幻の王姫 名は金糸雀②
群雄割拠する広大な大陸。
その中程に位置する可国は、五百年の歴史を誇る。
王都・堅晋にある王城は、年経た高い石壁に囲まれていた。そして王城の最奥にあるのが、女たちの生活する場所。北苑と呼ばれる一郭。
そしてそのさらに奥まった場所に、小李の部屋がある。
隣室の笑い声がおさまるのと同時に、パタパタと回廊を駆ける、軽い足音が聞こえた。
ここは奥向き。北苑。女の園は、礼儀にうるさい。回廊を走る不調法は、女官には許されない。ここで駆け回ってとがめを受けない者は、小李の知る限り一人だけだ。
「助けて!! 小李お姉様!」
勢いよく扉が開くと、妹王姫、蓉香が飛びこんできた。
大きな目と血色のよい頬。その容姿を引き立てるように、彼女は、刺繍をふんだんにあしらった衣を着ていた。さらに髪を高く結い、幾本もの簪をさしている。盛装だ。周囲に薄紅の花びらが散るような、華やかさ。裳裾がひるがえるのさえ、華麗だった。
小李は、蒼白になる。蓉香とともに、春の眩しい光がさっと室内に射しこんできたのだ。小李の座っていた長椅子も陽の光にさらされ、彼女は跳ねるように立ちあがった。
「蓉香?! なんのまね?!」
悲鳴をあげながら、咄嗟に衝立の陰に身を隠す。
「え?」
「とにかく、扉を閉めて——!」
きょとんとする蓉香の背後から、もう一人。あわてて男が、部屋に飛びこんできた来た。
「申しわけございません!! 小李様!」
男は入って来るなり謝ると、扉を閉めた。そして突如、その場にがばっと、ひれ伏した。
「伯索仁?」
扉が閉まったのを確認して、小李は恐る恐る衝立の陰から出た。そしてひれ伏す男を見て、目を丸くした。彼は可国宰相、伯索仁だ。
北苑は、女の住む場所である。だが、男子禁制というわけではない。しかしながら、官吏が女の園に用事があることは稀だ。
「どうしたの? 索仁が私の部屋に来るなんて。しかも、蓉香のその姿は・・・・・・?」
蓉香の姿は、一級の国賓を迎えるための、盛装である。
索仁も、上等の袍を身につけている。
「お助けください!! 小李様」
「お願い! 小李お姉様」
ひれ伏す男と、胸の前で手を握りあわせた蓉香に、必死の目を向けられる。
その迫力に押されて、小李は数歩後ずさる。
「なに、なに? 二人して。私のような日陰者に、なにをお願いって・・・・・・あ、あ・・・・・・」
急に、頭がくらりとする。視界がぼやける。
——扉が開いたときに、外気をおもいきり吸っちゃったんだわ!!
頭を激しく揺すぶられた後のような目眩に襲われ、小李は衝立の影に、ぺたりと座り込んでしまった。
その様子を見た索仁は狼狽し、立ちあがる。
「いかん!! 私はなんということを!! 誰か、医師を!!」
「大丈夫!」
小李はびしりと片手をあげ、索仁を押しとどめる。
「大丈夫。このくらいなら、すぐに治まる」
目を閉じて、ぐらぐら視界を遮断したまま、呼吸を整える。
「でもお姉様、床の上に座られるなんて」
蓉香が呟くと、索仁が言った。
「私が長椅子までお運びします」
「やめて。自分で歩けるんだから。少し待ってもらえれば、平気よ」
索仁が近づいてこようとする気配を、小李は強く止めた。
必要以上に、自分の体を気遣われたくなかった。
予想通り、すぐにふわふわとする感覚が消えた。そっと目を開ける。
小李はゆっくりと立ちあがると、微笑んで、長椅子歩み寄りに腰かけた。
「ちょっと外気を吸っただけだから、もう治まったわ。春先は植物の花粉が多くて、よくこうなる。他の季節ならば、いくぶんかましなのだけれど。ごめんね、蓉香、索仁」
蓉香は心配そうに目を潤ませていた。
「ああ、小李お姉様。相変わらず、本当に気の毒なお体。この世に存在する、あらゆるものに拒絶反応が出てしまうなんて・・・・・・。ほとんどの植物は、触れると御気分が悪くなって、ひどくなると、目の前まで真っ暗になってしまわれるんでしょう? お花を摘むこともできない。動物も、同じ。犬や猫は、どんなに可愛くても飼えないのでしょう? 太陽の光もだめだから、お散歩なんて出来ないし。食べ物も、何度も水にさらさなければいけない。でもそうしないと、やっぱり目の前が真っ暗になったり、気を失われたりしてしまうのよね・・・・・・」
小李は、特異体質だった。極度の過敏症とでもいうのだろうか。
この世に存在する、あらゆるものに対して、拒絶反応が出る。
拒否反応が出ると、気分が悪くなり、目が回る。ひどくなると幕を下ろしたように視界が真っ暗になり、ついには気を失う。
小李は間違いなく可王家の王姫だった。しかし王姫として正式に、お披露目されたことがない。
それはこの体質のためでもあった。
しかし——。
もし仮に、特異体質だけであったならば、王姫として正式に認められていたかもしれない。
小李が王姫として正式にお披露目されないのは、彼女が持って生まれた、たった一つの外見的な特徴のためだった。
王姫として生まれながら、王姫と認められず。要するに小李は、公式には存在しない王姫なのである。
様々なものを避け、北苑の部屋に引きこもり、十六年。ひっそりと生活している。
城下では、幻の王姫として、怪談めいた噂話になっているらしい。