第二節 傷跡に隠れた誘惑 ――翠玉
上流階級の人々が住む、上層。
その一等地、王城からほど近い場所に、主であるユーランド様のお屋敷がある。
ノエルに腕を引っ張られながら、ユーランド様の御屋敷を、鉄の行使で区切られた塀の中を覗きこむ。
季節の花が植えられた花壇や、美しい緑の中で休憩を取るためのガゼポ。綺麗にカットされた生け垣が規則的に並べられていて、格子越しなのも相まって、まるで別世界のようだった。
それらを横目に門をくぐると、陶磁器のように磨かれた白石で組まれ、赤レンガの屋根が象徴的なお屋敷が見えてきた。
ノエルに聞くたびに、まだ小さいほうの屋敷だって教えてくれるけれど……。
正直、執事に余やノエル。それに複数のメイドが住んでいても部屋が余るこの屋敷は、余からすれば十分に大きいと感じてしまう。
ただ、ユーランド家がローゼアで仕事をするための家らしく、城周辺の屋敷や、本家の屋敷と比べても小さいらしい。
そんな屋敷が、今、余を雇ってくれている屋敷だった。
ノエルに心配をかけさせて不謹慎だけれど、今日もノエルと屋敷に戻れてきたことに少しだけほっとした。
安堵で立ち止まってしまっていると、ノエルに腕を引かれてしまう。
「ほら、スイ」
「あ、待ってくれ、ノエル。本当に大丈夫だから……」
「スイの大丈夫は大丈夫じゃないって学んだよ。ほら、早く」
「ん……」
渋々、ノエルに腕を引っ張られながら余の背丈よりもずっと大きな鉄の門をくぐると、すぐ近くに軽装の鎧を着こんだ兵士殿が立っていて、余とノエルが彼の前を通った瞬間、静かに頭を下げられる。
ノエルも会釈返したので、余も合わせると、持っていた荷物を落としそうになり、慌てて荷物を抱え直した。
ノエルに引っ張らながら屋敷まで歩き、入り口であるチョコレート色の高そうな扉を開けた。
光がたくさん入るように工夫された窓から光が差し込んできて、思わず目を細めてしまう。
中には思わず見入ってしまうような華美な彫刻の施された柱に支えられた高い天井の広間が広がっていた。
扉があいた音が室内に響き渡り、足を踏み入れた瞬間からなにかの香料のようなにおいがしてくる。
おそらく、客人をもてなすためにお香なのだが、余には何の臭いなのかはわからなかった。
「おかえりなさいませ、お二人とも」
ふと気が付くと、余とノエルが帰ってくるのを分かっていたかのように、モーニングコートに身を包んだ白髪の人間が、余たちを出迎えてお辞儀をされる。
彼は、爺様。名前ではなく、ノエルが爺、って呼んでいるから爺様と呼んでいる人間様だ。
この屋敷で一番長く勤めている執事らしく、ノエルが居ない時は、まず彼に質問するように、と言われているほど信頼の厚いお方だ。
予定よりも早い帰りになってしまい、申し訳ないと思っていると、爺の視線が余の首元と、ノエルの間を行き来する。
「……なにがご入用ですか?」
「ごめん、爺。大事じゃないんだけど、スイの手当てをしてあげたいから、今スイが持ってる荷物をキッチンか倉庫に持って行ってくれる?」
「後で、在庫管理をしやすいよう、目立つ場所に、ですね。畏まりました」
爺様は二つ返事で頭を下げると、余の荷物を受け取ろうとしてくれる。
「い、良いんです、爺様。結構重いですから、余が……」
「ご心配なさらず。老骨とはいえ、翠玉殿も怪我をしているのならお互い様ですよ。それに翠玉殿を邪険に扱えば、この老体がクビにされてしまう故」
「そ、そんな……たとえ、変なことをされても余は何も言わないのに……」
「ふふ、決してそのようなことはしませんが、残念ながら、教育係の一人としてノエルに監視されているのですよ」
「ノエルに?」
「ちょっと爺。余計なこと言うと本当にクビにす……されるよ」
どういうことだろう。
爺様に聞こうと思ったらノエルに阻まれてしまって気候にも聞けなかった。
「はっはっは。これは大変失礼をいたしました。まあそういうことです、翠玉殿」
「は、はい。それじゃあ、荷物、離しますね?」
心配だ。
そうは思いながらも、爺様が差し出してくれている腕の上にゆっくりと荷物を渡して手を離す。
話した瞬間、爺様の腰がガクッと下がって、慌てて手を差し出すと「大丈夫です」と力を込めた声色が聞こえた。
「ご心配いただき、ありがとうございます。安心してください。翠玉殿はノエルと一緒に……」
爺様はそう言うと、ゆっくりと中腰になりながらもキッチンの方へと歩いて行ってしまった。
正直、余の怪我なんかより爺様の腰が心配なのだが……。
ノエルは気にした様子もなく「さあ」と手を引っ張られてしまう。
「爺の意思を無駄にしちゃだめだよ、スイ。手当をしに行こう」
「戦場に赴く兵士であるまいに……」
「僕にとっては戦場だよ。ほら、スイ」
「な、なあ、ノエル。本当に手当てをしなきゃダメか?」
今更、ノエルに手を引かれて抵抗してしまう。
ノエルは軽く言ってるけれど、薬や医療道具は市民には貴重なものだ。
いくら余が世間知らずでもそれは知っているし、余が自分でつけた小さな傷に消費するのは、抵抗感が強い。
余はただでさえ役立たずなのに……。
「そんなの、ダメに決まってるでしょ」
なのに、ノエルはムッとして、余の言うことを否定した。
「消毒とか薬は塗らないと。傷が化膿して破傷風になったらもっと薬が必要なんだから」
「鬼はそんなに貧弱じゃないんだぞ、ノエル。それに薬は貴重品だから、傷が治る余の為に使うのはあまり良くないと思う」
「正論を言ってもだーめ」
ノエルに可愛く否定されて、ぐっと言葉に詰まる。
そもそも、正しいことを言ってダメならどうしたらいいんだ。
でも、抵抗が功を奏したのか、ノエルは唇に指をあてる。
「でもどうしようかな……。消毒するにしても強いお酒は倉庫の方だし、薬だって普通の薬が役に立つかどうかなんて……薬?」
しばらく止まってしまったので、余は何とか止まってくれないかなとじっとノエルを癖を眺めていた。
唇に指を当てるのは彼女の悩む時の癖だった。
余はよく見るんだけど、他のメイドは誘惑する天使のようと噂されていたのを覚えている。
度々見ているので、そんなに珍しいのかって聞いたら、他のメイドたちに羨ましがられてしまったことがある。
それくらい、他の人の前ではしないらしい。
もしかしたら余がおっちょこちょいで、ノエルに迷惑をかけているだけなのかもしれない。
……そうとしか考えられない。
何か考えついたのか、ノエルは「よし」と頷いた。
「旦那様は薬草作りが趣味だから、棚にお薬があったはず。余ってたはずだから、そこからお薬貰おう。ほら、行くよスイ」
「はい!? あ、主殿にもらうって!? ノエル駄目だぞ!」
「何言ってるの。旦那様には僕から言っておくから」
「そう言う話じゃなくて、無断で持っていくのは駄目だぞ、ノエル! それではノエルが怒られる!」
「ああ、もう。えっと……ほら、僕と旦那様はご友人だから大丈夫。もし他の人に怒られたら、僕から旦那様に掛け合ってあげる。だから、スイは心配しないで」
「むう……」
「まだ不満?」
「やだ」
「やだって……」
正論の抵抗が聞かなかったから、駄々をこねてみた。
すると、意外と聞いたのか、ノエルは困ったように目を逸らされる。
けど、そんなの数秒の出来事だった。
「ほら、わがまま言わないで。痛くないよ」
「痛みにはなれてる。だが、余はノエルに迷惑をかけるのがやだ」
「迷惑じゃないって」
「や」
自分でも幼いとは思うが、ぷいと言うことを聞いてくれないノエルに抵抗の意を示す。
返事が無かったのでチラリとノエルを見ると、胸元を抑えて大きなリアクションをしていた。
どうしたのだろう。
「ぐっ……かわっ、じゃなくて。だ、大丈夫だよ。薬の在庫の管理はハウスキーパーの仕事に割り振られてる。僕が何々に使ったって明記すれば迷惑にもならないから。ね? だから安心してスイ」
「安心……でも余は……」
「んー。分かった。スイが迷惑をかけたくないのも、備品を使うのも遠慮してる。そうだよね?」
「……うん」
「じゃあこうしよう。スイの給料から天引きってことで」
「天引き?」
「そう。僕はハウスキーパーの仕事として、お薬を使う。でも、かかった費用は、スイがちゃんと払う。これでどう?」
「……分かった」
余のために必死に言葉を紡いでいるノエルに根負けして、渋々受け入れる。
心なしか、ノエルもほっとしてくれる。
(っっっっ! ついむきになって断り続けちゃったけど、ごねて余計に迷惑かけてたらどうしよう……!)
余は余で、余裕がなくなっていた。
そのまま、ゆっくりとした歩みで主殿の部屋の前まで連行される。
しばらくして旦那様の部屋まで来ると「ここで待ってて」と、ノエルが入って行ってしまった。
ノエルが入って行った部屋のドアを見上げる。
(ノエルたちは部屋に入るなって言うけれど、ユーランド様は、どんな御方なのだろうか……)
余やノエルたちの主殿は本家から離れた王国の城勤めの貴族様らしく、多忙な身でもあるのか、新参者である余は未だ主殿の顔すら拝見したことは無かった。
(皆に聞いても、お忙しい方だからって言われたが……きっと余が亜人だから……)
余に対して開かれない主の部屋のドアが何よりの証拠だ。
余も余で主殿の信頼が欲しいわけではない。
余は鬼だから、この館に住まわせてもらうには寿命が曖昧過ぎるし、きっと悲しいことも多くなる。
路銀を稼げて、ノエルに要らないと言われるまで働ければそれでいい。
(でも、本当にどんな方なんだろうか。美丈夫とか、女性関係が悪いとか聞いたが……この屋敷には人が殆ど出入りしてないから、余は分からないが……)
誰に聞いてもそこまでしか教えてくれなかったというのが残念と言えば残念だった。
たぶん、皆が余に隠してるのも、そう言う類なのかもしれない。
まだ見ぬ主を考え、一番知っていそうな、ノエルと爺様の顔が浮かぶ。
(むぅ、あの二人はユーランド様を一番知っているだろうけど、変なことして嫌われたくない……。もし、嫌われたら……)
ノエルに嫌われた時の事を考え、胸がズキンと痛んだ。
ノエルはこの国で初めて余を助けてくれた人だ。
役に立つと思ったのかもしれない。見た目が気に入ったのかもしれない。
なんでもいい。どんな理由でも、何もかも見失っていた余をお屋敷に招いてくれた恩人だ。
彼女にだけは、嫌われたくない。迷惑をかけたくない。
それが、今生きている理由で――。
ドアが開く音が聞こえて我に返る。
このままでは出てくるノエルとぶつかると思って数歩下がると、ちょうど部屋の中から緑色が入った薬瓶らしき物を抱えたノエルが出てきてくれた。
ギィと閉まりかけるドアに視線を送りそうになり、慌てて視線を逸らすと、振り返ったノエルと目が合って、ふっと微笑まれた。
「お待たせ。いい子にしてた?」
「ふふ、たった数分だぞ? 良い子も悪い子もない」
「分からないよ。スイはこういう時、頑固だから、薬を使われたくなくてどっかに行っちゃうかもしれない」
「よ、余はそこまで信用がないのか?」
「あはは」
「の、ノエル。冗談だと言ってほしい、ノエル」
「……冗談だよ。スイは可愛いからいじめたくなっちゃうだけ」
「そ、それもやだぞ、ノエル……」
「あはは、ほら、薬塗るから首、見せてもらえる?」
「ん」
ノエルに首元を見えやすくするために翡翠色の髪を退ける。
このままでは肩紐が邪魔になるなと、僅かに持ち上げてずらし、ストンとワンピースが落ちない程度に露出させた。
屋敷内だというのに少し広がった肌が空気に当たって、少しだけこそばゆく感じる。
「これで見えるか? 余の、左肩に近いあたりだ。ノエルから見ると右かな?」
「うっ、うん。そこまでずらさなくてもよかったかな! あ、ちょ、ちょっと待って。今薬の瓶を開けるから」
「? うん」
なんだか知らないが、ノエルが慌てていた。
焦ったような手つきでノエルが瓶のふたを開けると、鼻先を塩の香りが漂ってくる。
嗅いだことはないはずなのに、鼻が覚えているような、不思議な香りだった。
「魚……。じゃなくて、塩? 塩を塗るのか?」
「確かに臭いはそうだけど、ちょっと違うらしい。水棲亜人の町から取り寄せた薬で、ウミって言う塩を作れる水から傷に効くっていう植物をすり潰して軟膏にした魔力薬って聞いた。スイは魔力は感じる?」
「ん、ここまで薄いと分からない。でも、魔力を許された者が触れた気配はある」
「そっか。これなら傷に効くって効いたから、とりあえず使ってみよう。もしかしたら、傷にしみたり、すごい冷たいかもしれないから気を付けてね」
「分かった」
「それじゃあ、つけるね」
ノエルが瓶に指を入れて緑色をすくう。
どうやら思っていたよりも粘り気が強いらしく、軟膏はノエルの指先に張り付いていた。
薬をつけやすいように右上を眺めて、ノエルに胸元が見えやすいように少しだけ屈む。
いつくるかと身構えていると、いつまでたっても動く気配がなくて、首を動かさないで見下ろしてみるとノエルがじっと余の方を見て静止していた。
「ノエル?」
「え?」
「薬……」
「あ、ごめん、スイ。今つけるね」
「え? ま、んっ、ひゃ。ん……」
ノエルの指先が首元の肌に触れ、ひやっとする感触に変な声が出てしまった。
多少の冷たさは覚悟していたけれど、思っていたよりも冷たい軟膏だったみたいだ。
余の声でびくりとしたが、問題ないと判断したのか、ゆっくりと軟膏が引き延ばされる感覚が伝わってくる。
それがゆっくりと動くのでまたこそばゆい。
というか、ノエルから命がかかっているほど真剣な気配が漂って来ていた。
「んっ! ま、まだか、ノエル」
「ごめん、我慢してね。塗りこまなきゃいけなくて。僕も我慢してるから」
「ぁ! そんなに、酷かったか?」
「そうじゃなくて……ううん気にしないで」
「う、うむ……?」
なんだかよくは分からなかったが、ノエルも我慢しているようだったので、余も潔く我慢することにした。
徐々にノエルの指の温かさが伝わってきて、それほど大きい傷ではないのに、まるで余の裂傷をなぞるかのように指が首元の上から下へすべっていく。
傷だけじゃなくて、傷跡全部に塗り付けるように鎖骨の近くまでなぞられて、こそばゆさを通り越してくすぐったくなる。
「ぁ、はあ……。んっ、んん!」
初めて知ったが、余はくすぐりに弱いみたいだった。
首元の冷たい感触と、ノエルのつたない指先がずっとくすぐられているみたいで、声を出さないように我慢するのは少々難しかった。
やがて薬を塗り終わったのか、ノエルの方から安堵の息が漏れたので視線を下ろす。
実際に安堵した顔のノエルが居ておかしくて笑いそうになりながら、服を戻した。
「終わった……?」
「うん、出来た。出来るだけ傷の部分は触らないで……って、言わないでもわかるか。スイは水の精霊様を信仰してるんだし」
「ううん、忠告ありがとう。気を付ける」
「うん……。それじゃ、スイはこの後、掃除班の所に行って、手伝いを探してきて。僕はキッチンと倉庫に在庫確認に行くから、何かあったら僕か爺を探してくれると嬉しい」
「分かった。行ってくる」
「お大事に……。あっそれと――」
急いでいこうとしたので、トッと止まる音が廊下の絨毯が音をたてる。
振り返ると、酷く真剣な表情をしたノエルが居た。
「変な声。男の人に聞かせると勘違いしちゃうから、気を付けてね。おませさん」
一瞬何を言われたのかを理解できずに顔を上げると、頬赤らめたノエルの苦笑がそこにあった。
数舜の間を開けて、さっきの声のことを言ってるんだと、ハッとして頬に火をくべられたかのように熱くなる。
「っ! の、ののノエルの馬鹿!」
恥ずかしくなって、無礼にならない程度に抑えながらノエルに言われた掃除班の所へパタパタと向かった。
道中、何度も何度もノエルの言葉と顔を思い出してしまって、頬を両手で抑える。
なぜだろうか。
最後のノエル、ドキドキが止まらなくなってしまいそうなほど、かっこいい目をしていた。




