母
宿の食堂。
焼きたてのパンと香ばしいスープの匂いが漂うなか、勇者パーティは朝食を囲んでいた。
「朝食は手を使ってみようぜ! ノア」
ディランがノアの皿から料理を切り分けて渡す。
「……時間の無駄だと思いますが」
ノアはしぶしぶ従い、パンを手で口に運ぶ。そこまでは成功したが、続いてスープを取ろうとした瞬間――スプーンを持つ手が震えすぎてバシャバシャこぼれる。
ディランは慌てて布で拭き取りながら、豪快に笑う。
「まあ、初日はこんなもんだ! ゆっくり慣れていきゃいい」
「……続けるのですか」
ノアは遠い目をした。
そんなやりとりの最中、軽快な声が響いた。
「お待たせしました~! 追加のパンで~す!」
トレイを持って現れたのは、淡い紫の髪を後ろで束ねた少女だった。
淡黄色のワンピースに白いエプロン。宿の娘らしい素朴な装いだが、笑顔は明るく人懐っこい。
「あっ、昨日の店員さんだ」
ユリウスが思い出したように声をかける。
「ワイン、持ってきてくれたよね?」
少女はぱっと微笑んでうなずいた。
「はい、覚えてますよ。ふふっ……ずいぶん楽しそうでしたね」
「……昨日のことは忘れてくれ」
ディランが額を押さえる。
「あはは、もちろん内緒です!」
少女は楽しげに笑い、テーブルにパンを置くと軽やかに立ち去っていった。
少し離れた場所から少女が、レイの様子を見ていた。
オーガ戦で人々を癒した姿が脳裏に蘇る。
(……あの子、まるで――)
胸の奥がずきりと痛み、少女の意識は過去へと引き込まれていく。
*
小さな村。
「いい? 影は絶対、人前で使っちゃだめよ」
金髪の女性が、紫髪の小さな娘へ優しく言い聞かせる。
娘は魔族と人間の間に生まれた子だった。
母は光の魔法を操り、傷を癒し病を祓い、人々から聖女のように慕われていた。
その一方で、娘が人々に混じって暮らしていけるか、常に心配していた。
だが少女は要領がよく、笑顔で人に溶け込み、時には小さな嘘をついて周囲を安心させた。
母の心配をよそに、誰もが彼女を「明るい娘」として受け入れていた。
(誇らしくて、大好きで……お母さんの笑顔が私の世界のすべてだった)
けれど――。
(ちょっとだけなら……)
誰もいないと思った場所で、ほんの少しだけ影を出してしまった。
それを、村人に見られてしまう。
「魔族だ!」
「忌み子め!」
罵声。石が飛ぶ。
泣きながら母に縋ると、母はしっかりと抱きしめ、身を盾にして守ってくれた。
「大丈夫よ。私のそばを離れないで」
だが次の瞬間、投げられた石が母のこめかみに命中し、その体が崩れ落ちる。
「ち、違う! わざとじゃない……!」
男の動揺した声は、少女には届かなかった。
母の体を抱きしめ、声にならぬ嗚咽を漏らす。
周囲に影が溢れ、暴走するように人々を弾き飛ばした。
悲鳴と血の匂いの中、少女はただ逃げるしかなかった。
何も持たず森をさまよい、途方に暮れた夜。
差し伸べられたのは銀髪の青年の手だった。
「……一緒に来る?」
少女は涙に濡れた顔のまま、必死にうなずいた。
*
気がつけば、宿の裏路地に立っていた。
少女は胸に手を当て、小さく吐息をこぼす。
(……お母さん)
ほんの一瞬、瞳の奥で影が揺らぐ。
だが次の瞬間には、いつもの愛想のいい笑顔を浮かべ、再び宿の中へと戻っていった。




