瘴気の森
夜明け前。岩場の空き地は、夜の静けさに沈んでいた。
焚き火は熾火となり、赤い光が地面をかすかに照らしている。
ノアは足元に置いていた自分の杖を手に取る。
握ったまま、少し考え、今度は地面に立てかけた。
そして、また取り上げる。
まだ眠っている仲間たちを見る。
――今日のシチュー美味しかったな。やっぱり、いつもと違う食材がよかったんだよ!
――おい、もうその話はやめてくれ。何を食べたか思い出したくねぇ。
――俺も、次は普通のがいい。
――ノアのおかげで良い食事ができた! 次もよろしく!!
――いや、聞けよ!
フッと、口元が緩む。
ふいに、紫の髪の少女の姿が頭に浮かぶ。
――森には、あなた一人で来てね。
ノアは視線を伏せ、杖を握り直す。
(……逆らえば――失うかもしれない……)
結界の縁に近づく。
魔力の流れが肌に触れる。
自分が張った結界だ。慣れ親しんだ感触のはずなのに、今日はやけに重く感じた。
ノアは、結界の手前で一瞬だけ立ち止まる。
中にいれば、この光景は続く。
外に出れば、どうなるかは分からない。
そんな考えが、頭をよぎった。
息を吐いて、結界の外へ一歩踏み出す。
背後で、何かが壊れる音はしなかった。
辺りは静かで、仲間たちの寝息も変わらない。
ノアは一度だけ振り返り――
森へと歩き出した。
*
森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
重い。
肺に入る空気が、どこか粘ついている。
魔力そのものが、肌に絡みつくような感覚。
ノアは眉をひそめ、杖を掲げた。
足元に魔法陣を展開する。
淡い光が広がり、瘴気を押し返す結界が形成された。
「……濃い」
進めないほどではない。
結界の内側だけは、わずかに空気が澄んでいた。
ノアは森の奥へと歩き出す。
しばらく進んだ頃だった。
普段なら気づく足元の感触を見落とし、枝を踏む。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
次に、魔力制御がわずかに遅れる。
結界の縁が揺らいだ。
(……集中が)
問題はない。
そう判断して進む。
気づけば――
同じ木の前を、二度通っていた。
そこで、ようやく足が止まる。
(……おかしい)
方向感覚が鈍っている。
瘴気の影響だ。
思考が、どこか重い。
足元から、ざわりと音がし、視線を落とす。
黒い影が、地面を這っている。
ひとつではない。
無数の虫のような小型の瘴気魔物が、結界の外側に群がり表面を叩いていた。
結界が揺れる。
数は多いが対処はできる。
――はずだった。
判断が、一拍遅れる。
その時。
横薙ぎの影が、音もなく群体を消し飛ばした。
跡形もなく。
ノアは息を呑み、振り向く。
そこに、紫の髪の少女が立っていた。
瘴気の中。
結界も張らず、平然と。
そして――にこり、と笑う。
「ちゃんと来てくれたんだ」
ノアは無言で、半歩距離を取った。
「この森、危ないね~」
世間話のような口調で、少女は周囲を見回す。
瘴気など存在しないかのように。
ノアは警戒を崩さない。
「……何が目的なのですか」
少女は首を傾げた。
「んー?」
少し考える素振りを見せ――笑う。
「ノアに杖、返してあげたいんだよ?」
ノアの胸が揺れる。
(返す……? いや…… だが……)
瘴気が肺に絡み、思考がまとまらない。
少女は、その沈黙を楽しむように眺めていた。
「大変だよねぇ」
一歩、近づく。
「どっちも守りたいんでしょ?」
ノアの指先が、わずかに震えた。
「家族も」
さらに一歩。
「仲間も」
結界越しなのに、距離が近く感じる。
「でもさ――」
少女は、にこりと笑った。
「どっちかは、壊れるよ?」
言葉が、胸の奥に沈む。
「だからね」
少女は軽く肩をすくめる。
「今は、考えなくていいよ」
その言葉に、
ほんの一瞬だけ――
考えることをやめそうになった。
ノアは、ただ立ち尽くす。
少女がさらに近づこうとし――
「……あ」
何かに気づいたように足を止める。
「今日はここまでにしとこっか」
一拍置いて、振り向く。
「そうだ。プレゼント」
軽い声だった。
その言葉の意味を考えるより先に――
少女の指先が闇に沈む。
暗闇から、暖かな光が生まれた。
夜の焚き火のような、柔らかな輝き。
その中心から、光の殻を纏った獣が浮かび上がる。
四足の、人の顔を持つ魔獣。
表情は穏やかで、慈悲深くすら見えた。
周囲の瘴気が、糸のように細く伸び、
魔獣の胸元へ吸い込まれていく。
その光景だけが、ひどく不釣り合いだった。
「頑張ってね」
微笑んだまま、少女は陰に溶けて消えた。
魔獣が動く。咆哮はない。
ただ、光が膨張する。
森一帯を包み込むように、暖かな光が広がった。
圧迫感がノアを襲う。
横目に映った結界の外では、草木が静かに押し潰されていた。
ノアは即座に氷の槍を放つ。
だが――
光殻は揺れるだけで、砕けない。
足元を氷で固める。
しかし逆に、光の爪がそれを砕いた。
魔獣が踏み込む。
迫る爪。
反応が遅れた。
手元に衝撃が走る。
杖が弾かれ、地面を転がった。
同時に、少し離れた位置へ護符も吹き飛ばされる。
ディランから、瘴気対策として預けられていたものだ。
魔獣は再び、圧迫感のある光を広げ始める。
その瞬間。
転がった杖が、家族の杖に、
吹き飛ばされた護符が、仲間の姿に重なる。
家族が守り、ノアへ託されるはずだったアークロッド。
それを失うことは――
再び家族を失うことに等しい。
(どちらも……失いたくない――)
思考が停滞する。
選択という言葉そのものが、頭の中から消えた。
魔獣の放つ光が膨張する。
圧が、肺を押し潰す。
呼吸が止まる。
指先の魔力が霧散し、感覚が途切れていく。
視界が白に染まりかけ――
――ドォォォォン!!
轟音。
衝突。
「何やってんだ!!」
怒声。
目を開けると、盾で魔獣を抑え込むディランの姿があった。
突進で攻撃の軌道を逸らしている。
ディランは魔獣を押し返し、振り向く。
杖と護符。
動けないノア。
それを見て、短く息を吐いた。
「……何迷ってんだ」
低く、言った。
「ノア、お前なら――両方だろ」
「ッ――」
その言葉で、視界に色が戻る。
空気が肺に流れ込み、止まっていた思考が動き出した。
選ぶのではない。
両方、守る。
ノアの視線が魔獣へ戻る。
光殻が、ずれていた。
隙間の奥。
黒い霧が脈動している。
魔力を探る。
光は均一ではない。
表層は澄んでいるのに――
中心だけが濁っている。
心臓のように脈打つ瘴気。
(中心は……瘴気――核か?)
ノアは杖を拾い上げ、隙間の奥へ向ける。
「……光よ、満ちよ」
淡い光が広がった。
光殻は砕けない。
内部へは届く。
魔獣は抵抗しない。
暴れもしない。
ただ、静かに包まれていく。
黒い中心が溶け、霧のように消えた。
核を失った光殻は形を保てなくなり、ゆっくりと崩れ始める。
粒子となってほどけていく。
最後に残った人面は――
まるで役目を終えたかのように穏やかだった。
静かに、光が消える。
魔獣は跡形もなく霧散した。
森の空気が軽くなり、瘴気が薄れていく。
ノアは大きく息を吐いた。
隣で、ディランが盾を下ろす。
戦闘は終わっていた。
*
「無茶しやがって」
低い声がした。
振り向くと、ディランが手を差し出している。
「立てるか」
「……はい」
短く答え、その手を取った。
引き上げられながら、足に力を入れる。
ディランはそれ以上何も言わず、森の奥へ視線を向けた。
「ここも、じきに瘴気が戻る。外に出るぞ」
二人は並んで歩き始める。
しばらく、言葉はなかった。
足音と、葉を踏む音だけが続く。
やがて、ディランが口を開いた。
「結界、抜けたろ」
ノアの肩が、わずかに揺れる。
「足跡も杖跡も、そのまんまだ。瘴気で雑になってたぞ」
責める調子ではなかった。
事実を淡々と述べているだけだ。
ノアは、何も言えなかった。
森を抜け、瘴気の気配が完全に消えたところで、ディランが足を止める。
木漏れ日が差し込み、地面を照らしていた。
「で、だ」
ディランは前を向いたまま言う。
「なんで一人で行った」
ノアは視線を落とす。
教会。
形見の杖。
紫の髪の少女。
仲間の顔と、失う恐怖。
頭に浮かんだそれらは――
言葉にならなかった。
「……」
ディランは、少しだけ息を吐く。
「答えられねぇか」
ノアは、小さく頷いた。
「理由もなく、こんなことする奴じゃねぇ」
ディランの声は静かだった。
「何かあったんだろ」
一瞬だけ、ノアの方を見る。
「……今はいい」
それだけ言って、視線を戻す。
「言えるようになったら、教えてくれ」
少し間を置き、続けた。
「お前のことだ。何かを守るために動いたんだろ」
木漏れ日が、ディランの背を照らしていた。
その背中を見つめながら、ノアは手を握りしめる。
(……)
胸の奥が、重く痛んだ。
信じてくれている。
だからこそ、黙っていることが苦しい。
(もう……)
歩きながら、ノアは思う。
(言うべきだ……)
教会のことも。
少女のことも。
次の町で――
宿に着いて、落ち着いたら。
ノアは前を向き、ディランの背中を追った。




