蛙が待つ場所
「栞ちゃん、もし疲れたら言ってね。」
志乃は微笑みながらそう言った。祠を離れて村の小道を歩く二人。柳の枝が風に揺れ、木漏れ日が地面に踊っている。
「この村、静かで素敵ですね。」
栞が周囲を見渡しながら言うと、志乃は小さく頷いた。「そうでしょ? 静かすぎて退屈だなんて言う人もいるけど、私はこの村が好きなの。」
栞はその言葉に少し意外な印象を受けた。「退屈…って?」
「昔から大きな出来事が少なくてね。でも、それが平和ってことだって、おばあちゃんが教えてくれたの。」
志乃の言葉に耳を傾けながら、栞はこの村の平穏さが、逆に不安になるほど完璧だと感じていた。まるで、何かが隠されているような…そんな奇妙な感覚が胸の奥に広がる。
二人は村の中心にある広場に到着した。広場には小さな市場が開かれており、村人たちが活気よく野菜や織物を売り買いしている。
志乃は顔なじみの人たちに挨拶を交わしながら栞を紹介した。「こちらは栞ちゃん。親戚の家から少し寄り道してきたの。」
「まあまあ、かわいらしいお嬢さんね。」
「都会の人かい? 立派な着物だねえ。」
村人たちは栞に親切に接してくれたが、その視線にはわずかな警戒心も混じっているのが分かった。栞は微笑みながら応じたが、居心地の悪さを感じた。
志乃が栞の手を軽く引いた。「広場を通るだけで十分よ。あまり目立たない方がいいから。」
昼下がり、志乃は栞を再び祠へ連れて行った。「さっきはあまり詳しく話せなかったけど、この祠にはもう少し秘密があるの。」
栞は小さく頷いた。「秘密って…?」
「この石蛙はね、ただ村を守っているだけじゃなく、何かを待っているって言われているの。」志乃は真剣な表情で続けた。「その『何か』が何なのか、村の誰も知らない。でも、この祠は長い間、村人たちが触れないようにしてきたの。」
「どうして?」
「触れることで『何か』が動き出す…そんな噂があるのよ。」志乃は少しおどけたように笑ったが、その目にはどこか不安が宿っていた。「ただの迷信だと思うけどね。」
栞は石蛙をまじまじと見つめた。片目のない蛙。その不完全さが、どこか自分の状況と重なるように感じた。
「それにしても、不思議な蛙ですね。」栞が言うと、志乃はふと目を細めた。「栞ちゃんには、この蛙が何かを訴えているように見えない?」
栞は答えようとしたが、その瞬間、突風が吹き荒れ、祠の周囲に舞い上がる木の葉が視界を遮った――。