シルヴィア=ラインスターク(12)
見るとアルガスは舞を見ていた。もう睨んではいないが、瞳は濃い藍色だ。あまりに濃くて、黒に近い。
「……なんで」
「あなたの腕はちらりとしか見てない。セルデスとマスタードラが鍛えたというだけではな」
「おいおい」
グリスタが声を上げたが、フェリスタはニヤリとした。
「いいじゃねえか。やらせろよ。流れ者でもねえ娘っ子が俺らに加わろうってんだ、剣くらい使えなきゃなあ。しかしセルデスとマスタードラといやあ、へえええ」
舞はエスティエルティナを元の大きさに戻した。流れ者たちが驚きの声を上げた。アルガスが腰から剣を外して、構えた。その剣は鞘に入ったままで、舞はむっとした。けれどこちらは鞘を払った。舞の方はアルガスの腕を良く知っている。
炎を宿しているエスティエルティナは、うっすらと赤く見えるが、王妃宮の牢の中で見たような輝きは発しなかった。多分必要ではないからだろう。
流れ者たちが場所を開けた。舞はエスティエルティナを構えて、呼吸を整えた。セルデスとマスタードラの教えが脳の中に鳴り響く。オーレリアの華麗な動きも見えた。腰を落として、エスティエルティナの重さを起点にして、アルガスの場所を見定めた。
周囲から音が消える。何も見えなくなる。でも感覚は周囲の全てを捉えている。波立つ胸が鎮まって――動くべき刻が見えた。
とん、と足が拍子を踏んだ。突き出した柄をアルガスの剣が弾き、押し返そうとする動きに逆らわずに一度後退して、するりと懐に滑り込んだ。けれど剣を引く前にアルガスが腕を返した。左から来た攻撃を右に避ける。追って来る剣をもつ手にエスティエルティナを振り下ろすと寸前で腕が引かれて、鞘の上を剣が滑った。舞は後ろに飛んだ。追撃されるかと思った。けれどアルガスは追ってはこず、首を傾げるように舞を見て、――ため息をついた。
「わかった。もう充分だ」
「ええ――」
「なんだ、もうおしまいかよ」
流れ者の誰かが声を上げ、舞も頷いた。立ち会ったのはほんの刹那に過ぎない。せっかくの機会だったのに、と思った。組み上げた剣の意志が昇華されずにうずうずする。
アルガスは苦笑した。
「鞘を抜かずに手加減できる相手じゃないって事は良く分かった。失礼した」
ということは、鞘を抜けば手加減できるというわけだ。地団駄を踏みたくなったが、フェリスタはそう思わなかったようだった。少し感心したように言った。
「じゃあもう異存はねえってわけだな」
「仕方ない」
アルガスが頷く。その瞳から少し藍色が抜けたようで、舞は、渋々ため息をついて、エスティエルティナの鞘を拾い上げた。不満に気づいたのだろう、フェリスタが笑った。
「大したもんだ、娘っ子。いや本当だって。そいつの懐に入れた人間なんか滅多にいねえだろう、セルデスとマスタードラに鍛えられたってのは伊達じゃねえな。落ち着いたらまた手合わせすりゃいいじゃねえか」
「是非」
アルガスも笑う。舞はアルガスを睨んだ。
「そう、こないだのはやっぱり方便だったんだ。本当に失礼しちゃう。覚えてろ」
「そんなつもりはなかったが、結果としては同じだな。申し訳ない」
「いや娘っ子、お前の見た目でそんな技量をもってるなんて誰も思わねえだろうがよ。俺らも少しは肩の荷が降りるってもんだ」
グリスタがそう言いながら、舞が鞘に戻したエスティエルティナを、しげしげと眺めている。差し出すと、驚いたように身を引いた。
「み、見ていいのか」
「どうぞ」
「こいつぁありがてえ……これがエスティエルティナか。噂に違わず……初めて見たぜ……」
グリスタはうっとりと鞘に入ったままのエスティエルティナを見た。舞が鞘を抜こうとすると後ずさった。
「やめてくれ。こんな近くで見たら目がつぶれる」
「大丈夫だと思いますけど……」
「さっき赤く揺らいで見えたが」
「炎を宿してもらってるんです。魔物を相手にする時に役に立つからって」
「オルリウスにだろ。あいつも一体どういう風の吹き回しなんだかな、宗旨変えしたわけじゃねえだろうな」
フェリスタは言って、油を浸した布を巻いた矢を三本、持った。そしてグリスタに言った。
「しかし俺にはなんの変哲もねえ普通の剣に見えるがな。そんなに違うもんか。だからお前も【契約】しとけって言ったろう。今炎がありゃどんなに役に立ったか」
「なんで魔物相手を想定して【契約】しなきゃなんねえんだよ、普通なら一生会わずにすむって相手によ。するなら風だ。風の方が役に立つ」
「そうかあ? 野宿ん時湿った木しかなくてもたき火に困らないぜ」
「風があれば老いて仕事がこなくなっても渡し舟ができる」
「今から老後を考えんなよ、いくつだお前は」
「うるせえよ、はな垂れ小僧が」
グリスタはそう言って、エスティエルティナから顔を背けた。
「ありがとう、もう充分だ。しまってくれ。……魔物相手に抜かれた時に見ほれてる場合じゃねえからな。気ぃつけるわ」
その頃には全員準備ができたようだった。火矢を持ったのはフェリスタを入れて三人だ。フェリスタは舞と共に来て、残りの二人は東西の塀に潜んで、アルベルトが現れた時に炎を浴びせることになった。アルガスと、一緒に行くふたりはひそひそと打ち合わせを済ませ、グリスタと残った者は松明を持った。アルベルトが現れたら包囲して炎を点ける手筈だ。
「姫君を助け出せたら屋敷に火ぃ点けられるんだがなあ……おっと、来たようだぜ」
フェリスタが頭を上げた。確かに、遠くから大勢の足音が聞こえ始めている。全員荷物を点検して、歩き始めた。舞はシルヴィアを振り返った。彼女は少し迷うようにしたが、羽ばたいて舞の肩に乗って来た。
「大丈夫。アイオリーナ姫は絶対助けるから」
シルヴィアは答えない。リルア石がなかった頃にも、舞には言葉が通じることもあったのに。でもシルヴィアはまだいる、と信じることにした。そうでなきゃ、手紙を運んで来たり、こうして舞の肩でおとなしくしていたり、するわけがない。そうじゃないだろうか。
でも先程からシルヴィアの瞳が少し違うような気がする。何度振り払おうとしても、そう思えて仕方がなかった。
ここにいる鴉は、なんとなくだが、男の子に見える気がする。瞳がそんな感じなのだ。あの綺麗な首飾りがないからだと思おうとしたが、どうしても、上手くいかない。
*
「外が騒がしいわね」
ずっとうずくまっていたアイオリーナは、暗闇の中で頭をもたげて呟いた。ヒリエッタは物憂げに頭を動かした。そうですの、と答えた声は不思議そうだった。
「聞こえない? ほら」
「さあ……気のせいじゃありませんの」
「そうかしら。兵が来たのかなって思ったのよ」
「来るでしょうかしら」
「今更そんなことを言わないでよ。来るわよ、明日くらいまでには」
「もうお昼時ですわ……」
ヒリエッタは呟いて、ため息をついた。
「お腹がすきましたわ」
「そうね。そろそろ食事を運んでくるかもしれないわ。そうしたらわたくしたちがいないことがばれて捜索が始まるわね」
「隠れない方がよろしいんじゃないかしら」
ヒリエッタの言葉に、アイオリーナは急に冷ややかな気分になってきて、素っ気なく頷いた。
「そう。あなたまで隠れる必要はないのよ、ヒリエッタ。あなたは枷をはめられてはいなかったのだし、部屋に戻って座っていたら? ここに来たときにはわたくしはもういなかったって、言ってくれれば助かるのだけれど」
そうしたら自分がどうなるのか、ヒリエッタは想像できないようだった。アイオリーナがヒリエッタを一緒に隠れるように誘ったのは、ヒリエッタの身を案じてのことだったのに、ヒリエッタにはここに隠れていなければならない理由がよくわかっていないらしい。勧めに応じて腰を浮かせかけるような気配を見せた。一応しょうがなく、と言うようにこちらを見た。
「でもアイオリーナ様は……」
「わたくしはね、ヒリエッタ。兵がここに来たときに、アルベルトとやらのそばにいるわけにはいかないの。だってどうやって移動したかわからないのですもの。兵が来たとわかったら、アルベルトは先ほどの方法でわたくしを移そうとするでしょう。兵がここに踏み込むまでに、アルベルトから逃げ延びればわたくしの勝ちよ」
だいたいどうしてヒリエッタはここに捕まっているのだろうと、アイオリーナは考えた。
ディスタ家といえば貴族の中でも位は上の方だ。跡継ぎの座にいるから、人質の価値はある。一応は。けれどアルベルトは王の手先なのだ。金に困ってはいるまいし、ディスタ伯爵は重席にあるというわけではない――少なくともカーディスや第一将軍ほどには。ヒリエッタの、アルベルトにとっての存在理由はいったい何なのだろう。黒髪の若い女性ならば誰でもいいのだろうか。でもそれでは、王はディスタ家も敵に回しても構わないと思っていることになる。貴族の子女に手を出しては、王の立場がますます悪くなるはずなのに。
「……出来ると思いまして?」
ヒリエッタの問いに、アイオリーナはため息をついた。
「出来ると思うかじゃないの。やらなければならないのよ」
どうしてこんなに暢気なのだろうと、いらだちが胸に渦巻いた。こんな時に、お腹がすいた、だなんて。厠は厭、だなんて。掃除道具を入れる場所ですら。アルベルトやその配下に見つかったら、どんな目に遭わされるか、想像も出来ないのだろうか。自分には危害が及ぶことがないと、思いこんでいるような暢気さだ。
そうだ。
とても落ち着いているのだ、ヒリエッタは。
焦燥が感じられない。見つかったらどうしようとか、殺されるかもしれない、害されるかもしれない、舌をかみ切るはめになるかもしれない、そういう考えが頭に浮かばないようなのだ。
そこに思考が至ったときだ。衣装戸棚の向こうで、扉が開いた音がした。どやどやと数人が部屋に入り込んでくる。食事を運んできたのではないようだ。「いない」「どこへ」「ヒリエッタ様は」口々に狼狽の声が上がり――次いで、男の怒鳴る声が聞こえた。
「アルベルト! アルベルト! お姫様が逃げたぞ!」
「――始まったわ」
アイオリーナは拳を握りしめた。
入ってきた男たちは大騒ぎをして部屋中を引っかき回しているようだった。遠からずここにも来るに違いない。胸がドキドキして呼吸が上手くできない。廊下に隠れていたのだったら、アルベルトが来るのをやり過ごしてから階段から逃げられたかもしれないのに――と臍を噛んだ。兵はまだ来ないのだろうか。と、誰かが安堵の声を上げた。
「アルベルト!」
来た、とアイオリーナは思う。
緊張のあまりか感覚が研ぎ澄まされて、目を閉じた闇の中に、あの寒々しい男の取っている行動が見えるような気さえした。アルベルトは入って来るや、部屋中を一瞥して、密やかに笑みを浮かべた。そしてまっすぐに衣装戸棚にやってきた――鏡の中や、寝台の下を覗きもせず――扉から逃げたかもしれないなどと、思いもせず。
アイオリーナは戦慄した。
想像と違わぬ時に、誰かが、衣装戸棚の入り口に姿を見せたからだ。
「隠れても無駄ですよ」
優しい声が聞こえた。愉悦を含んだ、揶揄するような声だった。
「ここにいらしたんですね、愛しき我が娘よ」
誰がお前などの娘かと、言えるものなら言いたかった。ヒリエッタが息を呑んだ。アルベルトはまっすぐに、ふたりが隠れている場所にやってきた。どうして、とアイオリーナは思った。どうしてわたくしたちのいる場所がわかるのだろう。衣装戸棚の中の、一番奥の、大きな籐かごの更に奥の隙間だ。衣装をかき分けて捜し回った果てに見つかるのならば仕方がない、けれどもアルベルトは捜しもしなかった。初めからここにいると、知っているとしか思えないような。
正面の衣装が取り払われて、明かりが差し込んだ。光の中から覗き込んでいるのはあの、完璧なまでに整った美貌だった。シルヴィアは本当に正しかったと、アイオリーナは頭のどこかで考えた。シルヴィアのあまたの求婚者の中で、一番美しいこの男が、一番最低だ。
「出ておいでなさい。ウルクディアの兵が近づいています。別の場所に移動しなければなりません。ああ――どうやって枷を外したのですか。あなた方は本当に面白い。今はまだ殺すわけにはいかない、こうなった以上是が非でも我が主の前に引き出さねば――生気を吸うには手加減がいるのです、万一殺してしまっては――」
ぶつぶつとアルベルトは言い、アイオリーナはぞっとした。何を言っているのかわからない。狂気を感じる――アルベルトの頭の中で、何かが狂い始めている、歯車がひとつずつはずれ始めている、そんな気がする。アルベルトはまずヒリエッタを捕まえた。それはぞんざいな手つきだった。ヒリエッタを引きずり出して、背後にいた男に委ね、そしてアイオリーナに手を伸べる。
「おいでなさい。愛しき娘よ」
アイオリーナは呼吸を整えた。何とか時間を稼がなければ。
「――ウルクディアの兵が来たと言ったわね」
「そうです。どうしてかはわかりませんが、かなりの数です。あなたを取り返されるわけにはいかないのです」
アルベルトの手がアイオリーナの手を掴んだ。それは本当に氷よりもまだ冷たく、触れられるだけで全身が凍り付くような気がする、けれど、ヒリエッタの時よりも遙かに丁寧な手つきだった。恭しいと言ってもいいような仕草でアルベルトはアイオリーナを立ち上がらせ、そして、
抱きしめた。アイオリーナは悲鳴を飲み下した。全身が氷に閉ざされたような気がした。アイオリーナの耳元で、アルベルトが囁いた。
「夢のようです。再びあなたをこうして腕の中に入れることが出来るなんて」
――再び?
「行きましょう」
アルベルトがアイオリーナの背に腕を回して促した。かちかちと奥歯がかすかな音を立てるのは、寒いせいであって恐怖のせいではない、断じて。アイオリーナはゆっくりと脚を踏み出した。窓辺にぶら下げた、敷布で作った綱を思い返した。窓辺を通るときに、アルベルトの隙を見て、綱を掴んで窓から飛び出すしかない。ウルクディアの兵が屋敷に近づいている。何とか上手くいくかもしれない。
けれどアルベルトは隙を見せなかった。衣装戸棚から出るとすぐにアイオリーナを抱き上げてしまった。足が床を離れ、アイオリーナは絶望した。この腕から逃れられるとは思えない。
と。
がらん。
庭で大きな音がした。
うつろな樽をひしゃくで叩いたかのような轟音だった。続いて、どんがら、と言うような楽器? の音が続いた。がんがらごんがらぶっぱぶっぱ、そうとしか表しようのない騒音が庭から吹き上がる。あまりに異様な騒音に男たち、そしてクレイン=アルベルトまでもが一瞬虚を突かれた。その空隙に――
「アルベルト! クレイン=アルベルト!」
窓の外で、凛とした女性の声が響き渡った。
「私の声が聞こえるか! どこにいる、出てこい!」
誰の声だろう。初めて聞く声だった。まだ若い女性のものだが、兵士のような気迫に満ちている。アルベルトが足を止めた。腕の中のアイオリーナをまじまじと見て、そして、窓を振り返った。窓の外を覗いて、呟いた。
「あそこにも」
アルベルトの歯車がまたひとつ、はずれて落ちたのが見えた気がした。
首をねじって窓の外を見ようとしたが、アイオリーナにはその女性は見えなかった。ただ、道の向こうを行軍してくる大勢の兵がちらりと見えた。揃いの深緑色の制服が、この上もなく頼もしかった。
アルベルトはアイオリーナをそっと下ろして、微笑んだ。瞳の奥に紛れもない狂気が見えた。彼は心底嬉しくてたまらないというように喉を鳴らした。
「もうひとりのあなたが呼んでいます。行かなければ」
「アルベルト」
彼の配下があげた声に振り返って、アルベルトはアイオリーナをその男に渡した。包囲される前に屋敷の外へ出るようにと言い置いて、窓から外へ出て行った。アイオリーナはその男の腕を振り払って、窓辺へ取り付いた。広々とした庭園に、いつしか大勢の人間がいた。その中央に、ひとりの、黒髪の、華奢な女性が立っているのが見えた。光り輝く剣を構えて、今彼女の前に降り立った、金髪の男を睨んでいる。
見覚えがある、と思った。
髪の毛の色が違うようだが、今朝、お父様を訪ねてきた若い女性ではないだろうか。
「アイオリーナ姫?」
右手から抑えた声で名を呼ばれてそちらを見ると、屋根の上に茶色の髪の男が顔を出していた。まだ若い男だった。カーディスよりもいくらか年上、という程度だろう。浅黒い肌をして、瞳が藍色に輝いている。こちらにも見覚えがあった。やはり、今朝、お父様を訪ねてきた。あの女性と共に来た男だ。
そして肩には、あの鴉が乗っていた。アイオリーナの瞳をとらえて、鴉は頷いた。こいつは味方だ、と保証するかのように。
「ご無事で――」
「来い!」
背後から肩を掴まれて、部屋の中へ引き戻された。アイオリーナは暴れようとしたが、ふたりがかりで押さえつけられて引きずられた。窓辺を離れる寸前に、先ほど緞子の陰に隠した綱を、屋根の外へはじき出すのが精一杯だった。容赦のない力で肩と腕を掴まれて、痛みと屈辱を押しのけようと、叫んだ。
「お放し、無礼者!」
その時、今見たばかりの若い男が、部屋の中に飛び込んできた。鴉が肩を離れて窓辺へ降り立ち、かあっ、と鋭い声を上げた。
ふたりの手が緩んだ隙に腕を振りほどき、アイオリーナはうずくまった。頭上を悲鳴と怒号と打撃の音が行き過ぎて、どさどさと背後に重いものがふたつ、倒れた。目を閉じて、開いて、顔を上げる。鴉と目があった。そして振り返ると、茶色の髪の男は、倒れたふたりを覗き込んでいたが、藍色の瞳でこちらを見て視線を緩めた。
「ご無事ですか」
「……お陰様で」
かすれた声が出た。ヒリエッタはと見れば、部屋の入り口で、やはりアイオリーナと同じようにうずくまっていた。彼女の周囲にいた男ふたりも、こちらは入り口から乱入していた男に倒されていた。遅れてもうひとり、栗色の髪の柔和な顔立ちの男が入り口から姿を見せた。この男も仲間のようで、アイオリーナを見て顔を緩めた。
「なんだ、もう終わりか。三人もいらなかったな。グウェリン、お前あっちに行きたいんじゃねえか」
「出来れば」
アイオリーナのすぐそばの若い男は、グウェリン、という名前らしい。聞いたことがある――と考えている内に、彼はアイオリーナに手を差し伸べた。敵意のないことを示す、左手だった。アイオリーナはその手を見て、つかまって、立ち上がった。今更ながらに足が震えた。低い穏やかな声が聞こえる。
「綱があって助かりました。あなたが作られたんですか」
「……ええ。ヒリエッタと一緒に作ったの。あの……あなたは」
「アルガス=グウェリンと言います」
「アルガス……グウェリン」
記憶が閃いた。いつか、カーディスが、嬉しそうに言っていたことがある。
――いつかあなたに僕の目と耳を勤めてくれている友人を紹介したい。あなたはもしかしたら、会ったことがあるんじゃないですか。養父があなたのお父上の親友でしたから……
「ああ……覚えているわ。グウェリン……ヴィードおじ様の。そう、あなたが。いつも本当にお世話になっているって、……あなたの主が言っていてよ」
カーディスの名を出していいかどうかわからなかったので、そう言った。昔会ったことがあるということについては言わなかった。覚えているかどうかと思ったし、何よりいい思い出ではなかったので。
カーディスから話を聞くたびに、昔の悪感情は少しずつ払拭されて行ったが、やはり初対面の諍いは長く尾を引くものだ。カーディスが重用しているようなのを、ふうん、と少しだけ拗ねるような気持ちで聞いていたのも確かだ。
けれどアルガスはあの時とは全く違った。穏やかで、礼儀正しかった。微笑んで、アイオリーナを寝台に座らせた。
「それは光栄です」
「それで助けに来てくださったの。どうしてわたくしがここにいると――ウルクディアの兵が……」
「説明は後で。外に【最後の娘】がおられます。救出を采配したのはルファルファ神の【最後の娘】です」
「……あの女性が? 【最後の娘】ですって?」
アイオリーナにはルファルファの教義や仕組みについて一通りの知識があった。それに加え、最近よく聞くようになった名前だ。テッドが盗み聞いてくる話にはかなりの率で登場した。【最後の娘】が【アスタ】に姿を見せたらしい……王妃宮に姿を見せたらしい……アンヌ王妃と会ったらしい……
エルギン王子を支援している勢力の筆頭がルファルファ神殿で、【最後の娘】というのは、その頂点に近い存在の名だ。
「そんな方が……どうして」
注意を庭に向けたからだろうか、にわかに庭の剣戟の音が大きくなったように思えた。鴉はこちらに背を向けて、庭を見ているようだ。アイオリーナは立ち上がって、窓辺へ向かった。鴉の上から外を見たとき、突然どよめきがあがった。
アルベルトの姿が見えなくなっていた――その代わりに、巨大な、真っ黒な生き物が、しゅうしゅうとうなり声を上げていた。なんてまがまがしい生き物だろうと、見るだけでアイオリーナは戦慄を覚えた。アルベルトの腕の冷たさが思い出された。
存在自体がこちらを蝕むような、ひどく禍々しい獣だった。そこに在るだけで周りがひずみそうな気さえする。この世に存在してはいけない生き物だとはっきり思った。体のあちこちに火矢がつき立って、毛が燃え始めている。見る間に塀から唸りを上げて火矢が飛び、つき立ち、獣は首を振り立てて咆吼した。
アイオリーナは身を乗り出して、女性の姿を捜した。黒い獣の陰になって、見えない。
「あれは……」
「クレイン=アルベルトの本性です」
隣に来たアルガスは魔物を睨んでいる。アイオリーナは彼を振り仰いだ。
「どうぞ、行って頂戴。ここはもう結構だから。お願い、あの方を助けて」
「ありがたい」
アルガスは一度部屋の中を振り返った。そして再び窓に向き直ると窓枠を乗り越えた。




