表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

御者:ルツィエ・ゾルティエ

彼女が乳房を切ったのは、齢十四の時だった。

村の慣習からすれば、少し遅くもあった。

思ったよりも痛かった。

乳房を切り落とすのは戦士としての誕生でもあったので、洞窟に響く痛みの絶叫は大きければ大きいほど良しとされた。

村の戦士たちの声は、大概、この時に低く掠れる。


武器を持ち、馬で駆け、男の首を貫いて血を浴びる。

戦での勝利が何よりの誇りであり勲章。屈強な男を殺せばその陰茎を切り取って革袋に入れて持ち帰り、仲間たちと見せ合って数や大きさを競い合った。

褐色の背中に彫られた翼の紋章。

この辺りでは珍しい金髪と碧眼。

彫られた翼の中に黒い模様を入れた彼女は巫女であり、空へと駆け上がる魂が生まれた祭事の際は、魂が迷わぬように聖地への道を示して踊った。やがては村の長になる。

彼女たちに領地拡大などの野心はなかった。

ただ、先人が守ってきた土地を、先人が守ってきた通りに、後人たちの為に守るだけだ。

空の国への入口とされる聖地の山の前に村を広げ、自然の力を借りて慎ましく生活する。その一方で、土地に踏み込んだ者たちと、同胞を捕らえ酷に扱った連中に対しては情け容赦なく攻め込み、殺し、救い出した。

力とは体の大きさではない。体力でもない。

経験と信念と結託だ。

怪力を持つ男を前にして適わないと思ったならば、仲間を呼んで二人でかかればいい。

二人で適わぬのなら五人でかかればいい。

五人で適わぬならば十人で貫けばいい。

経験と信念と結託でいえば、彼女たちは誰よりも優れていた。

しかし、尊いそれらを打ち砕く一発が、やがてこの世に生まれ出た。

それは西の連中が持ち込んだ。

槍も矢も届かない遠くからたった一発。

馬に乗ってもいない者から、たった一発。

神の矢の如く、一発。

一人では適わないからと十人が向かっていっても、二十人が向かっていっても、勝てなくなった。

力は体の大きさでも、体力でも、経験でも信念でも結託ですらなくなった。

発砲音が村に近くなり、彼女は断腸の思いで逃げろと戦士たちに命じたが、誰一人逃げる者はなかった。子供も老人も残った。

彼女が一人で村に残るであろうことを、誰もが理解していた。

発砲音と喚声が近づき、音が近づいたと思ったらまだ距離があるというのに、次々と殺された。

火が放たれ、家畜が捕られ、熱気と奇声と悲鳴の中、聖地の入口で死を覚悟していた彼女の腕を、泥にまみれて駆けつけた親友が掴んだ。

親友は敵の馬車を一台、馬共々奪ってきた。

荷台には敵の残された武器や食料がそのまま積んであった。

「奴らが来る!乗れ!」

「ふざけるな!逃げろってのかい!?」

頑なに拒否する彼女の腹部を打って荷台に乗せると、親友は馬を走らせた。


気を失っていた彼女が目を覚まして勢いよく半身を起こすと、既に見慣れぬ森の中だった。

余程走ってきたのか、周囲を見回しても、既に彼女たちが聖地としていた山は見えなくなっていた。

彼女をここまで逃がした親友は御者台で虫の息だった。

泥に汚れて見えなかったが、始めから腹部に傷を負っていた。

今では泥の色よりも血の赤が強いため、傷の深さがよく分かった。口先だけの希望を音にして親友を慰められるほど、彼女は日々を軽く生きてはこなかった。

彼女が慌てて御者台に乗り上げてその手を握ると、親友は青白い顔で屈託なく笑った。

村の巫女であるあんたが死んだら、みんな聖地へ還れなくて迷子になる。

何人死んだと思っているんだ。みんな迷子にする気なのか。死んだら殺すよ。

そう言い残して、親友は息を引き取った。

三日三晩、彼女は硬くなった死体と肩を寄せ合い、御者台で過ごした。食事もしなければ排泄もしなかった。

四日目の朝、偶然通りかかった画家が彼女と死体を見つけ、彼女を説得して手綱を握らせ、景色の良い場所へ案内し、そこに死体を埋めて花を飾った。

別れを惜しみ、死体を埋める前に、親友の片手の指を、先端から手首まで切って持ち袋に入れる際は、画家はしっかりと顔を背けていた。

画家は彼女を森の奥にある町へと送ってもらう傍ら、案内をした。

町人たちは彼女の持ち込んだ馬車と馬を見て喜び、親切に家や食料を用意してくれたが、始終放心状態であった彼女の中で、その当時の記憶はとても薄い。

彼女がしっかりと記憶を再開させたのは、親友の指から肉を削ぎ、洗って干して、削って、穴を開け、紐を通して首に掛けた時からだった。

花をあしらった骨が鎖骨に落ちる丁度そのタイミングで、木々の間から、ここ数日様子を窺っていた一角獣が彼女へと歩み寄った。

血の臭いなど問題にならない強い乙女の匂いに誘われ、一角獣はやんわりと声をかけた。

額にある角から思念を読み取る彼は、彼女の周囲に漂う何十人という意思の渦の中から一つを選び取った。

『ねえ君。花よりも、小鳥がいいと友人は言っているけれど、小鳥にしてあげたらどうだろう。細かすぎて、難しいかな』

唐突な一角獣の言葉に、彼女は絶句した。

数秒間硬直し、その後、猛烈に泣き出した。

背中を丸め、土に額を付けて泣き崩れる彼女にそろりそろりと近づき、一角獣は隣に腰を据えた。


彼女は生きることにした。

町には交通手段が乏しく、馬車の普及は大歓迎された。

ほとぼりが冷めたら村の様子を見に戻るつもりでいた。

一度出ようとして出られなくて焦り、一時はパニックになりかけたが、この町が特別な場所だと気付いた時からはそれを止めた。

村よりもこの町の方が、空への距離が近い気がした。

自分を道にして、彼女たちはきっと還れるだろう。








【御者:ルツィエ・ゾルティエ】








親友の骨を小鳥に改造するのは、大きさからして無理だった。

だから花を形取ったそれを削り直し、骨の形を活かして左右に広がる小さな翼を模した。

一角獣に問うとOKサインが出たらしいので、彼女は笑ってそれを首にかけた。

彼女の周囲を漂っていた魂たちは彼女が前を向いたことに安心し、既に空に駆け上がって見えなくなったが、彼女は今でも、多くの者たちと一緒にいるつもりでいる。




***




町人たちを証人としてあれだけ大々的に行った決戦宣告は、その日の晩には乗りの悪い町人たちの耳にも広まり、すっかり大事になった。

勝負の日まで普通に仕事をこなそうとしていた御者は、情熱ある一部の町人たちによって仕事を剥奪され、そんなことよりも乗馬の技術を上げるよう迫られた。

彼らに圧される形で、ルツィエは毎日乗馬の練習をすることにした。

尤も、元々乗馬の得意な彼女のレベルになると、彼女自身が行う練習といっても筋肉トレーニングや体力基礎値の向上、イメージトレーニング以外は大したことはできないし、あまり意味もない。

それよりも、乗る馬がどういう馬で、どういう性格で、どういう走りが得意なのか、その特製を見極める方が重要になってくる。それによって、彼女がどう乗るべきかが決まるのだから。

連日、彼女は休日によく行く、町から少し離れた森の中の湖畔へ割り当てられた茶色の馬を連れて向かった。

勿論、当然という顔で何頭かも付いてきた。

水馬であるカルピエは、元々彼女と一緒に暮らしてはおらず、この湖に住んでいる。

初日は場に慣らすために近くの木に手綱を繋いだが、二日目からは午前中は他の馬たち同様自由に放し始め、その間に彼女は柔軟や簡単な筋力を付ける運動を行い、落ち気味の体力を上げることに専念した。それらの運動は毎晩寝る前も行っているので、今更という気もした。

彼女に割り当てられた馬は実に大人しく、静かだった。

ルツィエを愛して止まない一角獣のユージンは、彼女に一目惚れして以降、彼女を構成する感覚の一部を、自分が属している馬族のピントに無理矢理合わせ、コミュニケーションを取るのに不自由がないようにしている。

彼女が馬たちの声を聞き取れるのはその為だ。

ローグリールはおそらく馬と語れないだろうから自分だけ話せるのは公平さに欠けると、ルツィエは彼に一週間の間は誰とも話せないようにして欲しいと願ったが、一時の勝負の道具として引っ張り出された部外馬に愛する人との会話を邪魔されることが納得できないユージンは、彼女の願いを聞き入れなかった。

『そんなことは気にしなくていいんだよ、ルツィエ。僕が君を愛しているのは僕が君の魅力に惹かれたからで、それは君自身の実力でもある。他人を魅了するというのはね、君。考えてごらん。力なのだよ。だからそのままでいいのさ。僕らと話せる君が君なのだからね』

そう言って聞き入れなかったが、大した問題にはならなかった。

割り当てられた馬は喋らない。一切喋らない。

ルツィエに聞こえないということは、意見を他者に伝えようとしていないということだ。

発しようとしている言葉だけでなく、心情までも読み取れてしまうユージンが、彼の名前はウラヌスだというので何とか名前は知ることができたが、それ以外を読み取って教えてもらうのは気が引け、ルツィエはユージンにそれ以上の情報はいらないからねと断った。

「よし、ウラヌス。おいで」

木陰で昼食を食べ終わって一休みしてから、ルツィエは立ち上がって口笛を吹いた。

木漏れ日に潜んでいたウラヌスが、ゆっくりと日向へ歩んでくる。

茶色の毛並みは艶やかだった。靴下を履いたように四肢の途中から白い毛に変じており、額にも一部白い毛が生えていて、十字の星に見えた。

彼女は彼の首を撫でた。

「この辺には慣れたかい? まずは昨日と同じく、湖を一周してみようか」

ルツィエはウラヌスの背に乗ると、手綱を握った。

軽やかな蹄の音を響かせて、ウラヌスがゆっくりと湖の周りを歩き出す。

大きいが、巨大と表現はできない湖の中央にカルピエが立ち、時計の中心軸のように歩いていく一人と一匹を優しく見守った。

その隣にペガソスも浮いている。

『あの方、素敵な方ね』

顔を寄せてぽつりと内緒話のように囁くカルピエに、ペガソスはちょっと注意した。

『連れてっちゃダメだよぅ、カルピエ。普通は泳げないんだからねぇ?』

『ええ、本当に。残念だわ。…けれど、永久に一緒にいられるのなら、死していても良いのではなくて?』

『ダメだよう!』

危険な発言にペガソスは慌てて首を振った。

この町に来てから行うことは少なくなったが、気に入った者があると湖底へ招いて、気付けば水死体のコレクションが出来上がっていたりするカルピエの嗜好は、道徳的には些か問題がある。

特に人間の子供を愛らしいと思うようで、美しく見えて、この湖の底にも数人の幼い子供たちの死体が納められている。

ルツィエと約束してからは水の外で会うことにしたが、子供らを得たのは随分と昔のことなので、隙を見ては啄む魚たちにふやけた細胞は削られ、今では何と表現していいか分からない、大変にグロテスクな物体となっている。

それでも彼女は変わらず子供らを愛しく思うようで、綺麗な水草が咲くと、それを咥えてきては最早原型が分からないその物体らに装飾として飾り立てていた。

それが彼女の愛なのだろうが、生憎ペガソスにはよく理解ができない。

慌てて制したペガソスを、あなたはまだ子供ねと、カルピエは優雅に微笑んだ。

彼女がどことなくうっとりとウラヌスを見詰め、ペガソスがそんな彼女をはらはらしながら見張っている間に、ルツィエとウラヌスは一周を終えようとしていた。

「よし、じゃあ二周目は走ってみようぜ!」

ルツィエは手綱を持ち直し、体重を前にかけた。

ウラヌスが徐々に足のリズムを早め、速度に乗る。

三本の指で順にテーブルを叩くような、そんな颯爽とした音で彼らは二周目を駆け出した。

彼はとても速く駆けることができた。

風を流して走ることができた。



「う~ん…」

眉間に皺を寄せ、ルツィエは呻いた。

一頻り駆け回り、スレイプニルがお茶の用意を持ってきたところで、休憩することにした。

胡座をかいて両手を組み、距離がある湖畔の木陰で休んでいるウラヌスを遠くから見る。

「スレイプ…。あんたどう思う?」

「やる気がないな」

彼女の隣で水筒に入れてきた紅茶をカップに注ぎながら、きっぱりとスレイプニルは断言した。

ルツィエはカップをありがたく受け取ったが、慣れない彼が入れてきた水筒には茶葉も惜しみなく入っていてカップの底にも沈んでいたので、彼女はそのままカップを置いて横髪を耳にかけた。

「やっぱそう思うかい?」

「ああ。…だが、背に乗られること自体に異存はないようだ。飼い馬だな」

「勝負が嫌だったのか…。乗り気じゃなかったのかね。しかし、それにしちゃちゃんと走ってくれるんだよな…」

ルツィエはそこが腑に落ちなかった。

馬の園から引っ張り出したときから、この馬が乗り気でないことは肌で察していた。しかしその一方で、手綱を引けば命令通りに走ってくれる。スレイプニルが言うように、恐らく元々誰かを乗せていたのだろう。

特別な馬種ならともかく、普通の地上馬にしては体格もいい。気高いプライドも持ち合わせているようだ。速さの面でも問題はない。素直に速く、いい馬だ。

ローグリールに割り当てられたあの白馬がどの程度なのかは知れないが、しかし相手も地上馬である以上、このままいけば勝算はある。

だが、もっと奥がある気がする。

彼はもっと、もっと速く駆けることができるのだろう。ルツィエは直感でそう感じていた。

スレイプニルの表現が実に的確だ。

やる気がない。

この一言に尽きた。

「何か不満があるのかねえ…。もちっとやる気出して欲しいもんだが」

「十分であろう。地上馬であそこまで加速できれば張り合える者も多くはあるまい。…スタミナは測ったのか」

「ああ。そっちも問題ないよ。よーく走るよ。馬鞭も、ちゃんと指揮棒だと理解してるよ。痛覚に反応してる訳じゃなく、ありゃちゃんと頭使って走ってるね」

「ならば良かろう」

「…って、あんたねえ」

あっさりと納得するスレイプニルに呆れて、ルツィエは半眼で隣の青年を睨んだ。

負ければ連れて行かれる身の上で、彼はまるで他人事のようにこの勝負を見守るつもりでいるようだ。

パートナーである彼女の勝利を確信しているのか、相手が負けるに決まっていると決めつけているのか、一切焦らない。

勝負に身を委ねるその姿勢は潔いが、ルツィエは折角この町で出会った彼が出て行くのは極力避けたいと当然考えているので可能な限り勝ちにいくつもりだが、本人がこの調子だとやる気が削げる。

視線を上げ、再びウラヌスの方を見ると、木陰で休む彼にカルピエとペガソスが歩み寄って何かを話しかけているようだったが、やはり無視されているようだ。

他者を拒絶している状態で、他者を背に乗せ、他者のために実力を出せというのも無理な話だ。

「…ちょっと、サシで話すか」

短い髪の後ろを下から片手で梳きながら、ルツィエはぽつりと呟いた。



日が傾き、町と森が朱色に染まり始めた頃、ルツィエは馬たちに先に戻るよう頼んだ。

スレイプニルはそのままその場にいたそうであったが、ペガソスの方はウラヌスに最初から最後まで完全無視されたことに対して落ち込んでおり、彼女が戻ってなと言うと、とぼとぼと頭を垂れて弱々しく翼を広げ、地上一メートルばかりの空を悄気て帰っていった。

そんな彼を案じてか、スレイプニルも一緒に帰り、場所が湖畔である以上カルピエだけはそこにいた。

次第に暗くなるだろうから、予めその場に火を焚き、その火を挟んでルツィエはウラヌスと対峙した。

茶色いこの馬は火に慣れているようだ。彼女が呼ぶと、素直に焚き火へと寄ってきた。

「まあ座りな、ウラヌス」

一声かけてからルツィエはその場に胡座をかいた。

カルピエもその隣に腰を下ろしたが、対峙したウラヌスは彼女の言葉に甘えずそのまま佇んでいた。

夕空とは違う朱が、彼らの表面を不安定に染める。

「ちょっと話さないかい? 気付いたかどうか知らないけどね、あんたらの言葉があたしには分かるからさ、お喋りくらいできるのさ」

聞いているのかいないのか、ウラヌスは鼻先に留まった虫を、首を振って追い払った。

カルピエが小さく笑う。

「あんたは速いいい足してるね。あんたとならこの勝負勝てると思ってるよ。…でも、今回は相手も同じ神馬候補だ。一筋縄じゃいかないのは、分かってるんじゃないかい?」

問いかけに対しても、彼は無反応だった。

揺らめく火を眺めるだけで、ため息も吐かなければ呆れもしない。

無反応ほど厄介な反応はない。まだ不快を前面に出された方が相手の気持ちが理解できる。

短気なルツィエは少し苛立ちながら続けた。

「あたしは遠回しな探り合いが苦手でね。ストレートに言わせてもらう。あんた、何が気に入らないんだい」

『まあマスター。それはあまりにも喧嘩腰ではなくて?』

彼女の相変わらずの物言いに苦笑しながら、カルピエが口を挟んでやんわりと主人を窘めた。

長い町の生活の中で、彼女とて馬たちと喧嘩することはある。

そんな時、必ず割って入って仲介役をするのは、カルピエの役割だった。

自分ががさつな性格であることを自覚しているルツィエは、水馬の言葉に時々自分を見直すことがある。

今の発言は彼女にしてみればいたって普通に聞いたつもりだった。喧嘩腰などと言われ、予想外の評価に内心慌てる。

「喧嘩腰…?そうかい?」

『ええ。あまりにも』

律儀に言い重ねてから、カルピエは彼女の隣でウラヌスへ視線を向けた。

『あなた。あなたは颯爽と走っていますけれども、とても沈んで見えますわ。何か思うことがおありなのではなくて?』

柔和なカルピエの言葉に、ウラヌスは彼女を一瞥した。

そのまま無視を続けるか発言するか、僅かに彼の中で迷ったのだろう。

一度俯き、間を開けて顔を上げると、彼はルツィエではなく彼女へと鼻先を向けた。

『…その女はお前の主人か』

スレイプニルと似通っている、低く重い声だ。

誰にも媚びない、そんな声。

彼が歩み寄りを見せたことで表情を明るくするルツィエの隣で、カルピエは優雅に頷いた。

『ええ。とてもいい方よ。何か心配事がおありなら、きっとあなたの力になってくれるでしょう』

『…ふん』

ウラヌスは尾を揺らすと、ルツィエを向いた。

馬独特の長い睫の奥から、力強い双眸が彼女を睨む。

目色も珍しくもないはずが、赤目のスレイプニルよりも眼力があった。

『この度の勝負、事情は理解しているつもりだ。お前が負ければ、あの黒馬は敵の手に落ちなければならない。…奴が神馬なのか何なのか俺には分からんが、同じ馬族として協力するのが良いのだろう。女に跨がれるのは屈辱だが、甘んじてお前を乗せて走ろう』

屈辱の部分でルツィエは少し言い返そうとしたが、続けられる言葉に反論を放り出して身を乗り出した。

「よし。それじゃあ…」

『だが、本気を出すかどうかは、俺次第だ』

更に続けられた言葉に、かくりと肩を転けさせる。

「あんたねえ~…」

『あなた、どなたか心に決めた方がいらっしゃるのね』

「あん…?」

『…』

横からカルピエがそっと尋ねた言葉に、ウラヌスは俯いてゆっくりと瞬きした。

また彼の中で言葉にすべきかどうか少し迷い、それから再び顔を上げた。

『私はウラヌス。男爵殿の馬である』

ウラヌスは、きっぱりと一言、名乗った。

『男爵殿がお乗りになれば、俺は風を切るだろう。あの様な白馬に負けるものか。俺たちは人間のために走るのではない。自身のために走るのだ。お前たちが我々を選ぶように、俺たちも人間を選ぶ』

「つまり、あたしは気に入らないってことかい」

やはり喧嘩腰に聞こえるルツィエの言葉を、ウラヌスは冷静に受け止めた。

短く払うように首を振る。

『お前は良い乗り手のように思う。素直だ。初めて俺に乗った時も、一切俺を試そうなどとはしなかった。大方、初めて背に乗る者はどこか恐怖を抱くのだ。俺が暴れないかどうか、従う馬なのかどうかと、そればかり考えているのが手に取るように分かる。探るのならば乗らなければいい。不愉快だ。…そういう連中は悉く振り落としてやったがな』

『まあ。怖ろしいこと』

話を聞いていたカルピエが品良く笑う。

水辺を歩く人間を誘い込み、湖底へ持ち帰る彼女とどちらが怖ろしいかという話は、本人に自覚がない以上不毛な話になるだろう。

ルツィエは小さく肩を竦めた。

『お前が悪いという訳ではない。ただ、その一段上にもう一人、俺には主人がいるのだ。…案ずるな。勝負の当日も、俺は速く走れるだろう。それなりにな』

そうして背を向けると、軽く尾を揺らして火元を離れ、夜闇の中へと消えていってしまった。

帰る際に呼べば来るのだろうが、すぐに呼び戻す気にはなれず、ルツィエは両手を後ろに着いて天を仰ぎ、大きなため息を吐いた。

説得は失敗だ。

彼の今の一言で、希望があっさりどこかへ飛んで行ってしまった。

先程のたったの一言、男爵殿の馬だという名乗りで、彼の中にある複数の決意が垣間見えた。

ウラヌスは主人を持っていた。

そして今も、男爵と呼ぶその主人に忠誠を誓っている。

勿論、馬の園にいた彼が主人と一緒にいたはずがないだろうから死別したのだろうが、今も尚、自分の背はその男爵の席だと確信している。

彼の疾走は、主人が背にいて手綱を握ってこそなのだろう。

どんな馬でも乗り手の好き嫌いはあるものだが、特に主人を決めてしまった馬というのは、他の騎手にしてみればとても厄介だった。

まず言うことを聞かない。

走ってくれたとしても、速度とやる気に著しい差が見られる。今の彼のように。

死別して馬の園に運ばれても未だに心に決めた主人を想っているのなら、残念ながらおそらくルツィエが何を言っても無駄だろう。

馬にとって、神馬になることは誇りのはずだ。

魂になって園に放された馬たちは、神々を背に乗せればその神力が分けられる。

個体差はあるが、一定の神力が充たされれば、途端に神馬となって生まれ変わる。

この調子では、ウラヌスは実力があるにもかかわらず、神馬になることも拒み続けるのだろう。

自ら園を出て行けない名馬たちの魂は永久にそこに留まる。

いくら待っても、主人と再会などできるはずもない。

死は常に一過性だ。特に動物と人間には。

「困ったね…。あれじゃ、たぶん勝てないな」

ウラヌスは言うとおりそれなりに速く走れるだろうが、相手も神馬候補だ。

そしてたぶん、ウラヌスほど堅い性格ではなく、特別な事情がなければ半神とはいえローグリールというヴァルキュリアに乗ってもらえるのだ。やる気も出るというものだろう。

『マスター。あの様子では、ご主人と意図せず引き裂かれてしまったのではなくて?』

「まあ、たぶんそうだろうね…。寿命とか、戦とかで一緒に死んだわけじゃないんだろうさ。納得してない感じだ。…きっと、最期まで一緒にいたかったんだろうね」

最期まで共にいるつもりでいて、それを裏切られた時の絶望は重いものだ。

何かを切っ掛けに絶望を希望に変換できればいいが、一般的にそれは難しい。ユージンが声をかけてくれなければ、長い間廃人であっただろう彼女のように。

ルツィエの過去を聞いたことがあるカルピエは、慰めるように鼻の頭で左肩を軽く押した。

ルツィエは笑って彼女の額を撫でた。

『あの方のご主人、どのような方なのでしょうね。…あの方、あまり人間がお好きには思えませんもの。余程立派な方だったのでしょう』

「ははは。確かにね。あいつの相方がどんな奴だったかなんてのは、探偵に頼めば…」

そこまで言って、ルツィエは己の発言にはたと双眸を瞬かせた。

そう。探偵に頼めば――。

「…すぐに分かるな」

片手で顎を掻きながら呟くルツィエの膝に頭を寄せながら、カルピエはやんわりと微笑んで目を伏せた。



翌日、ルツィエはスレイプニルとユージンを連れて町の主道を歩いていた。

ウラヌスには暇を出してある。

慣れない地だ。いくら勝負の準備期間中とはいえ、休息は必要だろう。

町には特に柵や塀を設けているわけではない。周囲の森から町に入ろうとすると勿論至る所から入ることができるが、木造の二本の柱の上に横書きの看板を立てかけてちょっとした入口を示している場所が、南北に一カ所ずつ、東西に三カ所ずつある。

町人たちは全く門ではないそれを、門と呼んでいた。

ルツィエの家は南門を入ってすぐ真横に曲がり、進んだ先にある木々の下にあるが、南門から主道を真っ直ぐ歩き、行き着く先で終いに突き当たるのが北門ではなく時計塔だ。

町のシンボルになるものを3つ上げよと言われれば、個性的な建物や店が多い中で、町人たちの大部分が恐らく、中央の大きな噴水、西の石造りの鐘楼、そしてこの北の時計塔をあげるだろう。

尤も、一応“町”の呼び名であるものの、この中心地集落から少し森へ入ればまた特異な建築物は多いので、結果も違ってくるだろうが。

高く太く、天辺付近に巨大な時計がかかっている時計塔。

この町の時計塔は、距離を置いて見れば見るからに時計塔だが、傍まで行くといくつかの違和感に気付く。

まず素材だ。木造でもなければ石造でもない。コンクリートとも金属とも少し違う。

凹凸なく錆もなく、ただ一途に白いだけの塔。他の店と違い、汚れも付かないのは、建物自体に内臓されているシステムにより定期的に自家清浄を行うからだ。

更に、一階部分が店になっている時点で、時計塔という呼び名は不適切なのかもしれない。

こちらは木造ドアで、金属の取っ手が付いている。

ドアの傍には典型的な時計をあしらった鉄看板がかかっていた。

店の前まで来ると、ユージンは自ら足を止めて外で待っているよと宣言した。

彼がルツィエの傍から離れようとすることは希だが、この建物だけはどうにも苦手で入ろうとはしなかった。入れないと言ってもいい。

スレイプニルは別段違和感を感じず、珍しいことがあるものだとユージンを一瞥すると、ルツィエに付いて店の中へと入ることにした。

ドアを開けると、上に付いていた小さなベルが、チリンと可憐に鳴った。

「いらっしゃい」

腕時計や懐中時計、砂時計などの並んだカウンターの内側で、時計屋はいつものようにふんわりと微笑んだ。

「こんにちは、御者さん。珍しいですね」

「よう、時計屋。邪魔するよ」

「どうぞ。今お茶淹れますから、そこに座ってくださいよ」

「…」

時計屋は掌を上にして指を揃え、店内一角にある、窓際の小さなテーブルセットを示した。

白いレースのクロスを敷いた丸テーブルの中央には、白い野草が生けてあった。

初めて店に入ったスレイプニルは、テーブルセットへ向かうルツィエの後ろでちらりと時計屋を見たが、目が合ってにこりと微笑まれ、彼は素早く視線を流すとそのまま店内を見回した。

店の中には数々の時計が並んでいた。

カウンター内部に納められているものの、カウンター後ろの壁や、正面のガラス窓とドアを覗いた左右双璧も形や大きさや色の違う時計が各々自己主張をしながら並んでいる。

大きな古時計は壁際に一列に並んでおり、奥に見える上り階段の広い一段一段にもその列は続いていた。

ルツィエとスレイプニルが席に座ると、時計屋はテーブルにティセットを用意した。

「どんな時計をご所望ですか? ストップウォッチかな。いいのがありますよ」

「いや、違うんだ。実はあんたに人捜しを頼みたくてさ」

「人捜し…?」

思わぬ依頼に、時計屋は首を傾げた。

「それは探偵さんに頼むべきだと思うんだけど」

「それがあのおっさんいないんだよ」

ここに来る前、ルツィエは一番に探偵を訪ねたが、生憎彼は留守だった。

鍵がかかっていると言うことは仕事中なのだろう。

当然だ。すっかり忘れてしまっていたが、彼女はつい数日前、ローグリールと会う前日に彼を依頼主と一緒に馬車に乗せて送った。

まだ探偵はベルを鳴らしていない。仕事が終わらないのだろう。

「おっさんの代わりができるのは、あんたくらいだと思ってさ」

「…時計屋が探偵の代わりになるのか?」

黙っていたスレイプニルがルツィエに尋ねた。もっともな疑問だ。

ルツィエは彼に笑いかけた。時計屋も笑った。

「今回のケースはたぶんね」

「僕っていうより、時君なんだけどね」

“時君”という聞き覚えのない単語に首を傾げたが、スレイプニルは彼とその周辺に対してさほど興味がなかったので、続けて尋ねるのを放棄した。

「悪いけど、頼めないかい?」

「うーん…。内容によるかな。僕に出来ることなんて、たかが知れているし…。因みに人捜しって、誰を?」

「今度の勝負であたしのパートナーになった馬の主人だよ」

「ああ、あの茶色い馬の…」

「そうそう。ウラヌスって名前なんだけどね、主人以外は乗せたくないみたいで、本気出さないって意固地になってるんだ。ちょっと訳ありみたいでね。競走馬としてでも、この町に入ってきたのは縁あってのことだろ? ここにはおっさんやあんたみたいなのがいる。一目でいいから、あいつのこと主人に合わせてやりたくてさ」

「ウラヌス…? へえ…」

ウラヌスの名を聞いた時計屋は、何故か少し意外そうに瞬いた。

それから何かを考え、数秒後にルツィエに尋ねる。

「ねえ。彼の出身は何処なのかは聞いてるの?」

「ん? …ああ、いや。それはまだ聞いてないな。何処なんだろうね」

「それじゃあ、君のお願いを引き受けるにあたり、条件を付けよう。その馬がフランスの出身で、馬主さんが日本の人だったら、思い当たる人がいるよ。そうしたらかなり絞り込めて探すのは楽だろうから、僕でもできるかも。…まあ、可能性的にはかなり低いし、有り得ないと思うけどね。もし本当にそうだったら、引き受けるよ」

「ちょっと待ってくれ。メモするから」

ルツィエは慌てて胸ポケットを探ったが、紙もペンも出てはこなかった。

時計屋がカウンターからメモ紙と羽根ペンを持ってきて、彼女に差し出した。

彼女は薄いメモ帳に、ペンを添えたが、今聞いた単語を既に忘れてしまった。聞き慣れない単語というのは、耳に残らないものだ。

「何て国だって?」

「“フランス”と“日本”」

「ん? えーっと…?」

かなり歪な殴り書きで、彼女は彼女の文字で“ふれんす”と“にふん”と書いた。どちらも彼女には聞き慣れない単語だった。聞き慣れない単語というのは、耳にも残らないし書き慣れないものだ。

時計屋もスレイプニルも、彼女が彼女の国の言葉で書く文字が合っているかどうか分からない。彼らは温かく彼女がメモするのを見守っていた。

メモが終わると、彼女はそれを伸ばした両手で持って正面に掲げた。

「よし。聞いてくるよ」

「違うと思うけどね。記憶力にはちょっと自信があるけど、本を読んだの随分前だからなあ。僕も図書館で調べてみるよ」

「おっさんがさっさと帰ってくりゃいいんだけどね。どちらにせよあまり時間がないからさ」

「時間で言うなら、僕には一切期待しないでくださいよ。もし調べるとしても、もしかしたら数日とかかかるかもしれない。下手をすれば勝負後になったりしますよ」

「そしたらそしたでいいさ。勝負の勝敗とは別問題として、あいつに大切な人を会わせてやりたいんだよ」

ルツィエが言うと、君は優しいねと時計屋は笑った。

お茶をご馳走になってから時計塔を出ると、塔の前で佇んでいたユージンがすぐに出迎えた。

『彼が知っている人だといいね、ルツィエ』

すぐにルツィエの胸中を読み取ったユージンはそう声をかけた。

スレイプニルはこのまま真っ直ぐ家に帰るのかと思ったが、彼女とユージンは町を西へ進み、森へと繋がる小道に向かった。

「帰らないのか」

「何言ってんだい。家を出る前に言っただろ。あんたに頼みたいことがあるから付いてきてくれって」

小道の途中でスレイプニルを振り返り、ルツィエは片手を軽く上げた。

確かに、部屋でのんびりしていたスレイプニルは彼女に頼み事があるから着いてきてと言われてここまできたが、今の所何も頼まれていない。

「この森の奥に塔があるからね。勝負当日、雨だったら嫌だろ? 歌姫に晴れの予約をしておこうと思って」

歌姫に会ったことのある町人は少ない。スレイプニルもまだ会ったことがなかった。

そもそも彼の場合、活動時間はその殆どが夜で、仕事と散歩以外に特別時間を割かない。町の各場所に町人たちを運ぶことがあっても、彼自身が店の中に入ったり、店主たちと会話をしたりということは殆どない。

歌姫の住まう塔はひたすらに高く、そして出入口も階段もない。

空を飛べないルツィエが歌姫に会いに行くには彼かペガソスの足が必要になるのだが、速度によると摩擦により雷を発するスレイプニルよりも、どちらかと言えば静かに飛ぶペガソスの方が、塔へ向かうには適していた。

しかし今日、彼は不在だ。となれば、スレイプニルに頼むしかない。

「歌姫が天気を決めているのか」

「歌姫っていうか…。まあ、そうだね」

スレイプニルの質問にルツィエは指先で頬を掻きながら曖昧に答えた。

入口のない塔に駆け上がり、上階に住まう歌姫に勝負当日を快晴にするよう依頼すると、彼女はすんなりと了承した後、いそいそとお茶とケーキを用意し、久し振りの訪問者を歓迎すると嬉しそうにもてなしてくれた。

あまり語り合ったことはないが、ルツィエは気さくに彼女と雑談し、最近の町の様子や新しいく住人が増えたこと、指定した日に勝負があるから、上から応援して欲しいなどということを話題に出して、日暮れまで彼女の傍にいた。

歌姫は必ず応援するとルツィエに誓い、勝負の日は快晴で決まった。

家に帰ってすぐ、ルツィエはウラヌスを呼んで出身国と主人の国名を尋ねた。

メモを片手に国名を読み上げる彼女の質問を聞き、彼は暫く無言だった。

“ふれんす”は何となくフランスのことであろうとすぐに分かったが、“にふん”の方は、難解であるとかどうとかよりも呆れたようで、彼は半眼で鼻を鳴らしてため息を吐くと、にふんで合っている、と応えた。

ルツィエは満足そうに頷くと、すぐさま時計屋の所へ駆け戻り、捜索を依頼した。


翌日、彼はルツィエからペガソスと一人乗りの馬車を借りると、差している時間の違ういくつかの懐中時計をトランクに並べて、町の外へと出て行った。

彼が勝負の日までに帰ってくることを願ったが、勝負日前夜になっても、ついに帰ってはこなかった。



「ウラヌス。おいで」

約束の日前夜の湖畔。

ルツィエが森に向かって声を張ると、木々の間からウラヌスが歩んできた。

別段警戒しているわけではないのだろうが、ゆったりとした足取りはどこか探るようでいて、彼女に懐いているわけではないのだと意図的に示したがっているようにも見えた。

適当な切り株に腰を下ろし、ルツィエは距離を空けて足を止めた彼に笑いかけた。

「明日がいよいよローグリールとの勝負日だ。体調はどうだい?」

『…』

ウラヌスは口を噤んだまま、頭を下げて尾を振った。

返事がなくとも、聞いていることは分かっている。ルツィエは続けた。

「あんたが本気で走るかどうかは、確かにあんた次第だね。あたしに強制はできないよ。でもね、ウラヌス。聞いてくれ。知っていると思うけど、あたしらが負けたらスレイプニルは連れていかれる。…銀の轡って知ってるかい?」

その単語に、ウラヌスは僅かに目線を上げた。

銀の轡は馬たちの間では周知だ。

付けられたが最後、主人を選べずただ乗り回され、少しでも拒否しようとすると轡が絞まって骨が軋む。

実際、軋んで折れて、死んだ馬もいる。

馬たちは基本的に穏やかでその実往々にしてプライドが高いが、決して浅はかではない。

考えた先、誇りを折って嫌々ながら命令を選んでの生を取るか、死を選ぶかは馬それぞれだろうが、どちらによ怖ろしい話だ。

昔はただの噂話程度に思っていたが、神馬候補として曖昧な存在でいるウラヌスからすると、最早銀の轡は現実的な恐怖だった。

「レイプニルは、昔あれを付けられてたのをあたしが取ってやったんだよ。可哀想に、取った時は赤く膿んで轡の痕が腫れあがってた」

昔を懐かしむように言いながら、ルツィエは足下の小石を拾って湖へと放った。

水面に糸を流したように、水紋が広がる。

『…同情を誘う気か』

スレイプニルの話を持ち出す彼女へ、ウラヌスが低く問うた。

笑って返す。

「まあね。でも、あたしの本心だよ。仲間がいなくなるのは嫌だからね」

『それなりには走ると言っている』

「…ねえ、ウラヌス。あたしには、カルアって愛馬がいてね」

鼻を鳴らして首を背ける彼に、ルツィエは静かに告げた。

彼女が愛馬の話をすることは町人や馬たち相手にも今までなかったが、そんなことをウラヌスは勿論知らない。

だが単純に、愛馬がいたという発言に興味を持った。

あれだけ馬たちに囲まれている彼女のその発言の、過去形に。

「薄い藁色の馬でね。丁度あたしの髪を薄めた色さ」

ルツィエは自分の短髪を指で抓んでみせた。

「すごいわがままっ子でね。足は速いんだけど、あたし以外に懐かないのさ。餌もあたしがやらなきゃ食べないんだよ。よく一緒に戦場を駆けて敵どもを八つ裂きにしてやったのさ。あいつは勇敢でね、あいつのお陰であたしはとても助かった。あたしの名前はルツィエ・ゾルティエって言うんだけどね、あたしらが使ってた言葉では“金色のルツィエ”って意味なんだ。あたしらには姓なんてお上品なものはなかったからね。それだって敵に呼ばれてたってだけなんだけど…。戦地に出たあたしとあいつのことを見て、他族の男どもはゾルティエって呼んでたんだ」

『…』

「カルアはいい奴だったよ。…でも、何て言うんだろうね。甘え下手っていうの? 撫でてやろうと手を伸ばすと頭を寄こすくせに、自分からは絶対ちょっかいかけてこないんだよ。普通は鼻で小突いてきたり擦り寄ってきたりするのにさ。いい子過ぎてね。ずっと一緒だって思ったけどさ、ある日、戦に負けちゃってね。あたしは友達に助けられたんだけど…。…置いてきちゃった」

再び小石を拾い、湖に投げる。

何とか誤魔化したが、最後の方は一瞬声が震えかけた。

ルツィエが町に来て落ち着きを取り戻し、まだ御者としてではなく町人たちへの恩返しにと馬車を動かしていた頃、一度村へ戻ろうと意を決して町を出たが、その時は外へ出られなかった。

何度森の中を進んでも進んでも、がむしゃらに進んでも再び町へと視界が開ける。

町から出られないことにパニックを起こす彼女を、町人たちは何度も聡し、時期が来たら出られるようになるからと落ち着くよう説得した。

半信半疑だった彼女が時間を経て、何気なく森へと踏み込むと道は開けた。

だが、その時村は既に跡形もなかった。

山の位置、川の位置、太陽が昇る位置と日時計の角度から見ても間違いなく村があった場所であるにもかかわらず、何もなかった。

無論、カルアも見つからなかった。あの後愛馬がどうなったのか、ルツィエは知らない。

「いつも戦に一緒に出てたからね。死ぬ時も勿論一緒だって思ってた。それがそんな別れになっちゃって…。まあ、案外そんなもんなのかもしれないけどね」

短く笑ってから、過去の話に区切りをつけるようにルツィエは顔を上げた。

「あんたもそうなんだろ?」

『何のことか』

「主人にもう一度乗って欲しいなんて未練持ってる奴が、納得いった別れをできてるはずないんだよ」

自分とは関係ないとばかりに目を反らずウラヌスに、ルツィエは苦笑した。

「今、あんたの主人探してやってるからね」

続けて発した彼女の一言にウラヌスは顔を上げたが、今度はルツィエの方が話を打ち切るように切り株から腰を上げると、両手を真上に伸ばして背伸びをした。

いつもの癖で上半身を左右に捻って簡単に柔軟した後、他の馬たちにそうするように、徐にウラヌスに右手を伸ばして額を撫でてやろうとしたが、彼は弾かれたようにびくりと身を震わせて後退した。

鼻先と尾を振って足を下げる彼に、ルツィエが肩を竦める。

彼は本当に愛馬と似ていた。カルアも、彼女以外の者が撫でようとすると、こうして苛立ったような怯えるような仕草で後退した。

「あんたのその額の星、なかなかイカしてるよね。次ご主人に撫でてもらえる時は、思いっきり甘えてみな。案外相手だって、そうして欲しかったりするんだから。別れなんて、不意に来るもんなんだしさ」

多くを語らない相棒にウインクを飛ばし、明日は頑張ろうねと言葉を残してルツィエは彼に背を向けて家へと戻った。



日は沈み、夜が訪れる。

久し振りの大きなイベントを前に、その日の晩は町全体がどこか落ち着きなく、町人たちは皆次の日が昇るのを心待ちにしていた。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ