ユリス
父の命を受け、民衆の信仰と教団の動向を探るべく、教会を調査していた。
表向きは「静養中の青年貴族」、だが情報収集と観察は常に行っている。
今日は裏手の納屋を調べようとしていた。教会の外壁に繋がる古木——この一帯だけ妙に警備が甘い。何かある。
「やっぱりここからなら……」
枝を踏みしめた瞬間だった。
「——っ!?」
視界の上方、木の枝から突然現れた影。
落ちる。こちらに向かって。
陽光に透ける黄金の髪。長い睫毛の奥で紅の瞳が大きく見開かれている——一瞬、息を呑んだ。
「え?」
少女の体が自分にぶつかる。地面に叩きつけられた衝撃と共に、土と草の匂いが鼻をかすめた。
「痛ぇ……」
少女の顔はどこか必死で、不安げだった。
彼女がすぐに立ち上がり、慌てたように謝ってきた。
「わるい!」
少女の言葉遣いは粗野だが、身なりはどう見ても貴族か、それ以上の存在。
何者だろう?
「いいよ。君は大丈夫?」
まずは落ち着かせる。混乱する者には、問い詰めるより余裕を与えた方が本音が出やすい。
「ああ。大丈夫だ」
その声が返った瞬間、すぐ背後から甲高い声が聞こえた。
「セフィリア様! どちらにいらっしゃいますか?」
セフィリア? 聖女の名?
まさか……この少女が?
振り返る間もなく、彼女がこちらの腕をつかみ、近くの茂みに身体を引き込んできた。
「うわっ!」
息をひそめながら状況を見守る。足音。声。
数人の侍女が行き交い、ついに遠ざかるのを確認した。
「ふぅ……行ったみたいだな」
少女が息を吐き、地面に座り込む。正体が気にならないわけがない。
「君はなぜ追われていたの?」
問いかけると、彼女は一瞬だけ表情を曇らせた。
やはり聖女か? あるいは、それに近しい立場か。
「いろいろ事情があるんだ」
曖昧な答え。でも——
嘘ではない、と思った。
「私はユリ……ユリスとでも呼んでくれ」
わざとらしい間の後に名を告げた。もちろん本名ではない。だがこちらも名乗るなら偽名が妥当だろう。
「それで? なんでユリスは教会に来たんだ?」
探りを入れてくる。やはり警戒心が強い。
真っ直ぐな瞳の奥に、何かを押し殺すような静けさがあった。
「……たまたま通りがかっただけさ」
できるだけ淡々と返す。反応を見ると、どうやら疑ってはいるが、強く追及はしない。
「へぇ。でも俺を見つけた時驚いてたじゃねぇか」
……観察力も鋭いな。
「ああ。まさか壁を飛び越えようとする少女がいるとは思わなかったからね」
その一言で、彼女の顔が引きつった。
「は? 少女?」
ドレスを見て、ようやく自分の姿を自覚したようだ。
その反応が面白くて、つい口元が緩んだ。
「すまない。綺麗なのに木から降ってきたから面白くて」
軽口のつもりだったが、彼女は本気で怒ってはいないようだ。
「ところで君の名は?」
気になっていた。
自分にとって「名」は重要だ。人は名を背負って生きる。
「レイだ」
(セフィリアではないのか...それとも名乗れないのか...)
「レイか……覚えておくよ」
「勝手にしろ」
素っ気ない返答だが、口元は緩んでいる。
その態度が妙に気に入ってしまった。
だからこそ、ふと口をついた。
「もしまた会うことがあったら……」
しかし、続きを言うことはできなかった。
「いや、なんでもない」
ユリスとしてはもう会わない。
次に会う時は、本当の名で——
後ろを振り返ることなく歩き出す。
太陽が傾き夕暮れの風が頬を撫でる中、
彼女の紅い瞳が、残像のように脳裏に焼き付いている。ふと、笑みがこぼれた。
「……面白い娘だ」
それは偽りのない本心だった。そして何より心が踊っていたことに、自分自身が驚いていた。