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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第一章 黒髪の娘
9/251

黒髪の娘(9)

     *


 シルヴィアが目覚めた時、辺りはとっくに夜だった。


 真っ暗で、鴉の目には何も見えなかった。でもとてもいい気持ちだった。誰かの膝の上に乗せられて、背中をそっと撫でられている。指の動きは繊細で優しくて、幼い頃に死んだ母を思い出す。


 母も黒い髪だった。長椅子に座った母の膝に、頭を乗せて、凭れかかるのが好きだった。母は決まってシルヴィアの髪を撫でてくれたものだ。母が死んでからは誰も、シルヴィアの髪を撫でてくれる人はいなかった。


 暖かくて、気持ちがよくて、できるならばずっとずっと、撫で続けていて欲しかった。鴉になって初めて、この体が嬉しいと思った。誰かの膝に乗って眠れるくらいに小さかったのは、もうずっと昔のことだ。


「……うぅ……ん。悪いが、俺にゃ無理だな。どうすりゃいいのかさっぱりわからん」


 出し抜けに無粋な声が響いた。それがあのガルテという薬師の声だったのに驚いた。また一緒になったのだろうか。自分が寝ていた間に、一体何があったのだろう。


「そうですか。いえ、いいんです」


 エルティナの指が止まって体から離れたので、ガルテを恨みたくなった。もう少し黙っていてくれればよかったのに。そうしたら、まだ撫でてもらえていたのに。

 ガルテは当然シルヴィアの恨みになど気づきもせず、


「ガスはどうだ?」


 誰かに向けて問いかけた。ガス? って、

 ――誰だろう?

 シルヴィアは身動きをこらえた。食事をしたあと眠くなったのは覚えている。あんまり眠くて眠くて、棚から落っこちたのではないだろうか、確か。あれは昼下がりだったように思う。


 それが今はもう、辺りはすっかり真っ暗で。


 不安になった。ここは既に、アルベルトの館でもないようだ。匂いや気配からするに、林か森の中だろう、たぶん。どうしてこんなところにいるのだろう。アルベルト様はどこへ行ったのだろう、【アスタ】への裏道を教えてくれると言っていたのに。ここへ移動するまでの間、午後ずっとという長い時間を、どうして一度も目覚めずに眠ってしまっていたのだろう……

 しかもまたお腹がすいている。我ながら情けない。


「無理だ。俺には素養が全くない」


 答えた『ガス』と言う名らしい男の声には聞き覚えがあった。低くて落ち着いた、耳に快い声だった。どこで聞いたのだったろう、考える間にも胸がドキドキ鳴り響いていた。そうだ、あの声だ。エルティナをつけて来ていた、明るい茶色の髪と灰色の目、浅黒い肌の、狼みたいだと思ったあの人だ。


 ――出るな。捕まるぞ。


 どうしてあの人と一緒にいるのだろう……?

 胸がざわざわして落ち着かなかった。ああ、どうして眠ってしまったりしたのだろう。エルティナに訊ねたかったが、何だか気後れしてしまって起きにくい。一体何を気後れしているのだ、私はただの鴉に過ぎないのだから、知らんぷりして起きて話を聞き続けていればいい、とは思うのだけれど。でも。そう簡単なものではないのだ。


 起きる機会を逃し続ける内に、エルティナがガルテから受け取ったものをシルヴィアの目の前に置いた。


 それは無色で、透明な、水晶のような石だった。あの薬師のごみごみした部屋の中で、ガルテが渡していたものと少し似ているが、こちらはたゆたう光を内包していて、今にもゆらりと動き出しそうな柔らかい感じがする。真っ暗な中でもかすかに見えるのは多分、本当にかすかに光っているからなのだろう。


 その不思議な石を置いたエルティナは、再びシルヴィアの羽を撫で始めた。優しい感触。どうしてこの子の指はこんなに優しいのだろう。どうして鴉なんかに、こんなに優しくしてくれるのだろう。何だか泣きたくなる。指があんまり優しくて。嬉しいのに、哀しい。哀しいけど、嬉しい。エルティナのそばにいるだけで、冷えきっていた体が暖かくなっていくような気分だ。

 指先の優しさはそのままに、エルティナがつぶやいた。


「……うーん、あたしにもさっぱりわからないな。やっぱり彫師じゃないと無理なのかな……」

「なあ。リルア石だろ、それ」


 ガルテが言った。どことなく、物欲しそうな声だった。


「そんなもの、よく持ってたな。確かにその鴉に人間の意志が宿っているなら、リルア石を巧く使えば意志疎通が可能になる可能性はある」


 ――私、の、こと?


 ますます起きにくくなってしまった。寝ている間に自分の事が話題になっていたなんて、何だかすごく、いたたまれないような――でも。


 ――人間の意志が宿っているなら。

 信じてもらえているの、だ、ろうか。

 私がここにいると、この醜い鴉に入っているのは人間だと、分かってもらえているのだろうか。


「リルア石。……本当に石なんだな。熱を加えれば溶けるのか?」


 と口を挟んだのはガスという男だ。すぐにガルテの答えが聞こえた。


「ああ、リルア石ってのは、普段は石の形をしているが、性質的には液体に近いんだ。しかるべき者がしかるべき手段を用いればすぐに溶ける。ただ温めるだけじゃダメだ。さまざまな用途があるが、一番有名なのは、【契約】に使うということだ。これを溶かして刺青に使うんだよ」


 俺のこの紋章にも使われてるのさ、とガルテは言った。


「【契約】が違法となってからというもの、ティファ・ルダにあった膨大な石はすべて没収されたというしな。今じゃ滅多に手に入らない代物なんだぜ」

「ふうん。じゃあ高く売れるのかな」

「そうだな、まだ欲しがる奴は多いだろうよ。王の手先に見つかれば没収されるだけだけどな、裏取引ならかなりの値が付くと思うぜ。この石には、使用する者の意志を別の、俺の場合は水だがな、対象に伝えやすくする作用があるんだ。人間の意志というものはあやふやなもので、的確に相手に伝えるのはなかなか難しいだろう。それが人間以外を相手にするならなおさらだ。だから普通の人間は水とか火とかを意のままに操ることは出来ない。

 だがリルア石を使えばそれが可能になる。さっきの俺がそうだったが、俺は別にこういう角度でこういう強さでこういう風に敵を押し流せ、なんて命令したりしなかっただろ。だが水は俺の意志を汲んでああいうふうに動いてくれたわけだ。な? リルア石ってのはそういう風に作用するものなんだよ。そのうち道具に組み込んで、便利に使えるようにもなるんじゃねえかな。例えば乗り物とか。例えば調理道具とか。例えば中の人間にとって一番快適な温度を作り出す建物とかな――」


 ガルテはそこまで一気に熱を込めて話してから、二人がまじめに聞いているのを感じて急に、気恥ずかしくなったらしい。ごほんと咳払いをして、声音を変えた。


「まあそれは夢物語だがよ。話がずれたが、とにかくだ。リルア石ってのは、俺も【契約】を頼む時に自分の分を探して持ってったんだが、あの当時でも結構大変だったぜ。買ったらべらぼうに高いしさりとてそこらへんに転がってるもんでもないし――って、おい、待て。何でガスまで持ってるんだ」


 すると、エルティナが声を立てて笑った。


「油断も隙もない」


 ガスの声も笑みを含んだ。


「人のことが言えるのか」

「な、なんだ? どこにあったんだ? もっとあったのか!?」

「さっきちょっと……たくさんあったので、つい」

「そう、たくさんあった。だからくすねて来たわけだ」

「あそこに置いといてもろくなことに使われないしね」

「くすねて良心が痛む相手でもないしな」

「なんで俺の分も持って来てくれなかったんだ!」


 ガルテの本音はどうやらそこにあったようだった。悲鳴に似た声にエルティナはくすくす笑った。


「【アスタ】に行けば、これを加工できる人もいるかな。それともこのまま何か紐とかつけて身につければ、それでよかったりするのかな」


「デクターに会うといい。あいつならきっと何とかできる」


 とガスが言った。エルティナの手が、今度こそ止まった。


「デクター……ガルテさんが言っていた人ですね」

「ななななに言い出すんだエルティナ!」

「……なんでそんなにうろたえるんです?」


 ガスの低い低い声が聞こえる。


「――ガルテ?」

「いいいいや、待て。そんな目で睨むもんじゃない。エルティナは黒髪だしな、【契約の民】を狩る側じゃないってことは明らかだったしな、すごく困っていたようだからつい」

「誰も睨んでないが、その慌て振りだと、デクターが【契約の民】だってことまで言ったわけだな」

「いいいいいいいや! 違うんだガス! 落ち着け!」

「アルガスさん、あたしがガルテさんを脅して無理やり聞き出したので、そんなに睨まないであげてくれませんか」


 エルティナが口を出した。本当はアルガスと言う名前なのかと思ったとたん、彼が言った。


「ガスだ。アルガスさんなんて呼ばれると居心地が悪い」

「あ……じゃあ、ガス、さん?」

「ガス」

「ガス?」

「ガス」

「ガス」

「……何をガスガス言ってやがる……」

「わかった、ガス。とにかくあなたの友人のデクターさんは【契約の民】で、少なくとも【三ツ葉】以上だから、リルア石も扱える?」

「というか。あいつは彫師の資格も持って――わ、」


 シルヴィアは悲鳴を飲み込んだ。エルティナがシルヴィアの体をすくい上げざま、アルガスに詰め寄ったのだ。リルア石というらしい貴重な石が転がり落ちたのが分かった。真っ暗な中ではシルヴィアには何も見えないが、どうやらエルティナは片手でアルガスの首もとをつかんだようだった。押し殺した悲鳴のような声が聞こえた。


「彫師……!」

「おい。……落ち着け。鴉が驚くぞ」

「デクターさんは……今、どこにいますか」


 エルティナの声は、再び、切実な色を帯びていた。


「今、【アスタ】にいますか」

「……いや。一昨日はまだ着いてなかった」


 アルガスは言って、そっと、エルティナの手首をつかんで自分の首から外した。それから言った。


「いくら何でもまだ寝たふりを続けるのは無理があるぞ」

「誰に言ってんだお前」

「鴉に。エルティナ、とにかく座れ。【アスタ】へは日が昇らないと入れない。もし無理に忍び込んだら今後一切出入り禁止になる。どんな事情があろうと、あと数時間は動けないんだ。いいな?」

「……」

「気をつけろ。リルア石がないとデクターにもどうにもできない。ガルテが狙ってるぞ」

「なんて言い草だ……」


 とガルテはぼやいたが、伸ばしかけていた手をそっと戻したような気がしたのは、多分シルヴィアの想像だろう。エルティナはため息をつき、心の内の衝動をそらすように首を振った。


「……デクターさんはいつ頃【アスタ】に来るんでしょうか」

「もう秋だから、近日中には来ると思う」


 アルガスはそう言って、先程エルティナが落としたリルア石を拾い上げ、彼女の手に戻した。


「彫師を捜しているのか」

「……そう。あたしの友達が、必要としているので」

「よほどのことなのか」

「そう……」


 エルティナは再びため息をついた。ため息の最後がかすかに震えたような気がして、シルヴィアは瞬きをした。辺りは相変わらず真っ暗闇で、すぐそばのエルティナの顔さえ見えないほどなのに、どうしてだか、一瞬、寝台に横たわる若い娘の姿が見えた気がした。

 その娘は青白い頬をしていた。今にも透き通ってしまいそうだ。上かけから出た手も、首も、痛々しいほどにやせ細って――その表面を覆うのは、不思議な、若草色をした絡み合う蔦のような模様だ。ふわふわの茶色い巻き毛が彩る娘の顔は美しかった。まるで空気に溶けそうに。娘はこちらを見ていとおしげに微笑んだ。


 ――あたしのことは心配しないで。帰って来るの、待ってるからね。


 その優しい微笑みを見て、こんなに胸が痛いのは。これがエルティナの記憶だからなのだろうか。


「冬を越せるかどうか、と言われてる」


 エルティナの声は平らかだった。が、再び、吐く息の最後がかすかに震えたように聞こえた。シルヴィアは体を起こした。これ以上寝たふりを続けるのは無理があると思う、と言われたからじゃもちろんなくて。エルティナの頬に嘴を寄せる。翼を広げて、抱き締めるように。


『大丈夫……きっと、うまくいくわ』


 囁きがエルティナに届くと思ったわけじゃない。いや、届かないと思ったからこそ、無責任に言えたのかもしれない。ただ囁かずにいられなかった。どうしてエルティナの記憶が見えたのかは分からない、でもそんなことどうでもよかった。エルティナが友人の死をどんなに恐れているか――自分の命で代えられるなら代えたいと思うほどに、友人を大切に思っている、ということが、分かっただけで充分だった。


『大丈夫、大丈夫よ。きっと大丈夫よ。彫師の手掛かりも見つかったし、あなたの大事な友達が死んでしまうなんて、そんなひどいこと、起こるわけないわ』


 エルティナが拾ってくれて、どんなに嬉しかったか。伝えたかったのだ。あんな汚い裏路地で飢え死にするところを助けてもらっただけじゃなくて、その後も、まるで普通の人間にするように接してくれたことが、本当に、嬉しかった。こんないい人にひどいことが起こるわけがないとシルヴィアは信じた。いや、信じたかったのだ。


 その囁きは、意外なことに、そこにいた三人全員に届いたようだった。リルア石がそばにあったからなのかもしれない。


 ガルテさえも、その声を聞いたようだ。「おい――」と声をあげかけたのをアルガスが止めた。ガルテにもアルガスにも聞こえたのだとそれで知ったが、驚きは湧き上がってはこなかった。今はそれどころではなかった。シルヴィアはすべての意識をエルティナに向け、黙って、彼女の頬に嘴を寄せて、本当にそうならいいのにと痛いほどに思った。本当にそうならいいのに――この世にひどいことなんか、これ以上ひとつも起こらないといいのに。


「……」


 エルティナは黙ったまま、さらにうつむいて、シルヴィアの背に手を回した。彼女は泣きはしなかった。シルヴィアの言葉に、エルティナが何を思ったのか、シルヴィアには分からなかった。続いてエルティナの口からこぼれたのは、静かな静かな問いだった。


「……シルヴィア?」

『なあに……』


 返事をしてから驚いた。どうして、


『どうして私の名を?』

「本当だね」


 シルヴィアの問いにエルティナは答えなかった。シルヴィアの背に手のひらを当て、わずかに力を込めた。抱き締められたのかと思うような動きだった。


「あなたの言う通りだ。これ以上、ひどいことなんか、ひとつも起こらないといいのに――ね」


 エルティナの声はとても、静かで。

 優しくて、平らかなのに――なぜだか、シルヴィアは、エルティナが泣いているのだと、思った。

 涙が出なくても。顔は微笑みを浮かべていたとしても。声が平らかで、平然としているように響いても。

 でもこの子はきっとこうして泣くのだと、思ったのだ。

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