風運ぶ祠の声
夜明けとともに、鳥のさえずりと朝露の香りが栞を目覚めさせた。見慣れない藁葺き屋根と木製の梁が目に映る。昨夜の出来事が現実だったことを思い知らされ、栞は小さく息を吐いた。
襖が静かに開き、志乃が現れた。片手に湯気の立つ土瓶を持ち、もう片手には木の椀を持っている。
「おはよう。よく眠れたかしら?」
「はい…ありがとうございます、志乃さん。」
栞は寝床から起き上がり、礼儀正しく返事をしたが、自分の声がどこかよそよそしいことに気づいた。
志乃は笑顔を浮かべて椀を差し出す。「朝の粥だけど、どうぞ。昨日倒れていたから、無理せずゆっくり食べて。」
栞はありがたく粥を受け取り、少し口に運んだ。素朴な味ながら、どこか懐かしさを感じる温かさが舌に広がった。
「…志乃さん、昨日は本当に助けていただいてありがとうございました。」
栞が改めて礼を言うと、志乃は手を軽く振った。「そんなこと、気にしなくていいのよ。あんなところで倒れてたら、誰だって放っておけないわ。」
ふと、志乃は微笑みを少し曇らせた。「でも…栞ちゃん、本当にどこから来たの? あの服装も、言葉の端々も、少し変わっている気がするの。」
「えっと、それは…」
栞は言葉を詰まらせた。この世界でどこまで話すべきなのか、自分でも分からない。
「無理に答えなくていいわ。」志乃が静かに言った。「人には言えない事情だってあるものね。でも、安心して。この村の人たちはそんなに意地悪じゃないわ。」
栞はほっと息をつきながら、志乃の言葉に救われた気がした。
「それより…せっかくだから村を少し案内してあげるわ。外の空気を吸えば、気分も良くなるかもしれない。」
志乃に案内されて村を歩くと、栞の目には古いけれどどこか温かみのある家々が広がっていた。村人たちは朝の支度に忙しく、井戸端で水を汲む音や、囲炉裏の煙が静かな空に溶け込んでいる。
「ここが『柳の本』よ。この村は柳の木が多いから、こう呼ばれるようになったの。」
志乃が説明する横で、栞はふと遠くに一本の巨大な柳の木があるのに気づいた。
「あれは…?」
「あの木はこの村の守り木よ。村ができた頃からずっとそこに立っているの。」
志乃の声には、どこか誇らしさと憧れが混じっていた。
しばらく歩くと、昨日栞が倒れていた祠にたどり着いた。志乃がその前で立ち止まり、小さく息をつく。
「ここが『石蛙の祠』。昔からこの村を見守っている神様が祀られているわ。でも、今ではあまり手入れもされなくなって、ただの古びた祠になってしまったの。」
栞は祠をまじまじと見つめた。石でできた小さな蛙の像が祭壇に鎮座している。昨夜は気づかなかったが、その像の片目が欠けていることに気づき、胸がざわついた。
「この蛙の片目、どうして…?」
栞が思わず口にすると、志乃は少し目を伏せた。
「それは…昔のことよ。話すと長くなるけれど、この蛙は村を守るために大事なものを差し出したの。それ以来、村人たちはこの像を『身代わり蛙』として祀ってきたの。」
志乃の言葉に栞はさらに興味を惹かれた。だが、その時――風が強く吹き、祠の中から微かな音がした。
「今の音…?」
「ただの風よ。気にしないで。」志乃はそう言いながらも、どこか落ち着かない様子だった。