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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第七章 シルヴィア=ラインスターク

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シルヴィア=ラインスターク(13)



     *


 草原の民も流れ者たちも、ふてぶてしいと言えるほどに落ち着いていて、とても頼もしかった。

 グリスタは背嚢から奇妙な道具を取り出して、庭園の中にまで携えてきていた。ウルクディア兵の行軍を待つ僅かな空隙に、舞はついに好奇心に負け、「それは何?」と聞かずにはいられなかった。グリスタは茂みの陰に隠れながら、その複雑な道具を見せてくれた。舞は目を見張った。小さなラッパと小銅鑼と小太鼓を全部重ねて捏ね合わせたかのようなものだ。


「……何、これ?」

「それぁな、俺が昔、ある人魚からもらった道具でさ」


 なぜかフェリスタが横から答え、舞はそちらを見上げた。「人魚?」


「人魚――だったのかなあ? まだガキの頃でな、あの人たちが一体何だったのか今じゃ良くわからねえ。変な道具をいっぱい持ってて、それを俺にくれた。くれたっつーか、返しそびれただけなんだが」

「ふうん……?」

「俺は使えねえんだよ。どうやら素養がねえと動かせねえらしいんだ。だからグリスタに預けた。こいつなら何とか使えるだろう」


 と言うことは、これは魔力で動く道具なのか。舞はグリスタの手の中に視線を戻し、しげしげとそれを見た。七年前のティファ・ルダは、恐らくは世界一、リルア石を使った道具の開発が進んでいた場所だろう。でもこんな変な機械、見たことも聞いたこともない。


「来たようだ。――行くぜ」


 フェリスタが言い、ずかずかと庭園の真ん中に出て行った。舞もその後に続いた。確かに、ざっざっざっという軍靴の音が遠くから響いてくる。建物に相対するようにフェリスタと舞が並び、他の流れ者たちはその周囲に展開した。舞の右隣に並んだグリスタの手の中で、


 がらん。


 初めの音が鳴った。

 舞はぎょっとした。グリスタの持つ機械が出し抜けに派手な音を鳴り響かせた。近くで聞くと耳を聾するような騒音だ。がんがらごんがらぶっぱぶっぱ、騒音は派手に鳴り続ける。館のあちこちから人が顔を出し、フェリスタが笑った。


「おー、まだ使えるわ。さっすが人魚の道具だな」

「よし娘っ子」音を止めたグリスタが、ぽん、と舞の背を叩いた。「お前の見せ場だ。気張れよ!」

「アルベルト! クレイン=アルベルト!」


 声を張り上げて舞は叫んだ。アイオリーナ姫、それからアルベルトがどこにいるにせよ、この近辺にいるなら絶対にあの音に注意を惹かれたはずだ。


「私の声が聞こえるか! どこにいる、出てこい!」


 アルベルトが窓に姿を見せた。相変わらず美しくて、とても醜悪な男だった。その瞳が舞を捉え、ひずんだ笑みをその頬に刻む。舞はホッとした。その後ろ、黒髪の若い女性がいるのが見えたから。危ないところだったが、何とか彼女からアルベルトを引き離すのに成功したようだった。


 アルガスが急な傾斜の屋根を走っていくのまでは見えた、けれど、すぐに見ているような余裕はなくなった。窓から身軽に飛び降りてきたアルベルトが、今目の前で、微笑みを浮かべて舞を見ていた。


「……会いたかった」


 アルベルトは何かうっとりした声で言った。屋敷に潜んでいた兵は本当に大勢のようだった。舞の周りでは既に剣戟の音がわき起こっている。流れ者たちは舞を中心に円を描くようにして、敵の攻撃を阻んでいる。早く街兵が来ないだろうか。そう思いながら、舞は言った。


「アイオリーナ姫はご無事か」

「そのようですね。残念ですが、諦めなければならないようだ。けれどあなたが手に入ればもうどうでもいい」

「なんだよそりゃ……」


 フェリスタが呟く。舞は眉をしかめた。なんだかおかしい、という気がした。舞がアルベルトを見たのはあの牢の中でが最後だった。あの時よりも少し、アルベルトが変わったような気がした。


 変わったというか。――壊れた、というか。


 ファーナもそうだった、と思ってぞくっとした。ファーナもおかしくなっていった――舞と過ごす内に、少しずつ。


「もうすぐウルクディアの兵がここを取り囲む。逃げ出すなら今のうちだよ」


 言ってみると、アルベルトは嗤った。


「あなたを目の前にして引き下がれると思いますか」


 アルベルトは手ぶらだった。踏み込みは唐突だった。一瞬前にエスティエルティナが光り輝いて、舞は飛び退った。そこへフェリスタが火矢を放った。胸の真ん中につき立った火矢をアルベルトが引き抜いた瞬間に、舞は斬り込んだ。


 嫌な手応えと共にアルベルトの体が裂けた。アルベルトは咆吼したが、体を引かなかった。エスティエルティナごと舞を捕まえようとした、その手を、グリスタとフェリスタが両脇から切りつけた。


「邪魔を――」


 アルベルトが歯をむき出す。変化が訪れる。アルベルトの体が揺らいだ。牢の中で見たときとそっくり同じに、衣服が裂けて、体がざわざわざわもこもこもことふくらんで――禍々しい存在が、蠢いた。グリスタが狼狽の声を上げ、フェリスタが、変化し終える前のアルベルトの喉元に再び火矢を打ち込んだ。咆吼が上がった。牙が現れる。アルベルトが爪のある前足を振り回して、フェリスタが呻き声を上げて下がった。太ももを押さえていた。傷ついたのだろうか。


「気にすんな、かすり傷だ」


 うん、頷いたとき、手の中で、エスティエルティナがいっそうの輝きを放った。舞は踏み込んで、魔物に変わったばかりのアルベルトの――ファーナにそっくりだ。けれど躊躇うわけにはいかなかった。その目に、宝剣を突き立てた。


 絶叫が上がった、びりびりと咆吼が全身を打った。魔物が頭を振り立てて、舞の足が宙に浮いた。「手を離せ!」怒鳴りながらグリスタが舞を引きずり下ろし、その寸前に、魔物の爪が舞の左腕をえぐった。痛みは感じなかった。魔物が更に絶叫をあげた。流れ者たちが一斉に、炎のついた松明を投げつけたからだ。塀際からも唸りを上げて火矢が飛び、次々に体につき立った。


『おおお……』


 悔しげな、苦しげな呻き声が魔物の喉から漏れた。まだ目につき立ったままのエスティエルティナは、舞の手が離れても燦然と輝いている。魔物はエスティエルティナを引き抜いて、遠くに投げ捨てた。こちらを向き直って、松明を振り落とし、火矢を引き抜いて、呼吸を整える。


 片方だけになった目が、愉悦の形に歪んだ。


『全く忌々しい宝剣だ……だがもうこれで……』

「なんて頑丈な奴だ」


 グリスタが舌打ちをして、舞と魔物の間に割り込んだ。

 そこへアルガスが降ってきた。屋根の上から剣を構えて、落下の勢いを利用して魔物に斬りつけた。魔物の巨大な体がよろめいた。背後に降りたアルガスを振り返って、悲鳴を上げた。


『また貴様か……!』


 ウルクディアの兵が乱入してきたのは、その時だった。舞たちを取り囲んでいた庭園中の敵が口々に狼狽の声を上げた。我がちに逃げ出そうとする、その混乱の中で、魔物が長く尾を引く咆吼をあげて――かき消えた。


 魔物に向きあっていた全員が虚をつかれた。どこへ行ったのか全くわからなかった。舞には、空間がひずんだのはわかった。グリスタにはたぶんもっとはっきりわかっただろう。けれど開いたはずの【穴】は見えなかった。グリスタは舞を振り返って訊ねた。


「……どこへ行った」

「わかんな……い」


 舞は膝をついた。今更ながらに左腕がうずき出していて、立っていられなかった。



      *



 アルガス=グウェリンが出て行くと、ヒリエッタが動いた。卓の方へ早足で歩いていく。残った男たちは倒した敵を縛り上げていたが、ひとりはさりげなく動いてヒリエッタとアイオリーナの間に入り、栗色の髪をしたもうひとりは、戸口へ陣取った。まるでヒリエッタを警戒しているような動きだと、アイオリーナは考えた。


 ヒリエッタが卓へたどり着く。茶器の方へ手を伸ばす。お茶でも飲もうというのだろうか、こんな時に。と、庭の方でひときわ長く尾を引く魔物の絶叫が響いて、そちらに意識がそれた瞬間だった。


 かすかな音が響いたかと思うと、魔物が出現した。

 部屋の真ん中に。


 アイオリーナは息を呑んだ。近くの男が剣を引き抜いて、アイオリーナを庇うように立ちふさがった。ヒリエッタはすぐ目の前に出現した魔物を食い入るように見つめている。入り口にいた栗色の髪の男も剣を引き抜く、その中央で、魔物はしゅうしゅうと喉から音を漏らしながら部屋を見回して――アイオリーナに目をとめた。


 片目だった。

 ぼたぼたと、漆黒の液体が、体から垂れている。


 こちらに来る、とアイオリーナは悟った。けれど寸前に、鴉がアイオリーナと男の頭上を飛び越えて魔物の前で翼を広げた。かあっ、と威嚇の声を上げた。魔物が怯んだ。ひとつ残ったその黒い黒い瞳に、確かに恐怖が過ぎったのをアイオリーナは見た。


 ――あの鴉を恐れた。


 魔物は逃れるように背を向け、入り口に、疾風のように突進した。入り口の男は立ちはだかろうとはせず、寸前で横に転がって避けた。男を無視して魔物は部屋を飛び出ていき、階段の、踊り場に開いた窓から逃げていく。


「……どっから現れた」


 アイオリーナを庇うようにした男が呻くような声を上げる。アイオリーナは首を振った。


「……わ、わからないわ」


 そして立ち上がった。入り口の男が倒れたままだからだ。呼吸を整えて、咳払いをして、男へ駆け寄った。


「あの。大丈夫? ケガをしたの?」

「ああ……いや」


 倒れた男はアイオリーナを見た。柔和な顔立ちだが、物腰や眼光はふてぶてしい。けれど今は、毒気を抜かれたようで、きょとんとした表情がなんだか可愛らしい。彼は我に返ったように首を振った。


「いや、全然。びっくりしたってだけで。あんたは大丈夫か」

「ええ。お陰様で。ヒリエッタ、」


 見るとヒリエッタは魔物が消えた窓の方を見ていたが、


「ヒリエッタ、大丈夫?」


 我に返ったようにアイオリーナを見た。


「ええ。大丈夫ですわ。驚きましたけれど」


 ちっとも驚いているように見えない。びっくりしすぎて反応が薄いのかもしれない。アイオリーナの前で、栗色の髪の男が立ち上がった。もうひとりもアイオリーナのすぐそばに来ている。ヒリエッタは歩き出した。こちらへ向かって。


「警告。動くな。【最後の娘】が来るまであんたを出すなと言われてる」


 入り口の男が言った。ヒリエッタは答えなかった。聞こえていないのではないかとアイオリーナは思った。もうひとりがアイオリーナを立ち上がらせて、自分の後ろに回るように促した。ヒリエッタはずかずかと、戸口の男を押しのけるように先へ進もうとしたが、男が剣を抜いたのでようやく足を止めた。男の声も存在も無視できても、白刃は無視できなかったらしい。


「戻れ」


 ヒリエッタはつくづくと白刃を見た。これがどうしてここにあるのか、わからないようなその表情に、アイオリーナは思わず足を踏み出した。


「ヒリエッタ。こっちへいらっしゃいよ」

「それも困る。あんたのそばにも近づけるなと言われてるんだ」


 アイオリーナの目の前に立ちはだかっている男が言う。アイオリーナは困惑した。


「……どうして」

「アイオリーナ様。お逃げになった方がよろしいわよ」


 ヒリエッタは、冷ややかな声で言った。


「まさかあの娘を信じようと言うのではないでしょうね。【最後の娘】……ご存じないかもしれませんが、彼女はティファ・ルダの生き残りですわよ」


 男ふたりが一瞬目を見合わせた。知らなかったのだろうか。

 そして彼らは――さらに、ヒリエッタを睨んだ。アイオリーナは混乱した。


「ティファ・ルダの……?」


 理解するのに少しかかった。いや、少し経っても、ヒリエッタがいったい何を言いたいのか、理解したとは言い難い。アイオリーナは瞬きをして、窓を振り返った。庭は大勢の兵士が踏み込んだようで、今まで以上に騒然としていた。彼女は無事だろうか。そしてアルガス=グウェリンは。

 ヒリエッタがじれったそうに言った。


「おわかりになりませんの? ティファ・ルダの生き残りといえば、【魔物の娘】ではありませんの。黒髪の娘が――」


 ふたりの流れ者が怒気をはらんだ。アイオリーナもヒリエッタを振り返って、


「お黙りなさい、ヒリエッタ=ディスタ」


 一喝した。ようやくヒリエッタが、何を言いたかったのかを悟った。


「そんなことを口にして、ディスタ家の名を汚すものじゃないわ」

「あの娘が王の前に出ていれば、すべて丸く収まったと思いませんの」

「思わないわ。あなたまさか、そう思っているのじゃないでしょうね。王が黒髪の娘を集めるのは、本当にティファ・ルダの世継ぎ姫をいぶり出すためだなんて、七年も経って今さらわけの分からない汚名を着せられて、それでも黒髪の娘を狩るのをやめさせるために、彼女が出て行くべきだったって、本当に思っているわけじゃないでしょうね?」


 ヒリエッタはまじまじとアイオリーナを見た。

 そして息をついた。


「思いませんわ。だって彼女は【最後の娘】でもあるのですものね。彼女より優先されるべき存在はルファルファの【最初の娘】しかいませんから。ルファルファのふたり娘と言えば、本来はこの世で一番高貴な方々だという話ですもの、下々の者がいくら狩られようと、高貴な身を危険にさらすべきではないと、わたくしも思いますわ」

「……待って」


 いったい何を言っているのだ、この人は。

 アイオリーナは困惑した。思わず、戸口の男と目を見交わしてしまった。あなたは理解できてと、視線で訊ねてしまった。栗色の髪の男も視線で答えた。さっぱりわからねえ。


「……そうですわね。わたくしは、理解しがたいのですわ」


 ヒリエッタは聞き手の様子には全く構わずに言った。それはこっちの台詞だと、アイオリーナは思う。


「【最後の娘】は剣に選ばれるのだそうですわ。その前は……まあ彼女の場合は、ティファ・ルダの領主の養子だったのですって。つまり、ディオノスの娘と言うことになりますわね。戸籍上の名は、マイラ=アルテナ姫。滅ぼされていなければ、ラク・ルダのセシリア姫と同程度の身分と言うことになります」

「……そうなるわね」


 アイオリーナは相づちを打った。打つしかなかった。ヒリエッタに言われるまでもなく、庭にいる女性がティファ・ルダの最後のひとりであるなら、それはディオノスの養女、マイラ=アルテナに決まっている。でも今、どうしてそんな話をするのだろう。この展開は、いったい何なのだろう。


「でも養子なのです。ではその前は? 王妃宮に滞在した際に調べてみたのですけれど、記録も残っていませんでしたわ。草原の民でも、南方の民でもないんです。彼女のような外見を持つ者すら、知られていないんですわ。そのような者を、ディオノスはどうして養子になどしたのでしょうかしら。わたくしは本当に理解できない。……わたくしは、なんと申しましょうか。……気になるのですわ。指に刺さっていつまでも抜けない棘のように。どう判断していいのかわからない。身分があるのかないのか判断できない、それなのに彼女はわたくしの視界に入って来ますの、煩いほどに。腹が立ちますのよ、どうしようもなく。身分というものは誰かの思惑によって変動していいものではないと思いますの、そうでなければ、わたくしたちは何をより所にしたらよろしいのでしょう。おわかりになりまして?」

「……わからないわ」


 アイオリーナは低く呟いた。ヒリエッタの言葉は大半が理解できなかったが、そのうち一カ所だけは理解できた。誰かの思惑によって変動していいものではない――シルヴィアのことを言っているのだと、そこは理解した。シルヴィアは元々は貴族の中でも最下層の家の出だった、それがラインスターク家の養女となって。そのせいでヒリエッタや、他の令嬢たちから冷たくあしらわれていた、その原因のひとつが、今ヒリエッタが口にしたことなのだと、思うとふつふつと腹が煮えた。


「わからない?」


 ヒリエッタが問う。アイオリーナは目の前の男の隣に出て、言った。


「わからないわ。わかってたまるものですか。あなたの言うことは本当にさっぱりわけがわからないわ、ヒリエッタ=ディスタ。わたくしの学友に、お父様はシルヴィアを選んだ。探して探してやっとの事で見つけてくれた大切な人なのよ。身分が低いからなんだというの? あの子ほど気高くて可愛らしくて気だてのよい子をわたくしは知らないわ、それを」


「そう言うことを言っているのではないのですわ」


「あらそう。でもわたくしはそう言うことを言っているのよ、ヒリエッタ。平行線ね。つまりあなたにはあの子の内面などどうでも良かったということよ。あの子がどんなに可愛くて優しくても、あなたはあの子を受け入れようとはしない、ということよね。身分が低いという、ただそれだけで」


「当たり前じゃありませんの」


 ヒリエッタは心底不思議そうだった。


「アイオリーナ様が何をおっしゃっているのか、わたくしにもわかりませんわ」


 アイオリーナは絶句した。言葉が通じない、と思った。

 そしてぞっとした。ヒリエッタが全くの正気に見えたからだ。先ほどのアルベルトには、狂気が見えた。それが恐ろしかった。複雑にかみ合っていた数多の歯車が、ひとつまたひとつと転げ落ちていくような狂気が恐ろしかった。けれど、ヒリエッタの歯車は、すべてがきちんと在るべき場所にかみ合っているように思われた。その上で話が通じない――アルベルトよりも、今はヒリエッタが恐ろしかった。


 いったいこの人はどうなっているのだろう。


 そしてここでヒリエッタに会ってから感じた数々の齟齬が、急に思い出されて来た。ここにひとりで来たこと、鏡の中を見ることを止めた時の剣幕、鴉との諍い、若草色の首飾り――流れ者たちはヒリエッタを警戒している――アルガス=グウェリンが、カーディスが友人だと言った若者が、つれてきた流れ者が。


 アイオリーナは後ずさった。何かがひどく間違っている、と言う気がした。


 アルベルトが言っていた。どうやって枷を外したのかと。自分で鍵を置いて行ったくせに。ヒリエッタが外すはずがないと、思っていたのではないだろうか。


 ヒリエッタ=ディスタは、本当にここに捕まっていたのだろうか。


 ――それとも。



    *



 目の前がちかちかして、舞は左腕を押さえてうずくまった。音が遠のいた。気を失うかと思ったが、どうしてだろうと、いぶかしんでもいた。ただ左腕を抉られただけなのに、痛みもあまりなかったのに、どうしてこんなに気分が悪いのだろう。頭がくらくらする。体を起こしていられない。と、体が引き上げられた。ちかちかする視界に、アルガスの顔が割り込んだ。舞は瞬きをした。アルガスが何か怒鳴っている、


「――えるか! 姫! 聞こえるか!」


 舞はまじまじとアルガスを見上げた。急に音が耳に届いた。アルガスは舞が自分を見たのを悟ると、覗き込んだまま、声の質を変えた。


「毒が入った。傷の割に血が出てない。毒を抜かなければ。いいか?」

「え……あ……うん」

「かなり痛い。絶対動くな」


 言いながら小刀を取り出して、舞の左袖を切り裂いた。赤黒い傷が露わになった。傷口からは確かに血がほとんど出ていなかった。三本の傷が二の腕から肘にかけて走っていた。それほどたいした傷ではない、あまり深くもなさそうだ。なのに――


「ガスは。他の人たちは。フェリスタ、は?」


 訊ねるとグリスタを呼んでいたアルガスがこちらを見た。


「フェリスタも毒にやられたが、あなたよりましだ。ウルクディアの衛生兵が診てる。死ぬことはないから心配するな。他に魔物にやられた者はいないようだ。傷は負ったがみんな生きてる。あなたよりずっとぴんぴんしてる。グリスタ、姫の手を押さえてくれ。絶対放すな。動かすな」


 グリスタが舞の左手を掴んだ。地面に手のひらをつけさせて、その上から手のひらと手首をしっかりと押さえた。アルガスは頷いて、右手に松明を持った。左手を舞の体に回して、自分の肩に引き寄せた。


「手巾を口に入れた方がいい。持ってるか」

「うん」


 何が始まるのか悟って、舞は脚衣の隠しから手巾を取り出して、噛んだ。アルガスの肩に顔を伏せて、右手を肩に回した。


「少し時間がかかる。冷たい水を汲んでくれ。――いいか、行くぞ」

「ん」


 とたん、激痛が走った。

 舞の傷口すれすれに、アルガスが松明を近づけた。傷口に食い込んでいた毒が、一斉に沸騰したような気がした。傷口の表面で毒がじゅわじゅわと音を立てて燃える。舞は手巾を噛みしめて、アルガスの肩に爪を立てた。左手の爪が地面に食い込んだ。グリスタが押さえつけていても腕は勝手に炎から逃れようとし、舞は歯を食いしばって激痛に耐えた。炎は実際に舞の腕に触れているわけではないとわかっているのに、左腕の傷から炎が直接入り込んで骨まで焼き尽くしているかのような痛みだった。痛みは心臓が鼓動を打つたびに、杭を打ち込むような衝撃となって、繰り返し繰り返し執拗に舞を襲った。




 ふと。


 気がつくと冷たい水が傷口にかけられていた。手巾は舞の膝の上に落ちていて、舞はアルガスの肩にもたれていて、アルガスの手が舞の背を支えていた。留めていた髪は解けて背に流れているようだ。グリスタの声が途中から聞こえ始めた。


「の方が深いみてえだが――」

「素養の差だろう。姫の方が魔力が強い。その分毒が回る」

「そういうもんかあ」

「だが回りにくいからと言って害がないわけじゃない。やはり焼かないと」

「そうだろうな、見ててわかったぜ。あんまり黒くて……お、血が出てきた。これでもう抜けたってか」

「全部じゃないが、大部分は抜けた。もう放していい。ありがとう」


 舞の耳元で聞こえているのはアルガスの声だ。もっと聞きたいと思った。もっと話してくれればいい。前から思っていたが、今は特にそう思う。この声を聞いていれば、これ以上悪化することはないんじゃないかという気がする。


 水が止まって、柔らかな布で丁寧に拭われて、今度はしめった冷たい布が傷口を覆った。ぴったりと傷口を包み込んだ布には、感覚を麻痺させる薬がしみ込まされていたようで、初めは残っていた壮絶な痛みが少しずつ遠のいていく。包帯がきっちりと巻かれる頃、舞は顔を起こした。


「大丈夫か」

「……うん。ありがとう」


 かなり手荒な方法だったが、毒が抜けたというのは確かなようだった。ただ、全部抜けたわけではないらしい。舞はわななく呼吸を鎮めて、手巾を拾い上げて口元に当てた。先ほどまでの気分の悪さは消えていたが、体が少し痺れているような気がする。痛みの記憶はまだ心臓を波打たせていたが、少し経つ内にやや薄れた。


「……フェリスタは」


 呟くとアルガスが言った。


「今からだ」

「くそう、声ひとつたてずに耐えやがってよお……こっちの身にもなってみやがれ……」


 呪詛のようなフェリスタの声がする。フェリスタは青ざめた顔をしていたが、視線はしっかりしていた。脚衣の太ももの部分は既に切り裂かれて、赤黒い傷が覗いていた。舞のものより深いようだ。深緑の制服を着た兵たちが、アルガスのやったとおりにしようというのだろう、松明や水や薬を用意している。舞は微笑んだ。


「知らないの。女性の方が痛みには強いんだよ」

「そうは言うがな、娘っ子……おら、見てねえであっち行きやがれ」


 フェリスタが手を振った。舞は頷いて、立ち上がった。よろめいたが、何とか立てた。アルガスが左腕を伸べてくる。


「歩けるか。アイオリーナ姫に降りてきてもらった方が」

「ヒリエッタがどうやって魔物を呼んでいたのか、まだわからないよね。わかるまで動かさない方がいいんじゃないかと思うんだ。大丈夫、歩けるよ。……や、嘘。ごめん。手を貸して」


 周囲がやけに眩しかった。視界がちらちらする。毒がまだ残っているのだろうと思いながら、舞はアルガスの左腕に支えられて歩き出した。歩きながら目を押さえた。瞬きをして、もう一度瞬きをして、それでも視界のちらつきはなくならない。それどころか、ひどくなっていくような気がする。


「エスティエルティナは……」

「ウルクディア兵が汚れを清めている」

「そう。ごめん、目が……」


 呟くとアルガスは、大丈夫だ、と言った。


「一時的なものだ。毒が完全に抜ければ治る。今夜は熱が出るぞ」

「うん、そんな気がする……急がなくちゃ」


 建物の中に入った。大勢の人間が動き回っている気配はした。ウルクディアの兵たちなのだろう、と、聞き覚えのある声がした。


「【最後の娘】! お怪我を」


 ジェスタ=リンドだ。舞は顔を上げたが、既にリンドを見分けることは出来なくなっていた。視界が靄に閉ざされようとしている。声のする方に舞は微笑んで見せた。


「大丈夫。ご尽力に感謝します。皆さんにお怪我は」

「あるものですか。なんという無茶をなさいます。二階へ行かれますか……お目をどうなさいました」

「ええ、ちょっと」

「リンド殿、一緒に来てくれ。――ちょっと我慢してくれ」


 囁いて、アルガスが舞を抱き上げた。しっかりと包帯の巻かれた左腕は感覚が失せて既に痛まないが、歩く内に倦怠感が広がり始めていたので、歩かずに済むのには正直ホッとした。アルガスは階段を上りながら、後ろをついてくるリンドに言った。


「代表殿に部屋の用意を願いたい。【最後の娘】のものと、アイオリーナ姫のものと、それからもうひとつ。窓がなく隠し通路もなく、扉がひとつだけの部屋を」

「誰を入れる」

「貴族の令嬢だ。第一将軍がここへ着くまで見張りをつけておきたいんだが」

「承知した」


 リンドは深くは問わず、そう言った。アルガスは礼を言い、階段を上がりきって、舞を下ろした。


「ほんの数歩だ。このまままっすぐ」

「ありがとう」


 深呼吸をひとつ、した。ふかふかの絨毯に記憶が甦ってきた。階段の上がり口に仕掛けられていた鈴。高いのに、と呟いたアルガスの残念そうな声。ここで初めてアルガスを見たときのこと。あの時アルガスはシルヴィアを捜していた。鏡の縁を調べているアルガスをこっそり覗いて見ていたあの時には、こんな風にここに戻ってくることがあるなんて、本当に夢にも思っていなかった。


 舞は絨毯を踏みしめてまっすぐ歩いた。リンドが先へ行き、舞の到着を知らせた。


 と。

 静かな女性の声が上がった。


「【最後の娘】――おケガをなさいましたか」


 それが、初めて聞くアイオリーナ=ラインスタークの声だった。落ち着いて、静かで、とても美しい声だった。と、ほのかないい匂いが吹き付けて、右手に柔らかな感触が触れた。アイオリーナが舞の右手を取って、中へ導いた。


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