63、帳尻合わせは人の業 その一
「木村さん、領収書の提出忘れとかないですよね?」
「昨日も確認しましたよね? ありませんよ」
じっと俺を探るように見た後、お局様こと園田女史は席を移動して隣にも同じように問い掛けた。
事務方がピリピリしていて怖い。
現在会社の決算時期なのだ。
決算業務なんか開発部門であるうちには関係なさそうな話だが、案外そういうものではない。
予算を司る総務部がこの時期ほぼ動かなくなるのだ。
それに各部門もこの時期は事務方に負担を掛けないように突発的な企画は立ち上げない気遣いをする。
おまけに、仕事の内容的に、アイディアを形にしてみて廃棄を繰り返すうちなんかは、予算ありきで動いている総務とは相性が悪く、なにかの拍子にうっかり逆鱗に触れないように、必要以上にひっそりと過ごす。
気の毒なのはうちの事務で、いい加減な連中揃いのうちの課の諸経費や、いつ必要になるか全く予測が付かない予算案をなんとか取り纏めて総務に説明したり頭を下げたりしているようだった。
申し訳ない限りである。
しかし、なんだな、もはやすっかり通常運行だよな。
国の中心である都心に迷宮などというとびきりの異物が出現したにも関わらず、人々は逞しいもので、既に関連ニュースすら日常の事件に埋没するようになっていた。
慣れと言うものは恐ろしいものだ。
俺としてはもうちょっと緊張感を維持してほしかったが、むしろパニックが起こらなくて幸いと政府側は思っているようである。
まあ、関連して起こったことを見れば、政府内部が安定に走ったとしても仕方ないのかもしれない。
なにしろ初期の失敗はどこからかリークされ、大々的に報道された後、関わった大物議員が辞任したり、公開審問会に引っぱり出されたりと散々ゴタゴタしたのだ。
挙句、新組織の立ち上げと人事発表で、今迄影で暗躍してたっぽい酒匂さんが、血統、学歴やこれまでの実績をオープンにされるという鳴り物入りで表に出て来た。
今後は責任の全てがあの人にのしかかることになるんだろうな。
人身御供かよ、全く。
頭の痛いことはまだある。
その迷宮攻略の実行部隊たる特別調査部隊なのだが、現在第二層を目前にして進行が止まっているのだ。
なにしろ国全体の空気がヤバイ。一度の失敗が取り返しのつかない事態を招くとあって、情報なしでの突入を避けているせいで無理が出来ないのである。
各種探査装置の投入がことごとく失敗に終わってしまい、それでも俺達のパーティが先行するという主張は退けられ続けている。
手柄を横取りされるとか考えられているんだろうか?
ハンターの行った活動は基本表に出ないようになっているんだから気にしなくていいのにな。
これじゃあ何のための長期専任契約だかわからないだろうに。
税金の無駄遣いも極まれりって感じだ。
……税金と言えば、もはや俺の副業はたまに家業を手伝うというようなものではなく、決定的な通常業務形態となってしまった。
色々考えたが、俺が考えた所でいい案が浮かぶはずもない。
こうなったら正直に課長に相談するしかないだろう。
まあ今は会社全体がバタバタしてるから決算が終わってからだな。
はあ、気が重い。
「なに溜め息吐いてんだ? よかったら話を聞くぞ、お前のおごりで!」
佐藤よ、家庭持ちなのに変わらず我が道を行くお前が時々うらやましいよ。
「けっこうです」
「ぬお! 即断すぎる!」
「君達、経費を私用で使う相談かな?」
うお!
びっくりした。
誰だ?
「おいおい誰だ? 俺様にあらぬ疑いをかけるのは?」
誰が俺様だよ。
佐藤、相手が誰とも知れないのに威張るとは無茶しやがって。
聞き慣れない揶揄の声は、どうやら入口に立っている紳士然とした男からのようだった。
明らかに高級な背広で、身だしなみに隙が無い。
私服が当たり前の開発部門周辺ではついぞ見掛けないタイプだ。
「こら佐藤君、失礼だろう。申し訳ありません水沢部長」
部長さん?
お偉いさんだけど、どこの部長さんかな?
うちはセクション的には独立部門だからどうも余所の部署とは縁が薄いんだよな。
「なに、肩書きが付いてもこうやって使いっぱしりをさせられるんだから、実の所そう大した者ではないのだよ。彼の言いように腹を立てるようなことはないさ」
口を開くと案外気さくな感じだ。
思うに、さっきの第一声はこの人なりのジョークなんだろう。
「お忙しいのですね」
課長が恐縮しながら気遣うようにそう言った。
「手近にいれば社長でも使いそうなぐらいには殺伐とした場所と化してる程度かな?」
はははと課長は冗談で流そうとしたが、相手の部長さんの目はマジである。
恐ろしい。
どうやら決算時期の総務部は、考えた以上に魔窟であるようだ。
「ところでここへ来た理由だが、この購入伝票なんだが、同じ日付で全く同じ内容の物が二枚ある。どういうことか説明して欲しい」
うお! 監査か!
お局様がきりりとした顔で伝票を受け取ると、「今年の五月二日の伝票ですね」と呟いた。
五月って半年近く前じゃないか?
おいおい、そんな前の話じゃ、購入記録はあっても、なんで同じ発注がダブったのかの理由なんかわからないんじゃないか?
一応俺も業務日誌をめくってみるけどさ。
課長も同じ思いだったのか、日報を広げている。
「伊藤さん、その頃手掛けていた製品内容を調べて。御池さんはこちらの購入伝票のデータと照らし合わせてみて」
お局様の指示がテキパキと飛ぶ。
さすが事務方、頼もしいぜ。
と、電算機をいじっていた伊藤さんが声を上げた。
「わかりました。当日、急遽役員プレゼンで試作機を稼動可能状態で使用するとの連絡が入って、テスト機と別にもう一台同じものを作製することになったんです。既に部品は発注済みだったため、時間差での発注となってしまい。相手方の処理の関係上伝票が二枚発生することになったようです」
えええ? 発注前後の理由とかも記録してんのか?
事務って大変な仕事なんだな。
しかし言われてみれば、そんなこともあった。
というか、うちは仕事の性質上、そういう流れになることは多いから、むしろよくあることとして全く思い出しもしなかった。
「そうか、当時の役員会資料を当たれば裏付けも取れるだろう。すまない。手間を掛けた」
水沢部長は丁寧に謝罪すると、ファイルを閉じて一礼した。
と、部長さんの携帯が点滅を始める。
「失礼」
一言断って携帯を操作しだした。
この場で操作するってことは社内連絡かな?画面を見ていた部長さんは、なぜかたちまち顔を曇らせる。
「どうかしましたか?」
課長も何事かと思ったのだろう。
操作を終えた部長さんに声を掛ける。
「すまない。緊急事態だ。技術者を一人ヘルプに借りたい」
何事だ?
この時は、まさか自分に火の粉が降り懸かるとは思わないまま、俺は呑気にそんな風に思っていたのだった。