでも疑問を口にしようとした。

しかしその前に、“届かない血統”が右腕をふいと小さく振り下ろした。

直後――。

「…ッ!」

『ぐわ…ッ!?』

ゴウ…!!と大きな音を立てて、強烈な横風が吹いた。

まるで硬さのある固体に押し出されるように、風が直に競技者たちを襲う。

重いはずの馬の体が、一瞬浮いた。風に押し出されてコース内をよろめく。

風が来るのを予想して構えたルツィエとウラヌスはまだ良かった。審判を始め、町人たちの殆ども受け身を取ることができた。

だが、受け身を取り損ねたスレイプニル、そして、直に風の拳を受けたローグリールとスノヴィットはまるで冗談のように上空へと吹き飛ばされた。

おそらく、血統は彼女らのみを吹き飛ばしたかったのだろうが、あまりに近距離過ぎたためにルツィエやウラヌスも巻き込まれたのだろう。

「キャアアアアア…ッ!!」

耳を突くような甲高いローグリールの悲鳴があがる。スノヴィットの嘶きも聞こえた。

まるで安い人形のように、彼女らは斜め上へと、空中に放り出された。

かなり上へと飛んだが、勿論その後は重力に従って落下する。

ギャラリーから悲鳴があがった。

「走しりなウラヌス!終わってないよ!気ぃ抜くんじゃない!!」

それらを無視して、一瞬だけとは言え完全に放心していたウラヌスの尻を鞭で叩き、ルツィエは我に返らせた。

一度嘶くと、ウラヌスは尾を振ってからまた勢いよく走り出す。

手摺りから身を乗り出していた歌姫が目の前の惨劇に青い顔をして身を引き、震えながら反転すると慌てて歌を歌い出した。

場違いな程のびやかに響く美しい歌声。

すぐにどこからか響いてくる複数の男声や女声のような風の音、更にまるで数多の楽器のような風の音が重なり、彼女の歌う歌を主線としてそれは見事なハーモニーとなる。

空中のオーケストラが始まると、塔の天辺に立っていた半透明の少女は、やはり無表情のまま、ふわりと爪先を蹴って宙へ飛び出し霧散すると、歌姫の傍でまた姿を形成しては、まるで普通の少女であるように両手を手摺りに添えて彼女の隣で眼下を見下すことにしたらしい。

血統が鎮まってから、すぐに歌姫はまたコースを振り返った。

上空へ放り出されたローグリールとスノヴィットは落下を開始し、今ではコースの高さよりも下まで落ちていた。

彼女らのすぐ下が森だ。このままでは串刺しとまではいかなくても、森の中に落ちる。大怪我は免れない。

『ローグリール様…!』

地上から湧き出るようなギャラリーの悲鳴の中で、スノヴィットは声を張った。

乗り手を気遣って落下の最中で彼女の方へ顔を向け、無意識に駆け出そうと脚に力を入れたその瞬間。

不思議と、空気を蹴れた。

『…!?』

彼女は空気を足場に駆け出せた。

細い発砲音に似た音と共に、スノヴィットの周囲に、どこからか飛び出した彼女の毛色と同じ無数の羽根が散る。

場を充たしていた悲鳴は、感嘆の声に変わった。

しかし羽根が散ったのは一度だけで、一瞬視界を覆った羽根のヴェールから飛び出た彼女の四肢は見た目これといって変化はなかった。

しかし空中を確かに駆け出せた。

昇華だ。神馬に。

半神であるローグリールを乗せ、彼女から神力を受けてスノヴィットは神馬へと昇華した。

純血の神ではなく半神を乗せて昇華する馬は希だ。彼女の潜在能力がそれだけ高かったのだろう。

自らに困惑しながらも宙を駆けてローグリールの元へ駆け寄る。

ローグリールは腰の翼を不安定に左右に広げ、何とか自力で落下の速度を落としていた。

当然だ。彼女はヴァルキュリアだ。飛べるのだから。

白い翼を広げて蹌踉けながら滞空していた彼女の周囲を、駆け寄ったスノヴィットがぐるりと大きく周り、助走を付けて傍へ戻ってきた。

白馬の手綱を握るとローグリールは再びその背へと跨った。

パンッと音を立てて手綱を引き、それを受けてスノヴィットが空中を駆け上がる。

コース上へ戻ると、既に走り始めていたルツィエとウラヌスがかなり先に見えた。

「何だ今の風は! おのれ…!出遅れた!」

ローグリールは手綱を握りしめ、俯いて思い切り両目を瞑ると顔を顰めた。

「くそ…っ。くそ…ッ!」

『お任せください!』

スノヴィットが再びコース上を駆け出す。

その速度はそれまで以上に速く、しかもあれだけ疲労していた体力にも余裕が戻ってきていた。

ウラヌスを追って、スノヴィットが追い上げを見せる。

「…何だ。あれは」

ローグリールたちと同じく横へと飛ばされたスレイプニルは、体勢を立て直してコースよりも上空で滞空しながら、歌姫の隣で、塔の上からちょこんと両手を手摺りに添えて眼下を見下ろしている水色の少女を呆然と見詰めていた。

少女に、青い顔をした歌姫が何かを諭しているようだ。

まるで空気の拳で殴られたような衝撃だった。

あと少し硬かったら、骨くらい容易く折れていただろう。

いつまでも滞空する彼を気にして、周囲に数枚の黒く大きな薄布をまとい、同じ布を腕に絡めた宿屋が彼を案じて傍に来てくれた。

スレイプニルは彼に問うた。

「今のは血統がやったのか」

“届かない血統”が脅威だという話は聞いていたが、彼はそれを目の当たりにしたことはなかった。

宿屋は優雅に微笑んで肯定した上で、彼の肩を気楽に叩いた。

大丈夫大丈夫。そうして生きているんだから、今のは全然本気じゃありませんでしたよ、と。



ウラヌスは直線コースを終えようとしていた。

彼の背に揺られながら、ルツィエは背後を振り返った。

猛烈な勢いで白い影が近づいてくる。このままでは間違いなく追いつかれる。

だが、この先は下り坂だ。

ど素人である不動産屋がつくったコースは破天荒過ぎる。

全力疾走を促す直線の後、角度マイナス45度の長い長い下り坂をどうしろというのか。飛び降りろと言うのか。まるで急な滑り台だ。

速度を緩めないと確実に脚が壊れる。…いや、緩めるなんてものじゃない。一端止まれと言っているようなものだ。

ルツィエは唇を噛んだ。

どうする。どうしたら良いだろうか。

止まるべきなのか。ゆっくりと確実に降りろと言うのか。

しかしそれでは、神馬となって空中を駆けることができるようになったスノヴィットに確実に追い抜かれる。

その点に関して、丁度ギャラリーから審判へ抗議が持ち上がっていた。

「審判、反則反則!コースアウトだろ今の!」

審判は首を振った。

コースアウトではあるが、今のは血統によるアクシデントだ。

本人たちはアクシデントを受けた上でも勝負に戻ろうとしている。

コーナー内側に飛ばされたのならばまだしも、外側に吹き飛ばされたことも考慮し、反則と相殺して許容範囲とする、と。

「では神馬になった件に関してはどうお考えですか。空中を走れるのであれば、コースを無視してゴールに辿り着けてしまいますし、コースではなくその少し空中を走ることもできてしまいますよ。これはアンフェアではないでしょうか」

審判は頷いた。

確かにその可能性はある。だがご覧。本人たちはコースを忠実に走っている。外れるつもりはないようだし、コースアウトが許容されるのは先程の一回のみで、今後コースを外れたらそれはやはり反則とする、と。

審判は公平にこの勝負を判断すると誓った。

公平さとは、規律やルールに間違いなく平等に則るということとはまた違う。

また、コースより少しばかり上空を走るのではないかという意見に関しては、カルピエが口を挟んだ。

『神馬になりたての地上馬は、上手く空を走れませんのよ。空気を足場にするよりも、地面を足場にする方が慣れているのですわ。おそらく、あの白馬の方もその様に感じているでしょうから、地面を選んで走りますわ。…寧ろ、神馬になったことで自身のコントロールが難しくなったかもしれませんわね』

カルピエの発言をスレイプニルが代行して審判とギャラリーたちに伝えたことによって、勝負はそのまま続行されることとなった。

勝負を止める理由もなくなり、ルツィエとウラヌスの目前に下り坂が迫っていた。

同時に、背後から迫ってくるローグリールとスノヴィット。

ルツィエは舌打ちした。

神馬ならともかく、やはりウラヌスにこの坂は無理だ。このままの速度で突っ込んだら間違いなく転落する。

「駄目だ…っ。落としな、ウラヌス!」

『だがそれでは…!』

追いつかれる。絶対にだ。

「ふざけんじゃないよ!あんた脚折れてもいいってのかい!?」

反論しようとしたウラヌスに、ルツィエは怒鳴った。

ここで速度を落としては、敗北は確定だ。苦渋の決断だが、仕方がない。

ルツィエは人間だ。ウラヌスがスノヴィットのように神馬になる可能性など、ありはしない。

ルツィエが手綱を引こうとした、当にそのタイミングだった。


―――ウラヌス―――!


「…!!」

風の中に懐かしい声を聞き、ウラヌスは双眸を見開いて耳を立てた。

駆けている以上、強い風の音が常に耳を塞ぐ。

何故彼がその遠い肉声を聞けたのか、常識的に考えれば有り得ない。現にルツィエは何も聞こえなかった。

脚を緩めぬまま頭を上げ、目線を周囲に走らせる。

コース前方。

ゴール地点である南門上空に、小型の馬車が一台滞空していた。

一人乗りの、小さく絢爛な九番馬車。引く馬はベガソス。

本来ルツィエの席である御者台には時計屋が。そしてその隣には――。

ウラヌスの目付きが変わった。

意を決して、思い切りコースを蹴る。

有り得ない角度の下り坂に向けて、助走を付け、そして。

「ばッ…!?」

ルツィエが青い顔をして上半身を反らし、体重をかけ力一杯手綱を引いたが、間に合わなかった。

茶色い巨体が、高さのあるコースから下り坂を無視して土を蹴り、空へと跳びだした。

「…ッか野郎おおおおお―――ッ!!!」

額に血管を浮かばせたルツィエの怒声が空に響く。

ウラヌスは四肢を前後に広げ、勝つために最短距離を選んだ。

駆け出して、速度など落とさずそのまま加速。

そして高さあるコースから下のコースへ、跳び出せばいい。要はコース上に落下すればいいのだ。

誰もが目を見張って息を呑み、大口開けて呼吸を止めた。

背後から追い上げていたローグリールとスノヴィットも驚愕した。

空を駆けられるようになったとはいえ、スノヴィットですら飛び出すのを躊躇う角度だ。

落ちる。

落ちる瞬間は、きっと骨の折れる音がするだろう。

怒鳴ったルツィエは、そのまま両目を瞑って顔を歪ませた。泣きかけた。

下のコースが近くなる。

ウラヌスは覚悟していた。

骨が折れても、自分は走ってみせるという根拠のない自信があった。

勝ちに行かなければならない。絶対に。

茶色い毛並みの下にある白い四肢が、コースに触れる。

「…ッ」

ルツィエは両肩を上げて身を縮ませた。

だが、ウラヌスの前足の蹄がコースに着くと、その重い体が彼の四肢を潰す前に、再び発砲音に似た音が響いた。

スノヴィットと似ていてそうでない。風船が割れるような音と共に、彼の周囲を、やはり彼の毛色と同色の茶と白の花弁が、どこからか破裂したように散った。

すぐに状況を理解した人々から、爆発的な歓声が上がる。

昇華だ!神馬だ!

地上や空で、町人たちは思い思いに帽子や花や紙を空へ投げた。

有り得ないが、その現象は紛れもなく昇華だった。

正面から吹き付ける風が花弁を後ろへと流す。

ウラヌスはそのまま勢いよく地面を蹴った。

するとどうだ。巨体は、駆けるという表現では足りない程、大股でかなりの距離を跳ねた。

一歩が広い。正面へ、流れるように跳ね駆けていく。

流れる二色の花弁の中から抜け出し、ルツィエは間抜けな顔を晒した。

「…――は?」

『はではない!手綱を握れ、女!!』

噛み付くような鋭いウラヌスの声に、ルツィエは慌ててただ持っているだけになっていた手綱を握った。

彼女の目元に溜まっていた涙は、正面から当たる風で瞬く間に乾いた。

スノヴィットは焦り、彼女もまた自らを奮い立たせて下り坂を飛び降りて必死に走ったが、詰まりかけていたその差は、最早到底縮まるものではなかった。

また、カルピエが言ったように、空中を走る術を身に着けた彼女はコーナーを上手く曲がることができなくなってしまった。

内側のラインぎりぎりを走れたはずが、空気に乗ることを覚えてしまった脚がそのまま速度に乗って今まで走れていたインラインの一本外を走るように飛び出てしまう。

その点、足場をバネに“前に跳ねる”ことを会得したウラヌスは、慣れずに予想する着地地点が定まらないとはいえ、間違いなく前に進むことができるし、コーナーも今まで通り曲がることができる。

二頭の距離は開いたまま、例の、ジェットコースターのような一回転コースにさしかかった。

ウラヌスの背で、ルツィエがぎょっとする。

「げ…!何だいありゃ!」

『ふん…!』

ウラヌスは鼻を鳴らすと勢いに任せてその一回転に突っ込んだ。

真上へ登るような90度まで何とか脚で駆け上がり、そこからコースを蹴ると、脚力を活かしてそのまま反対側へと跳ぶ。

「うおあ…!」

振り落とされそうになったルツィエは必死でウラヌスにしがみついた。

まるで猫か兎のように跳ね降りては、そのまままた駆け出す。

彼が一回転の場所を出ようとした頃に、スノヴィットが同じ場所へと差し掛かった。

彼女の場合は、速度に乗ってそのまま逆さまのコースすらも駆け抜けた。

一回転という障害物を速く走り抜けたのはスノヴィットだが、やはりウラヌスとの距離はまだ開いている。

最後の短い直線でかなり健闘はしたが、それでも、ルツィエとウラヌスがゴールするには余裕があった。

さっきの下り坂と比べるのも申し訳ないくらいの緩やかな普通の角度の斜面を駆け下り、再び森林の中の大地を疾走する。

ゴールであるロープが見えてくると、ウラヌスの上で、前髪と衣類を風に靡かせながらルツィエは右腕を振り上げ、声を上げてロープを駆け抜けた。

ギャラリーの歓声が一際強くなり、強くなりすぎて、まるで戦場のような乱雑な盛り上がりだった。

すぐに止まれず速度に乗ってそのまま十数メートルツィエたちが走り抜けた後、ローグリールとスノヴィットもロープを跨いだ。

実に接戦だった。

そして素晴らしい競い合いだった。

いくら神馬候補だとはいえ、二頭とも昇華を果たすという奇跡的瞬間を見届け、人々の興奮は冷め止まない様子だ。

勝者のルツィエやウラヌスは勿論、健闘した旅人と白馬にも惜しみなく声援がかけられる。

口笛が吹き鳴らされ、楽器が演奏され、紙吹雪が南門の周辺に舞う。

音楽が響きだし、気の早い者たちは手を打ち合わせて踊り出している。ワインやシャンパンなどの蓋が、高く空へ跳ね上がった。

ウラヌスが速度を緩め、ルツィエは両腕を上げた。

「やった…!やったね、ウラヌス!! あんた偉……うおっとと!?」

相棒と勝利を祝い合う気満々だったルツィエだったが、彼女を乗せていたウラヌスが急に体を反転させ、今駆けてきた方を振り返ると駆け出した。

両腕を上げていたルツィエはバランスを失い、ずるりと体が傾く。

「う、わ…!」

「…!」

落馬しかけた彼女を見て、丁度駆け寄ろうとしていたスレイプニルが空気を蹴り、飛び込むようにして馬上から落ちたルツィエを抱え込んだ。

そのまま一度空中へ駆け上がると、改めてゆっくりと地上へ着地して彼女を下ろす。

「悪いね、スレイプ。サンキュ」

「…あやつめ」

ルツィエを下ろしながら、スレイプニルはこちらを振り返りもしないウラヌスを睨み据えた。

ルツィエも、彼が急に取った行動を不思議に思い、スレイプニルの向こうを覗き見る。

ウラヌスは彼女たちを残し、ペガソスが引いてきた小さな馬車へと駆け寄っていた。

ところが、急いで駆け寄ったくせに、馬車の傍まで行くと急に脚を止め、何を迷うのかその場で足踏みして尾を揺らし、控えめに首を振った。

「ウラヌス…!」

馬車の御者台から、時計屋の隣にいた細い男が飛び降り、彼を出迎えた。

擦れた深緑の軍服はすっかり薄汚れているが、胸にいくつか削れた刺繍の勲章があった。本来はそれなりの地位ある者なのかもしれない。

ウラヌスは言葉にならないようだった。

呼吸荒く何度か口を開こうとするが、息が詰まって何も言い出せない。

そんな彼に、男は右腕を伸ばして額を撫でた。

白い星型の毛色を撫でると、ウラヌスは飛び込むように鼻先を男の首に押しつける。

男も彼の首を両手で何度も撫でて弱く叩いては、涙ぐんで唇を振るわせていた。

ウラヌスのその態度が意外で、睨んでいたスレイプニルは怒る気が失せてただ驚いた。

その横で、ルツィエが両手を腰に添えて息を吐く。

「…あれがあいつの主人か」

「当たりましたよ。見つかったのは好運でした。あと、彼が聞き耳持ってるって所も好運でしたね」

馬車から離れて歩いてきた時計屋が、トランクを片手に笑いかけた。

彼の思い当たる人物で当たりだったようだ。

「悪かったね、時計屋。本当にありがとう」

「いいえ。僕も久し振りに里帰りできたし、楽しかったですよ。途中迷いかけましたけどね。あのペガサス君がかなり頑張ってくれたので、後で褒めてあげてくださいね」

「勿論だよ」

ルツィエは時計屋の肩を叩いてペガソスの方へ目を向ける。

彼は少々疲れている様子だったが、距離を空けて目が合うと、翼を左右に広げて頭を上げ、大人ぶってえへんと胸を張って澄ませてみせた。

可愛らしい態度に思わず吹き出しそうになりつつも、褒めてやろうと歩を進めて数歩踏み出したところで、ルツィエの耳にスノヴィットの声が響いた。

『ローグリール様…!』

「ん…?」

思わず足を止めて振り返ると、ざわめく人々の間を、逃げるように森の中へと走っていくローグリールと、それを追いかけるスノヴィットの姿があった。

すぐに彼女とも健闘を讃えて握手でもしようと思っていたルツィエは、反射的に回れ右すると、森の中へ消えていくヴァルキュリアと白馬の後を追って走り出した。

「ルツィエ?」

「すぐ戻るよ!あんたは先にペガソスに良くやったって声かけてきな!」

『まあ。マスター?』

『何処に行くんだい、ルツィエ』

スレイプニルや、勝利を祝おうと寄ってきた馬たちから離れ、彼女もまた森の中へと入っていく。


木々の間に入ると、距離的にはそれ程離れていないにもかかわらず、町の歓声が随分と遠く感じた。

木漏れ日の中に踏み込んでみたが、姿が見えない。

足を止めて周囲を見回すと、木々の間にスノヴィットの白い影が見えた。

爪先をそちらへ向けて足早に歩み寄る。

ローグリールは巨木に片手を添え、背を丸めて俯いていた。その傍で、心配そうにスノヴィットが寄り添っている。

肩が小気味に震えている。

片手で口を押さえ、どうやら泣いているようだった。

ルツィエは一瞬彼女が泣いていることに対して驚き、足を止めた。

あれだけ雄々しく勝負を挑んで健闘した彼女が勝負に負けたから泣いているのだとしたら、確かにそれは驚くべきことだろうが、彼女を涙で濡らしたのは別の理由だ。

「…ローグリール?」

『翼が…』

どう声をかけていいものか迷いながらも、ルツィエが恐る恐る声をかけると、傍にいたスノヴィットが哀しげな声で口を開いた。

ローグリールの身に着けている白い衣の一部である腰の翼のうち、左の翼が、少々歪に広がったままになっていた。右の翼は綺麗に折り畳まれて腰元に引き寄せてあるのだが、どうやら折り畳めないようだ。

斜め下に、弱々しく広がる翼から、羽根がひらりと一枚落ちる。

「まさか、折れたのかい!?」

ルツィエが驚愕に目を見張る。

その通り、折れたのだ。血統のそよ風を受けた時に。

スノヴィットが昇華して神馬となった時、飛ばずに不安定に体を滞空させるだけしかできなかったのはこのせいだった。

翼の折れたヴァルキュリアが飛ぶのを止めてどうなるかは、以前スレイプニルが言っていた通りだ。

現実的な絶望がいよいよ訪れた。

国に帰っても、主人である女神の元に帰っても、翼が折れたことが知れればすぐに園行きだ。

白い衣を脱がされ、男に従い、子を孕んで国の為に尽くさなければならない。

男を否定して空を生きてきた彼女にとって、それはおぞましいだけだ。まさに地の獄へ落とされることになる。

ローグリールは両手で顔を覆い、身を震わせて涙ながらに嘆いた。

「ああ…。ああ、終わりだ。もう終わりだ…。私はもう終わりだ…!」

それまでの言動が信じられないくらいに、彼女は弱々しく声を絞り出し、その場に崩れ落ちてしまった。

そのまま落としていた槍を拾い上げようとするので、ルツィエはすぐさまその槍の柄を、片足上げて蹴り飛ばした。

音を立てて槍が飛ぶ。

そのまま、怒ったように声を張って右腕を振るう。

「何やってんだい!!骨が折れたのならまず医師だろ!痛くないのかい!?」

ローグリールに痛みはなかった。

彼女の翼はあくまで衣から生じているものであり、痛覚はない。

大概の神々は、生まれた時に身に着けている衣が一着ある。その一着は他の服のように普通に脱ぐことも可能だが、何もない状態からすぐに織ることも、一瞬のうちに解いて脱ぐこともできる。

その一着に特別なものとして翼が着いており、それで飛行を可能にしているのが、半神であるヴァルキュリアの特徴だ。

涙で目を腫らすローグリールが顔を上げる間もなく、ルツィエはそのまま蹴り飛ばした彼女の槍を拾うと、片手に持ったままスノヴィットの手綱を握って彼女の背へと乗り上げた。

「そこで待ってな!今医師連れてきてやる…!」

「だが…。医師など…連れてきたところで…」

「腑抜けたこと言ってんじゃないよ!戦士だろ、あんた!」

ルツィエは片手でスノヴィットの手綱を握り、荒っぽく片足で彼女の腹部を蹴った。

元よりスノヴィット自身も急ぐつもりで、すぐに駆け出すと森を抜け、健闘と勝利を祝う宴が始まっている開けた南門へと飛び込んだ。

どんな速度でこしらえたのか、いつの間にか南門の周辺に適当にテーブルクロスの敷かれた長椅子が持ち込まれ、花々と料理が並んでいた。

人々は急に対戦相手の馬だった白馬に乗ってその場に飛び込んできたルツィエに驚いた。

「おい!医師!医師はいないね…!?」

人々の間に飛び込んだが、人嫌いでストイックな医師がこのお祭り騒ぎに参加しているとは思えない。

鼻息荒いスノヴィットが跳ねるように落ち尽きなくその場を一回転する間、ルツィエはその背から周囲を見回したが、やはり医師はいないようだ。

確信すると、彼女は手にしていた槍をその場に投げ捨てて、手綱を両手で持ち直すと再びスノヴィットの腹を蹴った。

スノヴィットは彼女に指示された通り、すぐに加速に入って町の主道を走り出すと、町外れに住んでいる医師の元へと飛びだしていった。



医師は店の外にこそ出なかったが、窓の内側から御者と旅人の接戦を眺めていた。

金銭では動かない医師に診てもらうには、一筋縄ではいかない。男なら勝負を挑んで彼に勝たなければならないし、女なら彼の興味を引くような、例えば、珍しい品を差し出すなどして、漸く診察を行う。

実に面倒なのだが、今日ルツィエが行った上空の一戦は、既に彼を満足させていたらしい。

事情を話すとすぐスノヴィットに乗るルツィエに付いて飛んでくると、ローグリールの座り込む森へと来てくれた。

服屋と発明家の協力がいると医師が言うので、ルツィエは慌ただしい彼女の様子に疑問符を浮かべていたスレイプニルの襟首も捕まえて事情を説明し、拒否する彼の尻を叩いて半ば強引に手伝わせると、すぐに彼らも連れてきた。

医師が服の仕組みを解析し、発明家がそれを模した部品をつくり、服屋がそれを織り込むのには、どんなに急いでも二週間はかかるという。

一ヶ月見積もってくれるとありがたいという話だ。

「でもほら。直るみたいだよ。やったじゃないか、あんた!」

翼の着いた白い衣を脱いで医師に診てもらっている傍ら、服屋が急遽持ってきた、サイズの大きな薄手の白いシャツと黒いパンツに身を包み、ローグリールは嗚咽の残る喉と涙の乾かない目を前髪と片手で覆って何とか隠しながら、スノヴィットの影に隠れるように不安げに立っていた。

そんな彼女の背中を片手で勢いよく叩き、ルツィエは我が事のように笑った。

森の一角でそんなことをしている勝負の主役たちを無視して、町人たちの祝いはその日の晩遅くまで続いた。



一時的に翼をなくして空を飛べなくなったローグリールは、白い衣の代わりができるまでルツィエの家に居候することになった。

彼女にはやはり宿屋に泊まるという感覚がなく、巨木で眠りたくても翼がなければ枝の上に登れもしない。仕方なく、ルツィエの家に世話になることにした。

結い上げていた銀髪を下ろし、服屋の貸してくれた簡易なワンピースを身に着けると、彼女は見違える程に女性的な美人だった。

結い上げていた髪は結い癖がついており、緩く波打っているが長さは腰まである。銀の睫の中にある真っ青な瞳は澄んでおり、今のように裾が広い服を着れば、腰の細さがよく分かる。

彼女をこのまま男嫌いにしておくのは、世の男たちの大幅な損失な気がしてならない。

「驚いた。あんた、すんごい美人だったんだね…!」

「…」

褒め慣れていないローグリールはルツィエにそう言われてもどう反応して良いか分からず、無視してカップにジュースを注いだ。

場所は例の湖畔だ。

木の陰に敷き布を敷いて、ルツィエは休日を満喫していた。

名勝負を見せつけられた町人たちはすっかり満足してしまい、勝負後の憩いではないが、ルツィエに少し休暇を与えるべきだということで満場一致した。

一致はしたが、勝負の次の日こそ一度も呼び出しがなかったが、二日三日と経つと、やはりちょいちょい馬車が必要になる時もあるようで、時折ベルが鳴り、その都度彼女は馬車を出していた。

だが、やはり日々と比べれば、その数は随分少ない。

御者の仕事が嫌な訳ではないが、一方で自由な時間が持てるのはとても嬉しかった。

適当に買ってあるパンを一切れ二切れ持って湖畔に来るルツィエの休日にローグリールが同行することにより、そのパン一切れ二切れにジャム瓶がプラスされたり、チーズやバターがプラスされたり、焼き菓子の日があったりと、軽食はかなりバリエーションが増えた。

「あんたがいると何だかお上品な気がしていいね。なあ?」

「…気のせいであろう」

布の上で足を伸ばして寛いでいるルツィエの隣で、背を向けて座っているスレイプニルはふいと顔を更に背けた。

ルツィエを挟んで彼とは反対の場所に腰掛けているローグリールも、つんと目を伏せる。

彼女はルツィエにグラスを渡したが、過去二回注いで二回とも口を付けなかったスレイプニルの分は、最早用意をしなかった。

すぐ傍で伏せているユージンは、彼女が乙女である以上、ルツィエほどではないがそれなりに好意は持っており、彼女がルツィエの部屋で暮らすことに対して、スレイプニルほど反対はしなかった。

スノヴィットは水馬であるカルピエとすっかり親しくなり、女同士で話すことが尽きないのか、少し離れた木陰で語り合っている。

「いやー。それにしてもさあ…」

グラスを片手に、ルツィエは半眼で正面の湖畔を見据えた。

丁度湖の向こう側を、主人を背に乗せて駆けるウラヌスが見える。

彼は悲願が叶い、昇華した脚でもって、湖どころか町の周囲をぐるりと一周しては、人間にはとても経験できない風と疾走を、主人に捧げていた。

本当に颯爽と走っていた。相当速い。

何より意欲的であって、立ち居振る舞いが、ルツィエが乗っていた時とは全く違っていた。

「あんにゃろ…。ほんっとに嫌々走ってやがったな」

「嫌々というよりは、渋々であったのだろう」

『あんなものだよ、ルツィエ。決めた人がいる馬というのは。…僕だって、他の人を乗せて走る気にはならないね。君だけさ』

「そんなもんなのかねえ…」

「お主とて、見ず知らずの他人を背負いたくはなかろう」

「いいや。あたしは全然平気」

「…」

『知ってる人と知らない人だったら、どっちを背負いたい?』

「背負う必要があるんなら、二人とも背負うさ」

『…うーん』

格差を目の当たりにして少々落ち込んでいたルツィエだが、スレイプニルやユージンはそれが当然のことだと考えているようだった。

そして落ち込んでいる彼女に対して格好良く慰めようとしたが、それはなかなか至難の業が必要なようだ。

こういう話題を出せば、如何に馬がプライド高い種族なのかがよく分かる。

ウラヌスはルツィエたちに見向きもせず主人に夢中だが、ルツィエたちもそれを邪魔する気はなかった。

時計屋が期限を決めており、彼の主人はやがて帰らなければならない。

それを聞いた当初、ウラヌスも絶対に着いていくのだと声を上げて宣言したが、それは無理だった。

あまりにも場が喝采で満たされていてすぐには分からなかったが、勝負が終わってすぐ、審判は再試合を詩人に提言していた。

ウラヌスの昇華は疑問が残る。跳ね馬なんて聞いたことがない。

二頭とも昇華したとしても、その特性が違いすぎていて、スノヴィットに不利であるように考えたからだが、他ならぬローグリールが、私の負けだ、再試合は結構だと詩人に申し出た。

理由がどうあれ、人間が引いた馬に、昇華した馬を引いて勝てない時点で敗北だと、彼女は暫くの間落ち込んでいた。

昇華をしたように見えて、ウラヌスはやはり、普通の昇華をしたわけではないようだ。

そもそも背に乗せていたのが人間のルツィエである以上、有り得ない現象だった。

神馬となって空を駆けられるようになったスノヴィットと違い、ウラヌスは地上を凄まじい速度で跳ね駆けることができるようにはなったが、空を駆けることはできなかった。

跳ね上がることはできても、足場となる固体がなければ空へ駆け上がることができない。

この現象を、町の人々に話題としてあちこちで話し合われ、中には研究しようとした者までいたが、鍵屋がぽんと声を上げた。

「え、何?理由付けんの? …何で?奇跡でいいじゃん。駄目なの?」

軽い一言だったが、人々は不思議と、それもそうだと彼の理由で妙に納得した。

ペガソスが引く九番馬車は小さく、空を行く。

空に上がれないウラヌスは着いてはいけない。

彼は半狂乱になって吠えたが、そんな彼を主人がゆっくりと、彼の額の星を撫でて諭した。

また会えると思っていた自分の勘は当たったと、彼がいつまでも自分を想い慕ってくれているのは分かっているよと、言葉が通じないはずの愛馬に対して、主人は今まで体裁を気にして言葉にしなかった思いを、一つ一つ音にして、彼に語りかけた。

ウラヌスは静かに聞いていたが、終わりの頃になると涙を流し、初めて主人の首に鼻先を寄せて甘えてみせた。

主人は子供でもあやすかのように彼を宥め、そうして彼らは、今度こそ、覚悟を決めて、今生の別れを果たした。

「あんたに出会えて、幸せだってさ」

ルツィエがウラヌスの言葉を主人に伝えると、主人は柔らかく笑ってウラヌスの額を撫で、低く静かに、満足したように呟いた。

「ええ。今のは、聞こえましたよ」

…と。



その日の夕方。

時計屋が懐中時計を一つ持って、ルツィエの家を訪れた。

ルツィエは空飛ぶ九番馬車の御者台に登ると、隣に時計屋を座らせ、馬車にウラヌスの主人を乗せてペガソスの手綱を握った。

ローグリールがいる手前馬体には戻れなかったが、スレイプニルも馬車の周囲を駆けると、ウラヌスの主人を見送るために付いていった。

馬車は空へと走り出し、ウラヌスは馬車を見上げながら大地を駆けた。

途轍もない距離を、段々と小さくなる馬車が見えなくなるまで森の中を走ったが、とうとう見えなくなって足を止め、暫く佇んでから振り返って帰り戻ると、走った距離を無視するようにすぐに湖畔へと繋がり、カルピエやスノヴィットやユージン、他の馬たちも、一同に彼を迎えると、声をかけた。



遠い東の地で戦士した一人の男がいる。

彼は懐に、家を出る時には持っていなかったはずの、愛馬の毛を入れた袋を抱えて戦死した。

また、不可思議が密集するある町では、首に鈍色の小さなボタンを下げた茶色い馬がいる。

足場が悪ければ悪いほど、どんな馬よりも速く走れるが、彼は二度とその背へ人を乗せることはなかった。

昇華を果たしたが、神だろうが誰だろうが乗せたくはないと主張する彼は、御者の仕事を手伝って馬車を引くことを引き受け、その代わり労働を宿代とするとルツィエに伝えた。ルツィエは勿論、二つ返事でオーケーした。

町に、また新たに一台、最速の馬車が増えた。

あなたが乗り物酔いしにくい体質で、急ぎの山越えをする必要があるのなら、傾斜をものともせずに跳び駆けるこの馬が引く馬車が最も良いだろう。




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