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馬車馬頭:スレイプニル

嘗て、夜の旅人がいた。

引き締まった漆黒の肢体に風を従える同色の鬣と尾、岩をも蹴り砕く蹄、そしてその上にある逞しくも美しい八本の足。

全身が漆黒である彼は無音で闇夜を駆け、何にも縛れることなく旅をしていた。

彼は言うなれば馬に似通ってはいたが、凜とした一人の紳士であった。

その体には高貴な神の血が流れているが、彼は生まれながらに神という種を死ぬほど嫌悪していた。

身勝手な約束で母の主人を拐かし、騙し、その為に母を犯して己が生まれたのを承知していた。

神に含まれるくらいであれば、馬と呼ばれた方が光栄だというのが、彼の信条であった。

主人を持つつもりはなく、彼はただ自由でいたかった。

だがある晩、闇夜に溶け込んで風のように奔る彼を目視で捉えた者がいた。

それは北の主神であり、主神はすぐに彼を追ってくるとその鼻先に銀の轡をつけてしまった。

彼は暴れた。

吠えて怒鳴り、殺してくれると罵声を浴びせたが、生憎その主神は愚かで、彼の言葉が理解できなかった。嘶きにしか聞こえなかった。

銀の轡は彼に従順を要求し、逆らうとこれ以上とない程にきつく絞まった。

彼を軍馬として、主神は彼の背に乗った。

こんな屈辱はなかった。

『おのれ…、おのれ主神め!!今に見ておれ!貴様の末路は悲惨であろう!獣に喰われて死ぬるがいい!!』

彼が全力で怒鳴る姿が愉快だったのか、この当時、天空を庭とする“届かない血統”が度々外へと赴いて、彼の為に戯れに雷を雨霰と振り落とし、世は混乱し、大惨事となった。

北の大地と空が荒れ果て多くの神々と英雄が戦死し、尚も死後の世界で戦の為に鍛錬などをしているものだから、大地を統べる“偉大なる一族”が今更ながらに、少々うるさいですねという理由で、彼らの根底の世界である樹を枯らしてしまった。

多くの魂が樹から落ちて、幹の下敷きになった。

“届かない血統”に気に入られている間は、彼は無敵であった。

彼の願い通り、主神は獣に喰われて殺された。

高々に笑いながら彼が再び夜へ駆け出そうとしたその後ろ足を、先程まで主神を喰っていた獣が噛み付いた。

獣は空を飛べぬであろうとふんでいた彼は青くなり、慌てて獣を蹴り飛ばしたが、漆黒の夜空の中、いつまでもいつまでもその獣は追ってきた。

これはいけない。

もしや自分は喰われて死ぬのではないだろうか。

冗談じゃない。長年自分を辱めてきた主神と同じ死に方、しかも同じ獣に喰われるなんて恥辱はない。

彼は歯を食いしばり、夜空から一気に眼下に見えていた森の中の巨大な湖に飛び込んだ。

自殺の方が幾分マシであった。

溺死でも湖底に脳天をかち割るでも良かった。

飛び込んだ瞬間水柱が立ち、噛まれて肉の欠けた後ろ足から赤黒い煙のように血が水中に溶け立った。

湖底は思ったよりも深かった。

上等だ。絶対出るものか。

出て獣に喰われるのならば、自分はここで溺死しよう。

頑なに決意して湖底に沈んでいく彼の耳に、どぼんっと前方から何かが水中に飛び込む音がした。

僅かに双眸を開くと、前方から、小綺麗な服に身を包んだ青年が水の中を泳いで来ていた。

逃げようとしたが、生まれて初めて水に入った彼は八本の足を藻掻かせるだけで、進むに進めなかった。

そんなことをしているうちに、青年が寄ってくる。

青年は彼を懸命に湖面にあげようとしていたようだが、彼は首を振って拒否した。

青年は顔を顰め、一度一人だけ湖面に浮いた。

そして次に潜って来た時は、あろうことか、馬に乗っていた。

水中を、茶色とも透明とも、青ともつかぬ不思議な色味の鬣を持つ馬に跨り、泡を足場にして真っ直ぐに潜ってきた。

『安心なさい、あなた。マスターは悪い方ではなくてよ』

水中を駆けてきた馬は柔らかく彼を諭したが、彼は首を振った。

『私は死ぬのだ。邪魔をするな。獣に喰われるくらいならば、主神と同じ死に方ならば、死んだ方が誉れだ』

『まあ、獣? 獣など、ここにはいなくてよ。それとも、私のことをおっしゃるの?』

『獣がいないだと。狼がいたであろう。漆黒の大狼だ。夜空に融けて、お主には見えなかったとみえる』

『いいえ、あなた。今は昼よ。いいから、いらっしゃい。血が止まらないと、あなたは走れなくなるわ。折角、そのように立派な足をお持ちなのに』

などと会話をしている間に、青年の息が限界に達し、大きな泡を口から吐いた。

『大変。ちょっと失礼』

『何をする!』

水中を駆ける馬は彼の鼻先に付いていた轡を咥えると、強引に彼を浮かび上がらせた。

夜空では速く駆けられても、水中では目の前の馬に適う者などなかった。

音を立てて水面に顔を出すと、空は明るかった。

永遠の闇のような、獣に追い立てられた夜ではなかった。

水中を駆ける馬の背に乗っていた青年は思いきり咳き込み、水を吐き、それから烈火の如く怒鳴った。

水面を片腕で叩き、顔を赤くする。

「誰だ!こんな酷い轡を付けた奴は!!」

彼はそこで気付いた。青年は女だ。

男装をしてはいるが、低い女声だった。

褐色色の肌は引き締まっており、乳房があるべき場所に膨らみはない。短く揃えているが髪は流れるような金髪で、長ければさぞ美しいだろう。

『止めろ!私に触るな!穢らわしい!』

「うるさい!黙ってな!」

自身の言葉を理解できたことに驚いている間に、彼女は体と腕を伸ばし、暴れる彼から銀の轡を取り外した。

長年彼を縛り付けていた轡は、その時初めて取れた。

「カルピエ」

彼女はそれを水中に投げ捨て、改めて水中から彼と同じように首だけを出していた水馬を呼んだ。

水中を駆けていたその馬は一度頭の上まで水中へ潜り、それから彼女の股下へ体を通してから、水面下で浮力と泡に足をかけた。

まるで水面下に階段でもあるかのように、一歩一歩足を進める度に水馬の体は水面から露わになり、気付けばまるで当然のような顔で湖の水面に四本足を着いていた。

美しい馬だ。全身が灰色めいてはいるが艶があり、一切水滴が着いていない。鬣は長く先端は見ようによっては淡い水色をしており、頭上から首根まで蔓状の水草らしきものが絡んでいる。

「岸まで引っ張っていってやるよ。カルピエの尾を噛ませてもらいな」

『いいでしょう。けれどあなた、わたしの毛を抜いてはだめよ』

『ルツィエーぇ! なーにしてんのーぅ!』

彼が恐る恐る口を開いて水馬の美しい尾を噛もうとすると、明るい空の方から翼を持った白馬がスキップするように駆けてきて、彼はその行動を留めて顔を上げた。

天馬だ。

美しいその姿とおぞましい出生は彼も聞いたことがあったが、初めて見た。

「ペガソス、丁度良い。あんたも手伝いな」

『なあに、ルツィエのお友だちぃ? こんにちはぁ』

『…』

舌足らずな言葉で語りかけられ、彼はどう反応して良いものか戸惑った。

ペガソスは戸惑う彼を気にもせず、額を首に寄せて寄り添い甘えたが、その一方で大切な毛並みが濡れぬよう水には注意した。

ペガソスは大して手伝うことはしなかったが、女とカルピエに手を借りて、彼は無事に湖の岸辺へとたどり着いた。

水中を動くには思いの外体力を消耗し、ここまで全速力で駆けてきたこともあり、彼はすっかり疲れ切って草場にずぶ濡れの体で上がった。今更ながらに肉の千切れた足が痛んだ。

『八本足…。なるほど。噂に名高いスレイプニル殿か。道理で頭痛がするわけだ』

『…!』

体を震わせて水気を取ると、すっと奥の森の方から、今度は一角獣が姿を現した。

静かな発言で彼を一瞥すると、すぐに女へ向く。

その視線が冷ややかで、彼は些か不快となった。

『ルツィエ、町でベルが鳴っていたよ。六番馬車を用意したからね。着替えて早く向かわないと。みんな待っているよ』

「ああ。すぐ行くさ。あいつらに言っておきな。だがその前に、こいつの傷の手当てだ」

女は湖畔に置いておいた袋の中から、包帯を取りだした。

その場で薬草を一枚摘むと、彼の足下に屈む。

彼は鼻を鳴らして数歩後退したが、結局彼女に足を任せることにした。

薬草を傷口に当て、その上から簡単に包帯を巻く。

彼を捕まえようとはしなかった。

「お前、もうあんなの噛まされるんじゃないよ。それとも、あれがないとお前に乗れないくらいヘタクソな奴に捕まっちまったのかい?」

ぽんと彼の鼻先を叩くと、濡れたシャツに指をかけて躊躇いもなく脱ぎながら、女は一角獣の方へと歩いていった。

一角獣を従えて彼女が見えなくなると、彼は深く息を吐いた。

それから、本当に久し振りに人の形へと戻った。

漆黒の長髪。すらりと長い四肢。

青年になった彼は、大概の神々がそうであるように、上手くはないが、空気を紡いで己の皮膚の上で服を織った。

足下から、やはり漆黒の衣類が彼の裸体を包む。

端整な顔にはくっきりと、痛々しく轡の痕が残っていた。少々間抜けな痕でもあった。

しかし、やがてはそれも消えるだろう。

『あれぇ? おにいさん神様ぁ?』

上空で首を傾げるペガソスを、彼は大人げなく睨んだ。

「止めろ。神など、吐き気がする」

声を張ったつもりはなかったが、威圧のある地声にペガソスはびくりとし、空へと逃げ帰ってしまった。

カルピエも尾を揺らして湖に前足をつける。

『それでは、ご機嫌よう。轡が取れて良かったわね』

「ああ。助かった。礼を言おう」

カルピエと鼻を合わせる。

お互いの首へキスをしてから湖の底へと消えていくその姿を、彼は見送った。

その後で、人の形になったことで緩んでしまった包帯を結び直した。

湖畔に座り込み、目の前の輝く水面を長時間眺め続けた。

獣は何処に行ったのだろう。いつの間に太陽が昇ったのだろう。ここは一体何処なのだろう。

分からないことは多いが、ただ一つだけ確かなこと。それは自由だった。

とうとう、彼は再び自由を手に入れた。

自由だ。

これから、彼はまた己の判断で、己のしたいことをし、行きたい場所へ行くことができる。

それがどんなに素晴らしいことか。

しかし旅立つその前にすることがある。

「…」

彼は包帯の巻いた左足を見下ろしてから、女が消えた方を振り返った。

彼女にも礼を言わねばなるまい。

人間や神とは違い、自分は礼儀を弁えているのだと、彼は立ち上がり、女が消えた森の方へ足を進めた。

森は深いように思えたが、全くそんなことはなかった。

木々が茂る中に踏み込んで十数メートル歩いた途端、突拍子なく開けた町に出た。

女を捜して少し歩いてみると、すぐに見つかった。

彼女は馬車を操り、街々を行き来していた。女の身で御者のようだった。

町人たちが共通して使っているように見えるが馬車の決まったルートはないようで、随分とランダムに街々を行き来する。

乗り合いの人数が増えると、頃合いを見計らってどこからかワンサイズ大きな馬車がやってきては、そちらの御者台に乗り換え、それまで乗っていた馬車の馬車馬たちは、御者もなくひとりでにどこかへと帰っていく。

彼らの顔は皆楽しげだった。

彼は彼女の仕事が終わったら礼をしようと町の高い場所に駆け上がり、暫くその様子を見ていた。

日が暮れて夜になると、馬車は町から少し離れ、町の入口から横へと伸びている林道へ入っていった。

後を追っていくと、一軒の小さな家があった。

家の横に一頭を収める馬小屋があって新しい藁が敷いてあるが、今は空になっている。

愛馬がいるのだろうか。

先程出会った中のどれなのか、それとも他の馬がいるのか。

いるとして、それは自分よりも速いのだろうか。

無意識にそんなことを考える。

彼が、人間と馬、神と馬の間で考えられるのは、主従か奴隷関係でしかなかった。

パートナーや仲間という単語は、思いつくことすらできなかった。

「女には何が良いのか、良く分からんが…」

考えた末に彼は森の中で少しの花を摘んできた。

片手に無造作に掴んだその花を自信なさげに一瞥してから、彼は扉をノックした。

一日の仕事を終えて酒を飲んでいた女は、一目見て彼が先程助けた黒馬であると見抜いた。

彼女は花を喜んだ。

これは茹でると美味いんだと喜んだ。

彼女が酒を置いていたテーブルとは別の壁際にあるテーブルが部屋の一角を占めており、そちらは面積いっぱいに、ドールハウスのセットのようにして小さな馬舎が並んでいた。

彼女がご馳走だぞと花を見せると、馬舎の中の小さな馬たちも声を立てて喜んだ。

彼は少し呆気に取られた。



その日から数ヶ月後。

町人たちに欠かせない馬車は、夜も運営することになった。

夜道がどんなに暗かろうと間違えずに高速で道を誘導する黒馬が、馬車馬たちの頭として御者を手伝うようになったからである。

夜も馬車を走らせること自体は、彼が彼女の家を訪れてから数日で可能となったが、その額にある角を使って多くの仲間たちの心情を読み取り、まとめ、随時発信して円滑で無駄のない馬車運営を可能にしていた一角獣が嫉妬深く、彼を御者の新たなパートナーとして認めるよう説得するまでに数ヶ月かかったのだ。

今現在も夜間に行う一角獣の即時報告は今も雑であり、そのせいか、日中と比べると夜間の馬車は町人たちの前に到着するまでに些か時間がかかる。








【馬車馬頭:スレイプニル】








ある日の昼下がり、御者を生業としている御者を生業とするルツィエは珍しく馬車を引くことなく家を出て、町から少し離れた岩山を登っていた。

彼女が休日を得ることは希だ。

町は決して大きくはなく、しかも短い距離の間に密集しているものだから、基本的に町人たちは馬車を使うことなく徒歩でも生活に問題はない。

しかし、運ぼうとしている荷物が大きい物であったり、町の端から端へ用事があったり、若しくは町から離れた場所に用事がある者にとっては、馬車はやはりなくてはならない。

彼女が休日を得ると決めた時は、一ヶ月前くらいから乗客たちに一言言っておかなければならない。

馬車馬たちでも馬車を引くことはできるのだが、御者である彼女が不在となると、途端にやる気が起きない者が多いので、序でだからと休日を取る日は馬車馬全ても休日としている。

尤も、班分けされた担当の馬車の出番がない時は馬車馬の多くは自由な時間である為、休日と言ったところで日頃とあまり変わりはないのだが。

乾いた岩肌をそれなりに登ると、高度と反比例して植物の数が少なくなってくる。

崩れた斜面を足場にすることは難しく、ルツィエを乗せたペガソスは先程から蹄を斜面に着けたり十数センチ浮いてみたりと、ふわふわと歩いている。

彼女らを追う形で、地図を手にしたスレイプニルが人の姿で斜面を登っていた。

彼もまた地表を歩いたり、足を止めるような裂け目や岩があった際には、ペガソスと同じく低く浮いてはルツィエに言われたとおり周りを見回しながら地図と見比べていた。

この町に宝石屋である老紳士が来たのは、少し前だ。

その際、久し振りに町の近隣であるこの山で地殻変動が起きた。

崩れた山を地図職人はすぐに調べて新たに地図を書き起こしたが、実際に道と呼べそうな道はまだない。

この場所まで馬車が登る可能性は少ないのだが、必要とされた時のことを考えて、走りやすそうな、少しでもなだらかなルートをチェックしておきたいというのが、ルツィエが久し振りに取った休日の理由だった。

「しっかり道覚えなよ、スレイプ。昼はあたしがいりゃ責任持って誘導するけどね、夜はあたしも周りが見えない。あんたの目と記憶が頼りなんだからね」

ペガソスの上から、着いてきているスレイプニルを振り返り、ルツィエが言った。

地図から視線を上げ、彼は小さく息を吐いた。

「こんな場所まで馬車を走らせる必要があるとは思えんが」

「まあ、滅多にないとは思うけどね。あった時にすぐに動けなきゃ困るだろ」

「道など辿る暇があるのなら、空を駆けてしまえばいい。私とペガソスがいれば問題はなかろう」

『でもぉ、あんまり高いとこ走ってると怒られちゃうかもしれないしぃ…』

ペガソスも足を止め、くるりとその場で反転して鼻先をスレイプニルへと向けた。

空を飛べる者は飛んでも構わない。

しかし、あまり高度を得ると“届かない血統”の目に留まる恐れがある。

通常、町がある上空を飛んでいても咎められることはないだろうが、この様な高さのある山から更に上に上がろうとすると、ペガソスの言うとおり不安があった。

外と違い、この町では“届かない血統”が現れる頻度が高い。

“届かない血統”がこんなに低い空を見ているとは思えないが、それでもやはり極力その視界に入ることを避けるのが賢明だ。

ペガソスの背の上でルツィエが両肩を竦める。

「それに空飛ぶ馬車と言えば九番馬車だけだからね。あれは一人用だ。一度に人数乗せることになったら、やっぱり地面を走らなきゃならないのさ」

「…生真面目なことだな」

スレイプニルはルツィエたちの言葉になるほどと相槌を打ちつつも少し呆れながら、無意識に畳んでいた地図を再び広げ始めた。

その途中でふと顔を上げ、ペガソスへ向く。

「疲れはないか、ペガソス。代わろう」

『え~? なあに。ルツィエを乗せるのをぉ? 全然平気だよぅ』

この地では先輩ではあるものの、舌足らずな幼い天馬を気遣うも、彼は鼻先を天に向けて首を振った。

その頭をルツィエが背から腕を伸ばして撫で、半眼でスレイプニルを睨んだ。

「何だいあんた。まるでペガソスが半人前みたいな物言いをするね」

「いや、そういうつもりでは…」

『あんまり重いものは引けないけどぉ、ルツィエくらいならいつまででも乗せていられるよぅ。乗り心地は僕が一番なんだよねぇ、ルツィエ?』

思わぬ反応に無意識に身を引いたスレイプニルの前で、誇らしげにペガソスが胸を張る。

『速さと夜では誰も君には全然敵わないよねぇ。でもぉ、水の中と水の上はカルピエが一番速いし、ユージンみたいに人の心も読めないけどぉ、僕にだって一番なことはあるんだよぅ』

「ああそうだ。乗り心地はあんたが一番だよ。一番馬車を揺らさず引けるのもあんただしね」

ぽんぽんと頭を撫でられ、ペガソスは擽ったそうに首を垂れて蹄を鳴らした。

スレイプニルは何が面白くないのか自身でも分からないようだったが、一瞬だけ不快を感じて視線を外しては、また短くため息を吐いた。

彼女たちの横を通ると、無言のまま前に出る。

彼は、表情は豊かではないが、感情が豊かだ。

人の形容になると、馬の形容である時以上にそれが目立つ。

しかし、他者の感情に過敏な一角獣のユージンや普通の感性の持ち主ならともかく、今現在この場にいる御者と天馬はどちらかと言えば鈍い類の者たちで、誰一人彼の感情を指摘してやる者はなかった。

「足を止めるな。時間の無駄だ」

「どっちが生真面目だよ。もっと楽しく行こうぜ」

『…あれぇ?』

彼女たちのいつもの会話のテンポにくすくす笑っていたペガソスだが、ふと上げた視線に白い影が入った気がして、首を上げた。

それ程遠くない上空を、地上を見下ろしながら飛んでいる者がいた。

珍しいが、翼持ちだ。その背中からは純白の翼が広がっている。

この距離では男か女かは分からないが、神か精霊か魔神だろう。馬や鳥ではなさそうだ。

そして恐らくは旅人だろう。町の者ではない。

町の者であるのなら、あんなに高く遠慮なく飛ぶ者はまずいない。

理由は先述の通りだ。

『見て見て、ルツィエ。あんなに高いところを人が飛んでるよぉ』

「ああ、本当だ。最近は来る奴が多いねえ」

「…」

空を見上げ、ルツィエもその影を確認した。

その横でスレイプニルは沈黙し、その白い影を睨んだ。

背中に広がる翼もさることながら、まるで尾長鶏の尾のように白い柔らかな衣を引いている。あの手の衣類には見覚えがあった。

「まあ見つからないとは思うが、一応声をかけてやるか。…おーい!そこの人―!」

スレイプニルが止める間もなく、ルツィエは口元に両手を添えると大声を張った。

彼女の長所でもあり短所でもある気さくさとお節介に、僅かに眉を寄せる。

しかし己もそれで助けられたことを考えれば、そう容易く注意も口にはできなかった。

相手が誰だか不明で距離が遠いとしても、神が精霊か魔神であれば、肉声ではなく自分に向けて寄せられる意思には気付けるはずだ。

案の定、空を飛んでいた白い影は一度足を止めて滞空すると、こちらを向いたようだった。

改めて翼を広げて、一直線にこちらへと向かってくる。

相手は若い女だった。

肉眼でそれが分かるような距離に近づいてくるや否や、スレイプニルは数歩後退して馬体である時の癖で首を少し振ると憤りを示した。

『わあ。天使だよぉ、きれいだねえ』

ペガソスが翼を広げ、自分も翼を持っているのだと相手に見せた。

それに気付いたのか、それともそもそもその場所で足を止める気だったのか、翼を持った女はルツィエたちから数メートル離れた空中で速度を抑えると、羽ばたいた。

透けるような白い肌。銀色の長い髪は邪魔にならぬよう頭上で結い上げており、数枚の羽根の髪飾りがかかっていた。

白い翼は体から生えているのではなく、彼女の着ている白い衣の腰から左右に広がっていた。

天使の持つ翼が生えている位置よりも低い。

どうやら、ペガソスがいう天使ではなさそうだった。

見栄えのする女だが双眸は鋭く、サファイアのように真っ青だ。

そして場違いにも、衣の腰には簡素な鉄甲を、右手には槍を持っていた。繊細なデザインの衣とはあまりにも不釣り合いだ。

「今私に声をかけたのは、お前たちか」

高い声だが威圧的な物言いだ。

風に衣の尾をそよがせながら、ばさりと今一度腰から繋がる翼を羽ばたかせる。

お前たちかと告げる彼女は、ルツィエとスレイプニルへと向けられており、ペガソスへの一瞥はなかった。

彼女は馬と話したことはないらしいと酌んで、代表としてルツィエが軽く右手を上げた。

「ああそうだ。下見ながら飛んでたけど、何か捜し物かい?」

「お前は人間であろう。無礼であるぞ。我が名はローグリール。奥様の忠実な僕である」

凜とした彼女の言動に、ルツィエは小さく苦笑した。

町人にも言えることだが、人間や動物と違い、神や魔神の旅人は少し個性が強い。

ローグリールと名乗った女は不愉快そうに眉を寄せたが、続けて尋ねた。

「お前たち、この辺りで八本足の馬を見たことはないか。漆黒の馬だ」

『え…?』

素直なペガソスがすぐに反応してその場に足踏みしてしまったが、やはり彼の声は彼女には聞こえていないようだった。

ルツィエは首を傾げてみせた。

「八本足か…。あんた見たことあるかい?」

背後に立つスレイプニルを振り返る。

彼はいかにも不愉快そうな顔で僅かに顎を上げ、女を真正面から睨んだ。

「知らんな。己で捜すがいい」

吐き捨てるようなその一言に、女も彼を睨み据えた。

互いに、嫌悪が前面に出される。

ペガソスがこの場から逃げたそうだったので、ルツィエは彼らに割って入ると、朗らかに女へ笑いかけた。

「悪いね。力になれそうにないな」

「…役に立たぬ」

鼻を鳴らすと、女は再び飛び立って言ってしまった。

彼女の背が見えなくなってから、はっとルツィエが我に返る。

「しまった。高く飛ぶなって言いそびれたね」

「構わん。あの様な輩、一羽死んだところで代わりなどいくらでもいる」

『スレイプニルのお友達なのぉ?』

「止めろ。友だと? 吐き気がする」

彼女の言動もさることながら、スレイプニルのこの態度は相手が神か、若しくは半神であることを示していた。

町に馴染んでからは神や半神の町人相手に最初の頃のような態度を取ることはなくなったが、それでもまだ知人ではない者たちに対しては嫌悪が色濃く残っている。

「どっかの神さんっぽかったねえ」

「ヴァルキュリアだ」

「ヴァルキュリアって神さんかい?」

『でも、ローグリールって言ってたよぅ?』

「それは女の個体名であろう。奴らには名など不要であろうに、よくもまあ名乗るものだ。ヴァルキュリアは死者運びをする女どものことだ。どれも同じだ」

『悪い人なの? あんなにきれいなのにねぇ。白鳥みたいだったよねぇ』

「穢らわしい」

「あんたそれ悪い癖だよ」

端から軽蔑を決め込んでいるスレイプニルを一言諭してから、ルツィエは改めて女が飛び立っていった方を見た。

方角的にそちらには町がある。

逆に言ってしまえば、町以外に人がいる場所は見つけにくいだろうから、彼女はそこに降り立つだろう。

町人の何人かに尋ねれば、間違いなくスレイプニルのことは聞く。

捕まった瞬間から轡を着けられた彼は長い間青年の姿に戻れなかったため、馬体は知れ渡っているようだが、人の姿はというと知る者は少ないようだった。

あまり他者を好まぬ彼の青年の姿は、町人でさえ知らぬ者も多い。

しかし、八本足の馬を知っているかと問われれば、何の事情も知らぬ者は、それは馬車馬頭のスレイプニルであろうと、親切に女に教えるだろう。

「覚悟しときなよ。また来るだろうさ、あの女」

「蹴り飛ばしてくれる」

『女の子いじめたらダメなんだよぅ、スレイプニル』

「守るべき女かどうかは私が決める」

「おうおう。偉そうなこと言ってらぁ」

軽く笑い飛ばすと、スレイプニルは顔を背けて先に歩き出した。

ルツィエはペガソスと顔を合わせて苦笑し、彼の首を右手で軽く叩いて登山を促した。

ペガソスは素直にそれに従い、二人と一匹は再び崩れた斜面を歩き出した。




ローグリールという翼を持つ女が町外れにあるルツィエの家に踏み込んできたのは、その日の夕暮れ時だった。

先刻、山道で彼女に会ったことがあり、当面は夜馬車をスレイプニルに引かせることは取り止めるつもりでいたが、そんな気遣いを無下にする速さでの訪問だった。

当然と言えば当然だ。町は決して大きくはない。

町人も決して、不親切ではない。

ルツィエが丁度、家の前で一日留守番をしていたユージンにブラッシングをしている時だった。

自分一頭だけで御者を独占し、首を擦りつけて甘えられる貴重な時間に邪魔をされ、彼は極めて不機嫌な状態で来訪者を振り返った。

他者の意を読み取る額の角で明らかな敵意はすぐに察せたので、彼はルツィエの前に出ると相手を警戒しながら角を見せつけるように頭を下げたが、そんな彼を軽く片手で制して、彼女はローグリールを迎えた。

両手を軽く広げ、戯けてみせる。

「よう、お嬢さん。さっきはどうも。八本足は見つかったかい?」

「山場にいた人間か…。ここにいると聞いてきたのだ。お前が捕らえているのか」

「捕らえちゃいないさ。何なら探してみるかい? 取り敢えずお茶でもどうだい」

「黙れ。大人しくスレイプニルを出すがいい!」

ローグリールは槍を構えて、突然矛先を向けて地を蹴った。

不意打ちの一撃ではあったが、

『右に避けようか』

ユージンのそんな一言でルツィエは右に跳び、矛先は空を切った。

人間には避けられぬと思っていたのか、ローグリールは一瞬双眸を見開き、飛び込んだ先で両足を着けると矛先を構えながら素早く振り返った。

彼女の動きに遅れて、腰の翼と衣の尾が揺らぐ。

「お前…。只者ではないな」

「いきなり突くってのはご挨拶だね」

『…随分野蛮な女性だね』

憎々しげに呟くローグリールを一瞥し、やれやれと首を振って、場がよく見えるようにとユージンは少し後ろに下がった。

一望できた方が的確に指示を与えることができる。

彼が傍で見ている限り、ローグリールがルツィエに一撃を当てることは難しいだろう。

また、彼の助けなくしても、彼女自身、槍と弓はお手の物だ。一人で対峙したとしても槍の攻撃ならば避けられるのかもしれない。

「話は聞くよ。何であんたはスレイプニルを探してんのさ。探してどうする気だい」

「逃げた馬を探すのは当然だ。愛馬をなくされ、主神殿は落胆されている。軍馬がなければ戦地へは出られん。世は乱れ、戦は終焉が近い。早期に発見せよと、我が主人であらせられる奥様へと勅命を下された」

「だからって、今更探しに来なくてもいいだろうよ」

「今更だと…? スレイプニルが逃げたのは昨晩だ」

ローグリールの言葉を聞いて、ああ…とルツィエは曖昧に頷いた。

旅人との時間感覚は、基本的に合わない。

スレイプニルがそれなりに長い間この町で馬車馬頭をしているが、それを目の前の旅人に言おうとは思わなかった。

スレイプニルがどういう経緯でこの町へやってきたのか、ルツィエは深く聞いていない。聞いたとしても、往々にしてそれは無意味だ。

“彼が逃げ出してきた世界”と“ローグリールが来た世界”が必ずしも一致しているとは言い切れない。ここからは難しい話になるので、ルツィエは考えることを放棄していた。

ただ、どちらにせよスレイプニルという男はそれまでいた場所を毛嫌いしていた。

戻る気はないだろう。

「あんた、何でその馬が逃げ出したのか分かってんのかい?」

「ああ。繋いでいた紐が古く、緩んでいたのだ。既に替えは用意してある」

尋ねると、ローグリールは真顔で答えた。

右手の指先を眉間に添えて呻るルツィエ。

少し離れた場所で、ユージンは愉快そうに声を立てて笑った。

『これはダメだ、ルツィエ。彼女には話が通じないよ』

彼女は、馬は逃げるものだと思っている。馬という生き物を理解していない証拠だった。

馬も生き物だ。意思がある。

それを酌み取れる取れないは人によるだろうが、友情や忠誠、愛情など、結ばれている感情があれば、例え轡がなくても小屋が開いていても、彼らは逃亡などしない。

自由に駆けていたとしても、呼べば口笛一つで戻ってみせる。

ルツィエのパートナーである馬たちは、殆どがそれらの見えない絆で結ばれていて、彼らは自らの意思でこの場所に居、共に暮らしている。

家や家族が欲しいのは、彼らとて同じなのだ。

ローグリールの返答が求めていた答えと程遠過ぎて困惑したが、ルツィエは呻った後で再び顔を上げた。

「逃げ出したのなら、八本足が見つかったとしても暴れるだろうよ。神様の馬なら、そりゃ立派な馬だろうしね。あんた一人じゃ連れて行けないんじゃないか?」

「問題はない。銀の轡を預かっている」

ローグリールは槍を持たぬ左手で、腰に提げていた小袋の中から、銀色の轡を取りだした。

その轡をルツィエに見せるように持つ腕を伸ばした途端、パリ…ッと一瞬、その場の空気が乾いた気がした。

直後、

「っ…!」

パン…ッ!と、何か破裂するような音と共に、ローグリールが持つ銀色の轡の傍で細く白い光が弾け、光に圧されるように引いた彼女の手に電撃に似た感覚が走った。

麻痺して小さく震える片手が物を持てず、轡が地面に落ちる。

負傷した手首を、槍を持つ手で握って胸元に引き寄せ、彼女はきっと上空を睨み付けた。

「…黙って聞いていれば」

いつの間にか夕陽が落ちて薄暗くなっていた空と木々を背景に、スレイプニルが浮いていた。

彼もまた、彼女を睨み据えていた。

長い黒髪が、そよ風に遊ばれて揺れている。

「お前…」

「失せろ、鳥。それとも、翼を焼いて地を這わせてやろうか」

「何だと…?」

「お主の探す馬は主神の下には戻らぬであろう。その馬でなくとも、あの様に乗馬の不得手な男の下に戻ろうなどと、誰も思わぬわ」

ローグリールが翼を広げて上空のスレイプニルを狙って跳び上がった。

彼はひらりとかわす。

槍を向ける彼女に対してスレイプニルはかわすだけだが、黒と白の影が灰色の空気の中で暫しやり合った。

両手を腰に添え、彼らを見上げてため息を吐くルツィエに、ユージンは歩み寄った。

『困ったな。賑やかになってしまったね』

「おい、ちょっと。止めときなよ。何か他に何か方法があるだろうよ」

「…」

ルツィエの一声に、槍を避けたスレイプニルは宙を踊ると春風のような軽さで彼女と一角獣の傍へと降りた。

彼が着地したのを見て、ローグリールも距離を取って着地する。

矛先から風を払うように槍を一振りすると、柄を足下に着けて翼を畳んだ。

「主神殿は不得手などではない。馬如き、誰でも乗れる。かく言う私も、他の同胞らであろうとも、スレイプニルくらいいくらでも操ってみせよう」

「…ほう」

ローグリールの言葉に、スレイプニルは双眸を細める。

先程と同じように、また彼の周囲の空気が乾いてパリパリと白く細い光が舞った。一触即発の空気が流れる。

神や半神は本来、他の種よりも感情の起伏が激しい。対立を始めると、確かに不動産屋が常々言っているように面倒ではあった。そして収拾も難しい。

珍しく激怒している様子の彼に、ユージンは嘲笑うように首を下ろして俯いた。

『ふふふ。怒ってる怒ってる』

「あんたら落ち着きなって。神さんだったらもう少し穏便にいきな」

場に耐えかねたルツィエが、左手をスレイプニルの胸元、右手をローグリールに伸ばして、前に出ると間に割って入った。

双方とも一度彼女へ視線を向けたが、顔を顰めるローグリールと違い、スレイプニルはすぐにまた対峙しているヴァルキュリアを睨んだ。

「お主らの遊戯が如何ほどだというのだ。嗤わせる。…お主ら程度の腕前であれば、この女の方が何倍も上位であろう」

「い…!?」

「何だと…?」

「ルツィエに勝てば、私がお主の前にスレイプニルを連れてこよう」

突然話の中心に据え置かれ、ルツィエは双眸を瞬かせてスレイプニルを見上げたが、対峙しているローグリールは彼の言葉で怒りの矛先が彼女へと移ったようだった。

彼女に睨まれ、ルツィエは一歩後退した。

肘で元凶を小突いてみるが、彼は来客を睨んだまま視線を移さなかった。

『スレイプニル、ルツィエを巻き込むのは良くないな。いいじゃないか、君。たまには里帰りするといいよ』

ユージンのつんとした声色も慣れたもので、それに対しても彼は無反応でいた。

すっかりその目が怒りと外敵に支配されてしまい、元々闘争本能が高い彼の感情は昂ぶっていた。

主神に捕らえられて以後、趣味としての愛馬ではなく、戦や心許せぬ者の館を訪れる際に乗る軍馬に据えられたのはそのためだった。

本人は知らぬところだが、“嵐”や“死”という通り名が与えられていたのもそのためだ。

もっと簡単に言ってしまえば、落ち着いて大人びた外見とは裏腹に、彼は少し喧嘩っ早いのだ。

スレイプニルの言葉に火を着けられ、ローグリールはルツィエに槍の矛先を構えて声を張った。

「女。お前、私と勝負をしろ!」

「勝負って…」

単純思考とも呼べる彼女の言動に、ルツィエは曖昧に顔を歪めたまま腕を組んだ。

呆れてはいるが、断りはしない。

勝負を挑まれたのだ。

彼女が従ってきた村の掟は彼女の中でまだ生きていて、余所者に喧嘩を売られたら買う以外の選択はない。例えそれが神相手でもだ。

「一体何をするんだい。槍なら…まあ、受けて立つけどね。ただし、あたしは空なんて飛べやしないよ。そこは配慮してくれないと」

「当然だ。私は戦士だ。奥様の名に誓って不正はしない」

「なるほどね…。分かった。信じるよ。私も不正はしない。卑怯は大っ嫌いだ」

誇りを持った力強い言葉を信じて、ルツィエは頷いた。

「勝負種目は槍でいいんだね?」

「「いいや。乗馬だ」」

否定は、スレイプニルとローグリール同時に発した。

互いに睨み合って火花を散らせながら、彼と彼女はルツィエを挟んで声を合わせた。

「そこまで言われては、黙ってなどいられるか。無礼な奴め。ヴァルキュリアの力、見せてくれる」

「光栄だ。見せてもらおうか、お主の遊戯を。…無様に落馬せぬことを祈ろう。翼が折れでもしたらお主は悲惨であろう。飛べぬ鳥は英雄と寝て孕むしかない」

彼女が属するヴァルキュリアの掟を言い当てられ、ローグリールは唇を噛んだ。

それは彼女らが最も危惧する、現実的な未来の絶望だ。

翼が折れて助けられるくらいならば、戦で死に絶えた方がどれ程良いか分からない。

実際、戦場で翼を傷付けたヴァルキュリアたちは、連れ帰ろうとする仲間たちの前で喉を突いて自殺する者も多い。戦えぬ女は子を孕み、園にて英雄をもてなし酒を注ぐ。

それは彼女らにとって絶望に他ならない。それだけは避けたい。

翼は、いつの時代も自由で汚れなき者の象徴だ。

ローグリールは折っていた翼を、尚も縮めて閉じるように腰に引き寄せた。

白銀の甲の上に閉じた翼が添えられ、シルエットだけなら羽毛がドレスのように見える。

「…勝負の詳細は明日決めよう。誰か、公平な第三者が必要となるだろう」

「町の連中の誰かに言えば大概はみんな公平に立ち会ってくれるだろうけど…。大丈夫かい、あんた。信用できる? 町人だからってあたしの肩持つとは思わないかい?」

「嘘を吐いている者とそうでないものくらい見抜ける。見抜けぬのなら、それは私の落ち度だ」

きっぱりと言ってのけたローグリールに、ルツィエは短く口笛を吹いて賞賛した。

スレイプニルと違い、彼女は目の前の半神に好感を持った。

どこか自分に似ている気がする。そしてそれは、間違いなどではないのだろう。

大体の者は直感で、同士を察せることができる。本来、群れで生きる人間や神という種であれば、それは当然でもあった。

群れの中に危険分子があればいち早く察する必要があるように、対象が仲間であるのか否かの判断が、群生生物には必要だ。

「今夜は宿を取るだろ? 宿まで送ってやるよ」

軽く右手を広げて誘うルツィエをスレイプニルもユージンも止めたそうであったが、彼らがそうする前に、ローグリールは断った。

宿に泊まるという感覚が、彼女にはないようだった。

もし送ったとしても、宿の主人が魔族であると彼女が知れば、そこでまた一騒動あっただろう。

明日、町の中央にある噴水で待ち合わせる約束をすると、ローグリールは銀の轡を拾い上げ、町の周囲に広がる森へと飛び立っていった。恐らくは木の上で休むのだろう。

木の上で眠ることに違和感がない者にとって、眠るには適した大樹が、この町の周囲にはいくらでもある。

『やれやれ…』

来客が飛び立ってから、今まで場を見守っていたユージンは足を進め、再びルツィエの傍へと寄り添った。

細い腕に甘えるように首を擦り寄せる。ルツィエはいつものように、軽くその頭を撫でた。

「さっきは悪かったね、ユージン。助かったよ」

『お安いご用だよ。…まったく。誰かさんのせいで嫌な客が来たね。何故君がスレイプニルのために動かなければならないのか、実に不愉快だよ、僕は』

これ聞けとばかりの嫌味に、スレイプニルは腕を組むと鋭い眼光でユージンを見下ろした。

「私の責任だとでも言うのか。不愉快なのは私の方だ。…飛んでいる以上、あの女も乙女だ。お主の好みではないのか。ルツィエではなくあの女にしたらいい」

『君が僕の嗜好の何を理解しているというのだろうね。確かに魅力的な女性だけど、彼女は男に媚びているよ。腐りきった女性よりはましだけれど、少し異臭がするね』

「ふん…。どうだか」

「…明日も仕事を休む必要が出てきたな」

二匹の不仲は今に始まったことではないので、ルツィエは傍らの彼らを無視して片手を顎に添えて一人呟いてから、空を見上げた。

既に星が見え始めている。

確かに巻き込まれた形になるが、彼女は来客との対立に内心胸を躍らせていた。

“勝負”。

この単語に魅力を見いだせる者は少ないが、この場数を踏む者だけが成長を得る。

「乗馬か…」

無意識に、ルツィエの脳裏に遙か彼方の記憶が浮かんだ。

愛馬に乗って友と大地を駆けて笑い合った時間は今も胸に残っており、鮮やかに彼女を彩っている。

両手を腰に添えて肩を落とし、場に区切りをつけるように短く息を吐くと、彼女は両手を叩いた。

「ほら、二人とも!もう暗いからね。中入るよ。夕飯にしようか」

ルツィエの指示に従って、ユージンは玄関横に繋がっている馬小屋へと鼻先を向けた。

常に新しい藁が敷いてある馬小屋は家の室内にある小さな小さな馬舎と繋がっており、馬小屋に足を入れて土を払い、家の外壁に当たる奥の壁に黒いペンキで塗りたくったような入口を通れば、室内の小さな馬舎で十分な大きさになって舎の入口に出る。

素直に自分の部屋に戻ろうとしたユージンが額の一角で無意識に背後のスレイプニルの意思を読み取り、半眼で振り返った。

振り返った先には、ルツィエと同じく木造の玄関から家の中に入ろうと彼女に着いていたスレイプニルが映る。

『ちょっと待とうか。どうして君はそっちの入口から入ろうとしているんだい。部屋に戻りたまえよ』

「当面は馬体に戻らぬ方が良かろう。あの女が何処で見ているか分からぬからな」

『その姿のまま戻ればいいだろう。まさかルツィエの部屋で寝る気なのか。女性の部屋へ入ろうだなんて、恥知らずだとは思わないのかな』

「あんたらほんっと仲いいねえ…」

呆れ半分で呟くも、喧嘩になると困るのでルツィエはドアを開けるとスレイプニルが自分に続いて入る前に閉めてしまった。

締め出しを喰らってドアの前で佇む夜の覇者を鼻で笑ってから、ユージンは黒の入口をくぐって馬舎にある部屋へと戻っていった。

結局、仕方なしにスレイプニルも黒の入口を潜り、馬舎に入ってから馬体に戻って割り当てられた部屋へと向かった。




翌日、町の中央に位置している大きな噴水がある広場には、人垣ができていた。

特に時間の指定はしなかったが、最初に顔を合わせたのが昼過ぎということもあり、ルツィエは勝手に昼過ぎを待ち合わせ時間に決めていた。

噴水周辺は広場になっており、空からの見れば視界を遮るものは何もない。彼女がいるいないはすぐに分かるだろうと思っていた。

それに、仕事の関係もあった。

御者である彼女が休日と決めていたのは前日だけであり、翌日である今日も無断で休みを得ることは気が引けた。どうしても馬車を呼ぶベルが鳴る。

午前中は通常通り馬車を運営し、乗車した客に対して午後は休むのだということを伝え、それを会う人に広めておいて欲しいと頼むと、今日の午後は馬車が走らないという情報は小さな町にあっという間に広まった。

そしてその話を聞いた者は決まって尋ねる。何故なのか、と。

彼女がそう尋ねた乗客に事情を説明したのと同じく、乗客は会う人に対してそれを伝えた。

スレイプニルを連れ戻しに来たということは伏せておいたが、外から来た半神の女が御者と勝負をするらしいという、ただそれだけの噂話で、娯楽に飢え気味の大半の町人たちは進んで足を運んだ。

お陰で、噴水の前に立つルツィエを中心に、半円形の遠巻きな人垣が出来上がっている。

…いや。人によっては上空に浮いている者もあるので、半球型といった方がいいだろうか。

「ちょっとこれは…困ったね」

両腕を組んで周囲を横目で眺め、ルツィエは眉を寄せた。

雰囲気はすっかりお祭りムードだ。この町では珍しいことでもある。

町人たちは乗りが悪い者も多いが、良すぎる者も多い。所々から、頑張れだとか負けるなだとか、雑な声援や口笛が飛ぶ。

午後が休みになったので、彼女を心配して馬舎を抜け出して来ている馬たちもあった。

本人は否定しているが、間違いなくこの勝負の元凶であるスレイプニルは、ルツィエの一歩後ろで賑やかな周囲を見回していた。

人混みがあまり好きではない彼は、どこか落ち着かないようだった。

「迷惑だわ。とてもね」

「…悪いと思ってるよ」

ルツィエは取り敢えず、日頃静かな噴水のプールをお気に入りの場所として下半身を沈め、噴水の縁に頬杖着く占い師に謝っておいた。

空を飛んできた対戦相手は、噴水周囲に集う人の多さに少し着地を戸惑ったが、やがて彼女と対峙するように、半球型の中心に降りると翼を畳んだ。

昨日と変わらず軽い武装をしているローグリールに、ルツィエは微笑んで片手を上げた。

「よう、ローグリール。時間を指定しなくて悪かったね。午前中は仕事をしてたんだ」

「問題はない。時間の指定がないことに気付けなかったのは、私の落ち度でもある」

「潔いね」

ルツィエは微笑んだ。やはり彼女には好感を持つ。

どうやら彼女の方もルツィエには一目置くことにしたようで、小さく頷いてその言葉を受け取った。

それから、忘れないうちにその背後に立っているスレイプニルを睨んでおいた。

「さっきちょっと話してたんだけどね、乗馬勝負のルールを決める第三者を誰にするか、占い師に占ってもらおうと思うんだ。一番公平になるようなのを選んでくれる奴を当ててもらおうと思って」

ルツィエは親指を立てて、横にある噴水の中で腰を据えている占い師を指差した。

彼女は気怠げに縁に片手を乗せると、少し肩を竦めてふいと顔を背けた。

好意的な態度とは言い難いが、嘘や卑劣を行わない者だと感じたのだろう。ローグリールはじっと占い師を凝視し、それから頷いた。

彼女を信用することにしたらしい。

相手の了承を取ってから、ルツィエは占い師を振り返った。

「それじゃあ頼むよ、リーネ」

「…分かったわよ」

渋々という様子で、占い師は目を伏せて、半身を浸した水の中で緩く両手を広げた。

それまで騒がしかった周囲が、水を打ったように静かになる。

無音と緊張感がその場を支配している中、半球型のギャラリーの後ろを、ちょっとした用事で珍しく町に来ていた不動産屋が無関係を決め込んでてくてくと人のない主道を歩いており、彼の後ろ姿がパン屋の角を曲がったところで、占い師が形のいい唇に単語を灯した。

「そうね…。これは……詩人かしら」

「…詩人?」

彼女が徐々にはっきりと理解できてくるイメージを呟くと、スレイプニルは顎を上げて周囲のギャラリーを見回した。

ルツィエもそれに倣う。

対象がどういう人物なのかは不明だが、ローグリールも辺りを見回した。

「おーい!ここに詩人の奴は来てないのかい?」

町人たちは互いに顔を見合わせたり周囲を確認したりしてみるが、やはりここに詩人は来ていないようだった。

先程の二択でいえば、彼は乗りが悪い方に属するということだ。

探せ探せの声が重なり、乗りの良い方の町人たちはバラバラと散っていった。




森の中で動物たちを相手に詩を歌っていた詩人は、不意に平穏に乱入してきた宿屋と歴史家によって、ものの見事に拉致された。

双方空を飛べる者であったが故に、ひゅーんと飛び込んできては、その両腕をがしりと捕らえられ、そのまま拉致された。

突発的な事象に弱い詩人は、ギャラリーの中心である噴水の前にぼとりと落とされ、何が何だか分からないうちに事情を説明され、何が何だか分からないうちに決定権を与えられた。

「え、ええと…ええっと……。じゃあ、えっと…こうしようか」

詩人は一度家に戻ると、一枚の大きな装飾鏡を持ってきた。

一抱えある、壁に掛けるサイズのもので、縦に長い楕円形の周囲には金と九つの宝石が鏤められている。

それは彼が父からもらったもので、父と同じく神であった彼の祖母が住まう山へ繋がっているとのことだった。

「麓にある馬の園には、世界中の名馬の魂が放してあります。神馬候補の馬たちばかりです。くじ運もありますが、ランダムに選んで、当たった馬とのコミュニケーション能力も図るということで、一週間後、指定したコースを駆けることにしたらどうでしょう」

どうでしょう、と詩人は占い師に言ったが、占い師は「私に言われても困る」とルツィエとローグリールを見上げた。

「あたしは構わないよ」

「私もだ」

最後にスレイプニルへ同意を求めると彼も頷いたので、詩人の定めた方法が適用されることとなった。

詩人は占い師を噴水から出させ、水の中に鏡を沈めた。

それから、石を拾って足下に小さな円を描くと、また色の違う、黒と灰色の石を拾った。

「あたしはそっちの黒い方がいいね」

「では私は白だ」

詩人は円を狙って石を放った。

狙って放ったが、円の中に収まったのは灰色の石のみで、黒い石は僅かながらに円の外へと飛び出ていた。

ローグリールから馬を選ぶことが決まり、彼女は噴水の縁に左手を添えて屈むと、右腕を水の中へと伸ばした。

噴水は深くはないはずが、水中の鏡に伸ばした腕は、曲げてもいないのに身を乗り出した彼女の二の腕までも呑み込んだ。

どうなっているのかと噴水を覗き込もうとした時、指先に何かが触れた。

紐のようなそれを引っ張ってみると…。

「きゃ…!?」

咄嗟にローグリールは短い悲鳴を上げた。

甲高い嘶きと共に、噴水の中から白馬一頭の上半身が現れた。

どよめく周囲に見守られながら、驚いて立ち上がった彼女が手にした手綱に引っ張られるように、下半身も露わになる。

水に濡れたて迷惑そうに首を振る一頭の白馬が、噴水前に現れた。

見慣れぬ光景を目の当たりにして、対戦する当人であるはずの両名は唖然とした。

「すげえ…」

「…そうだろうか」

登場の仕方ではなく馬自体に驚嘆していると思ったスレイプニルは、胸中で自分の方が速いし毛並みも優れているはずだと、ルツィエたちの趣味の悪さに眉を寄せた。

その後ろで、日頃愛着を持っている居場所から馬が出てきたということで、占い師は苛立ちと目眩を覚えた。今日はもう噴水の水に浸かる気はなくなった。久し振りに家に帰るかもしれない。

「御者さん、どうぞ」

呆然としているところを詩人に言われて、ルツィエも袖を捲ると右腕を水の中に入れる。

やはり本来あるべき深さ以上に腕は入り、手綱が指に触れた。

「よっ…と!」

ぐいと引っ張ると、ザパッと水が跳ね上がり、同じように一頭の馬が飛び出した。

こちらは茶色い毛並みをしている。嘶きはなかった。

同じように首を振るって水を払う馬の首を、ルツィエはぽんぽんと叩いて微笑みかけた。

「それじゃあ、勝負は一週間後。それまでにコースを用意しておきます。御者さんが勝ったら、旅人さんはお帰りになる。旅人さんが勝ったら、御者さんがお持ちの黒馬を差し上げる…で、いいんですね?」

スレイプニルは物のように言われ、自分の馬体しか見たことがないらしい詩人の発言が些か不愉快であったが、何とか沈黙を保つことができた。

ルツィエとローグリールが頷き、ここに勝負日が決定される。

「では、一週間後の午前中、町の南端をスタート地点とします!」

詩人の声を皮切りに、あちこちからやはり雑な応援や口笛が響いて、まるで破裂でもしたかのように一気に場が騒がしくなった。

このお祭り騒ぎは向こう一週間続きそうだ。

早速白馬に跨るローグリールはルツィエと軽く拳を打ち合わせると、彼女は森の方へと消えていった。

ルツィエはその後で、自分の相棒になる馬の首を撫でた。

「宜しく頼むよ、相棒!」

返事はなかった。

茶色い馬は頭を少し垂れると、彼女の手から逃れるようにやんわりと後退した。




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