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君が魔王を倒したあとの約束  作者: 中邑 水熙
ポップコーンはキャラメル味
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 9時3分。長針が5回音を鳴らしたのを耳にしながら、僕は「おはよう」と独り呟く。


 少しの間、寝起きで頭が働いていないということもあってか、その言葉が自分の口から発せられたものだと理解することができなかった。


 この部屋には僕しかいないため、返すのは時計の針が動く音と、カラスやスズメなどの鳴き声くらいだ。それでも僕は何故か「おはよう」と呟いていた。どうして、その言葉が零れたのかは分からない。


 例えばこれが、外にいる鳥たちと放すことができるとか、幽霊のような見えない存在を認知できる体質だとか、はたまた、元々この部屋で誰かと一緒に過ごしていたけれど、その人がもういないという事実が受け止め切れていないとか、そんな物語チックな人生を歩んでいるのならば理解できる。


 しかし、僕の歩んできた人生というのは、多少の起伏はあれど、それでも概ね一般的という範疇に収まってしまうようなイベントしか起きていないため、「おはよう」という言葉が自分の口からごく自然に零れた理由が、本当に分からない。


 大学の近くで一人暮らしを始めてから、もう2年くらいが経っているから、ひょっとしたらホームシックというやつなのだろうか。昼中は大学の友人達とバカやって騒いでいるけれど、家に帰れば当然一人なので、その賑やかさが反転して、夜に人の温もりが恋しくなっているのかもしれない。独り言はその兆候だろうか。


 ちょうど今週のテスト期間が終われば、大学は長い春休みになる。久しぶりに実家に顔を見せるのも良いかもしれない。心配性な母と、厳格な父と、生意気な妹の顔を頭の中で浮かべながら、何を手土産に持っていこうかと考えていると、スマートフォンが震えた。


「もしもし、どうしたの? 男からのモーニングラブコールは受け付けていないんだけれど」


 着信相手は誰かと見てみれば、『ダイチ』と表示されていた。大学に入学したときに知り合った悪友だ。僕の学科では女子が多いのもあって、大抵は少ない男同士でつるんでいるのが多い。その中でも、専攻まで同じということで、一番行動を共にするのが、このダイチという男だ。


『は? ユウキ、お前寝ぼけてんのか? 時間を確認してみろよ』


 やや不機嫌そうな声に従い、スマートフォンを耳から離して時間を見てみると、9時6分だった。講義の開始は通常、9時30分からなので、まだ時間には余裕がある。


「まだ9時ちょっと過ぎじゃないか。あと30分くらいあるよ」


『何言ってやがんだ。今日の1限、ユウキも俺と同じ講義をとってただろ?』


「うん。若山教授の心理学だよね。でも、あの教授のテストは簡単だから、事前に詰め込みとかいらないって聞いたよ」


 若山教授は名前に反しておじいちゃんの先生だ。臨床心理学の領域の講義を受け持っていて、人当たりの良い性格ということもあって、学生の相談に乗っているという話をちらほらと聞く。


 講義中によく天然ボケをかます、お茶目なおじいちゃんで、講義の内容は分かりやすく面白い。テストも持ち込みありで記号で答える方式なので単位がとりやすく、学生、特に女子からの人気が高い。


『勉強しろって電話じゃねぇよ。俺も勉強してねぇし』


「じゃあ何の電話? 本当にラブコール? うわ、鳥肌が立ってきた」


『ぶっ飛ばすぞ。お前が5分前になってもまだ講義室にいねぇから、心配して電話してやったんだよ』


「おいおい、ダイチ。君ってやつは本当に馬鹿だな。もう3年にもなるっていうのに、まだ授業開始時刻を覚えていないのかい? 1限の始まりは9時30分だよ?」


『その言葉をそのままお前に返してやるついでに教えてやるが、テストのときは1限の始まりは20分早くなる』


 さぁぁ、と血の気が引いて行くのを感じる。ピリピリと体が痺れ、運動もしていないのに汗がじわりと皮膚に滲みだしてきた。心臓は跳ね上がり、言葉になりそこなった声が喉の奥で枯れていく。


「完ッ全に忘れてた! 教えてくれてさんきゅー! 愛してるぜダイチ!」


『おう。今度学食奢れよな』


「あぁー? 電波が悪くて聞こえないぞぉー?」


『テメッ……』


 ダイチの叫び声を半ばに通話を切った。ヤバイ、という言葉が脳内を駆け巡る。いかに優しい教授といえど、テスト未受験はインフルエンザとか特殊な理由じゃない限りは無条件で落単。


 時間を確認すると、テスト開始まで3分を切っていた。信号に引っかからなければ、ギリ行ける。大学生になってから運動をする機会がなかったため、持久力は不安だが、大丈夫なはずだ。


 こういうとき、下宿で良かったと心から思う。大慌てで着替えながら筆記用具や持ち込み用の教材の準備をする。急いでいるせいであちこちに体がぶつかり部屋が散らかるが、それに構うことなく、必要なものを鞄に乱雑に詰め込み、チャックを閉めて肩にかける。


「へぶっ!?」


 全力で扉を開けると、女性の悲鳴が聞こえた。僕が扉を開けた瞬間、たまたまその前にいたのだろう。とても申し訳ないことをしてしまった。


「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


 女性は衝撃でしりもちをついていて、赤みを帯びたおでこをさすっていた。その姿に罪悪感で一杯になっていると、ふと、小さな違和感を覚えた。


 僕の部屋はこのアパートの突き当りにあるので、僕の部屋の前を通る用事というのは、すなわち僕の部屋に用事がある以外にはありえない。


 しかし、悲しい話だが、自宅に訪ねてくるような親密な仲の女性の知り合いは、僕にはいない。せいぜいが、からかい半分に偶に遊びにやってくる妹か、宗教勧誘の人くらいだ。


「~~っ! 久しぶりだというのに、随分なご挨拶ね……?」


 女性は立ち上がって服の汚れを祓うと、涙目になりながらも、恨み言を口にしつつ気丈に睨みつけてきた。


 凄く美人な女性だ。おそらく地毛であろう、染めたようには思えないほど綺麗な透き通った金髪に、宝石のような青い瞳。外国人かハーフなのだろうけれど、発せられた言葉は流暢な日本語だった。


 初対面のはずだが、彼女は『久しぶり』と口にした。芯の強さを感じさせる勝気な雰囲気だが、親し気な態度でもある。それも相まってか、どこか懐かしい感じがした。



 これが、僕と彼女の初めての出会いだった。もっと正確に言うのであれば、僕と彼女の“この世界では”初めての出会いだった。



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