ウルクディア(1)
紅い夢を見ていた。
夢だとわかっていた。何度も見た夢だった。真っ黒焦げになったティファ・ルダの中をゆっくりと歩いていた。いろいろな人が倒れていた。みんな知っている人だった。兵達はもうこの辺りにはいず、向こうの方で、まだ生きている人たちを捜している。
あたしはここにいるのにとぼんやり思っていた。
どうしてあの人たちはここに来てあたしを見つけてくれないのだろうと。
広場には大勢の兵がいた。これから何が起こるのかわかっていた。もう二度と見たくなどないのに、夢は勝手に先に進む。瓦礫の中に入ったりせずに真っすぐ王のところへ行けばいいのに、第一将軍はまだ来ていないのだから、今のうちに王を殺せばいいのに――けれどやはり瓦礫の中に入るのだった。そしてローラが出てくるのを見る。駆け出そうとした。ローラの腕の中に入りたかった。あの腕の中にいれば何も怖いことなどなかった。ローラと一緒にいたかった。けれど瓦礫の中にいた子どもがそれを止める。行っちゃだめだと言って、舞を押さえ付けて、一緒に倒れ込んで、その子は舞の耳を床に押し付けて、もう一方の手でもうひとつの耳に蓋をする。ローラの悲鳴を聞かせないように。
ではこの子はローラの悲鳴を聞かなければならなかったのだと、今更思った。この子の両手はふさがっている。舞のせいで。
舞は暴れた。持っていた小刀を振り回した。手ごたえさえ感じたが、謝る気も起こらなかった。舞はその子を憎んだ、どうして邪魔をするのか分からなかった。ローラのそばに行きたいのに。舞にはローラしかいなかったのに。
「……ごめん」
声が漏れた。その子は舞を引きずるようにして廃屋の外へ連れ出した。逃げろと、言われて。叫んだ。どこへ逃げろというの、逃げる場所なんかないじゃないか。どこに。どうやって。ひとりで、たったひとりで――
ローラがいなければ、こんな世界で生きていけない。月がふたつもある。ここは舞の世界じゃない。家に帰りたい。帰りたい。帰りたかった。お母さんとお父さんに会いたい、帰りたい、帰りたくて帰りたくてたまらなかった。
舞の声を聞き付けて兵士が来た。逃げろと、また言われて、舞は走った。振り返らずに、すべての元凶を亡くせば、すべてが元に戻るのではないかと、そんなふうに思っていた。
「ごめんなさい」
仕損じて。捨てて逃げて。自分だけ生きていて。黒髪の子たちが、シルヴィアが、殺されているのに――
「姫、」
低い声が舞の意識を夢の淵からすくい上げた。もがくようにして目を開けると、辺りはどこも赤くはなく、真っ暗だった。今の声は誰だったかと、ぼんやり考えた。静かで、低くて、耳に快い声だった。
「大丈夫か。具合はどうだ?」
今の声がまた言った。同時に、額に大きな手がかかった。汗で張り付いた髪をかきあげた。これは誰の手だったかと、思った。セルデスの手だったっけ。セルデスはこんな声をしていたっけ。そうか夢だったんだ、ティファ・ルダがめちゃくちゃになったのも、セルデスとローラが殺されたのも夢だったんだ。具合が悪い。熱くて寒い。ローラの声が聞きたい。抱き締めて、大丈夫よと言ってほしい。こんなに会いたくて会いたくてたまらないのに、ローラはどこに行ったのだろう。
「セルデス? どこ行ってたの――捜したんだよ、ずっと。捜して、たんだよ」
舞は、呟いた。それは我ながら、恨み言のように響いた。
「……ローラは? ローラはどこ?」
「夢だ。もう七年経った。大丈夫だ」
「ローラに会いたいよ……」
体中が熱かった。左腕がじくじくと痛んでいた。舞はしばらく考えていた。七年。七年って、何が。
「夢だ」静かな声がまた言った。「ここはウルクディアだ。アイオリーナ姫を助けに来た。ケガをしたが、毒はもうすぐ全部抜ける。そうしたら全部良くなる。大丈夫だ」
舞は――ため息をついた。そうだ。そうだった。何をやってるんだろう。初めから分かっていたのに。
ローラもセルデスも、もういない。――どこにも。
「ごめん。ええと……ガス……?」
「そう」
「……アルガスだ」
「そうだ」
舞は咳払いをした。夢が遠のき、現実が戻って来た。かちかちと音を立てるようにして、記憶が組み上がっていく。
「今……何時くらい? どれくらい経った?」
「もうすぐ真夜中だ。あの日の夜だ。熱がまだあるな。水を飲むか」
「……うん」
燭台が消されているので真っ暗で、何も見えない。でも毒はだいぶ抜けたようで、少し経つうちに暗闇の中にも、物の輪郭がうっすらと見えるようになってきた。アルガスが戻って来て、舞の体を支えて起こしてくれた。器が近づいてきた。右手で受け取って、飲むと、冷たくて、ひび割れたような喉に染みていく。
「……ありがと」
「毒が完全に抜ければよくなる。もう少しの辛抱だ」
「ん」
何か言わなければならないことがあったはずだ。再び寝かされた。腕が離れていく。左腕だ。なんだっけ、と考えながら、とりあえずその手を掴んだ。アルガスはびっくりしたようだ。なんだっけ、なんだっけ、何を言わなければならないんだっけ。
「どうした」
「……痛かっ、た?」
そうだ。思い出した――
舞はアルガスの左手に走った傷の辺りを指で触った。
「これ。痛かった、でしょう」
アルガスはしばらくの間答えなかった。どんな表情をしているのかは闇に沈んで全然見えない。
「痛みは感じなかった」
ややして答えた声には観念したような響きがあった。彼は舞に左手を預けたまま、寝台の隣に腰をかけた。
舞はしばらくその傷を触って考えていた。かすかに盛り上がっている。
「……ごめん」
アルガスはため息をついた。
「どうして謝る」
「あなたをおいて、」
「あなたがああしなかったらふたりとも死んでいたな」
舞の言葉を遮った声はとても静かだった。
「死ぬよりもっとひどい目に遭ったかもしれない。奴らは見境がなくなっていたから。あなたが逃げてくれたから、そうならずに済んだ」
そうだろうかと、舞は思った。本当に、そうだろうか。
そうなのかもしれない。だって死んでない。生きていた。生きていたのだ。考えていると、アルガスの手が、舞の右手を包んだ。
「だから気にしないでくれ。頼むから。逃げてくれたから俺は自分のことだけ考えられた。ちょっと殴られたくらいで」
「嘘だ……」
「……だいぶ殴られたくらいで。殺されなかった」
「……そっか」
生きていたのだと、思った。
生きていて、くれたのだ。
――あたしのせいで死んだんじゃ、なかった。
ぼろっ、と、何かが目からこぼれた。舞はびっくりして、右手を目に当てた。アルガスの手がまだついて来て、頬に触れた。
舞は呆然と呟いた。
「……出た」
「出た?」
「びっくりした。目が外れたかと思った。久しぶりだ……」
言う間にも涙はぼろぼろとあふれてあふれて、頬と髪と枕を濡らした。舞は身を起こそうともがき、アルガスが背を支えてくれながら、言った。
「久しぶりなのか」
「七年出な、かった。ああ……びっくり、した」
アルガスは絶句した。舞はしゃくり上げた。本当に驚いていた。泣くというのはこういうものだっただろうか。劇的なまでに一瞬で鼻が詰まって、ひくっ、と体が引きつった。涙というものは出れば出たで厄介なものだ。もうちょっとましな泣き方はないのだろうか。声もあっと言う間に涙声になった。
「ごめ……拭布、ある、」
「ああ」
手が離れた。すぐに差し出された拭布を顔に押し当てて、どうしよう、と思った。どうすれば止まるのだっただろう。さっぱり思い出せない。
大体どうして泣いているのだろう。それさえよく分からない。さまざまな感情が胸の中で渦を巻いていた。どの感情が自分を泣かせているのか分からない。でも、そう、ただ泣きたいのだろうと、何か冷静に考えながら、心底困ってもいた。
「……ごめ、ん」
「俺はちっとも構わない」
アルガスが言った。この言葉を聞くのは二回目だ。構わない。困らない。変に思ったりしない。迷惑じゃない。舞が泣いてもちっとも構わないでくれるというのは、何とありがたいことだろう。舞は膝を抱えて、拭布を顔に押し当てて、三回ほどしゃくり上げてから、構わないという言葉に甘えて、こないだのように素直になることにした。
「ちょっとだけ貸して……」
体をずらして、アルガスの肩に額を押し当てると、左腕が舞の背に回された。舞に熱があるからだろう、肩も腕もひんやりして気持ちがよかった。舞はアルガスの手が髪を撫でるのを感じながら、そこで、できるだけ静かに泣いた。暗闇でよかったと、つくづく思った。
*
宛てがわれた部屋を出ると、廊下に流れ者がいた。
アイオリーナが出て来たのを見て、彼は意外そうな顔をした。あの部屋にいた、栗色の髪の、柔和な顔立ちの、ふてぶてしい物腰の男だった。
アイオリーナは唇に指を当てて見せた。ウルクディア兵達はアルベルトや王の兵達の追討に忙しく、今夜だけはアイオリーナの警護も流れ者に任されているのだろう。そして恐らく姫の警護も。
今夜しかない。アイオリーナは囁いた。
「皆さんのお見舞いに行きたいのだけれど。案内していただける?」
「見舞い? 流れ者のか? わざわざ? ――そりゃかまわねえが、真夜中にか」
「明朝からは侍女がついて来る。身軽に動けるのは今夜だけよ」
男は不思議そうにしたが、それ以上は何も言わずに案内してくれた。兵が出払っているからか、館の中はひっそりと静まり返っている。
案内されてたどり着いた部屋にいた流れ者たちは、結構元気そうだった。あの時庭にいた者たちは全員何らかの傷を負っていたが、一番重症なのが姫だった。次がフェリスタという草原の民で、この人はひとつきりの寝台に横たわって、熱を出してうんうん唸っていた。残りの者たちは毒にやられてはおらず、この程度の傷は日常茶飯事らしく、お互いの傷を見せあって活躍を自慢しあうという体たらくだ。アイオリーナは、フェリスタも死ぬことはないから大丈夫だと請け合われて、ほっとしながらもそそくさと逃げ出した。流れ者たちのぞんざいな口調や態度は新鮮ではあったが、ひとりで立ち向かうにはかなり勇気がいる。その部屋を出ると本当にほっとした。部屋はあまりに狭く、むさ苦しくてひどく居心地が悪かった。
案内してくれた男が待っているが、アイオリーナは戸口の前で、顎に手を当てて思案した。流れ者たちの境遇はあんまりだ。アイオリーナには、そして恐らく姫にも、あまりに広大な部屋をひとつずつ宛てがったのに、大柄な十人もの男たちにはこんなに狭い部屋をひとつだけとは。その上寝台もひとつきり、毛布もフェリスタの分しかない。
ただアイオリーナの立場は微妙だった。ウルクディアは同盟に加わり、第一将軍はいまだ同盟に与してはいない。ここでも自分は人質のようなものなのだと、よく解っている。姫にもどうにもできないだろう。彼女は流れ者の見舞いなど、多分許されもしないだろうから。
「あの。アルガス=グウェリンはどこにいるかしら」
ようやく男に続いて歩きだすと、男は再びアイオリーナを意外そうに見た。
「あいつは姫の方の警護をしてるはずだがな」
「そう……わたくしのいる部屋とは案の定離されているのね。そちらの場所はわかる? 案内していただけると助かるわ」
「そうかい。まあいいが、姫はフェリスタよりひどいそうだ。たぶん会えねえと思うがな」
「ええ、それは仕方がないわ。だから流れ者に会いたいのよ」
館はだいぶ広かった。流れ者たちがいるのは一階のすみっこだ。その部屋を出て館の中央を走る広い廊下に出、左へ行くとアイオリーナのいた部屋に続く階段があるが、姫がいるのは右へ廊下をはるばる進んで、そこにある階段を上がらなければならない。しかも三階だ。空き部屋はあるんだし、同じ塔にしてくれりゃ警護も楽なんだがなと男は言い、アイオリーナは無理でしょうねと思った。
三階への階段に足を踏み入れると、上で、ちょうど扉の開く音がした。誰かが出てきたようだ。
「……なんだお前、いねえと思ったら中にいたのかよ。気ぃつけろよ。館のもんに見つかったらつまみ出されるぜ」
口調からすると流れ者だ。それに答えたのは、アルガス=グウェリンの声だった。
「悲鳴が聞こえたので。うなされていた」
「無理もねえな。七年前っつったら十やそこらじゃねえのかよ。ひでえ話だ……なんだ、情けねえ顔して。そんなに悪ぃのか」
「いや、もうだいぶいいようだ。熱も引き始めている」
「じゃあどうした」
「……」
アルガスはしばらく黙って、
「……呪いをかけていたのは俺だったのかと思って」
「何言ってんだ、お前」
相手は呆れたようだった。アイオリーナと案内の流れ者は踊り場を回って続く階段を上がっていった。咳払いをしようかと思ったが、どのみちふたりとも気づいていたようだ。廊下を覗くとふたりともこちらを見ていた。アルガスと、もうひとり、アルベルトの屋敷で、アイオリーナの前に立ち塞がってくれた男だった。ケガをしなかった三人が、折よくここに集まったというわけだ。
「こんばんは」
アイオリーナが言うと、男は頷くようにして、アルガスはもう少していねいに頭を下げた。
「姫の具合はいかがかと思って」
「今は眠っています。だいぶ熱も下がりました。明日には起きられるでしょう」
アルガスが答える。呪いとは何だろうと思いながら、アイオリーナはふたりの前に立った。案内の男を含む三人に向かって、ドレスの裾を摘んで膝を折った。
「皆さん。今朝は本当にありがとうございました」
男ふたりは意外そうな顔をした。アルガスはいえ、と言った。
「休まれなくていいんですか」
「充分休ませていただいたわ。遅くなったけど、今他の方々のお見舞いにも行って来たところ」
「流れ者のねえ。へええ。昨今の令嬢ってのはどうなってんのかね」
廊下の男が感心したように言う。アイオリーナは唇を緩めた。
「令嬢だとて最低限の礼儀はわきまえているものよ。ヒリエッタ=ディスタと同列にされては心外だわ」
「こいつぁ失敬」
男が恭しく礼をする。アイオリーナは微笑んで、それから、三人の男を一人ずつ見た。
「皆さんに折り入ってお願いが。この先お仕事が控えていなければ、今しばらく、わたくしを手伝っていただけないかしら。アルガス、あなたはお仕事中なのでしょうね。でもこれは、あなたのお仕事に関係すると思うわ」
「俺たちを雇おうってのか? 貴族の令嬢が?」
名前を知らないふたりの男が声を上げる。アイオリーナは頷いた。
「人手が足りないの。ぜひ」
「まあ俺ぁ暇だけどよ――デイル?」
「俺も暇だ」
デイル、と呼ばれた男が言う。アイオリーナは感謝を込めて、軽く膝を折った。
「アルガス、デイル、そして……あなたは?」
栗色の髪の男が答えた。
「俺はルード」
「ルードね。わたくしはアイオリーナ=ラインスターク。今夜しか自由に動けないわ、だから、今のうちに話をさせてね。アルガス、あなたの主のことを話してもいいでしょう?」
「どうぞ」
「ありがとう。わたくしの恋人、カーディス=イェーラ・アナカルシスが、兵を挙げるそうです。わたくしをさらった魔物がそう言ったわ。アルガス、あなたは先日までエスメラルダにいたのでしょう? 姫と一緒にお父様を訪ねて来たのだから、そういうことよね? エルギン王子が大量の馬と遊牧民を雇い入れたというのは本当なの?」
「アルベルトが、そう言ったんですか」
「そうよ」
「……事実ではないが、今はそう思われても仕方のない状況ではあります」
「そう。それで、本来ならば第一将軍が動くべきだが、今回はマーセラの大神官が動くことになったと。だからわたくしをさらったのだと、あの男は言ったわ。ルード、デイル、カーディスは今までずっと柔順な息子の仮面を被っていたの。この機に恐らく、王へ反旗をひるがえしてエルギン王子と手を結ぶはず。わたくしが王に囚われたという情報はカーディスに既に伝わっている、恐らくはね。だから一刻も早く、カーディスに使いを出したいの。カーディスが待ち望んだ時が来たというのに、わたくしが枷になるわけにはいかないのよ。アルガス、どうすれば連絡が取れるかしら?」
ふたりの流れ者は『おいおいおい』と言いたげに顔を見合わせた。アルガスが言った。
「申し訳ないが、手紙などの通信手段は取り決めてないんです。今までは直接行って直接話すだけだったので」
「……そうなの。ではあなたに行っていただくしかないのかしら? そも、カーディスが兵を挙げるなら、あなたもあちらに行く必要があるのじゃない?」
「……いえ、俺に行ってできることは何も。今後は姫の護衛だけ考えるようにと言われていますし……この状況で姫を置いて行ったら絞め殺される」
「ふふ、そう。そうでしょうね。ではやはり、わたくしが行くのが一番いいのよね……。カーディスは兵を挙げる、それを聞いて、わたくしが陣中見舞いに行くのは不自然じゃないわね。けれど、どうも……わたくしがここから出ることをレスタナ殿がお許しになるとは思えない」
アイオリーナはため息をついた。
「なかなか難しいわ……レスタナ殿は都市の代表というだけあってしたたかでいらっしゃる。わたくしはここでも人質のようなものだわ。お父様が来ても、すぐに面会がかなうかどうか。そして姫もよ。今夜はわたくしもあなた方もこうして自由に動けるけれど、明朝からはきっと難しいわ。よく聞いて」
三人がわずかに身をかがめた。アイオリーナは廊下を一瞥して、人影がないのを確かめた。
「今は姫が絶対に動けないからあなた方もここにいるのを許されている。意識が戻って熱が下がって、出かけられるようになったら、姫はきっと軟禁される。あなた方や他の流れ者への面会は許されないわ。姫があなた方に、今朝の尽力をねぎらおうとしても絶対無理よ、かけてもいい。ねえ、ウルクディアの立場は同盟の中でも微妙ね、そうでしょう、王によって没落させられたクロウディア家の領地でありながら、ここ十年は王のお膝下で繁栄を享受していたのだもの。それに、同盟に加わったのも一番最後の方よ。王が代わってからの取り分はほとんど無いと見ていい。現在の地位を保つのが精一杯というところね。そこへ第一将軍の娘と同盟の呼びかけ人が転がり込んだ。その上協力を要請した。願ってもない事態じゃないの。エスメラルダと第一将軍、両方に恩を売れる。わたくしと姫はそのために必要なの。戴冠式まで手元におきたいでしょうよ。わたくしはいいの、ラインディアにいようとウルクディアにいようと、安全でさえあればね。カーディスの邪魔にならないようにおとなしくしているわ。でも姫は? きっとやることはいろいろあるでしょう? ウルクディアのためなんかに軟禁されて、無為に過ごしている場合じゃないわ。エスメラルダからこの大事な時期に彼女のような人を奪うわけにはいかない。何より彼女を意に染まぬ場所に縛り付けるなんて。何もかもわたくしのせいじゃないの、そんなこと絶対許しておけない」
三人は頷きながら話を聞いている。アイオリーナは呼吸を整えた。
「必要だからと魔物の前に飛び出すような方だもの、おとなしく軟禁されてはいないでしょう。それだけが光明というものよ。カーディスが兵を挙げるという情報も彼女には知らされないかもしれないわ……まあそこはわたくしが何とかする。あなた方は……できれば他の流れ者たちにも協力を要請したいわ。ただ、何をしていただけるかはまだわからない。協力していただける方を募って、できるだけここに踏みとどまって欲しいの。ここを出たら二度と入れないでしょうからね。姫があなた方を必要となさるかもしれないし。
多分明日から、代表殿はあなた方を追い出しにかかるわ。ケガをしていても、重態というわけではないものね。特にアルガス、あなたは姫がつれて来た。その上その剣……間違っていたらごめんなさい、それ、王妃の独身時代の紋章じゃなくて? そうよね? 代表殿はご存じかしら……でも高貴な方の紋章だということはわかっているはず、そんな剣を持った流れ者が姫の側にいる、どんな手を使っても追い出そうとすると思うわ。滑稽かもしれないけれど、一応忠告を。食事や飲み物にも気をつけて。
念のためにお見舞いも真夜中まで待ったの、代表殿はわたくしが悲嘆にくれて何も考えられない状態だと、たぶん、思っていると思う。巧くいっていればね。わたくしが夜中に動き回ったことは秘密にしておいて。部屋に戻られたら他の方々にもそう伝えて頂戴。ええと、いろいろと考えなければならないことがあって頭が混乱するわ……まずカーディスに使いを出さなきゃ、それはどうしたらいいかしら。わたくしは行けないし、ウルクディア兵がカーディスに手紙を渡すのは不自然すぎる」
「俺が行く。グウェリンは行けねえんだろう。追い出されたフリすりゃいいこった」
ルードが言って、アイオリーナは頷いた。
「そうしていただけると助かるわ。ありがとう」
「しかし大神官のそばに流れ者が近づけるかというとな」
「デボラかシンディに手紙を届ければなんとかなる」
アルガスが言った。
「あのふたりは王子の本性も俺のことも知っているので、何とかしてくれると思います」
本性、という言葉にアイオリーナは思わず笑った。
「よかった。ではこれを。先程書いておいたの。デボラとシンディ、名前はよく聞いたわ。とても頼れる人たちなのですってね。彼女たちにも書き添えた方がいいかしら」
「お願いします」
アイオリーナは頷いた。
「ではそちらの手紙は後で、どうにかして届けるわね。ああ、夜通しわたくしの部屋の前に立っていてくださるのなら、部屋に帰ってから書いてお渡しするわ。さあカーディスの方はこれでよしと。デイル、あなたには、お父様への連絡を頼めるかしら。代表殿に既に、ウルクディア兵の派遣を頼んだのだけれどね、その手紙には当たり障りのないことしか書けなかったのよ。わたくしと、特に姫の境遇を伝えて、レノアだけでも送り込んでくれるように――レノアというのは当家の侍女なの。デボラと同じくらい頼りになるのよ。彼女の手助けが絶対必要だわ。そうじゃなきゃ姫は恐らく戴冠式までここに閉じ込められることになる」
「さっきからそう言うがな。そうまでするかね、罪人でもねえのに。ましてや【最後の娘】だろう? 閉じこめるなんてできるもんかね。エスメラルダが黙っちゃいねえだろう。グウェリンに毒を盛るとかもちょいと考えられねえな、俺には」
「ルード、あなたの言うとおり。罪人じゃない、それどころか――だからもっと困難なのよ。おおげさだと思うでしょうね? わたくしもちょっとそう思わないでもないわ。でも嫌な感じがするの。ティファ・ルダの最後のおひとりだと、分かってしまったのだもの。あの場に兵がいたわね、報告していないとは思えない。わたくしとしたことが、動転していたわ、やはり。さあ、デイル、これがお父様への手紙よ。よろしくお願いするわね。――いいこと、ティファ・ルダの最後のひとりがもし生きていて、それが王の言うとおりの女性だとしたら、それはディオノスの養女、マイラ=アルテナ姫だということは、結構有名な話なの。お父様がティファ・ルダの人々を埋葬したからよ。遺体を検めてお墓にいれた。その時の記録は現ティファ・ルダの領主、カーディスが持っている、王妃宮に行けば誰でも見られるし、写しも求めればもらえるわ、ティファ・ルダに住んでいた人達の親戚や友人は、少なからず持っているはずよ。それを見ればディオノスの養女の遺体を含む数人の死体が見つからなかったことははっきりしているの」
「数人? ひとりじゃねえのか?」
「ああ、なんて言うのかしら、女性なのは養女ひとりなのよ。他の数人は、確か五人だったと思うけれど、みんな男性。身分も地位もあるのは彼女ひとり。それに遺体が見つからないからといって、生きているなんて言える状況じゃなかったと思うわ……お父様も記録を作るのにだいぶ苦労したそうですからね、はっきりした身元が分からなくて、推測で名をつけられた死体も多くあるのよ。【契約の民】と彫師を恐れて包囲したのだから、戦える男性が見逃されたとは考えにくいわ。でも養女ならば女性だし、あの方がおいくつなのかは知らないけれど、わたくしより年下じゃないのかしら? ということは七年前には十一歳より下よ、ティファ・ルダの者たちが体を張って逃がしたということも考えられる、王の兵がこっそり見逃したということも、ありそうでしょう? だから――養女が生きているという噂はずっとあったし、王も、今さら言い出したんだと思う。信憑性がないわけじゃないから。レスタナ殿がそれをご存じなら、ご存じだと思うけれど、姫がディオノスの養女だということも、知っているということになるわね。
さて、何が問題かというと、先代のディオノスはかつて広大な領土を誇ったクロウディア侯爵の親戚よ。姫はその正式な養女、つまり現在、クロウディアの遺産を継ぐ正当な権利を持ったひとりなの。ビアンカ=クロウディア姫が名乗り出ない以上、王が代わったら、クロウディアの領土は姫のもの、もちろん姫が望めばだけれど。そう、それからティファ・ルダもね。カーディスは、彼女が拒んでもティファ・ルダを返すわ――だからウルクディアは絶対彼女を手放さないわよ。縛り付けてでも身柄を押さえて名乗りを上げさせると思う。ウルクディアはかくして広大な領土を手に入れる。その上【最後の娘】なんだもの――レスタナ殿には年頃の息子がいるかしらね? いいこと、彼女の夫になる者は、クロウディアの領土を手にいれ、ティファ・ルダも手にいれ、ルファルファと、それから新しい王とも、誼みを通じることもできる。逃げられてたまるものかと思うんじゃない? わたくしは、座敷牢に入れても不思議じゃないと思うわ」
「……そりゃあそうかもなあ……」
「二カ月ほど前に【アスタ】が終焉を迎えた。その時使われた名はビアンカ=クロウディア。クロウディアの名を出すことをウルクディアが知らなかったはずがない。それを黙認した。そして【アスタ】が滅びた直後にウルクディアは同盟に加わった。これは偶然かしら? わたくしは、レスタナ殿は、ビアンカ姫が本当に亡くなられたかどうか調べようと思ったのだと思う。ビアンカ姫がいらっしゃるとしたら【アスタ】しかないわ。そうでしょう。その【アスタ】を守るためにもビアンカ姫は沈黙した、つまり生きていないか、出てくる気がないかどちらかよ――レスタナ殿はそう思っている――さてわたくしにはここで気になることがひとつ。シルヴィアの手紙に、エスメラルダにいる友人の名前があった。姫の親友で主でもあるという【最初の娘】、ニーナ姫。もうひとりの名は【アスタ】で出会ったという、ビアンカ。この人はどなたなのかしら。知っていて、アルガス?」
アルガスの表情を見て、アイオリーナは微笑んだ。
「――そう。生きていらしたのね。本当によかったこと。それでは姫の道も少しは開けてよ。ティファ・ルダを背負う必要も、ウルクディアが姫を軟禁する理由も、ひとつはなくなるわ。明日、ビアンカ姫が生きているとレスタナ殿に伝えさせてもらう。シルヴィアの手紙を見せてもいいわ。姫は嫌がるでしょう、ビアンカ姫はきっと表に出たくないと言ったのでしょうから。巻き込みたくないと思っているのじゃないかしら。でもわたくしは、ビアンカ姫にぜひ起っていただきたい。ティファ・ルダを背負うのは姫には酷に過ぎるわ、そうでしょう? おいたわしいこと、王の呼びかけに応えられるなら、それが一番楽だったでしょうに」
「……楽? 呼びかけに応えたら殺されるじゃねえか」
デイルが口を挟み、アイオリーナは頷いた。
「そうよ。もちろんそうでしょう、呼びかけに応えて出て行って、そして殺された方がきっと楽だわ。姫は出て行かなかった、出て行けなかったのよ、それが一番、楽で、無責任な、方法だからよ。そうじゃなくて? 【最後の娘】を担うというのはそういうことよ。王を一番穏便な方法で交替させるためには、出て行くことにはなんの意味もない。王は多分やめなかったし、彼女が偽物だったと公表してそれで終わりよ。エスメラルダは【最後の娘】を失い、エルギン王子の道は狭まり、そして彼女はただ楽になるだけ。だから行きたくても行けなかったのよ。踏みとどまる必要があったのよ。もし声に負けてのこのこ出て行くような人だったなら、わたくしは同情はしたでしょう、でもお友達にはなりたくないわね。信頼できないもの。そして彼女は出て行かなかった。本当にありがたいことだわ、自分が楽な道よりも、皇太子を王座につけるために力を尽くす方を選んだ。おいたわしいこと――でもヒリエッタのような人が少なからずいることも事実よ! あの時の顔を見たでしょう! あんな言葉をこれ以上聞かせるわけにはいかないわ、ビアンカ姫もそう言ってくださると信じてるわ! そうよ――そう言わないような人なら引きずり出しても良心を痛める必要もないわ。だからビアンカ姫が望むにせよ望まないにせよ、ウルクディアに伝えさせてもらう。クロウディア家のご息女が生きているという情報と引き換えに、姫の道を開かせてもらうわ。異存はないでしょうね。そう、よかった。さあ、ここまではよしと。
――でもどうすればいいかしら。レスタナ殿は、あなた方はもちろん、たぶんわたくしも、姫には会わせたがらないと思うわ。エスメラルダがマーセラ神殿に攻められると知ったら是が非でもエスメラルダに戻ろうとするでしょうからね、その情報も知らせないと思う。だから姫に頑張ってもらわなければ。わたくしを呼べと言い張るか、わたくしの部屋に押しかけてきてもらわなければ。でもわたくしが会いたくないと言っていると言われれば、彼女は引き下がるわねえ、シルヴィアのこともあるし、そっとしておいてくれようとするでしょう。会わなければお話にならない。みすみす軟禁なんかさせてたまるものですか。ビアンカ姫を引きずり出しても【最後の娘】であることは変わらないもの、ああ、彼女にも許婚がいればよかったのに! エルヴェントラはいったいどういうつもりなのかしら、あんな方に神官兵もつけずにほうり出すなんて――知恵を貸して頂戴、朝になったら何もできなくなるわ。今すぐ!」
「たたき起こすか、今?」
ルードが言った。四人は閉まっている扉を見た。アイオリーナは躊躇った。せっかくぐっすり眠っているのに。
「そうね……そうするしかないかしら。でもまだ熱があるのでしょうし……フェリスタよりひどいというのでしょう。気が引けるわ……ああ、そうだ。手紙を書くわ」
つぶやくと、アルガスがほっとしたように頷いた。
「それがいい」
「そして召使いに見つからない場所に隠しておくわ。うん、そうしましょう。ではルード、あなたは先ほどのように、わたくしの部屋の前に戻っていてくださる? そうすれば侍女が様子を見に来ても、わたくしが眠っていると思うでしょう。今の間に来ていないことは祈るしかないわ。ああ……姫が目が覚めたらきっと侍女が体を拭いたりするわよねえ、寝台の中も危険だし、どこに隠せばいいかしら……あんまり隠し過ぎると姫にも見つからないし、そうしたら意味がないわ。とにかく中へ入るわ。文机くらいはあるでしょう。デイル、ここで見張っていてね。誰か来たら教えて頂戴。アルガス、一緒に来て、あなたが一番姫をよく知っている。どこに隠せばいいか考えて」
三人が頷く。きびすを返そうとしたルードが、ニヤリとした。
「難しい話はよくわかんねえが。あんたのことも、元締めんとこつれて行きたくなったぜ」
「元締め?」
「見つかんねえように気ィつけな」
「……ありがとう」
意味がよく分からないながらも、アイオリーナは頷いて、アルガスと一緒に部屋に入った。




