また、来年
神社の池の白い睡蓮たちが咲き誇る頃、帰省した。
明日と明後日は夏祭りだ。
境内は準備に追われる若者たちで騒がしい。
空を旋回する鳶も浮かれているのか、ぴーひょろろと鳴いた。
妻と中学生の娘は、ついてこなかった。
ネズミの国のほうがいいらしい。
ここ数年、そんな感じだ。
三人で同じ場所にいる時間は、ほとんどない。
妻と夜を最後に過ごしたのは、いつだっただろうか。
「……減ったな」
神社の前では、テキヤたちが屋台を組み立ている。
子どもの頃は、その威勢が怖かった。
かつては隙間なく並んでいた屋台も、今はずいぶん少ない。
数えようとして、途中でやめた。
本殿に向かって、境内を歩く。
砂利を踏む音がやけに大きく響いた。
雨上がりの杉林の匂いが、風に混じっている。
「変わらないようで、変わってるな」
苔むした自然石が組まれた手水舎。
沢水が絶え間なく注ぐその冷たさは、子どもの頃と変わらなかった。
「……冷て」
小さく声が漏れる。
口を清める際、つい水を飲んでしまった。
雨上がりの強い日差しで蒸し始めた境内の空気の中、その水がやけにうまかった。
柄杓を洗い、先に進む。
古い神社特有の急な石段。
子どもの頃から変わらない鉄の手すりに手をかけながら、上る。
「きつ……。こんなだったか?」
いつのまにか視線が落ちていた。
気づけば、石段の半ばで息が切れている。
昔は、一気に駆け上がれたのに。
そう思った、そのときだった。
「あれ? もしかして……。」
聞き覚えのある声が降ってきた。
顔を上げる。
木漏れ日の中、女性がいた。
「……え?」
一瞬、言葉が出なかった。
白いブラウスにベージュのスカート。
落ち着いた装いで、髪はショートになっている。
年齢を重ねた輪郭の中に、見覚えがある。
それでも、細い身体の線は変わらない。
「久しぶり。……二十年ぶりかな?」
女性はそう言って、軽く手を振った。
一目で分かった。
高校のときに付き合っていた彼女だ、と。
******
神社のすぐ近く。
道路から少し奥に入った先に、野球場とテニスコートが広がっていた。
「まだ残ってたんだな、これ」
「でも、あの頃より荒れてるね」
彼女は少し笑った。
詳しくは知らない。
バブル期に自治体が学校跡地に造ったものらしいが、俺たちが高校生の頃にはすでに放置されていた。
今はすっかり寂れ、野球場のあちこちから雑草が生え放題になっている。
「懐かしいね」
「……そうだな」
お互い、神社の近くに実家がある。
放課後、別れを惜しみ、二人で通っていた場所だ。
昔、そうしていたように、チームベンチへ向かう。
プロ野球の球場のように作られたそこは、日差しを避けるのにちょうどいい。
「あっ!?」
だが、彼女の足が止まった。
すぐに理由が分かった。
そこには、新しい逢瀬の痕跡があった。
こんなところに来るのは、俺たちがそうだったように、地元の学生カップルくらいだ。
違いがあるとすれば、俺はあの頃、彼女との関係を先に進める勇気が持てなかったことだろう。
「水場のほうへ行ってみよう」
気まずい雰囲気になる前に、そう提案した。
昔の俺には、できなかったことだ。
「うん、そうだね」
彼女は振り返り、にこりと微笑んだ。
******
沢の途中に掘られ、大きなコンクリートの升が五つ並ぶ水場。
当時は、何のためにあるのか分からなかった。
今は、手水舎に砂が混じらないようにする砂防ダムだと分かる。
彼女がコンクリートの縁に乗り、その上を昔のように歩く。
何も言わずに、当たり前のように。
「おいおい、大丈夫か?」
両手を広げてバランスを取る姿に、思わず苦笑が漏れた。
「なにをー! まだ若いんだぞー!」
「知ってる、同い年だろ」
彼女が笑顔を振り向かせた、次の瞬間。
バランスを崩し、足を踏み外した。
「キャっ!?」
彼女の身体が沈む。
水深は膝上ほどしかないと分かっている。
「大丈夫か!」
それでも、身体が動いた。
コンクリートの縁に足をかける。
「もう~……。最悪」
彼女は尻もちをつき、びしょ濡れになった。
たまらず、肩が震える。
「笑うなー!」
「ほら、立てるか」
手を差し伸べ、気づいた。
濡れたブラウスが、身体の線をはっきりと浮かび上がらせていた。
「すまん!」
慌てて顔を背ける。
彼女は何も言わない。動かない。
沢の音だけが響く。
「ほんと、変わってないね」
彼女がぽつりと言った。
俺の手を掴み、ぐいと引いた。
「ちょっ!?」
そのままバランスを崩し、水の中へ落ちた。
水が大きく跳ねる。
気づけば、彼女の上に覆いかぶさるような形になっていた。
「あの時みたいに、恥をかかせないで……」
水面に顔だけを出した彼女が、俺の首に腕を回した。
「あっ……。」
距離が、消えた。
沢の水は冷たい。
それなのに、身体だけが妙に熱かった。
******
彼女との三日間は終わり、高速道路を三時間かけて帰路を走る。
彼女も、自分の居場所へ帰っていった。
連絡先は、くれなかった。
旦那とうまくいっていないこと。
息子が学校でいじめられていること。
そんな話を、少しだけ聞いた。
「また、来年ね」
そう言って、彼女は別れた。
新幹線を見送りながら、しばらくその場を動けなかった。
あの頃と違うのは、もう戻れないことをお互い知っていることだった。
「んっ!?」
助手席に置いたスマホが鳴った。
妻からだった。
俺は、無言でスマホを裏返した。




