少年と少女
少年と少女
山はいよいよ色合いを豊かに寂れていった。霜は残酷にも木々の枝葉を止まり木に、朝夕そこに腰を据えると、長々しい夜を独り過ごし、朝日の輝くを見て帰り支度を始める。錦のように川に敷き詰められた紅葉と楓は、橋を作り、木枯らしはその錦を幣として山川を駈ける、駈ける。走り、駈け、錦を散らし、里に降り、冬の気配を告げ、栗を落とした。
山の裾の町に、娘が遊ぶ。少年の手を引っ張ると木枯らしの手向けた栗を拾う。振り返り、少年を見つめる。
「お前が遅いから日が暮れてしまう」
娘は頬を膨らませる。赤味がかかった頬は、少女を娘にしている。少年はしばらく口を半開きにしていたが、ややあって息を吸い込み、声を発した。
「最近は日が短いな」
太陽は山の端から見守った。
「寒くなってきたなあ。コタツの季節や」
霜月の名のごとく、朝夕に霜が降る。草木もいよいよ衣を替え始めていた。尋常小学校の校舎の運動場にも、枯れた草が目立ってきている。田の畝には、季節を間違えた蕗の薹が顔を覗かせていた。
「早く帰らんと、父さんに怒られる」
少年が俯き気味に言った。
「もうすぐ日が沈む」
娘が口を開く。太陽はいよいよ赤味を増した。辺りの家々から飯炊きの煙が上がる。星空は宝石を散りばめたように輝き、速度を増して、二人の眼の中に落ちて来るように、二人を見下ろすと、北極星に向かって微笑んだ。
「また明日」
二人は反対の方向に走り出す。娘の頬は赤味を増すと、白い息にぶつかった。少年が家に着いた頃には、星空は自らの舞台で舞っていた。
「只今」
「泥だらけ。何をしてたの」
「遊んどった」
「勉強は」
「その内やるよ」
「結局やらないでしょ、ご飯ができるまでにやりなさい」
「厭だよ」
「お父さんに叱ってもらいますよ」
「はいはい、やればいいんでしょ」
少年は土間で靴を脱ぐと居間に上がり、渋々ちゃぶ台の上に紙を広げた。
「お兄ちゃん、いつも怒られとる」
既に国語の教科書を開いていた妹が口を開いた。少年はバツが悪そうに背中を向けて独り教科書を読み始めた。
やがて夕食ができる。四人の影が薄暗い部屋に寄り添った形でできた。その間を縫うように、湯気が立ち上ってゆく。外では、霜露がまた寝屋の草木に寄り、枝葉に座り、また一層葉に色を付けた。少年は布団に潜り込み、目を閉じる。そのまま意識は溶けていく。瞳の奥に娘がいる。
娘との付き合いは幼い頃に遡る。春にはお互いの田に稲を植え、夏には二人で川のせせらぎに耳を任せた。いつしか、七年の月日が過ぎ、かつての少女は娘に変わりつつあった。少年の隣には、いつも彼女がいる。幼馴染という意識は特にはなかった。ただ、周りの大人からそれを聞いたとき、ああそんなもんか、と思う程度だったのだが、やはり幼馴染とは違う像を彼女が持ち合わせていたのは確かである。その像は、日増しに大きく、輪郭がはっきりとしてきた。
やがて少年は寝入ってしまう。微かな寝息が部屋に流れ、台所を通り過ぎ、原を駈けた。月明かりは柔らかく大地を照らし、眠る人や草木を撫でて西空に駆け抜けた。東の空が白み、霜は一層白く大地に寝転ぶ。やがて家々に朝餉の煙が上がり始め、霜は空に旅立って行った。木枯らしは柔らかく丘を駆け抜ける。
娘は少年と歩む。休みの日、暖かな小春日和の中、二人は柔らかな太陽の下で微笑む。秋から冬に移るこの日々は、鋭くもあり、また柔らかかった。庭に咲いた菊の花は白く霜と混ざり合い、色合いを一層柔らかにする。少年は心当てに一本折ると娘の許に寄り、その細緻な自然の構造を眺め、娘と見比べた。娘の赤らんだ頬と白く透き通る肌は、菊や芍薬や牡丹というよりは、初雪に化粧された紅葉に似ていた。突如目が合う。娘の顔は一瞬少女に戻る。
「何」
「なんでもない」
少年はあくまでも少年のまま、顔を菊の花に戻すと、群青色の空を眺めて溜め息混じりに鼻歌を歌い始めた。太陽ははにかんだまま、二人の真上をゆっくり歩んだ。風が草を揺らし、紅葉をわずかに落とすと、向こうの山まで一目散にかけて行った。
「そろそろ戻らんといけんね」
娘は少年に言う。少しあかぎれた手が、田舎の風景をより濃くした。二人は小屋に戻ると、縄を綯い始めた。時より笑い声が響き、太陽は西に急いだ。
夜、娘は眠りに就く。瞼が閉じられる時に彼女は何を見たのだろうか。
秋の夕暮れに、少女が青年の手を引っ張り、林を駆けていた。冷たく柔らかい風が頬を撫でる。この辺りにも住宅が増え、いろいろなものが変わり、かつての様相を窺うことは難しい。
老爺は風に吹かれて落ちた栗を拾うと、小春日和の縁側に腰を掛けた。
「子どもは、元気ですね」
老婆が口を開く。
「ああ、懐かしいな」
「いろいろありましたね」
「戦争もあったな」
「ええ、何年前かしらね」
「俺が飛行機に乗る予定の前日に、玉音放送が流れた」
「そして、帽子を抱えたあなたがその十日後にここに来た」
「…………」
老爺が口を開くと、向こうから青年の手を引いた少女が走って来た。
「お爺ちゃん、お爺ちゃん」
「まあ、お前たちは同い年なんでしょう、お前も和哉くんを見習って少しは落ち着きなさい」
「すみません、恐縮です」
「和哉くん」と呼ばれた青年は、少年という年にもかかわらず随分大人びている。青年が少女の面倒を見ているようにしか見えなかった。
「ほら、これでも食いながらあっちいって遊んで来い」
老爺は飴玉を二、三投げて渡す。それを受け取ると、少女は頭を軽く下げる青年の手を引っ張って行った。
「おい、これ……」
老爺の手には、少し変わった形の栗が握られている。
「懐かしいですね」
一瞬遠い目をした老婆がすぐに栗に視線を移した。
「ああ。懐かしいな。お前は娘だったな」
「あなたはまだ子どもでしたね」
「ああ、あれとは真逆だ」
そう言うと、二人はしばらく無言のまま山を見上げた。赤く染まった紅葉だけが二人を見つめている。