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短編集  作者: 毒パンツ
1/9

アパート

 いつもの通り階段を上がると、ドアの鍵を開けて部屋に入り、蛍光灯のスイッチを乱暴に押した。冷蔵庫の中にビールがあったっけ、と思い出し、キッチンへ行く。よく冷えたビールは暖かな空気に当たり、汗をかいた。私がビールを開けてコップに注ごうとしたとき、インターホンが押された。夜の八時過ぎに来客とは珍しい。半同棲状態の彼だろうか、と考えたが、そういえば彼は今日はサークルの飲み会だと言っていたことを思い出す。最近ぽっちゃりしてきた彼を思うと、少し残念なような気もしたが、だからと言って自重する様子もない彼なわけだし、まあいいかなどと思っていたのだけれども、それよりも早くインターホンに応じなければならないと思い出して私は受け答えた。

「はい、どなたですか」

「夜分にすみません、昼間伺ってもいらっしゃらなかったので……わたくしですね、隣に引っ越してきた熊沢といいますが、挨拶回りをさせて頂いてまして……」

 妙に丁寧な口調の熊沢さんと名乗る人物はなんだかよくわからないが、ふわふわした感じの声で話した。気が弱いのかな、そんな印象だった。

「ああ、どうもすみません。学校に行ってまして」

「あ、こちら蕎麦です」

 熊沢さんはとりあえず蕎麦を渡したいらしい。引っ越しの挨拶回りといえば蕎麦、別にタオルでも良いんだけれども、丁度ビールのつまみがないではないか。私はチェーンを外すとドアを開けた。

 とりあえず何があったのか、整理して考えたいと思う。朝私は学校に行くと社会心理学概論の授業を受けて昼食をちっちゃくて可愛い智子と食べた後に英米文学ゼミでシェークスピアの額に落書きをして時間をつぶした後にファミリーレストランでアルバイトをしてから自転車で家まで帰ってきたわけだ。そしてビールの缶をプシュッと開けたっけ、まあいいや。そしたら熊沢さんと名乗る人物が挨拶回りに来たからドアを開けて――熊沢さん? そこまでしたら声が聞こえてきた。

「あのう……大丈夫ですか?」

 熊沢さんの声だ。そうだ、ドアを開けたら熊沢さん、もとい目の前のシロクマがいたわけだ。そこで私は驚いた拍子にすっころんでどこかに頭をぶつけて今に至る、という訳だろう。

 ちょっと変わった部屋の布団の上に私は毛布を掛けられて寝ていた。

「すみません、女性だからどうしようかな、連れ込んでもマズいよななんて思ったんですが放置するのもアレだしなと思ったんですが」

 シロクマの熊沢さんは申し訳なさそうに首を縦に振りながら話した。やはり気は弱いようである。

「あ、コーヒーとか飲みますか?」

「いや、それよりなんでシロクマ……」

「ああ、まあ何となくですよ」

 何となくでシロクマがこんなアパートに引っ越して来た訳か。世も末である。それを認めた大家さんも大家さんであるし、彼はどうやってここまで来たのだろう、と当然の疑問が浮かんで来たのだが、そうこうしてるうちにコーヒーが運ばれてきた。

「あ、砂糖とミルクいりますか」

「ああ、すみません」

 だんだん落ち着いてきた私は何とか受け答えた。

「ブルーマウンテンなんですよ」

 香ばしいコーヒーを一口飲んだ時、熊沢さんが口を開いた。最近のシロクマはコーヒーにもこだわるらしい。

「コンビニの近くにコーヒー専門店があるじゃないですか、あっこ良いですよね」

 何とか話を繋げたいようだった。

「はい、あそこ高いんであんまりいけないんですけど」

「そういえば学生さんですもんね」

「ええ、すみませんが今は何時くらいですか?」

「九時くらいですね」

「ああ、一時間もすみません」

「いや、むしろ私が配慮すべきだったのでこちらこそすみません。いきなりシロクマが来て驚いたでしょう」

「まあ……他の人はどんな感じだったんですか?」

「『アア、またシロクマさんか。どうぞよろしく』といった感じでしたね。どうも慣れているみたいで」

 そういえばここに入居してくる時、大家さんの会話が少々ぎこちなかったことを思い出した。

「じゃあ、案外普通なんですね。ここのアパートでは」

「ええ、シロクマ界ではなかなか有名ですよ、ここ。家賃も手頃ですしね」

「てっきりシロクマって北極とかにいてアザラシとか食べて……」

 すると、熊沢さんは大きく口を開けて笑った。

「ああ、彼らはですね、少数民族でして、昔からのやり方を変えないみたいですね。たまにリゾートとかで観光バスも出てるくらいですよ」

 熊沢さんが少数民族のシロクマじゃなくて良かったと思う。「挨拶回りです」とか言ってアザラシの干物みたいなものを持って来られても困るし。

 私はコーヒーを飲み終えると、口を開いた。

「どうもすみません。わざわざ看病まで。何かお返ししますね」

「いやいや、こちらこそ。あ、お蕎麦」

 私は頭を下げると蕎麦を受け取り、部屋に戻った。気の抜けたビールが机の上で汗だくになっている。

 私は気の抜けたビールを捨てると、新しいビールを冷蔵庫から出した。まあ、明日は休みだし二日酔いでもさして困らない。彼が戻ってきたら何と言おうか。「隣に熊沢さんっていうシロクマが引っ越して来たよ」なんて言っても信じるわけがない。私がそんなことを考えながら三本目のビールに手を伸ばした時、再びインターホンが鳴った。

「ああー帰ったよ」

 その直後女性の声が聞こえた

「どうもすみません。チョット溝口先輩、しっかりしてください」

 私は泥酔した彼を引き取ると彼の後輩に向き直った。

「どうもすみません。この馬鹿が」

「いやいや、先輩にはいつもお世話になってるので……」

 まったくどうしようもない先輩である。多分ぽっちゃり気味だし重かっただろう。男に送ってきてもらえよ、と思ったのだが、考えたら文芸サークルに男子は二人だけだった。多分もう一人も今頃路地裏で吐いているのだろう。やはりこいつには自重を覚えさせるべきだと思う。彼を寝かせると私は残りのビールを飲み干して彼の横に寝た。

 翌朝目覚めると彼はケロッとしていた。昨日熊沢さんから頂いた蕎麦を食べながら口を開く。

「あ、おはよう。昨日は失礼した」

 私はその向かいに座ると蕎麦を啜った。なかなか良い蕎麦みたいだ。新蕎麦の香りが口腔に広がる。コシのある蕎麦を啜ると、良い音が立った。熊沢さんはやはり繊細なタイプらしかった。

「そういえばこの蕎麦どうしたの?」

「ああ、お隣さんが引っ越しの挨拶にくれたんだ」

「熊沢さん?」

「知ってるの?」

「うん、シロクマの方だろ?」

「シロクマって……驚かなかった?」

「ああ、俺が前にいたアパートにもいたしね。なんかノリが良い奴でさ、よく麻雀とかやってたよ」

 どうやらシロクマは各地に存在するらしい。たまたま私の隣に来たのが熊沢さんという方らしかった。よくよく思うとそのまんまの名前である。彼は蕎麦を食べ終えると背伸びをした。さてと、と一息置いて言う。

「バイトも休みだし、どっか行く?」

 昨日酔いつぶれて帰って来たわりに元気な奴である。とりあえず公園にでも行こう、ということになり、車に乗り込むと近くの山にある公園まで走り始めた。

 夏も終わりに近づいた公園には深草がまだ青々と茂っていた。私たちは近くのベンチに腰掛けると、雲の端を目で追う。まだ暑い最中だが、空は既に秋に向かっていた。丘を吹き下ろす風が頬を撫でた。

「さて、何かする?」

「まあ、適当でいいよ適当で」

「デート適当にする男って最低だと思います」

「うるさいな、僕は草食系男子なんだ」

「前は『俺は野獣なんだぜ』って言ってたよね」

「まあ……時流だよ。それに草食系野獣とかもアリだと思うんだ」

「いや、無理があるよ」

 取り留めもない会話をする。とりあえず買い物でもして帰ろう。そろそろ長袖の服が欲しくなる季節だ。

「帰りに買い物してこうよ」

「ああ、そうだね。ご馳走さまです」

「あんたが払いなさいよ。男でしょ」

「そういうのデートDVっていうんだぞ」

 彼はおどけて笑った。

「はいはい、ワリカンでしょ、ワリカン」

「別に俺出すけどね。高い服以外は」

「寧ろ高い服が……欲しいです」

「学生はお金がないんだよ。見てみろ、これこそが全身ユニクロスタイルだ」

「わかったから人前で変なことするな」

 ふざけ半分の会話で車に戻ると、エンジンをかけてもと来た道を下って、大通りに出た。郊外の畑では農家がせっせと収穫作業をしているようだった。

 駅前のショッピングモールの第二駐車場に車を停めた。車を降りると、私たちは近くのエレベーターに乗り、衣類売り場へと行った。

「で、どれ買うの?」

「これにしようかな」

「太く見えるよ」

「余計なお世話だよ。思っていても言わないよ、普通」

「こっちの方がいいよ」

「ババクサイ」

 彼の選ぶ洋服はいつも何かが違う。「黒の方が細く見えるよ」と言うまでは良いが、誰がそんな喪服みたいなものを着て学校へ行くのだろうか。だけど、さすがに言い過ぎたかな、と思い、彼を探すと彼は少し離れたゲームコーナーで太鼓ゲームに熱中していた。子どもみたいな奴である。そこが良いのだけど。結局彼は割と高めの服を買ってくれた。

 昼食も済ませ、いよいよ帰ろうかという時になる。ふと、私は口を開いた。

「あ、そういえば」

「ん、どうしたの?」

「熊沢さんにお返ししなきゃ」

「ああ、昨日言っていたやつか。うちの近くにスーパーあっただろ。帰りに寄っていくか」

 そういえばそうだ。夕食の準備がてら行くか。

 家に着くと、日は既に沈んでいた。ホタルが河原に舞っているのが見える。

「あ、ホタル」

 蛍を見るのも久しぶりだ。

「なあ、なんでホタルはすぐ死んでしまうん?」

「知るか」

「ちなみに『腐草螢と成る』っていうんだぜ」

「なんか気持ち悪い」

「日本じゃあ蛍は昔から風流なものだと思われてたんだが、中国では不気味なものとして考えられていたんだ」

「へぇ」

「で、まあ、『腐草螢と成る』も日本に輸入されて実際に使われる際には意味が変わってしまった、と。」

 彼は意外とインテリなのかも知れない。アパートの階段を上がると部屋に入り、一通り荷物を置いた。

「ありがとう」

「何が?」

「服とか。別によかったのに」

「まあ、気にすんなよ」

「あ、熊沢さんにお返し届けてくる」

 私は安い菓子を持つと玄関を抜けて隣の部屋のインターホンを押した。返事がない。留守かな。しかし表札を見ると、そこに「熊沢」の名前はなかった。どうしたことだろう。大家さんに電話をしてみよう。

「あ、すみません。私の部屋の隣の熊沢さんは……」

「ああ、熊沢さんね。なんかご実家でいろいろあったらしくてね。一日で帰っちゃったんだよ。また何年かしたら戻ってくるらしいけどねぇ」


 以降私はあれほど文化的なシロクマを見ていない。しばらく前に旦那と行った動物園でシロクマを見たが、どうも生魚をバリバリと食べる「少数民族」らしかった。熊沢さんは数年したら戻ってくる、と言っていたっけ。また会えるだろうか? お礼がまだ済んでいない。私と旦那以外にももう一人、熊沢さんに会いたいという人物がいた。

「おーい、どっか行くか」

「ちょっと待ってよ、チャイルドシート付けた?」

「ああ、付けたよ。はい、ヒロちゃんこっち来ようね」

「ママのがいいー」

 ヒロちゃんは涎塗れのシロクマのおもちゃを持って走りまわっている。

「はいはい、じゃあ行くよ」

「シロクマさんのおはなしして」

「この前もしたでしょ」

「くまざわさんはいつかえってくるの?」

「ママにもわからないよ」

 外から声が聞こえる。

「おーい、早くしろ」

 皆で公園に行こう。あの時よりもずいぶん痩せた旦那と、この子と私。その後、ショッピングモールに行ってから蛍でも見るんだ。

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