片目の志乃
栞は囲炉裏のそばで、志乃が差し出した湯飲みを手にしながら、改めて彼女の顔を見た。火の揺らめきが志乃の横顔を照らしている。その片目は閉じられていたが、開いている方の目は不思議なほど透き通った輝きを放っていた。
「本当に…助けてくれてありがとうございます。あんなところで倒れてしまって…」
栞はお礼を言いながら、湯飲みを両手で包み込むように持った。湯気とともに優しい香りが漂う。
志乃はにこりと微笑んだ。「お礼なんていいわ。それより、ずいぶん変わった着物を着ていたけど、どこから来たの?」
その質問に、栞はどう答えるべきか一瞬迷った。どこから来たのか、自分でも答えが出せない状態だ。
「えっと…遠いところです。あまりよく覚えてなくて…でも、ここがどこかも分からないんです。」
栞が少しうつむきながら答えると、志乃は「そう」と静かに言い、少し考えるような表情を見せた。
「ここは『柳の本』という村よ。北国街道が通る小さな場所だけど、通りすがる旅人もたまにいるわ。あなたも旅の途中で迷ったのかしら?」
志乃の言葉に、栞は「柳の本」という地名がどこかで聞いたことがあるような気がして首をかしげたが、すぐには思い出せなかった。
「柳の本…ですか。聞いたことがあるような、ないような…」
曖昧な返事をしながらも、栞は志乃の言葉を心に留めた。
「倒れていたあの場所、ずいぶん祠も古びていてね。近頃は誰も寄り付かないんだけど、あんなところで一人なんて驚いたわ。」
志乃は少し笑いながらも、栞を気遣うような目で見つめている。その視線に、栞はなぜか心がほっとした。
「私もどうしてあそこにいたのか、思い出せないんです。でも…その祠、何か特別なものなんですか?」
栞がそう尋ねると、志乃は少し表情を曇らせた。
「特別と言えば特別かしら。昔から『石蛙の祠』って呼ばれていて、村の守り神みたいなものよ。でも、今ではほとんど忘れ去られてしまっているわ。」
そう言いながら、志乃は視線を火の中に落とした。
「守り神…石蛙…」
栞は呟くようにその言葉を繰り返した。その響きにどこか既視感があるような気がしたが、理由はわからない。
志乃はふと目を上げて、栞をじっと見つめた。「それにしても、不思議な目をしているわね。」
「えっ?」栞は驚いて目を見開いた。「わたしの目ですか?」
「ええ。光の加減かもしれないけれど、どこか…遠くを見ているような目だわ。」志乃の声は優しいが、何かを探るようでもある。
「そうですか…でも、志乃さんの目もとても綺麗です。なんだか吸い込まれそうな感じで…」
栞が素直な気持ちを伝えると、志乃は少し驚いたように目を瞬かせた。だが、すぐに微笑みを浮かべた。
「片目しか見えていないけどね。これでもちゃんと見えているわ。」
「どうして片目を…?」栞は口を滑らせた後で「あ、ごめんなさい!」とすぐに謝った。失礼なことを聞いたのではないかと焦る。
「気にしないで。生まれつきじゃないわ。何かを見すぎたのかもしれない。」
志乃の言葉には、どこか諦めと覚悟が混ざり合っていた。栞はそれ以上聞けなかったが、彼女の目に宿る深い悲しみのようなものが気になって仕方なかった。
「栞ちゃん…って言ったわね?」志乃が優しく名前を呼ぶ。
「はい。」栞はうなずいた。
「今夜はもう休んで。明日になったら少しずつ思い出すかもしれないわ。」
志乃の言葉に促され、栞は用意された寝床に横になる。目を閉じると、今日起きたことが断片的に頭をよぎる。
石蛙、片目の志乃、そして「柳の本」という名前――それらが不思議と心に残る夜だった。




