鶴の恩返しテンプレを信じて止まないおっさんの話
俺は命護岳の山頂に居た。太陽は東シナ海の少し靄んだ水平線に沈もうとしていた。
三日前から、俺は毎日命護岳に登っていた。山頂から東シナ海を見晴らした写真を撮るためだ。イメージは二カットあった。昼間の、端に少しだけ雲のかかった澄み切った青空。そして夕方の、太陽が沈んだ直後の雲ひとつない紅の空。
風のない穏やかな日だった。俺はこの日もイメージに合う景色が出現しなかったことを残念に思い、機材の撤収を始めた。三脚を畳み、大口径のレンズをカメラ本体から外してケースに仕舞った。
背後でかすかな音がした。俺は振り返った。ギョッとした。三メートルくらい先に細長い物体がいる。暗くなってきた。やばいやつかどうかは分からない。こんなところでハブに襲われたら、間違いなくあの世行きだ。奴もこちらの様子を窺っている。すぐに襲って来る様子はない。目を凝らしてもう一度見た。頭の形は三角ではない。少しだけ安堵した。畜生、今夜も酒くらいは呑めるだろう。俺が動いたら、こいつは襲って来るだろうか。俺は防御の姿勢をとりながらも、ゆっくりと三脚の入った袋を手元に手繰り寄せた。武器になりそうなものはこれしかない。
一瞬の出来事だった。鈍い痛みが腕から全身に広がった。そいつは、俺の左腕に噛み付いたまま、だらしなくぶら下がっていた。畜生。慌ててそいつを振り解き、持っていたペットボトルの水で傷口を洗う。確か「急いで口で吸え」だったな。昔々の蛇男コメディを思い出して、その通りの行動をとった。その後、ハンカチで傷口を縛った。すぐに下山して病院だ。
そいつは、俺の近くでのびていた。よく見ると真っ白い蛇だ。なんだ気絶しているのか。いや、蛇に気絶という表現は似合わない。ショックのあまり仮死状態になったということだ。俺は動物愛護精神に富んでいる訳ではないが、白蛇とは縁起が良い。残っていたペットボトルの水をそいつにかけた。そいつは体を震わせ、茂みの中に姿を消した。
下山して、麓の街の市民病院で手当を受けた。毒はなかった。医者に、頭の丸い真っ白い蛇だったと言った。医者は、恐らくヒメハブだ。真っ白なのは珍しい、と言った。警察と保健所に届けるように言われたが、面倒なので、俺は借りているアパートに真っ直ぐ帰った。泡盛を二、三杯あおって寝た。畜生、ヒメハブとは、名前もエロっぽくて良いじゃないか。夢には出てこなかったけどな。
翌日も命護岳の山頂に登る。そいつはまた現れたが、今度は襲ってこなかった。そいつは、俺の横でじっとしていた。襲われるよりはマシだと、時々水をかけてやった。そいつは水を求めて身をくねらせていた。エロい奴だ。畜生、こんな奴に劣情を抱くなんて俺もどうかしている。まあ、長いことご無沙汰だからな。
それから一週間、俺は毎日山頂に登り、そいつは俺を待ち構えていた。途中で湧水を汲み、鶏肉の塊を買って持って行った。そいつは、身をくねらせて水浴びし、鶏肉は丸呑みで食っていた。
どう見ても特定動物愛護法違反だな。しかし俺にだって身を護る権利はある。正当防衛ってやつだ。蛇に鶏肉を食わせるのが正当防衛ってのは無理があるけどな。
俺は少しだけ期待していた。鶴の恩返しテンプレってのがあるだろう。畜生、作者め手抜きしやがって。俺にも若い美女を寄越せよ。
目標とする写真が撮れた。俺は撤収を始めた。片付けが終わり、荷物を持った俺は、隣にいる相棒に声をかけた。達者でな。俺は不用意にも手を差し出し、そいつに手を振った。
同じ蛇に二度も噛まれるとは、俺も馬鹿な野郎だ。おまけに左腕にしっかり巻き付いていやがる。愛いやつだ。俺は雨天用のパーカーを上から羽織り、そのまま部屋に帰った。左腕に艶かしいアクセサリー付けたままだったけどな。
浴室で、そいつに水をかけたら動き出した。動きが緩慢だったけどな。洗面器に水を張って部屋の中に置いた。やつは出たり入ったりした。おい、部屋の床が水浸しじゃないか、畜生め。
冷蔵庫の中に鶏肉が残っていた。面倒なので塊ごと置いた。やつはガツガツ食っていた。
そいつは夜行性だった。毎晩、夜中に俺が寝ているベッドに入り込んできて、そのまま通り過ぎて行きやがる。畜生、これが本当の夜這いってやつだ。いいから早く若い美女に化けろよ。
一週間ほどして、そいつは動かなくなった。なんだ召されちまったのか。最後まで恩返しも何もなかったけどな。俺は、近所のスーパーでリカーキットと泡盛の一升瓶を買ってきた。今、そいつはハブ酒になって俺の部屋にいる。血抜きと内臓取る時に涙しちまったがな。
畜生、鶴の恩返しテンプレはどこ行った。