⑤⓪
夕飯を食べながら
「今夜、友達の家で勉強会するから行ってもいい?」
とお母さんに尋ねてみた。お母さんはチラッとお父さんを見てから判断を任せようとした。
「10時までに帰って来る約束でなら良いぞ」
「うん、わかった」
「明日の朝、一緒に釣りに出かける事を忘れるなよ」
すっかり忘れていたけど、僕は頷いた。
にしても高校1年にもなって夜10時まで帰宅というのは早くない?と思った。
けれど夏休みに入っている今、ニュースではもっぱら都内での家出少女や中高生が歌舞伎町や渋谷に集い犯罪に巻き込まれたりしていると話題になっているからある意味、仕方がないかも知れない。
でもここは都内じゃないしなぁとも思うけれど、ここは素直にお父さんの忠告は聞いておく方が今後の事も含めればそちらの方が良いだろう。
実際、勉強会なんて嘘だったし、僕はただミニシアターにやって来るであろう、あのスーツの男を見張る為に駅の反対側で待機しておく必要があったからそのような嘘をついたのだ。
もし今日、奴がミニシアターに来たのを逃してしまえば、2度とあの場所には近づこうとしないだろうし、そうなれば二度とミニシアターには近づかない筈だ。
何故なら奴の仲間が4人も殺されているのだ。そうなったらスーツ男を探し出すのは至難の業になる。同じ街に住んでいるとも限らないのだから余計に今夜を逃したくなかった。
その為についた嘘だったが、許して貰えて良かった。スーツ男が馬鹿じゃなければ、ミニシアターでの惨劇を見れば1発でその理由に気づく筈だ。何故なら全ての殺人はミニシアター内で起こされているのだ。
つまり奴等を恨んでいる者の犯行だというのは容易に想像がつく。となればやはりチャンスは1回しかない。
実際の所、僕はスーツ男の顔をよく憶えていなかった。暗がりだったし状況が状況だった為、そんな余裕はなかったのだ。
だから今回、見張るのはある意味、賭けでもあった。
本日休業の看板が出ているのにも関わらず、中へと降りて行く奴がいたら、間違いなくそいつがスーツ男だ。
ただ、ここまで考えてはいるが、何も確信があるわけではなかった。不安要素だってある。
それはスーツ男が夜に現れるというのは勝手な僕の思い込みでもあるからだ。
何故なら昼間に来れなかったという事はイコール昼間は仕事だからと僕は睨んでいるからだ。それは恐らく間違いないだろう。ここまでは自信があった。
けれどスーツ男は夜には姿を表すだろうというのは、僕の勝手な決めつけでもある。実際は既にやって来ていて、死体を発見しているかも知れないのだ。
そして警察に通報したかも知れない。今頃は何人も警察によって現場検証が行われているかも知れないのだ。だからこそ直ぐにでも家を飛び出して状況を把握したかった。
食事を終え食器を片付けている時、お父さんから声をかけられた。
「鰐皮は見せびらかすものじゃないからな?」
「わかってるよ」
お父さんは僕が友達に自慢する為に鰐皮を持ち出すのではないかと危惧したらしかった。そんな事はしない。
鰐皮は見せびらかすものじゃなくて、身につけるものなんだ。それは口に出さず、僕は部屋に戻り一応、勉強道具と手斧、そして鰐皮の頭部をリュックに詰めた。そして階下に降りていった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
お母さんとお爺ちゃん達の声は聞こえたが、お父さんの声は聞こえなかった。
まぁいい。僕はやるべき事をやるだけだ。
玄関を出て自転車に跨る。鰐の頭を被っているイメージで自転車のペダルを踏み込んだ。
パチンコ屋の柱の影に身を潜めたのは午後7時半を少し過ぎた所だった。身体の前でリュック持ち地べたに座った。柱に背をもたせる形で胡座を組んだ。パチンコ屋は営業をしていたが、入ってくる客も出て行く客も今はいない。
外から自動ドア越しに中を眺めるが、並んでいる機種は見えるけどここからでは中に客がいるのかわからなかった。
ミニシアターの前は相変わらず看板が出されたままだった。警察も野次馬もいない。つまりまだ発見には至っていないという事だ。
ひとまずは1つ目の難題をクリアといった所か。後は、スーツ男が来るのを待つだけだった。
10時には家に帰らなければいけないから、実質、見張れるのは2時間弱。この僅かな時間内で奴が現れるかは疑問だった。が待つしかない。
僕はスマホをいじっている振りをしながら集中してミニシアターの入り口を見張っていた。
あっという間に1時間が過ぎたかと思ったら2時間も目の前まで来ていた。苛立ちが募って行く。いてもたってもいられない気持ちが僕を逸らせる。
気づかない内に何度も舌打ちをしていた。起き上がるとお尻と背中が痛かった。この2時間がもうすぐ無駄になる。その間、パチンコ屋に来た客は1人もいなかった。
どんだけ人気のないパチンコ屋なんだよと思いながら仕方なくミニシアターの方へと足を踏み出した。
その時だった。背の高いがっしりとした体格のスーツを来た男が向こうから歩いて来ていた。ミニシアターの側まで来て足を止めた。スーツの内ポケットからスマホを取り出し電話をかけた。かけた相手が出なかったのか男は首を傾げた。寂れた商店街だから店の明かりや街灯もまばらで、ここからではハッキリと男の顔はわからなかった。
男はミニシアターの前へ来て本日休業と書かれた看板に片手で触れる。顔が少し前屈みだから恐らく男の視線は階段下へ向けられているのだろう。
そのまま数分が過ぎて行った。僕はリュックの中に手を入れ手斧を握りしめる。狙うのは男が階段を降りて行った時だ。昼間と同じ方法でやるつもりだった。生唾を飲み込む。直ぐにでも鰐皮を被る準備をした。ゆっくりとそちらへ向かって動き出す。男は何か異変を感じているのか中々、階段を降りようとはしなかった。
僕は早く降りろと念じながら男との距離を縮めて行く。男は手に持っていたスマホを持ち上げ再び電話をかけ始めた。耳にあて相手が出るのを待っている。
あのスマホに僕に手コキをさせた動画があると思うと怒りが込み上げてくる。絶対に殺してやると思った。
男は相手が出なかったのかスマホを内ポケットにしまった。前で抱えているリュックの中に手を入れる。鰐皮を掴む。その手が汗ばんで来る。だが思ったより緊張はしていないようだった。
男までの距離が僅か数メートルに差し掛かった。鰐皮から手を離し、その手を手斧に持ち替えた。引き出そうとした瞬間、男が階段へ向けて足を踏み出した。一歩踏み降りる。それを見た僕は足を早めた。
だが男は踏み出した足を止めて動かなかった。普段とは違う様相だと気付いたか。ミニシアターの普段がどうなのか僕にはわからないが、男の動きからして、そうなのだと思った。僕は足を止め道端に身体を移動させた。
近くで男を見ると印象よりもかなり身体が大きかった。ゆうに180はありそうだ。とてもじゃないがこんな男とまともにやり合っても僕じゃ勝てやしない。やはり殺すには不意打ちしかないと思った。
ゆっくりと息を吐いた。降りろ降りろ降りろ降りろと念じる。だが男は僕の思いを嘲笑うかのように降ろした足を持ち上げ後退りし始めた。
ミニシアターを凝視しながら来た道へとゆっくりと引き返して行く。その表情は苦いものを口にした時のように険しかった。口元を歪め奥歯を噛み締めている。
僕の所まで歯軋りの音が聞こえそうな程だ。こいつらが今までして来ていた事を考えれば、普段から警戒心が強いのは当然かも知れない。仕方ない。約束の10時までには帰れそうにないけど、ここでスーツ男を逃すわけにはいかないと僕は思った。
スーツ男はゆっくりと後退りするといきなり踵を返し足速に歩き始めた。僕は見失わないよう、男の後をつけた。
スーツ男は真っ直ぐに寂れた商店街を抜けて行く。多数のお店はシャッターが降ろされ、そこには数多くのグラフィックアートで落書きされている。街灯もまばらで切れかけた電灯が明滅しているものもあった。
そのような場所だから行き交う人は数人程だった。店の明かりがないせいか、暗幕を降ろされたように暗く感じる。その先に視線を向けると商店街の終点らしきアーケードが目に入った。
そこは今いる場所よりも更に暗そうだ。僕はリュックから鰐皮を取り出しそれを被った。そしてそ手斧を取り出しリュックを背負い直すした。
商店街を抜けたらより深い暗闇へと入って行く気がした。僕はそのタイミングでスーツ男を襲おうと考えた。
刻一刻とその瞬間は近づいて行くと思った。
スーツ男が歩く速度を上げた。それに伴い僕も早く歩いた。商店街出口のアーケードを抜けるとスーツ男はいきなり右へと姿を消した。僕は少しばかり焦り、小走りでそちらへ向かい右へ曲がると、そこにスーツ男が立ち止まっていた。顔を見た瞬間、つけていた事がバレていたのだと悟った。
スーツ男があれほど警戒心を強めていた事を僕は完全に忘れてしまっていた。
普段、こちら側の街の様相を全く知らない僕の致命的なミスだった。恐らく普段のこの時間帯でこちらへと向かう人間はほとんどいないのかも知れない。
この先に何があるのかも理解せず、スーツ男が気づいている可能性もあるという事も念頭に置かず、ただただ復讐の為だけに直上的に向かった僕は愚かにも程があった。
直ぐに手斧を背後に回し素知らぬフリでスーツ男の横を通り過ぎようとした。その時だった。
「おい、お前、その格好は何だよ。ハロウィンの仮装にしてはお粗末過ぎるな」
僕はスーツ男の言葉を無視して通り過ぎようとした。真横に立つとスーツ男の威圧感に押しつぶされそうになる。唇を噛み締めた。
「つか、ハロウィンはまだまだ先なんだけどな」
僕は通り過ぎながら歩く速度を緩めた。手斧を身体の前に移動する。握る手に力が入った。こちらへ振り返ったスーツ男に背中を向ける形で僕は足を止めた。勇気を振り絞り口を開く。
「ハロウィンじゃなきゃコスプレしたらいけない法律はないと思いますけど」
「何だって?」
鰐皮を被っているせいか、声がこもり良く聞き取れなかったようだ。背中を向けたまま構わずに喋った。
「僕の勝手でしょう」
「あぁ、そうだ。確かにそうだな。悪かった」
「いえ、こちらこそ驚かせたみたいですいません」
「いや、まぁ、それは気にしなくていいさ」
僕はこのまま先に進むべきか、襲うか迷った。背中を向けている以上、振り向いた瞬間、スーツ男は身構え、逃げる体勢に入るかも知れない。そうなれば僕に与えられたチャンスは大きく遠のいてしまう。その後に反撃を食らえば勝ち目はなかった。
腹立たしさが込み上げて来る。ここは一旦、先に進むべきだ。そう思った。
「つか、お前さ、ずっと俺の後つけてるだろ?」
「え?何ですかそれ?そんな事はありませんよ」
「いや、あるね お前あれだろ?さっきまでミニシアターの近くにいた奴だろ?」
「ミニシアター?って何ですか?それに僕は友達の家に向かってるだけなんですけど」
惚けてみるが、明らかに僕の声は上ずっていた。自分でもわかるのだから、スーツ男も気づいているに違いない。
僕が言うとスーツ男はケッケッと笑った。
「お前馬鹿だろ?この先は民家なんて一軒もねーよ。あるのは車のスクラップ工場だけだ」
スーツ男はいい、頭を掻き始めた。
「ったく。しらばっくれんならもういいわ」
この瞬間、来る!と思った。
僕は両手で手斧を握りしめた。力の限り柄を握りしめる。
「テメー何で俺の後を付けてきた?」
「だから付けたりしてないですって」
「こっちには友達の家がないって言ってんのにまだそんな嘘を言うのかよ。テメー本当馬鹿だな」
地面が擦れる音がした。スーツ男がこちらに向かって来るのがわかった。少しずつ僕との距離を縮めてくる。
「昼間にミニシアターの店主から連絡が来たのに、その後、誰とも繋がらないんだよ。お前、その理由知ってんじゃねーか?」
スーツ男が僕の肩に手をかけた。振り向かせようとした反動を利用して、僕はスーツ男の膝付近目掛けて手斧を振り抜いた。
鈍い音が反響し、男は唸り声を上げながら左膝を押さえ地面に倒れ込んだ。僕は直ぐさま手斧を頭上まで振り上げた。太腿目がけ何度も手斧を叩き込んだ。痛みによって助けを求める声すら出なくなったスーツ男の太腿を踏みつける。
そしてスーツの上着の内ポケットに手を差し込んでスーツ男のスマホを取り上げた。僕はそれを苦悶な表情の男の顔に向ける。顔認証システムが作動し
スマホのロックが解除された。僕は写真のアプリを開く。その間も太腿を踏みつけ続けた。スーツ男がその足を掴むが、振り払った。
保存されていた動画はゆうに50を越えている。
ライブラリに表示されてちるそれらは全てペニスとそれを握っている手が映し出されていた。
この場で直ぐに自分の動画を探し出すのは無理だった。絶対ではないけど、恐らく最低でもこの中の半数はこいつの被害にあった人間だと言える。当然、こういう行為が好きなわけだから、そのような関係の奴もいるだろう。だから被害者は半数くらいかと僕は踏んだのだった。僕はそれらを全て削除した。その後でスマホをリュックにしまう。男を始末した後で破壊して捨てようと思ったのだ。
「あんたの言うように、僕はずっとあんたがあのミニシアターに現れるのを待ってたんだよ」
僕はいい男の側に腰を下ろした。スーツ男は呻き声を上げながら僕以外の誰かに助けを求めていた。だが周りにあるのはスクラップ工場だけで民家はない。その事が僕の気持ちを更に大きくさせた。
男はそんな僕など構わず必死に助けを求め続けていた。裂かれた太腿の傷口を両手で押さえ、来た道を引き返そうと這いつくばっている。だが、その速度はナメクジより遅かった。その間も男の指の隙間を伝って大量の血が流れ落ちていた。
スーツ男は苦悶の表情で僕を睨みつけた。
叫び疲れたのかもう声は出ないらしい。残念ながらこれ以上助けを呼ぼうにも無理そうだった。
「ミニシアターで今まであんたらがやって来た事を僕は全部知ってるんだ」
しゃがんだまま手斧を振り上げる。スーツ男が瞼をぎゅっと閉じた。開けるまで待ってから僕は腹部へ手斧を振り落とす。ヒィィと声が聞こえだが、構わず2回目を繰り出した。
手斧の刃が腹部に刺さった感触が何とも気持ち良かった。抜き取る瞬間に腹の肉が動いた感触が手斧の柄を伝い手の平へと届けられた。
「一体、今まで何人の人間を犯して来たんですか?」
スーツ男は答えない。答えられないようだった。
「それにあんたらに酷い目に遭わされた被害者はどうしたんだろう。警察に行ってないのかなぁ。もし行ってたらとっくにバレてあんたらの誰かは捕まってるだろうし、それが無いのはどう考えても可笑しいよね」
スーツ男は身体をくの字に折り曲げ激しく息を吐き出している。僕はスーツ男の顔に自分の顔を近づけた。目を覗き込む。鰐皮の眉間から見える男の顔はとても惨めに見えた。僕の目には物乞いをするかのように見すぼらしく映った。
「ひょっとしてだけど、まさか被害者全員殺したとか?」
一瞬、ほんの一瞬だが、スーツ男の目に動揺が垣間見えた。痛みによるものかも知れないが、男の視線は頻繁に動いた後、右上へと向き止まった。
「何も殺す事はないんじゃないかなぁ まぁそういう僕も、あのオカマにトイレの中で殺されかけたけどね」
今度は僕の顔をハッキリと凝視して来た。
仲間の事を思い出したのかも知れない。
「やっぱり当たってたんだ。犯した相手を殺したらあんたらが始末するのかな?あの多摩川で発見された水死体のようにさ」
スーツ男は苦悶の表情のまま僕から顔を逸らした。ワイシャツが真っ赤に染まり地面には僅かばかりの血溜まりが出来ていた。
「それとも、死体を処理するプロとかもいたりして」
ひょっとしたらこいつらは処理人の存在を知っているのかも知れないと思い、カマをかけてみたのだ。
もし知っているならそれはお父さんの同僚という事になる。だからどうだって訳じゃないけど、もしあの水死体の処理をしたのが、処理人のプロであればその人は余り上手いとは言えなかった。何故なら僕が殺したオネエが水から浮かんで来て発見されたからだ。
「ねぇ。どうなの?教えてくれたら助けてあげてもいいけど」
スーツ男は息切れ切れの中、口を開いた。
「処分はミニシアターの店主の仕事だ。俺は関わっていない。それに死体処理のプロなんてもんは知らねーよ」
「じゃあやっぱり犯した後は殺すわけだね」
スーツ男は渋々頷いた。
「で、あのダミ声の受付の親父が後始末するわけか。でも仲間が殺されたのに警察に言わなかったのは、自分達のしている事がバレるかも知れないと恐れたからだよね?ていうか普通バレないでしょう。だってそれまでの被害者は全員殺したんだからさ」
「俺は反対したんだ。だが、殺害現場となった以上、今後、警察に変にマークされるかも知れないからと店主が恐れたんだよ。だから仕方なく黙っているしかなかったのさ」
「黙ってないと僕みたいなカモが来た時、あんたは呼んで貰えないしね」
「話はもういいだろ。俺はお前の顔も知らねーし、俺は俺で警察に調べられたら困る立場だ。わかるだろ?だから早く救急車呼んでくれないか」
「わかった」
僕はいい、リュックの中からスマホを取り出した。そのまま顔に向けた。
「あれ?顔認証システムが作動しないんだけど」
「それ、俺のスマホじゃねーか。早く俺の顔に向けろ」
僕はスーツ男の顔にスマホを向けた。ロックが解除される。
「早くかけろ」
僕は画面に指をあてるフリをしてスマホを耳にあてた。
「あ、もしもし?救急車をお願いしたいんですけど、はい?もしもーし?あれ聞こえないな。おかしいなぁ。壊れてんのかな。もしもーし!なーんてね」
「テメー っざけんなよ! 約束が違うじゃねーか!」
「やっぱ駄目だ。このスマホ壊れてるや」
僕はいい再び、スマホをリュックの中にしまった。
「気が変わったんだ。最初は助けてあげてもいいかなぁって思ってたけど、話を聞いてると段々、頭に来てさ。実際あんたらが犯して殺した人間が何人いるか知らないけど、今日、僕の友達の茂木ってのがあんたの仲間に犯され絞殺されたんだ」
「俺は関わってねーだろ!」
スーツ男は怒鳴った。そのせいでか、いきなり咳き込み始め、口元から血が飛び散った。
「確かに茂木に関してあんたは関わってないけど、でもあんた、ミニシアターに来たじゃん?それはそもそも関わるつもりだったっていう何よりの証拠になるよね?それに昼間に来れなくてさぞ悲しかったから僕が待ち伏せしてる事も知らないでノコノコとやって来た。ま、それが運の尽きって事で」
僕はいい男の右手首を掴んだ。指を切り落とし連続殺人事件に見立てようとしたが、寸前で思いとどまった。どの道、僕が犯した殺人は全てこの手斧が使われている。となれば死体から検死された凶器は全て一致するわけだ。自然、警察では同一犯の犯行だと認定し捜査を開始するに違いない。ならわざわざ指を切り落とするまでもない、そう思ったのだ。
代わりに僕に握らせたペニスを切り落としてやろうとも考えもしたが、そもそも、そんな物には触りたくなかった。
僕は手斧の刃を男の首の根本へ添えた。軽く力を入れる。
押し付けながら一気に手前へと引いた。魚が水面に顔を出し餌を求める時に似た、空気と水を一緒に飲み込むパコっという音がスーツ男の口から漏れた。既に腹部と足から出血していたせいか、首筋からは派手に血飛沫は上がらなかった。あまりにもあっさりと死んだせいで、何処となく消化不良な感じは否めなかった。
大柄の男に肩を貸すのがこんなにも辛いとは思いもしなかった。おまけに死んでいるから自力で歩いてもくれない。そこに腹が立った。当たり前と言えば当たり前の事だけど、やっぱりムズかった。
僕はスーツ男が言っていた自動車のスクラップ工場までスーツ男を引きずって行った。数百メートルはあっただろうか。鉄板のフェンスが立ち並ぶ場所を見つけようやく一息つく事が出来た。
スクラップ工場の周りは草が伸び放題に伸び、鬱蒼と茂っていた。正面らしき場所まで行くとシャッターが降りていて、その横にアルミ製のドアが取り付けられていた。
暗すぎてハッキリと断言は出来ないが監視カメラりしき物も見当たらなかった。
僕はリュックからタオルを出して男の手首を持ち、ドアノブを握らせた。回してみると、意外にもドアが開いた。普段から鍵はかけてないのか、それとも忘れたのかはわからないが、とりあえずラッキーだと思った。
僕はドアを押し開けながら、一旦、その手を止めた。中に入るといきなり照明が点灯する、みたいなトラップにハマりたくなかったからだ。
僕はスーツ男を後ろから抱き抱える形で身体を持ち上げ、そのドアからスーツ男を突き飛ばした。しばらく待っても照明などは点かなかった。
ただそこには成人男性の死体と息を切らした高校1年生、そして静寂が辺りに広がっているだけだった。
僕は静かに中へと入った。スクラップ工場内は、小さな二階建てのプレハブと車を潰す為の工場らしき建物があった。そしてそれらを守る為の防壁のようにスクラップにされた様々な車が積み重なっていた。
僕は一旦、その中の一部に近づきドアが開く車を探した。何台か調べた後で、辛うじてドアが開く廃車を見つけた。そこまでスーツ男を運んで来ると開けっぱなしにしておいた後部座席のドアの中へスーツ男の死体を押し込んだ。足を折り曲げドアを閉める。そこまで終わると僕の全身からは泣きじゃくる子供の涙みたいに大量の汗が流れ続けていた。僕は蒸れた鰐皮のマスクの位置を直しながらスクラップ工場を後にした。
家に帰ると明かりは既に消えていた。どうやらみんなは眠ったらしい。静かに部屋に上がりリュックをベッドの下に隠した。そして着替えを持ってお風呂に向かった。
シャワーを浴びながらお父さんとの約束は守れず申し訳ない気持ちになったが、それ以上に満足していた。達成感が半端なかった。僕は髪を乾かしながらスマホのアラームを4時にセットした。
お父さんと釣りに行く為だ。これを寝過ごす訳には行かなかった。朝一で帰宅が遅れた事を謝りたかったのだ。
扇風機を弱で回しながら部屋の明かりを消した。目を閉じるとスーツ男の苦悶の表情が浮かんで来た。僕はその浮かんで来た妄想の中のスーツ男に対してこう呟いた。
「あんたはアリゲーターマンを怒らせた」




