第六節 余だって甘えたいときはある ――翠玉
ノエルに拾われてから数週間。
余は先輩メイドに言われて、ノエルが待っている部屋に向かっているトテトテと最中だった。
さっきまで、ノエルに頼まれた掃除をしていたけど、壊れたら大変だなって物を壊さない位置から元の位置に戻す作業を終え、もう大丈夫かと部屋を見渡していると、どこからともなく先輩メイドの"先輩"――名前は聞いたのだが「"先輩"って呼んで!」と強く言われてそのままになった――が来て、
「ねえ、スイギョクちゃん。ごしゅ――ノエル様から個人的にお呼び出しだって」
「ノエルが余を呼んでるのか?」
「うん、そうそう。ノエル様は今、ハウスキーパーの部屋にいるはずだから。ウフフ、後で結果を教えてね」
って、妙に嬉しそうに笑いながら用件を伝えられた。
何の報告なんだろうって思ってたら、先輩は突風のように行ってしまったので、なんで呼び出されたのかは分からない。
でも、ノエルが呼んでるのだから、きっと大事な事なんだって、部屋の掃除は珍しくすぐに終わったから、ハウスキーパーの部屋……ノエルがいつも仕事をしている部屋に向かっていた。
トテトテと黒いワンピースみたいな作業衣に、白いエプロンドレスにホワイトプリムという、いでたちでノエルの元に向かいながらはてと頭を悩ませる。
「ノエル、何の用なんだろう。今日は花瓶も絨毯も割ってないからそれじゃないし、仕事の割り振りは、終わったばっかりでノエルは知らないはずだし……」
むむむといつもと違う呼び出し方に頭を悩ませる。
そして、もしやという原因に思い至り、ガツンと頭を殴られる錯覚を覚えた。
「重大事なら朝食で伝えられるし、も、もしや、余が知らない間にノエルに迷惑を……!? も、もしそうだったら……」
このお屋敷には貴族のお客さんやメイドさんもいる。
自分が知らない間に無礼を働いていて、それがハウスキーパーのノエルの責任問題になっていたりしたのかもしれない。
「あ、ありえる。余は亜人で、人間の生活は分からないから……あああ、だとしたらノエルに迷惑が……」
本気で心配になり、もやもやとしながらもすぐにノエルが居るはずの部屋の前までついてしまった。
慌てて身だしなみを整え、背筋を伸ばす。
前々から、ボタンはきちんとつけられているか、靴はちゃんとはけているか、エプロンの汚れ等がチェックされているので思わず緊張してしまう。
「も、問題はない、よな? ノエルにはしたないなんて思われたくない……。ん、ボタンついてる、汚れも無い。余、すごい!」
戦の前のように自分を鼓舞して、胸元に指先を置いて、深く深呼吸をする。
ノエルに教えてもらった通り、きっちり三回ほどノックしてからドア向こうに声をかけた。
「ノエル? 呼んだか?」
すぐに返事はなく、しばらく待ってみる。
それでも返事が無くて、思わず首をかしげていた。
呼ばれてからさほど時間は経っていないし、居なくなってるのなら、連絡の関係でドアにプレートがかかっているはずなので、中には居るはず。
なら、中で倒れているのだろうか。
「……ノエル? 声掛けとノックはしたからな。入ってしまうぞ?」
心配になって恐る恐る覗き込んでみる。
中は、焦げ茶色のシックな家具で統一され、掃除が行き届いた綺麗な部屋が広がっていた。
ドアの隙間から見える棚には、いくつか箱やビンが入った棚が複数あり、ノエル曰く、どれも貴重な薬や薬の原料が入っているらしい。
あと、視線に入るのはベッドくらいで、皺ひとつない、高級そうなシーツが敷かれたこげ茶のベッドが一つ。
落ち着いてはいるものの、高級感に溢れた内装で、最近ようやく見慣れてきた景色が広がっていた。
ノエルの姿が見えなかったので、もう少しだけドアを広げて部屋の中を探してみる。
(ノエルは……居た。よかった、執務机で集中していただけだった)
どうやら、ノエルは執務机に座って、ぶつぶつと考え事をしているらしく、余が声をかけたことに気が付いてなかっただけらしい。
ちゃんと生きてるノエルの姿が目に入って、ほっと胸をなでおろした。
「ノエル。居るなら返事をしてほしい。余になにか用事が……ノエル?」
ゆっくりとドアを閉めながら部屋に入って声をかけるけれど、相当集中してるのだろう。
金髪の三つ編みが垂れる背中は、女の子にしては少しだけ広く、微動だにしていない。
(ノエル、まだ仕事中だったのか、珍しい。待機しててもいいけど……)
ピクリともしない背中に、悪戯心が刺激されてしまう。
しばらく考えて、呼び出しを受けて放置されているので悪戯を仕掛けることにした。
(呼び出した本人が余を無視する方が悪い。それに、久しぶりにノエルと二人っきりだから、これくらい許して……くれるよな)
そうと決めたら、本気で気配を消し、両手を広げてじりじりと彼女の背中ににじり寄り……。
書類から顔を上げて大丈夫そうだと判断したタイミングで、ツボを抱き上げるよりも弱い力でぎゅっと後ろから抱きついた。
彼女の首元に腕を回した瞬間、紙や羊皮紙にインクの臭い。そして、石鹸のすんとした香りが鼻先をつつく。
「のーえーるー?」
「ふおぉ!! な、なにごとだー!」
ものすごい方が跳ね上がったので、危うく柱を砕くほど力がこもってしまいそうになった。
思ってたよりも野太い声で驚かれ、若干わざとらしくも聞こえる驚き方をしたノエルの顔を覗き込むと、ノエルの青い目と目が合った。
「あはっ、ようやく気が付いたな、ノエル」
「す、すすすすスイ!? 居るなら声をかけてよ! あと近いって!」
「えー? ノエルが気が付かないのが悪いんだぞ? 余は爺たちに言われた通り、ちゃんとプライベートでもノックはしたもん」
「の、ノック? してた? あれ?」
「ドアが壊れない程度にはしたぞ? 声も何度かかけた」
余がそう言うと、ノエルは「迂闊だった……」と何かを反省した様子だった。
なにが迂闊だったんだろうか。
「ごめん、スイ。本当に気が付かなかった。……もしかして、だから脅かした?」
「え? うん。呼び出しが仕事じゃなさそうだなって思ったから、悪戯をした」
ぎゅっとしてた腕を離して笑うと、ノエルが露骨にほっとして、視線が一瞬下を向いてすぐに余の顔を見る。
「ああ、途中で読んだから私用って判断したのか、スイは賢いね」
「うむ。それに、ノエルに頼まれた仕事はきちんと終わらせたぞ! 汚れてもない!」
「そっかそっか。偉いね、スイ」
「えへへ……。はっ、違う! ノエル、用事は結局何だったのだ!」
「あはは、どや顔するスイは可愛いから、もうちょっと褒めたおしたいなあ」
「駄目だ!」
あまり褒められると調子に乗って力加減を間違えてしまう。
命にかかわるのでそれだけは断固として拒否しなければいけない。
ノエルも理解しているらしく、ほどほどのところで切り上げるられる。
そして、用事を話してくれるのかと思ってたら、気まずそうに顔を反らされてしまった。
「ごめんね。本当は、スイも僕も仕事を詰めすぎちゃって、あんまり話す時間をとれてなかったから……その、どうかなって」
「どう……? たしかにノエルとは話せてないけど……で、でも、みな優しくて、良くしてくれてるぞ?」
「ああ、そっか。それはよかったけど、そうじゃなくて……」
いまいち要領をえず、ノエルがなにを聞きたいかは分からなくて、首をかしげる。
いつものノエルならハキハキと次の指示を出してくれるのに、今日はどこか言いにくそうに言葉に詰まっていた。
「ノエル?」
「あー。えっと、うん。その、僕がスイと話したかったんだ。だから、呼んだ」
「話し、たかった?」
「う、うん。あ、あはは、変だよね。僕が雇って、仕事をするようにって言ったのに、話したかったで呼び出すなんて」
「ううん、変じゃない。余は嬉しい」
「スイ……」
ノエルは自分で言ったのに、私が肯定したら驚いたみたいに固まってしまう。
むう、自分から行ったのに、ノエルが驚くなんて反則だ。
むっとすると、ノエルはまた驚いた顔をすると、苦笑するようにへにゃっと笑う。
「あはは、ありがとう、スイ。でも、ごめんね。御覧の通り、まだ仕事が残っててさ」
「仕事……余が手伝えることか?」
「うーん。申し出は有り難いけど、在庫のチェックと発注の数合わせだから、スイには任せられないかな」
「そうか……」
「うん、わざわざ仕事を終わらせてきてくれたのに、ごめんね。もうすぐ終わると思うから、ちょっと待ってて」
よっぽど忙しかったのだろう。
ノエルはそれだけ言うと、また机に真剣な顔をして視線を戻してしまった。
仕事に打ち込むのは、上司である彼女らしいなとも思うし、これが正しい姿なんだと、素人の余でも分かる。
でも……。
(寂しいな、って言ったら。ノエル、見てくれるだろうか……)
自分の心に生まれた邪な考えを首を振って振り払う。
寂しいと言ってもノエルはすぐ終わるって言ってくれた。余のために、もっと急がせるのは我がままだ。
(ノエルは仕事で忙しい。だから、しょうがない……。余は、ノエルの邪魔をしたくない)
すでに一回邪魔をしてしまったが、これ以上の邪魔は本当に邪魔になってしまう。
ノエルの仕事を一人で待つため、ベッドに腰掛けた。
ベッドの下は余が貸してもらっている物よりも上等で、ふわふわとした座り心地で思わず「わっ」と声が出てしまう。
羽毛のような柔らかさで、手で押さえればちょうどよい反発が帰ってくるベッドで、手触りも良く自分の邪な心がふわついて消えるようだった。
「ベッド、ふかふか……。ふふっ、こんなふかふかでは逆に眠れなくなりそうだ」
ふわふわのベッドが楽しくなって、ベッドの上で体を揺らし、体験したことが無かった柔らかさを堪能してしまう。
このベッド、もしかしたら貴族用で、すごく高いのかもしれない。
ノエルも、このベッドで寝ているのだろうか。
ふと、そう思い、つるつるしたシーツを指先でなぞる。
洗濯され皺の伸ばされたシーツが、余の指先に合わせて波が作られていき、庶民では味わえない感覚を伝えてくれる。
(ノエルも寝てるベッド。すごく柔らかくてつやつやだ。ノエルも貴族、なのだろうか)
どうしてか、急にそんなことが気になった。
「なあ、ノエル」
「んー?」
「ノエルは、この部屋で寝てるのか?」
「えぇ? どうしたの、突然」
「ううん、ただ、なんとなく」
「なんとなく? うーん。まあ、たまにこの部屋でも休憩を取るよ。この屋敷のハウスキーパーは長く仕事についてる人とか僕が交代してるから、ほんとにたまにだけど」
「そっか……。ということは、ノエルの身分はやっぱり高いのか?」
「えー? まあ、高いと言えば高いんじゃないかな」
「そっか」
何でもないみたいに高いと答えるノエルに寂しい気持ちが強くなる。
今の口ぶりだと、やっぱりハウスキーパーを務められる人間はある程度身分が高いのかもしれない。
視界の端に余が付けた皺しかない綺麗なシーツが広がってしまう。
まるで、上流階級のノエルの事を指しているみたいに見えて、シーツを指だけで手繰り寄せて皺をいっぱいつけてやる。
触り心地の良い生地が指先を包み、皺をいっぱいつけたシーツにえいと倒れこむ。
おなごの肌のように柔らかいマットレスに体を包まれ、つやつやしたシーツの感触が頬を擦り、冷たさが伝って「ん」と声が出てしまう。
シーツもマットレスも、やっぱり余が触ったことも無いような高級感が漂う触り心地だった。
鼻先に余の物とは違う石鹸のにおいが漂って来て、思ったよりも気分が落ち着く匂いできゅっとシーツを巻き込んでいた。
髪が乱れ、皺がいっぱいになったシーツに埋もれた余は、なんでこんなことをしてるんだろうって自己嫌悪でいっぱいになる。
(っ、何をやってるんだ、余は。これじゃあ、ノエルが貴族じゃなければいいと思ってるみたいじゃないか)
唇を噛み、色々考えてしまいそうになって、手繰り寄せたシーツに身を寄せた。
自分の体温で温まったシーツが纏わりつき、急いで終わらせた仕事も相まって瞼が重くなる。
耳に何かを書き込むペン先のサラサラとした音が聞こえてくる。
ノエル、まだかな。
思考を放棄して心地よいペンの音とシーツの温かさを享受し、重くなる瞼を支えられなくなっていった。