レイ⑨ 青空と仮面
教会の庭園――
白バラが咲き誇る木陰、噴水の音が静かに響いている。
貴族用の茶器が並ぶテーブル、その向かいでユリウス王子は優雅に紅茶を飲んでいた。
(……何してんだろう、この人)
その姿は、あまりに自然で。まるでここが自分の部屋か何かのように、落ち着き払っている。
俺はと言えば、“聖女セフィリア”として、礼儀作法どおりの所作で椅子に腰掛けたものの、心の中では警鐘が鳴りっぱなしだった。
(なんで俺に会いに来る? しかも、わざわざ教会に?)
相手は王子。しかも第2皇子という高位の存在だ。
俺のような“見せかけの聖女”が、気軽に接していい相手じゃない。
(……膝蹴りの件、根に持ってんのか?)
思い出すのは、初対面で俺が彼に“空から”飛び蹴りを食らわせたこと。
あのときは笑ってたが――あとから圧をかけてくるタイプかもしれない。
「ふふ、どうしたの? そんなに真剣な顔をして」
カップを置いたユリウスが、微笑を浮かべながらこちらを見た。
穏やかな笑み。なのに、奥が見えない。
「……何か粗相がなかったかと」
できるだけ丁寧に、聖女らしい微笑で返す。無難な対応。相手が誰であろうと、これで通してきた。
でも。
「うーん、今のちょっと仮面ぽいな」
「……は?」
「ほら。さっきの“いえ”の言い方、語尾が硬かったし、目が笑ってなかった」
彼はまるで遊ぶように、こちらの観察結果を述べてくる。
(やりづら……!)
「仮面なんて当然です。聖女ですから」
「でも、それが君には似合ってない気がするんだよね」
その一言が、少しだけ心に刺さった。
反論しようとして――できなかった。
「君、ほんとはもっと自由な性格じゃない?」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「初対面のとき、一人称は“俺”だったよね?」
くすりと笑う王子に、言葉を失う。
その目に悪意はない。ただ、俺の“素”を引き出そうと楽しんでいるように見えた。
(……本当に、何が目的なんだ?)
広がる紅茶の香りの中、俺はぎこちなく背筋を伸ばし続ける。
この距離感に慣れない。でも――
(嫌じゃない、のが厄介だ)
「なあ、ちょっと散歩しないか?」
紅茶を飲み干したユリウスが、自然な口調でそう言った。
「……散歩、ですか?」
(また唐突に……)
「こんな堅苦しい場所で“聖女”の顔を被って話すより、外の空気でも吸ったほうが楽になるだろ?」
「……外出には許可が必要です」
「俺が付き添えば、誰も文句言わないさ」
自信満々な笑み。
完全に“遊び”に誘う顔だ。けれど――
(なぜか断れない……)
*
着替えを済ませ、フード付きの外套を羽織った俺は、裏口で彼と合流する。
「よく似合ってる」
門のそばで待っていたユリウスが、からかうように目を細めた。
白いローブではなく、くすんだ色の旅装。
俺は人目を避けるようにフードを深くかぶったが、ユリウスは堂々とした態度で街路を歩いていく。
「……本当にいいんですか? 王子が、そんな軽装で」
「今日は“ユリス”だよ。ちょっと旅人になっただけ」
屈託のない笑みを浮かべながら、ユリウスは人ごみの中をすり抜ける。
その背中を見つめながら、俺はまだ警戒を解けずにいた。
「――あのさ、君が“レイ”でいたいときは、そうしてくれていいよ。不敬なんか、俺は気にしない」
不意に告げられた言葉に、足が止まりそうになる。
その言葉には偽りがないように見えた。
「……そんな簡単に言われても」
「簡単なことだよ」
ユリウスは笑いながら振り返る。
「本当の自分を隠すって疲れることだろ。ここでは本音でいてくれて構わない」
彼の視線はまっすぐで、揺るがない。
威圧でも同情でもない、ただの“理解”がそこにあった。
(そういう人間なのか……?)
俺はまだ、返事ができなかった。
*
町外れまで来ると建物もまばらになり、石畳から土の道へ変わった。
しばらく行くと小川のせせらぎが耳に入る。
「この先に、ちょっとした“穴場”があるんだ」
先を歩くユリウスの背に問いかける。
「どんな場所なんです?」
「面白い場所」
言葉は曖昧だが不安はない。彼は無理強いせず、俺の意志を尊重してくれる人間だということはわかっていた。
(まぁいいか。少しくらい付き合ってやっても――)
川の音が徐々に大きくなる。日差しが柔らかくなり、両脇に生える葦が風に揺れるたびにサラサラと音を立てる。この音が耳に心地よい。
ユリウスは足を止めず、
「ここにはよく来るんだ。ただの川だけど景色が良くて、人があまり来ない。ちょっとした秘密基地みたいな感じかな」
「そんなに特別なものじゃない?」
「特別かどうかは見る人次第さ。俺にとっては十分価値がある場所だよ」
彼の横顔を見る。王子という立場でありながら妙に親しみやすく感じる部分と、どこか達観している部分が同居しているように見える。
川辺に到着すると視界が一気に開けた。青空と水面が反射し合い、陽光が眩しいほど輝く。小さな魚影がゆらゆらと揺れている。
「綺麗だな……」
思わず素で呟いてしまうほどの光景だった。都会的な喧騒からは想像もできない穏やかな空間。
「でしょ?」
得意げな笑みを浮かべるユリウス。
「こういう場所って大事なんだよね」
そして彼は岸辺にしゃがみ込み手招きする。隣に座ると冷たい風が頬を撫でていく。
体のどこかに温かい感覚があった。
これまで出会った人々とは違う種類の人間だと思う。
彼との時間は"本物"で、特別なものになってきていた。
「さっきも言ったけどさ、君、ずっと仮面被って疲れない?」
「……まぁ。でも慣れてますし」
「そっか。だったらここでゆっくりしてもらいたいと思ったんだけどな」
(不敬を問わないどころか……ここまで寄り添ってくれるとは)
この人がどれだけ誠実なのか改めてわかる。
そしてそんな人物からの気遣いをありがたく感じてしまう。
(こんな風に自然体で過ごせるなんて思わなかった……)
風が吹くごとにフード越しでも感じる温度差と自由さ。この感覚こそ本当の解放感なのだと感じた。
「……なあ、……ユリウス」
「ん?」
「ありがとう」
感謝した。――そして俺は仮面を外した。
ユリウスはこちらを見るなり微笑むだけだった。けれどその笑顔だけで充分だった。