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桜井真緒子 31歳。誕生日が来週に控えている為に、もう直ぐ32歳となる。
この女は泡沢が取り逃がした容疑者であり、今では田町京太郎を殺害した容疑で全国に指名手配されている。
しかし逃亡し続けるというの現実的にはかなり厳しいものの筈だ。先ずは経済的に苦しくなる。
実際、桜井真緒子名義の口座は使用出来なくなっているが、残高は僅かに数千円だった為、口座を凍結する意味は大してないが、逃亡者となった身であれば、数千円ですら惜しくなる可能性もあるからと未だに使えない状況を維持していた。
泡沢自身は使用可能にして、引き出された場所から特定した方が見つけやすいと訴えていたが、それは上から却下された。そもそも逃亡の原因を作ったのは誰だ?と一蹴されるのがオチだった。
桜井真緒子は長野県松本市出身だったが、小学生3年の頃、父親を事故で亡くしてからは母方の実家がある東京に戻って来たらしい。
桜井真緒子が中学生になる頃、母親がパート先の大型家具店の店長と再婚した。そしてその義理の父親と3人で暮らしていたが、その父親も真緒子が中学を卒業する直前、突然学校へ迎えに来てその帰宅途中にいきなり電車に飛び込み自殺したそうだ。
遺書もなく、自殺するに至った原因は分からなかった。その後、真緒子は義理の父親だといえ自殺を目撃した為にかなり精神的に不安定となり、心療内科へと通わなければならなかったそうだ。
その効果があったかは不明だが、高校、大学とスムーズに入学し、卒業した。
当時の友達だったという数名の人間から話を聞いたが、彼氏の存在は皆無だった。泡沢からしたらあれほど可愛い女が彼氏がいなかったのは不思議でならなかった。
ひょっとしたら、社会人になると同時に整形したのかもしれない。そう思い、桜井真緒子の今の写真を見せたら案の定、皆が皆、別人のようだと答えた。
やっぱりというか、でなければ高校、大学で彼氏がいないというのは全く腑に落ちないし、それにまるでセレブかのように振る舞っていた田町京太郎との出会いだってそう簡単に行くはずもない。
つまりは桜井真緒子は過去の自分と決別しなくてはならない、何らかの事情があったのだ。
高校、大学時代の桜井真緒子は特別可愛くも美人でもなかったが、整形するほどでは無いように思えた。
だが個人の悩みは個人にしかわからないのが人間だ。
だとしても整形がそれほど必要だとは泡沢にはとても思えなかった。
その桜井真緒子は今、どこに潜伏しているのだろうか。女はメイクでかなり顔を変えられる為、指名手配をかけてる今現在、殺人犯、桜井真緒子だと気付く人間は滅多にいないだろう。
もしかしたらパトロンでもみつけ、上手く世の中に紛れ込んでいるのかも知れない。
捕まる寸前でさえ、平気で泡沢のチンポを弄り骨抜きにする女だ。簡単に捕まるような奴でないのは確かだった。泡沢は一旦、桜井真緒子の資料を閉じ、大きく息を吐いた。
これは一種の儀式みたいなものだった。今現在取り組んでいる事件に行き詰まると、必ずこの資料を見返すようにしていた。行き詰まった物事から一度、離れて思考と理性をフラットにする為だ。
今は特に理性をフラットにしなければならない。バイヴのリモコンはポケットに入っているが、スイッチを入れる気はなかった。
そうしなければチッチに全ての理性を吸い尽くされてしまいそうで怖いのだ。
結局、あれだけの数のゴミ袋の中身をさらい出しても、3人目の女の存在がわかるようなものは何一つ見つからなかった。手帳があるにはあったが記入されていない新品の物だったし、写真やプリクラも皆無だった。
そして未だ行方不明の神草早苗の手掛かりになるような物は何一見つからなかった。
本当の家族構成すらわからないのだ。本籍は東京で間違いは無さそうだったが、その他の事項は全てデタラメだった。
住民票や出生証明書などがいつしか誰かの手により改竄されたようだった。
つまり今現在の神草早苗は天涯孤独な女だった。
親戚も家族も友人もいない孤独な30代の女、それが神草早苗の全てだった。その情報を持ち込んだのはやはり三田だった。
「こいつは厄介なヤマですよ」
と三田が警部に伝えた。警部は黙ったまま、しばらく目を閉じていたが、いきなり席を立ち、泡沢!と怒鳴った。
「どうなってんだ!」
泡沢は第3の女が犯人である可能性が高い事を告げた。
「ですが、その女の手掛かりになるようなものが全くないんです」
「どういう意味だ?」
「神草早苗は、被害者以外に親しい人間がいないんです。スマホの電話帳も店長だけですし、ゴミ袋から発見された手帳も昨年のもので、おまけに未使用品でしたし…」
警部はクソっ!と吐き捨てデスクを蹴り飛ばした。
「泡沢!たまにはチンポじゃなくて、足使って来い!」
八つ当たりだとわかったが、泡沢は素直に従った。現場100回というじゃないか。
「行って来ます」
泡沢はチッチに黙って1人で殺害現場であるラーメン屋に向かう事にした。チッチは未だ、剣道場に散らばっているゴミの片付けで忙しいのだ。
「チッチは連れていかないのか?」
三田が尋ねてきた。
「はい。どうせ現場にゴミ袋を戻しに行かないといけませんから。その時に合流しても遅くはないです」
「ま、確かにそうだな」
「はい」
「それに、今までは1人だったわけだから、それがこのヤマからいきなり2人組になったからな。変なプレッシャーがあったのかもしれない。初心に返り捜査するいい機会かもな」
泡沢は三田に深々と頭を下げて部署を後にした。
地下に向かい車に乗り込む。エンジンをかけた。遠隔バイヴのリモコンはダッシュボードの中にしまい、ゆっくりと署内から現場へと向かっていった。
今回はシコらず自らの足と思考で捜査にあたる、そのような強い気持ちが泡沢の中にみなぎっていた。




