28、昼と夜 その五
「実はですね」
階段で鉢合わせした理由を聞くと、伊藤さんは少し恥ずかしそうにしながら話してくれた。
「私、エレベーターが苦手で」
なるほど。
「エレベーターが苦手な人って結構いるみたいですよね」
「そうなんですか?」
俺の言葉に、伊藤さんはほっとしたような、嬉しそうな顔を見せた。
「よかった、私、ずっと自分が変なのかと思っていて」
とはいえ、いくらエレベーターが苦手でも、七階のオフィスとの往復に階段を選択する人間は少ないに違いない。
「いつも階段なんですか?」
「いえ、流石に急ぎの時なんかはエレベーターを使うんですが」
逆に言えば急いでなければ階段なんだ。
半端ないな。
「高層ビルの展望台とか行けませんね」
こないだ昇った展望台を思い出し、ふと口にしてしまったが、口にした途端に、これって誘っていると思われてもおかしくないセリフじゃ? と思い至って口が引きつるのを感じた。
そして急に今のシチュエーションが気になり出す。
ビルの内部の非常階段という公共的でオーブンな場所ではあるが、認識出来る範囲ではほぼ密閉空間に二人きりという状態なのだ。
「そう思うでしょう? 実は私、高層ビルの階段を既に幾つか制覇しているんですよ」
だが、伊藤さんの答えは俺の懸念の遥か彼方を行っていた。
その得意気な顔を凝視した俺は、僅かにずれたタイミングで驚愕の声を上げる。
「へえ!」
なんかちょっと間抜けな声になってしまった。
ばつが悪いので慌てて言葉を繋ぐ。
「あっ、と、高層ビルとか五十階とかあったりするよね?」
「はい、この間はついに世界第五位のエンタメビルを制覇しましたよ!」
おいおい、いやいや、それって趣味なの? 趣味のカテゴリーでいいの?
エレベーターが苦手って話からなんでそんな壮大な趣味に行き着くんだ?
「伊藤さんには色々驚かされますね」
「それを言うなら木村さんのほうこそじゃないですか。複雑な配線をデザインしたり調律術を使いこなしたり技術の最先端で働いているのに、オカルトに詳しかったり、映画とか物語の中の存在だと思ってたハンターだったり、今日だってぼうっとしていたなと思っていたらそんな格好で階段を駆け降りて来るし、本当驚かされてばっかり」
「あはは、お互い様ってことかな?」
「そうですね」
そうやって話をしていたら、そこそこ長いはずの階段があっと言う間だった。
しかし、あと半階分で降り切るというその時、俺の携帯に緊急コールが入る。
高い音の断続コールは、密閉されたコンクリート打ちの空間ではあまりにもうるさく響いた。
「失礼」
俺は慌てて伊藤さんから距離を取ると応答ボタンを押す。
「はい、なんでしょうか?」
通話先からピッという電子音が聞こえる。
政府案件おなじみの声紋照合の作動音だ。
『緊急案件が発生しました! すみやかに現場に向かってください!』
「場所は?」
『桜坂住宅地区です』
桜坂?
桜坂と言えば確か暁生の家の近くじゃないか?
むちゃくちゃ嫌な予感がするんだが。
まあいい、今は詮索は後にして急ぐべきだ。
だが、自宅に戻ると大回りになるし、ここから直行となると指令がハンター証に落とし込めないのが痛い。
指示を仰ぎながらじゃ携帯電話の地図アプリも使えんし。
「詳しい依頼内容をメールで送ってくれ。急行しながら確認する」
『了解した』
装備がそのままだったのは幸いだが、詳細が来るまで大雑把な位置しかわからない。
タクシーを捕まえるしかないか。
帰宅ラッシュのこの時間帯じゃ厳しいかもしれないが。
急いでビルの玄関を抜け、人の行き交う大通りを見回す。
間が悪いのか空車どころか客を乗せたタクシーすら見当たらなかった。
「くそっ!」
「あの」
思わず毒づいたのに被せるように、間近で声が聞こえてぎくりとする。
振り向くと、肩が触れ合う程近くに伊藤さんの姿があった。
おお、驚いた!
「急いでどこかへ行きたいのですよね?」
「え、あの実は」
依頼内容は他人に話せないし、どう説明するべきか口篭った俺を置いて、伊藤さんは更に畳み掛けた。
「私、都内の交通網はほとんど把握しています。どこに行かれるのですか?」
なんだろう、この勢い。
なんか伊藤さん、目力が凄いんだが。
一体どうしたんだ?
「あ、ああ、桜坂住宅地区に」
「桜坂なら車より、地下鉄の環状線が……」
おもむろに腕時計を確認すると、伊藤さんは笑みを浮かべた。
「後五分程で到着します。行きましょう」
え?
俺の疑問が具体的な言葉になる前に、伊藤さんは俺を引っ張って走り出した。
そういえば、伊藤さんって、あんまりヒールの高い靴履いて無いよな、と、日頃から思っていたんだが、こんなに活動的なら確かに高いヒールは動きにくいかもな。
っていうか、なにが起こってるのかよくわからない。
俺は自分よりどう見積もっても半分も力が弱いだろう相手に引き摺り回される羽目に陥っていた。
「あの、木村さん」
「あ、はい!」
おおう、急に呼ばれてびびった。
俺の思わず出た学生時代のような返事に若干引きながら、伊藤さんは俺の手の携帯を指差す。
「なんか携帯震えていますよ」
あ、電車に乗った際にマナーモードにした携帯が振動しながら光っている。
いかん、緊急出動中に惚けてる場合じゃない。しっかりしないとな。
それにしても、やっと詳細が来たのか? もう五分以上経過しているぞ。
間違っても内容を見られる訳にはいかないので、伊藤さんから少し離れてメールを開く。
あれ? そういえばなんで伊藤さん一緒に地下鉄乗ったんだ?
気にはなるが、まずは詳細確認が先だ。
メールを開き、そこからリンクされた資料を一瞥する。
記載されていた詳細は、俺が覚悟をしていた状況よりも更に悪かった。
あまりのことに、一瞬湧き上がった怒りを必死に押し殺す。
この資料には、肝心のその状況に至った理由がない。
今はまだこの怒りを向けるべき相手が判然としない。怒っても仕方が無い状況だ。
とりあえず今は現状をどうするかだ。
今はっきりしているのは、暁生が怪異に憑依された状況で、破壊衝動に駆られるままに暴れまわったせいで、住宅街の一区画が崩壊し、それを抑えるために出動したはずの機動部隊が無力化されつつあるということだ。
リアルタイムに更新される状況を見ると、どうもジャマーの波動を相殺しつつ発生源を破壊しているらしい。
このやり方って、もしかすると俺とやり合った時の経験を生かしているんじゃないかな?
もしそうなら、まだ本人の思考が生きているということだ。
思考が生きていれば汚染の深度は浅く、怪異は容易く切り離せる。
上手く切り離せば精神もほぼ無傷で沈静化出来る可能性がある。
それにしたって、なんだって暁生の母親があいつの目の前で自殺するような事態になったんだ?
カウンセラーはいったい何をやらかした?
いや、自宅で発生したのなら、カウンセラーじゃなくて普通に交渉員かもしれないが。
昨夜、与えられた部屋の隅で一人で泣いていた暁生に、俺は約束した。
明日には一度家に帰れるはずだ。
その時にお前がちゃんとお母さんと仲直り出来たらいい物をやるぞ、と。
あいつは「絶対」と言ったんだ。
だから住所や連絡先をお互いに交換した。
詳細事項で送られて来た住所の、団地の部屋番号は、あいつが帰りたくて、それでも母親を思って帰れなかった場所であることを俺は知っている。
……どうして世の中はこうも上手くいかないんだろう。
「木村さん、大丈夫ですか? 降りますよ」
「あ、すみません、大丈夫です。あの、伊藤さん」
電車を降りて小走りに進みながら、なぜか既に俺を先導しようとしている伊藤さんに声を掛けた。
いくらなんでも危険地帯と化している現場に連れていく訳にはいかない。
「はい?」
「ここまでで大丈夫です。住所が送られてきましたので、後はナビで行けます」
伊藤さんは俺を振り返ると、少し小首を傾げてみせる。
「桜坂周辺は住宅地区で、しょっちゅう建物や道路が変化しているんです。徒歩ならナビより私のほうが役に立ちますよ?」
「いや、あの、ちょっと危ない状況になっている場所に行くんで、伊藤さんを連れて行く訳にはいかないんです」
少し強めに言ってみたが、彼女はきょとんとした顔をするばかりだった。
なに? どうなってるんだ? 伊藤さんって普段あんまり自分を主張するような人じゃないんだが。
「だって、木村さん、凄く急いでいるって顔をしていたから。間に合わないととても大変なんでしょう? 私、幸いこの都内のことならかなり詳しいんです。父に自分の住んでいる場所の周辺は目を瞑っても把握出来るようにしておけって小さい頃から躾けられていて」
さすがは元冒険者って所だな。
いや、今の問題はそこじゃなく……。
「ここを抜けますよ」
「え? ここ道じゃないですよ?」
「この家の人が私有地を開放して小さな公園を作っていて、そこを抜けると三分程度短縮出来るんです」
詳しすぎるだろ、伊藤さん。
いや、そうじゃなくて、手を離してもらわないと。
「あの」
「次は神社を抜けますね、板垣の間を通るから注意してください」
「え? ええっ? それって通っていい場所なんですか?」
結局現場まで引っ張られてしまった。
おかげで色々鬱々と考える暇もなかったのは、これからことに当たるにはよかったのかもしれない。
まあ、伊藤さんはどうせ封鎖線で締め出されるし、今回はありがたく思っておくべきなのだろう。
なにしろオフィス街からこの住宅地区まで、本来三十分以上掛かるはずなんだが、わずか十二、三分で到着したんだからな。
「危ないですから、こちら側に入らないでください!」
現場に近づく程に混迷とした状況がわかり始める。
遠巻きに何事かと窺う人々と、それを整理する警察官。
現場からかなり遠いはずの封鎖線の外まで響いてくる号令と轟音。
ズン! と、地面が揺れる感覚がしたと思うと、家々の間から覗いていたジャマー装備の特殊車両が消え去った。
「伊藤さん、ありがとうございました、おかげでかなり早く到着出来ました」
「いえ、お役に立てたならよかったです。頑張ってくださいね」
「はい!」
ぬくもりを伝えてくれていた手を離し、ハンター証を提示しながら封鎖線を抜ける。
思いもかけない協力によって稼いだ時間は、間違いなく事態を左右する程に貴重な力になるはずだ。
だからまだ大丈夫。
約束はまだ果たされる時を待っている。