親子
暁闇の中、小船が一隻浮かんでいる。どこに行くでもなく、何かに曳航されるでもなく、ただ浮かんでいる。灯台の光芒の先には、波の気配があるだけだった。揺れる波に浮かぶ船。時折聞こえる波の音。夢現のようなその気配。秋口の涼風が頬を撫でた。視界が開く。朝日が山の端に首をもたげていた。
闇の中、ゆっくりと動く影が鳥居をくぐるーーカシャンーー数珠のような、鈴のような、はたまた錫杖のような、そんな音が鳴り響く。その影は社の扉の奥にすうっと消えていく。ーーカシャンーーまた、鳴った。烏が一斉に飛び立つ。なぜだろう、僕は「今だ」と思って駆け出した。
トンネルの中、ひたすら長いトンネルの中を進む。狭いトンネルだ。暗くて長い。終わりの見えないトンネル。うめき声のような声が時折響く。足はなかなか前には進まず、長い長い一時だった。引き返そうか、そう思った。だが、来た道はもう途絶えていた。来た道の向こうに女の人がいた。
「こっちに来てはいけないよ」
笑っているような泣いているような、そんな声で僕に語りかけた。戻ることができない、そううちひしがれていると光が差した。
臨月になり、二、三日が過ぎた頃。山の端の日は既に半分隠れていた。山の方から鐘の声が響く。秋口の夕暮れに飛ぶ雁の群は、どこに行くのだろう。誰のもとへ行くのだろう。夫が夕食を作っている。料理が苦手な夫ながら最近は自分なりに頑張っているようだ。私の視線に気付いたのか、そっとこちらを向いて微笑んだ。そこでしばらく視界が暗転した。
父と母が微笑んでいる。幼い私は無邪気に走り回る。転んで膝を擦りむいた。血が滲んで、私は泣いた。ひとしお泣くと、上を見る。誰か知らない男の子がこっちを見ている。ぼんやりしてわからないけれど、どこか私に似ている。悲しげな表情をしているのが、何故かはわからないけれども伝わってきた。私はそれが悲しくて、どうしようもなく悲しくて、また泣いた。父と母がこちらに来た。男の子が手を差しのべて何かを言おうとしている。でもわからない。
「もう行かなきゃいけないよ」
母が微笑みながら私の手を引いた。行きたくなかった。なんだか悲しくて泣いたけれども、母が口を開いた。
「この男の子は強いから」
母の手に曳かれていく私の肩を男の子がそっと押して、囁いた。
「僕は大丈夫だよ」
夜間の産婦人科に一人の臨月を迎えた妊婦が運び込まれた。危険な状態なのは誰の目にも明らかだった。酸素分圧は低下し、母体は諦めざるを得なかった。夫の男が涙を堪えている。
「お母さんは、残念ですが……」
「美咲はもう……」
「ですが」
「ですが……?」
医師はことの次第を複雑な表情で告げた。
妻は亡くなった。息子は六つになる。美咲、見ているかな。この子は強いよ。俺とお前の子だ、間違いないよ。七回忌、小柄だったこいつは元気になったし、俺も家事には自信が持てるようになった。でもお前は変わらない。変わらなくていいんだ。この子がお前くらいになったときに、今俺の見てるお前の写真のように笑っているように育てるよ。美咲って名前の子のように、美しく笑顔が咲く子に。
父が死んだのは、十一年前だ。僕が大学を出て働きはじめてしばらくしてから、死んだ。母の顔は写真でしか見たことはないけれど、笑顔が印象的だ。僕の名前、莞爾というのは父がつけた。母が命のかわりに僕を置き土産にしたとき、父は決めたと聞いている。未だにあの光景、船と社とトンネルの夢を僕は見る。トンネルの中の女の人は、母なのだろうか。
来月、妻が臨月を迎える。この子には父方のお爺ちゃんもおばあちゃんもいないけれども、きっと大丈夫だろう。