間話5-4 エルギン=スメルダ・アナカルシス(4)
「……流れ者でも構わないのか?」
デクターが久しぶりに言った。ニーナは口いっぱいに頬ばっていた食べ物をもぐもぐもぐもぐ、と噛んで、飲み下して、頷いた。
「構わないわ。エルギン以外なら誰でもいいの、あたしは。協定にもちゃんと盛り込んであったでしょ。相手が誰だろうとそれを認めること、って。だから彼らはアルガスの出現にあれだけ血相を変えたの。流れ者には王子の権威なんか効かないし、舞が選んだらそこであたしの勝ちだから、選ぶ前に排除しようとしたのよ。でもあたしはアルガスじゃなくてもいい。フィガスタだっていい。でも年が離れすぎてるか。地下街で出会った、朝食を交換したという草原の民でもいいし、水夫の誰かだっていいし、もちろん他の流れ者でも。いっそ銀狼でもいいって思ってた」
「銀狼だってえ?」
「銀狼って人型もとれるらしいじゃない? お伽話だけど。銀狼ならエルギンに遠慮する義理なんかそれこそないし。銀狼と恋に落ちた女性の話、聞いたことない? あたしいくつか知ってるわ……でもその逆って聞いたことないわね」
「銀狼には雄しかいないのよ」
オーレリアが言った。
「そうなの?」
「そうなの。魔力も右ばっかり。人魚が雌のみで魔力も左ばっかりなのと対応してんのかしらね」
「そうなの……すごいわ、オーレリア、本当にいろいろ詳しいのね。……そうね、舞が好きになりさえすれば、銀狼でもあたしは構わないの。ウルクディアの都市代表のご子息だっていいわ。舞が好きなら応援する。ミネアが五歳になれば、あたしだってここにいなくていいもの。舞と一緒にどこだって――行けるわ」
ニーナの言葉がかすかに揺らいだ。
まだ何か、ニーナが口に出していない問題が、あるような気がした。でも何だろう。
と、オーレリアがニヤリとした。
「――よし、決めた。あの子がもしアルガスのこと好きなら、全身全霊をかけて邪魔してやる」
口調は意地悪げだったが、ビアンカは騙されなかった。彼女の目はひどく優しかったのだ。でも、デクターは呻いた。
「邪魔するのか……」
「するわよ、ふん、あのくそガキに渡してたまるもんですか」
「まあ僕もそこまで応援する義理はないけどさ……言っとくけどオーレリア、昨日言ったとおり、ガスが戻ってきたら同じ部屋に入っただけで大地の割れ目に蹴落として水攻めだからね」
「おっと」
オーレリアは舌打ちをした。
「忘れてたわ。じゃあ……ああ、そうね、エルティナが近づいたら蕁麻疹が出るようにし向けられないかしら」
「……」デクターは呆れたようにオーレリアを見た。「どうやって?」
「だから薬盛るでしょ、で、エルティナをそそのかして寝込みを襲わせれば――」
「前から疑ってたけど、オーレリア、あなた実はバカなんだろう」
「なんてこと言うの、失礼ね。――あれ、どこかおかしい? いい考えだと思ったんだけど」
ニーナが吹き出した。椅子の背もたれにしがみついて、身をよじって笑い転げた。ビアンカもつられて笑いながら、オーレリアが一瞬、ひどく優しい微笑みを浮かべたのを見た。一体この人はどうなってるんだろうと、笑いながら考えた。
ニーナはこの前、言っていた。あたしずっとひとりだったのよ、五年近くも、と。五年。五年は長い。長すぎる。それまでたったひとりで、【最初の娘】という名だけを武器にして、姫を守ってきたのだろうか――
それにしても。姫はこことは全くかけはなれた場所から、十年前に、エルギンが祈ったその日に、落ちてきたのだ。場所は違うが、他の三人と同じ時に。ニーナも言った。ビアンカも思った。そんな偶然があるのだろうか。
「十年前の、その三人って、今はどうしてるんだ?」
デクターが訊ねた。同じことを考えていたようだった。
呼吸を整えていたニーナは、硬直した。凍りついたようだった。一瞬だけだが、間違いなく、無表情になった。これだ、とビアンカは悟った。ニーナがまだ口にしていない何かの問題、それはきっとこれなのだと。
「その話は――また今度にさせて。疲れちゃって……協定には関係ないことだから」
ニーナは静かに、静かに、言った。泣き出すのではないかと思った。オーレリアは優雅に口元を拭うと、立ち上がった。
「そうね。これ以上聞いたらややこしくて頭が破裂するわ。ああ美味しかった。ビアンカ、あんたそろそろ寝支度した方がいいわよ。明日は早いんだし。ニーナ姫、」
「姫はやめて。様もいや。呼び捨てでいいの、敬語も嫌い。アルガスにも言おうと思ってた」
「……わかった。ニーナ、エルティナってものすごく食べんのね。先日の護衛の間に見たけど、いったいどこに入るのかって驚いた。でも理由が分かったわあ。こんな美味しい料理を毎日食べてりゃ、そりゃ胃袋も大きくなるってもんだわよ。あの子きっと内臓のほとんどが胃袋になってるに違いないわ、マーシャみたいな人のそばにいられて、あの子は幸せねえ」
――幸せね。あなたみたいな友達がいて。
オーレリアの言わなかった言葉は、けれどビアンカにははっきり聞こえた。ニーナも顔を歪めた。泣き出す寸前まで。オーレリアは気づかないふりをしてさばさばと続ける。
「あたしもここにいる間に太るんじゃないかって心配でたまんない。ごちそうさま。いつもだけど、今日もホントに美味しかった」
「……マーシャに伝えるわ」
ニーナは、辛うじて、微笑んだ。
「きっと、喜ぶわ……きっと」
「ね、もう休んだ方がいいわよ。長い話して疲れたでしょ」
「ウルスラを呼んでくるよ。多分様子を診たがるだろうし」
デクターも立ち上がり、ニーナは頷いた。そして立ち上がって、左手で、空に何かの模様を描いた。姫がアルガスの前で見せた、ひらめくような左手の動きだ。
「聞いてくださってありがとう。――あたしに協力してくれる?」
「する!」
ビアンカは真っ先に叫んだ。シルヴィアもきっと、ここにいたら、そう言ったに違いないと思った。デクターは苦笑した。
「というか、何もする必要ない気がするけど? 王が交代するまで姫に何も言わないことと、エルヴェントラとスヴェンがガスを排除しようとするのを邪魔すること? それくらいならまあいいよ」
「あたしは何にもしないわ。いつも通りにするだけ。エルティナには恨みもある、だから今聞いたこと、一言だって話す気ないし。けど、エルギン王子の応援するほどの義理もない」
三人の言葉を聞き終えて、ニーナは頷いた。
「ビアンカ、ありがとう。オーレリア、それで充分だわ。デクターもありがとう、ねえ、アルガスには今の話、伝えた方がいいと思う?」
「さあね……聞いても聞かなくても同じだと思うけど。あいつがどういう事情で姫のこと知ってたかはもうわかった?」
「シルヴィアから聞いたわ。温泉でエルギンに話したそうなの。エルヴェントラたちももう知ってる。それもあってあんなことしようとしたんだもの。ビアンカ、アルガスはね、七年前に、ティファ・ルダから舞を逃がした子だったの。舞は女の子だと思い込んでる、だから思い至らなかったのね」
「わあお……」
「三年前に姫がエスティエルティナに追いかけ回されてるのを見て、生きてたって知った」とデクターは言った。「でもそのまま放っといた。それはエスメラルダなら安全だと思ったからだ。元気で生きてればそれでいいって思ってたんだと思う。でもこの状況を見ればもう放っておかないだろ。だから貧血でも起き出してついて行ったんだろうしさ。あいつは何にも言わないけど本っ当に頑固で強情だよ。第一将軍が親友の養子の生存を知ってさ、戸籍もやるし財産もやるから出て来いって地下街に何度も伝言残してたのに、絶対行かなかった。飢え死にしかけててもね。脅されたくらいで引き下がるようならとっくに流れ者やめてた。だから、知っても知らなくても同じことだと思う。異性としてどう思ってるかは置いといて、ガスにとって姫は養父の形見みたいなものなんだ。護衛もつけずにほうり出されてるのを見て放っておけるわけがない」
「そう……なの」
「だからニーナからは言わなくていいんじゃないの? 気になるならガスから聞いてくるだろ。姫が選ぶのはガスじゃないかも知れないんだし、ガスが姫をどう思ってるかもわからないし」
「……あんた、本当に、わかんないの?」
オーレリアが低い声で訊ねた。デクターはあっさり頷いた。
「さっぱりわからない。どーでもいいし。そこまで応援する義理もない」
「あんたって嘘つきなのよね……」
「あなたほどじゃないよ。本当に素直じゃないんだな、全く面倒臭い人だよ」
「本当にそれこそあんたに言われたくないわよ……」
ニーナは微笑んで、頷いた。
「わかったわ。……長々と、ごめんなさい。どうぞ休んで、」
「あの……」
戸口からマーシャが顔を出した。
「お話中に申し訳ありません。ビアンカ様、デリクとヘスタ様がお見えですよ」
「あれ、もうそんな時間?」
デリクはいつも、夕食が済んだころにビアンカの様子を見に来てくれる。今日はヘスタも一緒らしい。珍しいこともあるものだと思いながら、ビアンカはニーナに微笑みかけた。
「じゃあ、ごちそうさま。ニーナ、本当にもう休んだ方がいいみたいよ。あたしデリクに会ってくるわ」
「うん、……また明日ね」
ニーナは微笑んだ。急に疲れたようだった。ビアンカはにっこりして見せて、居間を出た。マーシャに夕食の礼を言って、部屋に戻った。
オーレリアがついて来た。デリクとヘスタは既にビアンカの部屋に通されていて、ビアンカを見るとデリクは真っ先に言った。
「なんだよ、今日は髪結ってねえのか? 良く似合ってたのによ」
「えー」
昨日は散々けなされた気がするのだが。傷ついたので今日は断ったのに。オーレリアが苦笑した。
「ほら、やっぱり。デリクも嘘つきなのよ、ビアンカ」
「お前に言われたくねえな……」
「覚えておいた方がいいわよ。デリクみたいな男は、可愛いと思えば思うほどけなすの。それでいて結うのをやめると文句を言うの。本当に困ったものよね。口より表情を見るべきなのよ。デリクもねえ、あんた一生結婚できないわよ」
「だからお前に言われたくねえよ!」
「せっかく綺麗にしたのにあんなにけなしたら傷つくに決まってるでしょう。褒め言葉は口にしなきゃ伝わんないのよ。言わなくても分かるだろうなんて思うのは愚の骨頂というものね。綺麗になったと思ったら、口を極めて誉めそやさないといけないの。そんなこともしらないの?」
「……」
デリクが一瞬だけ沈黙した。
そしてビアンカに言った。
「傷ついたか?」
「うん。すっごく」
「……そうか。悪かったなあ。いやあ……あ、てことはあいつも傷ついたのかな。そういや珍しく言いかえさねえと思った」
「あいつって?」
「姫だよ、先日正装着てたの見て」
「ああ、出掛ける前だよね。すっごく綺麗だった……けなしたの、あれも?」
お化粧して髪も結った姫はもう、本当にびっくりするくらい綺麗だったのだ。あれをどうやってけなせるのだろうと思っていると、デリクは頭をかいた。
「いやあんまり普段と違うからよ、ちっと驚いて……いや、本気でけなしたつもりはねえんだよ? からかっただけっつうかさ、わかるだろうよ、あんなに綺麗になってんだから、本気じゃねえってことくらい。なあ?」
ビアンカとオーレリアの視線を受けて、デリクはたじろいだ。
「い、いやでもよ、オーレリア、昨日はお前が聞いてたし、姫んときはガルテがいたしよ、誰か聞いてる場所で褒めんのはなんつーか」
「あーそお、人前で褒めるのは男の沽券にかかわるわけね。バっカみたい」
オーレリアの冷たい口調に、デリクは更にたじろいだ。
「で、でも、ガルテもだぞ!?」
「寄ってたかってけなしたわけ? いよいよ最悪ね。ガルテも一生結婚できないわ。あの子ねえ、めったに化粧なんかしないみたいなのよ。せっかくしたそれをふたりがかりでけなしたんじゃあ、もう二度と正装なんか着ないかも知れないわよ、戴冠式にも普段着で出るなんて言い出したらあんたたちの責任だからね。帰ったらガルテとふたりで土下座でもしといた方がいいわ。……でもそんなに綺麗だったの? ふうん。出かける時は落としたのか。そりゃそうよね」
ずっと黙っていたヘスタがようやく言った。
「……【最後の娘】ももうすぐ戻って来られるだろうな。ビアンカ、窮屈だろうがもう少しの辛抱だ」
「うん、でも、姫が帰るまでまだしばらくかかりそうよ。そのままウルクディアに行ったんだって」
ヘスタは驚いたようだった。
「ウルクディアに? ……何でまた」
「さあ、わかんないけど、ホントに姫って忙しい人よね。だからもうしばらく帰って来ないんじゃない?」
「ビアンカ、本当に大丈夫なのか?」
デリクが口調を改めた。クロウディアの跡継ぎとして起つことは、昨日のうちに伝えてある。ビアンカは頷いた。
「大丈夫よ。王子の兵と神官兵が周囲を固めてくれるそうだし、オーレリアがついててくれるから」
「俺も加えてもらえねえかなあ……」
デリクがオーレリアに言う。昨日も言ったことだ。オーレリアはひらひらと手を振った。
「心配なのは分かるわ。でもそれはしない方がいい。あんまり騒ぎ立てると王子が気を悪くするわよ」
「……まあなあ。まあそれにお前の性格はともかく、腕は信用してるからよ」
「あんたっていつも一言余計なのよ」
オーレリアは顔をしかめて、しっしっ、と手を振った。
「さあ帰んなさいよ。明日からは来てもいないからね」
「追い出さねえでもいいだろうよ」
デリクは苦笑したが、居住まいを正して、ビアンカをのぞき込んだ。
「気ィつけろ。そんで、頑張れよ」
「うん、ありがとう、デリク」
「オーレリア=カレン=マクニス。ビアンカを頼むぜ」
「承ったわ」
「おやすみ、ビアンカ」
ヘスタはそう言い、優しく微笑むと、先に部屋を出た。「そこまで送るね」とビアンカはオーレリアに言い置いて、デリクに続いて部屋を出た。オーレリアはやはりついて来た。なぜだろうとビアンカは思った。相手はデリクとヘスタなのに。護衛というのは大変だ。
「じゃ、お休みなさい。またね」
家の外でビアンカは手を振った。ヘスタは、昨日ビアンカが起つことを聞いて、今日はついて来てくれたのだろうと思った。そして意外な気がした。ヘスタがビアンカを気にかけてくれるなんて、あまり思わなかった。
デリクが手を振った。そして踵を返した。彼と並んで歩きながら、ヘスタがつぶやくのが聞こえた気がした。
「……しまったな……」
ビアンカは首をかしげる。傍らのオーレリアを見上げるが、オーレリアには聞こえなかったようだった。入るわよ、と言われて、頷いて、言ってみた。
「デリクに来てもらうのって、エルギンにそんなに失礼なの?」
「……そうじゃないのよ。そうじゃなくて」
オーレリアは珍しく言いあぐねた。ニーナの部屋からは、ウルスラの声がかすかに聞こえた。デクターが呼んで来たのだろう。ニーナの協定のことを思い返しながら、オーレリアの後に続いて部屋に入ると、扉を閉めてからオーレリアは言った。
「あの子がわざわざあたしに頼んだのはなんでなのかなと思うだけなの。それもお金に糸目はつけない、手段も選ばない、是が非でもあたしに頼まなきゃ心配でたまらない、という感じだったのよ。ニーナを見て特にそう思ったわ……あの人に害をなせる人間が存在するとは思えない。食事はマーシャがしっかりしてるし、あの子は協定のことも知らない、なのにどうしてニーナのことも、自分が帰るまでという期限をつけて頼んだのかしらね。孵化が終わるまででいいじゃない? そしてあんたにはデリクがいるのに……デリクがいるのにあたしに頼むなんて、それこそデリクに失礼よ、あの子だってわかってたはず、そこを敢えて……あたしに頼みたい、と言った。あたしにしか頼めない、と聞こえた。だからデリクにはあんたを任せられないと、あの子は思ったのよ、少なくともあの時は」
「デリクがあたしに何かするってこと? そんなのありえないよ」
「あたしもそう思うわ。あの子もそう思ってるはずよ――それなのに。あたしはあの子に雇われたの。だからそれに従ってる。文句があるならあの子に言って」
「……わかった」
ビアンカはため息をついた。
早く王が代わればいい、と思った。
王が代わればもう、こんなややこしい事態も終わりだ。姫ものんびりできるだろう。
姫とニーナとミネアと一緒に、温泉に行くのもいいな。
思いついて、にっこりした。それはいい。楽しそうだ――今度こそ。




