前日譚
複雑な幾何学模様の魔法陣から、円柱型に光が噴き出している。後はこの上に立つだけで、異世界へと旅立つことができる。
何十回としたが、もう一度だけ持っていくものを念入りに確認した。といっても、換金できそうなものと、魔法を使うための道具。それから、こちらの世界へ帰るための魔力を貯めておく魔道具くらいなのだが。
「なぁ、アリス。本当に大丈夫か?」
ダインが苦しそうな表情で尋ねてくる。自由奔放そうな見た目をしているくせに、お節介なところは相変わらずだ。そんな心配性な彼に、私は小さく笑いを飛ばしてやった。
「大丈夫よ、ダイン。そんなに辛そうな顔をしないでよ。ちょっと……友達、のところに遊びに行くだけじゃない」
友達、という言葉を口に出すのに少しつっかえてしまった。その気まずさを誤魔化すために、余裕そうに笑って見せる。
「そりゃあそうかもしれないけどよ……。……ユウキは、今のアイツは、アリスの知っている、俺らと魔王を倒したユウキじゃないんだぜ?」
同じよ。ユウキは今だって私たちの大事な仲間で、ただちょっと、そのことを忘れちゃっているだけ。……なんて言えたのなら、この心の翳りも、少しは晴れるだろうに。
「……記憶が魔法の代償になったからね。『忘れないさ』なんてヘラヘラしながら軽口を叩いていたけれど、記憶が失われていない可能性は……かなり低いでしょうね」
無い、とは口が裂けても言えなかった。けれど、もし記憶が失われていないとしたら、そのときは魔法が失敗した可能性の方が高い。
そうしたら、チキュウには辿り着いていないかもしれない。時間軸がずれているかもしれない。それより恐ろしい結果になっている可能性だってある。それだったら、記憶が消えていたとしても、ちゃんと元の世界に帰れているほうが良いに決まっている。
「また、一から関係をやり直すのか? ……それは、結構、堪えると思うけどな」
そんなこと、誰よりも分かっている。それでも、私はユウキに会いにいくと決めた。
「大袈裟に考え過ぎなのよ。かつての仲間とか、記憶が無くなっているとか、そういうのは置いといて。……魔王を倒したあと、一緒にエイガを観に行こうって約束をしたから、遊びに行くだけよ。そのあとのことは知らないわ」
「……ったく、お前もユウキも、意地っ張りなところはそっくりだぜ」
ダインはガシガシと後頭部を掻き毟る。彼が諦めて折れるときの仕草だ。多少無理やりかもしれないが、自分の中で納得させたらしい。
「……ま、そうだな。ダチのところに遊びに行くだけなんだ。そんな深く考える必要なんざ無ぇわな」
「最初からそう言っているじゃない。……それじゃあ行ってくるわ。ローラにもよろしくね」
「おう。行ってこい。ローラのやつ、見送りに来れないことをかなり悔やんでいたから、帰ったら真っ先に会ってやってくれ」
魔法陣の上に立つと、眩い光に襲われる。通常の転移とは移動距離も消費魔力も段違いだからか、多少の時間がかかる。
光量は時間と共に増していき、視界が徐々に白んでいく。そして急速に光が収束し、次の瞬間には弾けるように一際強く発光した。
光が晴れると、魔法は無事に成功したらしく、場所は室内から外へ移動していた。空気の質や、空の色が違う。……ここが、チキュウ。彼が……ユウキが、生まれた世界。
目の前には扉がある。どうやらこの家の一室にユウキは住んでいるらしい。魔力反応からしても、この扉の先にいるのは間違いないようだ。
この扉を隔てた向こうにユウキがいる。かつて共に冒険し、魔王を倒した仲間が。想いを寄せ、少なからず向こうも想っていてくれていた相手が。
ごくりと息を呑む音が聞こえた。緊張からか手が震える。朝日の陽気にあてられたのか、顔が少しだけ熱い。意を決してノックの為に拳を上げる。私が魔王を倒したあとに結んだ約束を果たすため――――