⑤①
騒がしい程のスヌーズ機能で何とか目を覚ます事が出来た。2割程度しか開かない瞼を擦りながら無理矢理ベッドからころげ落ちる。
生まれたての子鹿のように何とか起き上がり急いで着替えを済ませた。リュックからスーツ男のスマホを取り出し、それをポケットに入れ部屋を飛び出した。玄関を開けると駐車場では車のエンジンがかかっていて、今直ぐにでも出かけそうな感じだった。
スニーカーを突っ掛けながら外に出た。空は青白く雲一つない。今日も暑くなりそうだった。
そんな予言じみた空ももうすぐで完全なる朝を迎えるだろう。夜が明けるのだ。僕は両頬を叩いた。少しだけ目が覚めた。駐車場に向かって走る。運転席に乗り込もうとしているお父さんの背中が見えた。
「お父さんおはよう」といいながら
何とか助手席に飛び乗った。
お父さんは僕の挨拶に返事はしなかった。
ハンドルを握り駐車場からバックで車を出していく。
やっぱり約束を破った事を怒っているのかも知れない。気まずい空気が車内に広がって行った。
駐車場から出た車は方向転換し走り出した。
僕はこの雰囲気のまま出かけるのは嫌だと思い、直ぐに昨夜の事を謝った。
「あぁ」
とだけ言い、お父さんはそれ以上、何も言わなかった。
「今日は一匹くらい釣りたいね」
出来るだけ話をして、道中を楽しいものにしたいと考え、出た言葉だった。
「そうだなぁ。だが前回、主らしき奴を釣り上げ損ねたから、どうかな。魚達がより警戒心を強めているかも知れない」
「お父さんは、いつもあの場所に釣りに行ってるの?」
「そうだ。お父さんはあの場所が何だか気に入っててな。餌くらいの釣りなんだからもっと近い川でも良いと思うんだが、何故かあの場所に惹きつけられて行ってしまうんだよ」
「そうなんだ?」
「そうだな」
「でもその惹きつけられるものって一体なんだろうね」
「用水路にしてはかなり大きな幅があるのが気に入ったのか、それとも周りの景色なのか、自分でも良くわからないな」
「ねぇお父さんさ」
「何だ?」
「どうやってあの場所を見つけたの?たまたま?」
「たまたまじゃないさ」
「誰かに聞いたとか?」
「いや、それも違う」
「なら何?」
「あの近くで同僚が殺されたんだ」
「え…」
「この仕事を始めて3年目くらいの時だったかな。だから今から13年前って事になる」
僕が3歳の頃の話だった。
「死体を発見したのは近くに住む農家の老人だった。同僚の首には太いロープで絞められた痕があったらしい。そいつは岡山県のシェフだった。ある人間を殺す為にこちらに来ていたようだが、失敗し、返り討ちにあったんだろう。そしてあの場所の近くに捨てられた。お父さんは事件が沈静化し始めた頃に、ここへやって来た。発見現場に花を添える為にだ。で、花を添えた後、付近を散歩していた時、偶然あの用水路の場所を見つけたんだ。
だがその場所で釣りをするようになったのは、確か圭介がまだ小学生の頃だったかな。将来の事を思って処理人に転職しよう考えていた頃だった。今いる鰐を譲り受けてな。その餌をどうするか?と悩んでいた時に、ふとあの場所を思い出したんだ。普段から肉ばかりやれるほど、経済的にそんなに余裕もなかった時期だったしな。だから魚でも食わせとけ!みたいなノリであの場所に行くようになったんだよ」
「へぇ。そんな事があったんだね。でもさ。やっぱり同僚が殺されたのだから復讐はしたんだよね?」
「当然だ。だってそいつは生かしておく訳にはいかない人間だった。何をやらかしたかは担当じゃないからわからないが、けど会社が殺害依頼を受け、調べつくして、世の中の為には良くないと判断したんだ。間違いなく悪人だったわけだ。だから勿論、そいつはシェフによって殺されたよ」
シェフでも返り討ちに遭い殺される事があるって事実に、僕自身が驚いた。僕の中でのシェフという存在は最凶で、最強だったからだ。だが、それが今ゆっくりと崩れ落ちかけていた。
「幾ら下調べが完璧だろうと、突発的な事故は起こるものだ。それに上手く対処しながら、標的を殺さなければいけない。だからと言って次回にしようなんて事は絶対に出来ない。チャンスは一回しかないんだ。失敗したら逃げられる。または自分が殺される可能性だってある。いいか圭介、漂白者、あ、いや。シェフはそれほどまでに危険な仕事なんだよ」
思わず出たのだろう。漂白者という名は今でいうシェフに該当するとお父さんは教えてくれた。昔はそのように呼ばれていたらしかった。僕はシェフよりよっぽど漂白者と呼ぶ方が良いと思った。何故、シェフという名前へ変えたのだろう?そんな事を考えていたら目的地についた。
用水路のような場所で釣りをし、2匹の魚を釣った。帰り際、スーツ男のスマホをその用水路の中に捨てた。
「ん?」
「魚が跳ねたみたい」
僕はそう言って誤魔化した。二匹の魚を持ち帰ると、お父さんから小屋の鍵を借りて中に入った。釣った魚は生きたまま水槽の中に放り投げた。鰐は動きたくないのか魚には見向きもしなかった。多分、いつも死骸ばかりだから生きている魚が珍しくて襲い掛かれなかったのかも知れない。
実際、鰐って魚を食べるのだろうか?そんな事を思いながら前にお父さんが言っていた言葉を思い出した。
「人間を襲わないようにする為に餌は肉ではなく魚にしている」
そう話した事があったけどそれは僕に処理人の仕事がバレないようにするための話だったと今更ながら気がついた。
「まぁ、親としたら当然だよな」
僕はそんな風に思い小屋を出る為に明かりを消そうとした時、工具の一覧が目に入った。
「あっ、手斧の刃の手入れをしなくちゃじゃん」
この2日間、僕の手斧にはめちゃくちゃ働いてもらい助けられた。だからせめてものお礼で刃を研いでやりたかった。一旦、小屋から出て部屋から手斧を持ち又、小屋に戻って来た。
机の上の工具類を少しだけ横にずらす。砥石に水をかけてそこに置いた。紙コップの中にも水を入れ側に用意した。刃物を研ぐのは生まれて初めてだけど、習うより実践が大事だという事を奴等を殺した事で学んだ僕は刃物を研ぐのも大事な経験だと思った。
研ぐ前に手斧の刃に人差し指の腹を押しあててみた。ゆっくりと引いていくと、微かに痛みを感じた。指を見ると刃をあてた1部の僅か数ミリ程度の皮膚が切れていた。その箇所から水膨れの血の玉がぷっくりと滲み出ている。
指の腹を刃で引いた距離全てが切れた訳じゃなかったので、それだけ手斧の切れ味が落ちているという事なのだろうか。僕は刃の全体部分が切れ味を取り戻すように砥石で手斧を研いでいった。
表裏と研ぎ終え指にあててみる。少し引いただけでかなりの痛みを感じた。指の腹はパックリと割れ血が垂れ流れて来た。ズキズキと痛み出したその指を、僕は口に入れて舐めた。どうやら僕の手斧は復活したらしい。
けど今度研ぐ時は試し切りの紙を用意しようと思った。
濡れた刃をタオルで拭き取りそれを持って小屋を出た。部屋に戻り手斧をしまいながら、手斧を背中に背負えるような専用の入れ物が欲しいと思った。部屋を出てリビングに行く。
家族全員が普段と違う装いに着替えていて、少し驚いた。小屋の鍵をお父さんに返しながら
「どこか出かけるの?」
と尋ねた。
「これからお母さんとお爺ちゃん達4人で出かけて来るけど一緒に来るか?」
「ん〜僕はいいや」
「そうか」
「気をつけてね」
「気をつけますよ、ね?お爺さん?」
「勿論だとも」
お爺ちゃんが胸を張り誇らしげにそう言った。
まぁ、何処に行くのか知らないけど運転はお父さんだから安心は出来る。
皆んなを見送った後、僕はこれが家族との最後のお別れだったら?と変な想像をしてみた。
お父さん達全員が事故に巻き込まれて死んでしまい、僕は独りぼっちになる。その状況になったら果たして僕は1人で生きていけるだろうか?と、そんな不吉でもない事を思い浮かべるが、きっと僕は1人になっても生きて行ける気がした。根拠なんてない。
ただそう思っただけだった。現実、僕の想像したような事はこの世の中で実際に起こっている。
だから僕の家族だけは大丈夫だなんて、言ったりするのは傲慢な気がした。いつ何時、自身や家族の身に何が起こるかなんて誰にもわからないのだから。そう言う意味も含めて、想像しシュミレートするのは悪い事ではないと思った。
部屋に戻り昨日やらなかった宿題に手をつける。夏休み前半に一気に片付けて中盤から遊びまくる、みたいな考えは僕にはなかった。勿論、最終日までほとんど手をつけないなんて事はあり得ない。毎日決めた分だけやる。それは復習も同じだった。
茂木が殺されてしまった今、僕の友達は飛田だけだし、その飛田は早々と両親の実家に帰省している。つまり僕のやる事と言えば、勉強と早朝の魚釣りくらいなものだ。彼女でもいれば都内までデートに出かける事くらいはするだろうけど、そのような相手もいない。だからこの街以外の場所の何処かに遊びに出る気もなかった。
勉強を終えると手斧入れケースを探す為にスマホでAmazonのサイトを立ち上げた。
僕が思い描いていた肩越しに腕を回し手斧を抜き取る、そのようなケースはなかった。
だから仕方なく革製の斧刃カバーと、ベルトを通して腰に巻くような手斧専用のホルスターをカート入れた。
お父さんから貰った1万円の残りでその2つを買う事に決め注文した。このホルスターでは背中から手斧を抜きとる事は出来ないけど、腰付近の後ろにそのホルスターをつければ、後ろ手に手斧を抜きとる事が出来る。完璧じゃなかったが悪くはないと思った。
そして上半身裸になって鏡で自分の身体をマジマジと見つめた。だらしなくはないが、男らしい筋肉はほとんど付いていなかった。だからこの夏休み中に毎日、腕立てと腹筋、そして背筋運動を50回ずつやろうと決めた。
スーツ男のような相手と正面からやり合う事になった場合、絶対に鍛えておいた方がいい。そう思うは今回のことがあったからだ。いつも不意打ちが決まるとは限らないし、だから僕は身体を鍛えようと思った。
ただ走り込みだけは気分がのらなかった。正直、これは嫌だった。けど、近い将来、アリゲーターマンとして仕事をしていくのであれば今のうちから鍛えておいた方がいい。俊敏性も不可欠な要素だ。トレーニングジムなんて近くにないし、お金もない。だから独学で鍛える事に決めた。
扇風機をつけ身体に向ける。とりあえず腕立てをやり始め、14回で二の腕に力が入らなくなって来た。プルプルと腕が震えて支えていた身体を持ち堪えられなくて床に顎を打ち付けた。全くもって前途多難だった。
けど諦めるつもりもなかった。今日は14回だったけど、明日は15回を出来れば良い。鍛える事に焦りはなかった。ゆっくりと自分のペースでこなせばいい。腹筋と背筋は腕立てよりも無残だった。10回も出来なかったのだ。まぁそれでも初日にしては良いのだと自らに言い聞かせた。
運動したら眠くなり噴き出た汗も拭かず床に寝転がる。自然に瞼が重くなって行く。
落ちそうになった瞬間、久家綾乃の顔が思い浮かんだ。その顔は生きている時の久家綾乃ではなく、死んで僕に首を切断された時の久家綾乃の顔だった。下半身が疼き自然に手が股間に触れる。あの夜の事を思い出しペニスをしごいた。あっという間に果てると丸めたティッシュをそのままに、僕は眠りの中へと引き摺り込まれて行った。




