エピローグ
朝霧が立ち込める木之本町の古い商店街を、伊香栞は自転車で走っていた。まだ人通りも少ない時間帯、路地に差し込む薄い光が瓦屋根を鈍く照らしている。静けさの中、祖母の家から漂う薪ストーブの香りが鼻先をくすぐった。
「栞、早く帰ってきてよ!」
背中で響く父の声が耳に残る。いつも同じだ。祖母の具合を心配しているのはわかるけれど、栞にもたまには自分の時間が欲しい。
自転車を止め、ふと見上げた先にある神社の鳥居。何気なく足を踏み入れると、冷たい空気が肌を刺した。参道の奥、誰もいないはずの拝殿前に人影があった。背筋を伸ばして立つその人は、和服を纏った上品な老婆だった。
老婆はゆっくりと振り返り、栞をじっと見つめる。その瞳はどこか懐かしく、しかしどこか不思議な力を宿しているようだった。
「あなた、この町の人ね?」
老婆の声は低く、しかし柔らかだった。
「ええ、そうですけど……」
栞が答えると、老婆はふっと微笑み、小さな布包みを差し出した。
「これを持っていなさい。きっと役に立つわ。」
栞が受け取った布包みの中には、古びた鍵と、何かの地図のような紙切れが入っていた。それが何を意味するのか、この時はまだ知る由もなかったが、これが彼女の日常を大きく変えるきっかけになるとは思いもしなかった。