20、思い出は甘い香りと共に 前編
春も深まり、まだ朝夕は肌寒いものの、最近は夜道を歩いて帰るのもそれなりに悪くない。
ふとした拍子に、どこからか漂って来る香りに気づき、見えない花の姿を脳裏に鮮やかに浮かび上がらせてくれたりするからな。
古来、人が植物の生み出す怪異と相性がいいのは、人の多くが緑や野花を愛して来たからだと言われている。
想念の世界では赤裸々に好悪が反映されるのだ。
俺はまだ見たことは無いが、人が丹精込めた庭では植物に由来するはずなのに人の姿をした怪異まで現れることがあると聞く。
そんな俺らしくない風流な気分のまま、いつものようにコンビニに寄ると、いつもと違い今日は男の店員さんだった。
いつもの女性店員さんを期待していた俺は、上がっていたテンションがやや下がる。
しかし、諦めていた生姜焼き弁当が残っていたことで下がったテンションは上昇した。
プラマイゼロ、悪くは無いな。
簡単に上下する安いテンションだと人には呆れられそうだが、他人は他人、俺は俺だ。
だが、アパートの前に辿り着いて何気なく自分の部屋の前を見た瞬間、そんなのんびりとした気分は何処かへ消し飛んでしまった。
外から丸見えの二階通路、俺の部屋の前に誰かがいる。
どう見ても、それは幽霊などでは無く、実体を持つ人間だった。
弟やら妹やらに続いてまたもやという気分だが、今回は鍵の掛かった部屋の中で待つような非常識な相手では無いらしい。
こっちの気分的には中で待っててくれたほうがよかったかもしれないが。
……ご近所さんの評判を気にする部分においても。
「驚きましたよ」
そんな言葉が思わず口から飛び出した。
いや、実際そんな生易しいもんじゃなかった。
正に度肝を抜かれたというほうが正しい。
部屋の前の人影に慌てて帰れば、相手はとんでもない人物だった。
なんで夜も遅くに、自分のアパートの部屋の前に怪異対策庁のお偉いさんが突っ立ってなきゃならないんだ?
どこぞのドッキリ企画かよ? ホント、止めて欲しい。
「いや、悪かったね。最初は連絡を入れてからと思っていたのだけどね、君の驚く顔が見たくなってしまって、つい」
いや、ついじゃないから、政府のお偉いさんが俺を驚かして何のいいことがあるんですか。
苛めですか? もしかして?
そう心中で思ってはいても、なんというか、文句は言えないのだ。
俺はこの人に弱い。
『俺は』というより『俺たち兄妹は』、というべきか。
なぜなら、この人は、若い頃うちの担当官で、訪問時には俺達兄妹に必ず珍しいお菓子を持って来てくれたからだ。
ケーキやクッキーそしてチョコレート。そんなハイカラなお菓子を初めて口にしたのは、全てこの人のお土産だったのである。
今でもあの数々の味覚の衝撃は、他の何よりもはっきりと覚えている。
その衝撃の大きさを物語るように、子供時代の俺たちは、この人を『お菓子の人』と呼んでいた。
今思えば失礼な話である。
流石に本人を前にしてそんな風に呼ばなかったとは思うのだが、自信がない。
もしかすると、「お菓子のおにいちゃん」ぐらいは口に出したことがあるかもしれなかった。
「それにしても補佐官殿がわざわざ出張って来るなんて、どんなおおごとなんです?」
カチャリとガラスポットのセット音を確認して、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
「お、いい香りだな。本格的だね」
「酒匂さんのおかげですっかりコーヒー党ですからね。以前と同じようにガイア産ストレートの荒挽きでいいですか?」
「よく私の好みなんか覚えていたな」
「何言ってるんですか、俺にコーヒーのウンチクを話して聞かせたのは酒匂さんじゃないですか」
怪異対策庁長官補佐官、酒匂太一。
現場叩き上げの出世組だ。
元々家柄もいいらしいので、出世自体は予定調和なんだろうけど、統括している部署が部署なだけに現場を知っているのは頼りになる。
ハンターにとって国との連携は命綱に近いので、組織の上部にこういう人がいるのは歓迎されることなのだ。
混ざりの無いコーヒーのすっきりとした温かい香りが広がる中、お菓子の人、もとい、酒匂さんが俺の最初の質問に答えた。
「用件は実は複数あるんだが、まあ慌てることはない。まだまだ宵の口だしな。順番に片付けて行こう。まずはお土産だ。このシュークリームは美味いんだぞ」
もうすっかり大人になってしまった俺相手なのに、お菓子の人のお土産は健在だったようだ。
こんな大物が突然自宅に訪ねてくるという、嫌な予感しかしない事態に尻込みしがちな俺の気持ちも少しだけ安定する。
いや、人間誰でも手土産に弱いはずだ。
俺だけがゲンキンなんじゃないぞ。
あれ?そういえば、お役人である酒匂さんが手土産なんて持って来ると贈収賄に当たるんじゃないかな? 大丈夫なんですか?
誰にでもわかりやすくコンビニ弁当を下げていたせいで、酒匂さんは俺に先に食事を済ませるように勧めてくれたが、さすがに自宅前でどのくらいの時間か知らないが、おそらく長時間帰宅待ちをしていた相手を前にそこまで俺も厚顔ではない。
とりあえずお互いの前にコーヒーとおもたせのシュークリームを並べて出し、話を続けた。
「まずはおめでたい話だ。まあ心配はしていなかったが、由美子ちゃんの大学合格おめでとう」
この情報は、俺にとって予想しないことではなかったが、当の本人から音沙汰が無く心配していたらこれか。
まさかの本人以外からの報告とか……どうしちゃったんだ? 由美子。
そんなやや挙動不審の俺に、
「まさか知らなかったのか? もう先月には大学の寮に早々に入ったらしいぞ」
と、追い打ちをする酒匂さん。
な、なんだと!
やっぱり先月感じた視線はあいつだったんだな!
というか、引越し大変だっただろうに、手伝いとかなんで俺を頼らなかったんだ、由美子?
そんなに俺は頼りにならない兄貴なのか?
「あー、隆志くん。大丈夫かい? いいニュースだとおもったんだが悪かったかな?」
いかん、酒匂さんのまなざしが凄く同情的だぞ。
そんなにショックを受けたように見えたのか?
「あ、や、ちょっと俺のアイデンティティーが……じゃない、いえ、凄く嬉しいですよ! よかったなあユミ」
俺は慌てて取り繕うと、コーヒーを飲んでごまかした。
酒匂さんはよいニュースを先に、悪いニュースを後に持って来るタイプだ。
本当に一緒に喜ぼうとこの話題を出したのに違いない。
ここで落ち込んでどうする?
確かに由美が無事大学に入れたのはいい話だし、何より、これで鬼伏せの直系から二人も大学に進学したという実績が残る。
後に続こうとする者に道を示せるのだ。
「それで他に何かあったんですか?」
何とか気持ちを落ち着けて先を促す。
そうだ、実家からの電話を着信拒否にしているせいかもしれないぞ。
住所や地図を特殊職用のサポートシステムと勘違いしていた由美子のことだ、きっと自分用の携帯電話の扱いもよくわからないに違いない。
びっくりするぐらい頭がいい癖に妙にボケてる所があるからな。
まあそんな所が更に可愛いんだが。
「あー、隆志くん。私の話を聞いているかな?」
ハッと気づくと酒匂さんが苦笑しながら覗き込んでいた。
まずい、どうもこの人は身近な相手過ぎて気がゆるんでしまうな。
「す、すみません、ちゃんと聞いてなくって」
「まあ私にそう気を使うことは無いよ。なにしろ君が産まれた時にだって立ち会っているんだ。もはや家族同然だろう?」
これだ。
付き合いが長過ぎる相手が腹の探り合いの相手というのはどうにもやりにくい。
絶対なにか俺にとって都合の悪い案件を持ち込んで来ているに違いないのに、聞く前から断れる気が全くしない。マズすぎる。
「次の話は、まあこれも私用に近いんだが、一応確認しておきたくってね。そう、君の報告した迷宮の件だ」
ぐっ!
俺は驚きをコーヒーのカップで隠した。
待て待て、迷宮の件は一般通報だぞ、そんな些細な件が、なんでこの人まで上がってて、しかも通報したのが俺ってバレてるんだ?
名前名乗って無いぞ。
「隆志くん。まさかと思うが、自分の通報だと発覚しないと思っていたのかい? 出来たてとはいえ迷宮を単独で攻略しておいて」
酒匂さんのどこか意外そうな言葉に、俺は猛然と反論した。
「いや、でも、一層のみでボスは少し大きなネズミだったんですよ? そのぐらいなら別にハンターじゃなくても問題ない規模の迷宮じゃないですか」
さすがに一般人に二層の大ネズミは無理だろうと思ったのでサバを読んだ。
「いけないな、迷宮報告を誤魔化しては。それはまあ置いておくとして、一層のネズミでも猫程の大きさの上に麻痺、病持ちだよ?しかもボスには必ず取り巻きが少なくとも三匹はいるんだぞ? そんなものが一般人にたおせると?」
「えっ? でもその程度避けながら蹴飛ばせば終わるでしょう? キングマウスじゃなくてビッグマウスですよ? 子供でも楽勝でいけるでしょう?」
酒匂さんは大きく溜め息を吐くと、自分の前に置いてあるシュークリームを一口口にしてコーヒーを飲んだ。
「いいか、普通の人間は迷宮に迷い込んだ時点でパニックだ。君の村なら確かに子供でも楽勝かもしれんが、普通はボスに挑戦しようとかまず思わない」
そうか、わかった。
これは引っ掛けだったんだな。
いくらなんでも子供が楽勝な相手を、一般人といえど必死で戦って倒せない訳がない。
なにしろボスを倒さなければ出られないんだし。
それでボスに挑まないとか有り得ないだろ?
そりゃあ高額のダンジョン脱出用のアイテムはあるが、新車並の値段で使い捨てだぞ。一般人が携帯してるとは思えない。
きっとこうやってうっかり俺が自白するのを誘って、俺の余裕を削っていく作戦なんだ。
そうして追い詰められた俺に最後の難題を突き付ける。
怖い程完璧な作戦だ。
弟達に散々うっかりがすぎると叱られ続けても結局性格が改善出来なかった俺を知り尽くした上での作戦だ。
そう考えついて、慣れない方面に頭を使ったからか、俺は急遽甘い物が欲しくなった。
それに話の開始早々に自爆をしていた自分に気づいたせいで、恐らくはあまりのストレスに脳が悲鳴を上げているのだろう。
ここはとりあえず落ち着いて目の前のシュークリームを食うべきだな。
改めて酒匂さんが持って来たシュークリームをじっくり見ると凄く美味しそうだし、美味しいものは美味しい内に食べるのが礼儀というものだ。
しかしこれ、普通のシュークリームの二倍近くあるんじゃないか?
昔はシュークリームと言えば上の方に切り込みがあって、それを外してスプーン代わりにある程度クリームを減らしてから本体を攻略したものだが、なぜか最近の物はむしろ切り込みがあるほうが珍しくなった。
シュークリームはそのままかぶりつくと下手すると大惨事になるのに何故なんだろう?
噛み付くことで、片側からの圧力に押されたクリームが反対側の薄皮を破り、スライムより柔らかなその流体が、もうどうしようもないぐらい手とか服とかに零れてしまう。
そうなった時のショックといったら筆舌に尽くし難いものがある。
シュークリームあるあるに思いを巡らせながら、俺は酒匂さんお土産のシュークリームに、圧力を掛け過ぎないように注意しながら噛み付いた。
お? なんかサクッとしているぞ?
いつもの頼りない薄皮ではない。
パイ皮とボーロを程よく合わせたような食感。
それに中のクリームが凄い!
黄色い甘味の強いカスタードとは少し違うようで、その甘味はあっさりとしている。
そして口に入るとフワッとなにかの香りがした。
特徴的な香りだけどシュークリーム全体の調和を壊したりしない絶妙な香りだ。
馴染んだ香りだよな、なんだろう。
そうだ、ちょうどアイスを食べた時みたいな……ん? 箱になんか書いてあるぞ。
何々、『クリームの中の黒い粒はバニラビーンズです、埃の混入ではありません』なるほどバニラか! 白いアイスだな。
白いのに本当は黒いのか、世の中不思議なことが多い。
「そういう顔は子供の時と変わらないな」
気がつくと、酒匂さんがにこやかな笑顔で俺を眺めていた。
「君達はお菓子を食べている時、本当に幸せそうに食べてくれたから、私はいつも出向が楽しみだったよ。本庁勤務の時は、次はどんなお菓子がいいかなとそんなことを考えながら街を歩いたものだ」
にこにこと笑う顔は、俺にとっても、昔の、好青年だったこの人を思い出させる。
怪異の隠れ場を無くすため、焼き払われた黒茶けた道を、まるで騒音を撒き散らすように走る、魔除けを施したメタリックな車。
虫を飛ばして監視していた由美子が、まるで飢えた獣のような目をして飛び出し、それで察した俺が続く。
車を追い掛けて家に戻ると、呆れたような顔の浩二がタオルを手に井戸で手と顔を洗って来るように言うのだ。
「そうそう、そのシュークリーム。由美子ちゃんも大好きだって言っていたから、もしなにか気まずいことがあったのならそれを持って仲直りに行くといい。お店を教えておくよ」
ああ、これは駄目だ。もう勝敗ははっきりしている。
だけど、何もかも知られている相手を交渉相手にしなきゃならんってちょっと酷くないか?
俺は誰とも知らないこれを計画したであろう我が国のお偉いさんに向かって、心の中で愚痴っていたのだった。