91、蠱毒の壷 その二十五
がんじがらめで転がっていた人狼であったはずの者は、僅かな間にその様相を一変させていた。
急激に萎びる野菜のように、見る間に皮膚がたるみ皺が寄って行く。
「獣化が解けた? ……いや、違う」
獣相が消えた後に現われたのは痩せ衰えた老人の姿だった。
いくらなんでもそれは元の姿として有り得ない。
なぜなら闇の精霊は再生を司る。
憑かれた者は老いを知らぬ体になるのは有名な話だった。
「どういうことだ?」
だが今何かを考えている時間は無い。
アンナを助けるためにはすぐさま走り出すべきだ。
それでも、その有り得ない出来事は、喉につかえた小骨のようにひどく気に掛かる。
「これはきっと呪術の一種。憑依系統だと思う」
由美子が言ってその老人の様子を見た。
「詳しくはわからないけど、この急激な衰弱と老化、これは依り代の命を代償にした禁呪だと思う。あの子に施されたものと系統が近い。この男は人狼ではなく、元は普通の人間」
普通の人間に勇者血統を憑依させた? 意味がわからない。
体毛が逆立ち、薄ら寒いものが喉の奥をひゅうひゅうと鳴らすような気分だった。
俺達が相手にしている者達は本当に人間なのか?
「またあのようなことがあってはなりません。その男は呪的拘束をしましょう」
明子さんが厳しい声音で言った。
「しかしこう衰弱していては、命に関わるかもしれないぞ」
言われた言葉を正しいと認識しながらも、俺は消極的に反対した。
目の前の老人は死にそうなぐらいに衰弱した無力な人間にしか見えない。
だが、目前でアンナ嬢が消えるのを目撃したであろう明子さんの懸念はわかるだけに、その言葉は抗議にすら届かず尻つぼみになるのは仕方の無いことだろう。
決して俺がヘタレとかそういうんではない、……はずだ。
「いいえ、本部からの命令はあなた方勇者血統を第一に優先するようにとのことでした。これは部隊のリーダーであるあなたの命令より優先されるべき命令です。それに、あなた方にはお辛いかもしれませんが率直に言わせていただければ、連中の仲間の命など私にとっては怪異以下なのです。いっそ地上から抹消できれば快哉を叫んでお祝いをしたい程です」
ギョッとした。
この人はこんなに激しい人だっただろうか?
真面目で冷静な人だと思い込んでいたが、どうやら決してそれだけの人ではなかったようだった。
「私は今迄会ったことのない守護者、勇者という存在に漠然と憧れていました。でもこの迷宮という絶望の場所に立ってあなた方と出会って気づいたのです。勇者は、無条件に人を守り戦う存在は、正しく人の希望なのだと。それを自らの欲のために奪おうとする者を決して許してはならないのです」
「めーちゃんの言う通りっすよ。俺なんかよわっちいけど、今までこんな化け物だらけの場所でも怖いと思わなかったんですよ? それはきっと皆さんのおかげです。それなのに連中の好きにさせたら、俺なんかこっから生きて帰れなくなっちまうっすよ」
明子さんの熱の籠った言葉は正直ちょっと怖かったが、大木の言葉には不思議と胸を突かれる気持ちになった。
そうだ、俺達は彼らの命も背負っている。
それは甘さに負けて譲っていいものではない。
「わかった。だが出来るだけ生かして拘束してくれ。死人に口無し、だ。色々なことがわからなくなってしまうかもしれないだろ?」
結局俺の妥協案を受けたのかどうなのか、人狼憑きとでも言う状態であった老人は厳重な軍用の拘束術式によって封印された。
とにかくこの老人の命も、一刻も早くアンナ嬢を助け出してここを脱出すれば助かる話ではあるのだ。
そのために、とにかく先を急ぐ必要がある。
地下通路はやがてトンネル状のまま改札口に繋がった。
そのゲートはご丁寧にも格子状のシャッターとなって行く手を阻み、液晶の操作盤がパスを求めるメッセージを表示している。
「いない? ……いや」
奴らがいないはずがない、ここにいるはずだ。
俺達に追われている自覚があるなら先んじて脱出の可能性がある場所に来ないはずがない。
「コウ!」
「ああ」
浩二の断絶は有機体を透過しない。
どれほど完璧に隠れても存在自体を消し去ることが出来ないのなら、浩二の能力によって暴くことは可能だ。
今、目には見えないが、目前の空間ではパラフィン紙のように薄い界が空間をなぞるように生まれては消えているのだろう。
浩二以外には見えず感じないそれは、さながら空間のCTスキャニングのごとく見えない何かを探り出す。
「いました。……影よ行け!」
言葉と共に浩二の影の一部がするりと抜け出すと空間の一角に襲いかかった。
「ちっ!」
ばさりと、大きな布のような物が折り畳まれる音と共に、そこに連中が姿を現した。
見覚えのある二人と見覚えの無い一人、そして、巨大な赤銅色の鳥籠の中に、両手を高く吊り上げられたアンナ嬢がいる。
「アンナ!」
呼び掛けに反応がない。
「安心しな、生きてるぜ。まあこっちとしちゃ死なせちまっちゃ意味がないからな」
ふてぶてしいというか悪びれないというか、堂々と人を狩ると言っていた野郎は、まるで自分の成果を自慢するかのようににこやかにそう言ってのけた。
途端、バシュ! バシュ! と、背後から圧縮された空気の吐き出される音が連続で響く。
明子さんか大木か、もしかしたら装甲車が、警告無しで銃弾を撃ち出したのだ。
それらは奴等のかなり手前で、弾かれるように跳ね返された。
うおっ! あぶねえ!
咄嗟に浩二が断絶の壁を展開したらしく弾丸は力無く地に落ちた。
しかしなんかでかい弾丸なんだが、……これ人間用じゃないよな?
「ご挨拶だな。ならこっちからも返礼が必要だろうな」
前に対峙したのと同じリーダーらしき男が、ニヤニヤと笑いながらアンナ嬢の吊られた巨大な鳥籠を叩いて見せる。
本来なら金属的な響きを返すはずのそれは、奴の手がそのまま突き抜けるに任せた。
どうやらあの鳥籠は噂に聞く怪異捕獲用の特殊な装置のようだった。
俺達が使う素材確保の為の封緘と似た仕組みなのだろう。
「兄さん!」
由美子の警告に横っ飛びにその場から離れる。
「おや、残念」
俺が今までいた場所には今まで不明だった最後の一人がいた。
こいつさっきまであの男のすぐ後ろにいたはずだ。
振り切った状態の爪の先が鋭い。
「……まさか」
その気配に愕然とする俺に、奴等のリーダーが答えた。
「ほうわかるのか。やっぱり化け物は化け物を知るってことだな」
あまりにも薄い気配のその男の足元に影はない。
赤い目に白い肌、なにより不自然に伸びた二本の犬歯がその正体を物語っていた。
「吸血鬼だ……と? まさか、そんなはずはない」
俺の言葉は虚しくその場に響いただけだった。
吸血鬼:強烈な怨念が夜という概念(闇の精霊)の元で長い年月を掛けて熟成されて生まれる怪異。
様々な能力を誇り、人間の血を得る事でより強力になる。
血を吸った人間を操る事も出来る。
人間に対して最も攻撃的でしかも強力な怪異の一種で、たった一体でも一晩で小さな村や都市を滅ぼしたという伝説がある。
理性的で頭も良く、会話が可能であるが、一切の情を持たないので人と折り合う事は出来ない。