ウルクディア(4)
靴は見つからなかったので、素足に、部屋履きという格好だった。裸足よりはマシだろう。夜中に眠れなくなった召使いが散歩していると思われるように祈るしかない。なんだか今夜は祈ってばかりだ。今降りてきたばかりの窓を見上げ、白々とした綱がぶら下がっているのを見て、これも見つかりませんようにと祈った。そして頷いた。エスティエルティナが追いかけ回してまで自分を選んだのだから、これくらいは聞き届けてもらってもいい。
舞はとりあえず右へ向かった。アイオリーナの手紙にあった道順を思い出しながらしばらく歩いた。柔らかな室内履きが裸足の踵にぺふんぺふんと音を立てる。塔をぐるりと回る。程なく見えた建物の壁を更に右に回ると、その辺りは、どうやら厨房の近くらしかった。ゴミ箱がいくつか置いてあり、生ゴミと残り物と油の匂いがかすかに漂っている。
ここをまっすぐ行って、アイオリーナ姫のいる場所の近くになったら、建物の中に戻って、それで。
考えながら歩いていた舞の目の前で、突然、扉が開いた。
舞は硬直した。でっぷり太った女の召使いが、よっこらせ、と言いたげにそこから出てきた。一度体を中に入れて大きな取っ手付きの籠を引きずり出し、どすん、と外に置いて、もうひとつ引きずり出して、どすん、と置いた。それから扉を閉めて、籠を持ち上げようとして、
ようやく舞に気づいた。
「……ひっ」
舞は我に返って、覚悟を固めた。ここで大声を上げられては万事休すだ。声を立てさせずに殴り倒さなければと、我ながら不穏な考えと共に手を伸ばそうとした瞬間に、召使いが言った。
「こ、これはね、違うんだよ」
「――は?」
召使いはもじもじと体を揺すった。そして今さらながらに、持って出た籠を舞の目から隠そうとした。
「ただ散歩に。そう、散歩に行こうと思ってさ。あんたも散歩かい」
舞が誰かということに気がついたわけではないらしい。制服を借りておいて本当に良かった。舞は近寄って、まじまじと召使いを見上げた。
「……あの」
「いや違うんだ。違うんだよ? ああ、ああ、あんたは何してるんだいこんなところで。ひとりで歩いちゃいけないって言われなかったかい、」
「それは何ですか」
少し咎めるような口調にしてみると、人の良さそうな召使いはもじもじと体を揺すった。たっぷりついた体の肉がゆさゆさと揺れた。
「こ、これはね、その……」
「もしかして」
食費もかからない、とコリーンは言った。
舞はその召使いの、人の良さそうな顔をつくづくと見た。
「流れ者に、持って行く、つもりなんですか……?」
「ち、違うよ。そんなことするわけないじゃないか」
「そうなんですね。そうじゃなかったら、そんなに慌てなくたっていいはずだもの」
「違うよったら」
「咎める気なんかありません。だってひどい話だもの。食事が出てないって聞きました。お腹がすいてるでしょうねえ……?」
訊ねると、彼女は、ううう、と呻いた。
そして呟いた。
「……見逃してくれるかい? その、残り物なんだよ。本当に。捨てるよりは食べてもらった方がいいだろう? しょうがないじゃないかね。あんな若い者が飲まず食わずだなんてひどい話じゃないか。ああ、あんたもそう思うかい?」
「はい。思います」
「そうかい。じゃあ見逃してくれるね? ああついてない、どうしてこんな時間に……本当に何やってるんだいあんた。見ない顔だね」
「新入りなんです。アイオリーナ姫と【最後の娘】がいらしたというので、今日の午後に急にかり出されたの。制服も借り物で、ぶかぶかで、おかしいでしょう。寝付けなくて散歩に出たら迷っちゃって……」
「そうかい」
心が痛むことに、彼女は全然疑わなかった。
「ここは厨房だよ。突っ切って向こうの扉を開けると廊下があって、そこを」
「いえ、散々迷ったので、出来れば案内していただきたいんです。だから手伝います。重そうだし、ひとりじゃ大変でしょう」
「いけないよ」
彼女はきっぱりと言った。
「あんた嫁入り前だろう。流れ者に関わったりしちゃいけない。あたしは慣れてるからいいんだ。それにこれ以上心証が悪くなりっこないからね。うちの息子も流れ者やってるから」
「そうなんですか」
呟くと、彼女は、何か弁解するように言った。
「ああ、違うんだよ、家出したってわけじゃないの。ろくでなしってわけでもないんだよ。うちの子、ああもううちの子なんて言っちゃいけないんだろうねえ、でも、息子には変わりないもの。息子は兵士見習いやってたんだけどさ、ほら。黒髪の娘を捕らえろって命を受けてね――どうしても、どうしても、出来なかったんだよ。優しい子だからねえ、あの子は。それで流れ者にならざるを得なくてね、今頃どうしているやら。可哀想に、苦労してるだろうな、そう思うとさ、どうしても放っておけなくて」
召使いは涙ぐみ、笑顔を見せた。
「あんたも黒髪だね? 大変だったろうね。今まで。ようやく外に出られるようになって、本当に良かったよねえ」
「はい。本当に。そうなんですね、息子さんは……本当に優しい人ですね」
「そう言ってくれるかい? 良かった。でもここじゃ肩身が狭いんだよ。だから首になったって構わないのさ、あたしはね、だからこれ持ってって、見つかったって、構わないんだよ。あたしゃモリーってのさ。ああ、料理人ではあるけど、身分としてはただの召使いだからね、さんづけなんてしないでいいからね。あんたの名前は?」
「……エルティナです」
とっさに出た名前だった。モリーは微笑んだ。
「そうかい。ふふ、なんだか話したらすっとしたよ、ありがとうね。さ、中にお戻り。食事を渡して戻ってきたら案内したげるから、中で待っといで」
「いえ、手伝います。モリーさん……モリー、あなたの息子さんが流れ者になったのは、あたしのためでもあるんじゃないでしょうか?」
舞は気のいいモリーを説得するために力を尽くした。騙すようで申し訳ないが、どうしても連れて行ってもらわなければならない。
「いけないよ、あんた。せっかくお天道様の下を歩けるようになったってのに」
「ここであなたひとりに行かせたら、それこそお天道様に顔向けが出来ません」
「嫁入り前の娘は、流れ者になんか関わらない方がいいんだよ。本当に」
「アイオリーナ姫をお助けするのに働いた人たちなんでしょう? おかしな人たちじゃないと思うけど。モリー、あなたの息子さんもきっと、そういう仕事なら受けるでしょうね?」
「……まあそりゃ、そう、だけど」
舞はモリーの足下にある籠をひとつ持ち上げた。本当に重かった。モリーはため息をついて、もうひとつを持ち上げた。
「……すまないね。でも正直助かるよ」
「流れ者はどこにいるんですか?」
「ここの壁をずっとまっすぐ行った端っこだよ。さ、おいで。……何だいあんた、部屋履きで外に出たのかい」
「ええ。靴がまだ支給されていなくて」
我ながら苦しい言い訳だ。けれどモリーは疑わないのだった。
「そうかい。寒いだろうね」
本当に胸が痛んだ。自分が真っ黒い人間になった気がする。
けれど本当に胸が痛むのは、まだこれからだった。
建物はずいぶん大きかった。
「あたしゃ厨房の担当でね」
モリーは話し好きらしい。それとも、緊張のあまり沈黙に耐えられないのかもしれない。周囲の窓は全部閉まっているし、声も低めていたから、舞も止めなかった。厨房の責任者か、と後をついていきながら考えた。ではあの柔らかくてとろけるような肉はこの人が焼いたのだ。
息子が兵役を拒んで流れ者になって、それでもこの人が解雇されなかった理由が、とても良くわかる。
「あたしが食事を切り盛りする館に滞在した者が飢えるなんて、とうてい我慢がならなくてね」
マーシャと同じだ。舞はますます親近感を覚えた。
「姫君たちがあたしの料理をお気に召すといいんだけどねえ」
「気に入りますよ、絶対」
「だといいけど。でもあんた、ちゃんとお気に召します、と言いなね。他に誰も聞いていなくても、いざというときに出ちまうもんなんだから」
「すみません」
「いや、次から気をつければいいんだよ。コリーン様はあたしがお運びするのを許さない。まあ当然だけどね。だからまだご感想を聞いていないんだよ。先ほど【最後の娘】が目を覚まされたというので、急いでお出ししたんだけど、半分近く残されていたの。お腹がすいておられるだろうからと言われて肉にしたんだけど、やっぱり真夜中だし、病み上がりでいらっしゃったし、重すぎたかねえ。呆れられたかねえ。ああ、どうしよう」
違うのに。全部食べたかったのに。コリーンが寝ろというから。
言い訳をしたくてうずうずした。でも何も言えない。そして明日からの食事にはすべて手をつけられないのだ。そのまま戻って来た食事を見て、この人はどんなに傷つくだろう。あの肉がいけなかったのだと誤解してしまいはしないだろうか。
そして半分しか食べなかったことを思い出してお腹がすいてきた。我ながら情けない。
建物の端に来た。銀月が建物に隠れて、この辺りは真っ暗だった。舞の目にもほとんど何も見えない。モリーは手探りで、一番端の窓に近づいた。舞は周囲を見回して、驚いた。
狭い。
「ここに。……え。このひと部屋なんですか」
「そうさ。ひどいだろう。中には寝台もひとつしかないんだよ、熱出してたのがいたからさ、さすがにひとつはね。毛布すらその人の分だけ。というか、そもそもここは物置なんだ」
「物置……」
「中のがらくたを運び出して寝台入れたってだけ。ここは賓客のための宿泊所だから、流れ者を休ませる部屋がないとかで。雨風を防げればいいっていうのさ、なんかねえ……なんかねえ。わかっちゃいたけど、ニコルもいろんな場所で、こんな扱いを受けてるんだろうねえ」
「――誰だ」
低い声が中から聞こえた。グリスタの声だ。モリーが窓に唇を寄せた。
「開けておくれ。あたしはモリーってんだ。食事を持ってきたよ」
「……おいおい」
苦笑じみた声が上がった。そして窓が開いた。真っ暗で、誰が顔を出したのかは見えなかった。その人物はグリスタの声で、妙に優しく言った。
「正気か、お前……お前ら、か。召使いだろう」
舞が口を開こうとした寸前だった。
「声を立てるな」
グリスタがいきなり、モリーの首に何かを突き付けた。多分小刀だ。グリスタが本気だと悟って、舞は口を閉じた。声を出したら、舞だと悟る前に、モリーを殺してしまいそうだ。
「ひ――」
「声を立てるなって言っただろう、なあ。悪いが気が立ってるんだ。もう一言も出すなよ。そっちの細いのもだ。お前は分かってるようだなあ。……なあ、おい。親切なんだか罠なんだかわかんねえが、召使いが俺たちに近づくなって言われたろうよ。ちょいと端に寄りな。そう、それでいい」
モリーがどいてできた隙間から、細身の流れ者が滑り出て、モリーの襟首を背後から掴んで、右手を喉元に回した。グリスタが小刀を戻し、窓を乗り越えた。彼は舞の方へ来て、背後に回って、背を押した。
「声を立てるなよ。モリーおばさんの命が惜しいだろう。中へ入りな。ああ、籠は置いておけ。食事だって? ありがてえ話だ……毒入りじゃなければの話だけどな。おい、入れるか? 俺の膝を踏んでいいぜ。何だ、お前部屋ばきなのかよ。何やってんだ」
声を出させてくれればすべて丸く収まるのにと、思いながら舞は仕方なく、グリスタの膝を踏んで中へ入った。物置だというそこは、ひどく狭くて寒々しい。中にはふたりの人間が残っていて、入るとすぐに、誰かに壁際に追いやられた。冷たい感触を喉に感じた。なんて事だ。
「さあおばさん、……あんたがここから入るのは難しそうだなあ。あの娘を傷つけたくはねえな? よし、じゃあ、言え。静かにだ、分かってるだろうな。【最後の娘】が起きたかどうかわかるか」
起きたかどうかも何も、と舞は思った。どうして中にも外にも明かりひとつないのだろう。明かりがひとつでもあれば、こんなややこしいことにならずに済むのに。
「……お食事は召し上がったよ。半分だったけど」
モリーの声はかすれていて、その上震えていた。本当にいたたまれない。
「そうか。いつだ?」
「ついさっきだよ。あの、ほら、なんか、剣が……剣がかね。大騒ぎしただろう。あの時だよ」
「あの時は起きてやがったのか。おい、誰かフェリスタとグウェリンを呼んで来てくれ。あいつら部屋のそばまで行ったはずだ。召使いを捕まえたって言うんだぜ」
部屋の中にいた誰かが、応じて窓から出て行った。
「ねえ頼むよ、あたしはいいからさ、その子は放してやっとくれ。その子は……」
「ああ、申し訳ねえとは思ってんだよ。でも余計なことは言うな。そうすりゃ危害は加えねえからよ。俺らはどうしても【最後の娘】に会いてえのさ。でも兵が通してくれねえ。意識が戻らねえとか、戻っても会いたがらねえに決まってるとか、いろいろ言うがよ、あの娘っ子が俺達に会いたがらねえなんて、ありえねえんだよ。信じられねえだろうがな。だが、無理やり通ったら【最後の娘】が困るかもしれねえし。でもあんたらなら通れるだろう? そっちから来てくれて本当にありがてえ。……いいかい、おばさん。あんたは厨房の方の担当なんだな。娘っ子のそばには近づいてねえんだな? そうか、わかった。それじゃ、もう黙りな。いいかい? じゃあ次だ、そっちの細いの。お前の担当はどこだ。静かに言え」
言っていいんだ。心底泣きそうだった。
舞は命に従って、静かに言った。
「……何だかもう本当にごめんなさい……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……うおう」
舞の前に立ちはだかっていた男が呻いた。その向こうで、ごそごそいう音に続いて、火打ち石が音を立てた。ややしてぽっと炎が上がって、蝋燭に移されて、明かりが大きくなった。明かりが近づいて舞の顔を照らし、蝋燭を持っていた茶色の髪の男が、すぐに蝋燭を吹き消して、言った。
「本物だ。……なんだあ、そのかっこ」
「二階にあったの、くすねて来ました」
と、舞の前にいた男が、ようやく小刀を戻した。
「すまねえ……うおう。あんたに刃物突き付けたってことはぜひ、グウェリンとフェリスタには内密に頼みたいんだが」
「はあ」
どうしてだろう。事情が事情だし、護衛というわけでもないのだし、怒らないと思うけれど。
「ふたりはどこへ行ったんですか?」
「外から上がれる場所がないかって、他のやつらと一緒に見回ってんだが……」
ちょうどその時、複数の気配が近づいて来た。すぐに、慌てたようにフェリスタが囁くのが聞こえた。
「娘っ子が外に出た。綱が二階の窓から下がってた。召使いは後回しだ、捜しに――」
「ここにいる」
グリスタがつぶやいて、ため息をついた。
「何で早く言わねえんだよ、娘っ子」
「言わせてもらえたら言ってたのに……」
「そりゃ道理だわなあ……悪かった」
フェリスタが中を覗き込んだ、ようだ。「いろいろご迷惑をおかけしております」と言うと、フェリスタも言った。
「うおう」




