シルヴィア=ラインスターク(8)
*
取った宿からラインスターク家までは歩いてほんの数分の距離なのに、どうしてわざわざ馬車に乗らなければならないのか、舞にはさっぱりわからなかった。しかしそういうものだとフレドリックに言われては、そういうものか、と思うしかない。
シルヴィアは今日は起きていた。馬車の中で舞が持ってきた朝食を優美についばんだ後は、舞の肩に乗って動かなかった。シルヴィアはまだいる、と舞は思った。喋らないだけだ。普通の鴉なら、こんなにおとなしくしているわけがないじゃないか。
ただ、返事がなかったらと思うと怖くて声をかけられない。
アイオリーナ姫へ渡してほしいと頼まれた貴重な手紙は、舞の上着の隠しにちゃんとしまわれている。
ラインスターク家は、お屋敷、と呼ぶに相応しい大きさと外観を備えていた。舞は馬車が門を通って広々とした庭を通り、正面玄関で停まり、戸が開けられるとすぐにもじもじした。ああ、やはり正装くらい着てくるべきだっただろうか。でもアナカルシスの第一将軍を、ルファ・ルダの【最後の娘】が公式に訪問するわけにはいかないのだからこれでいいのだ。ああでも第一将軍は呆れはしないだろうか、こんな旅装で。ああでも――
「どうした。緊張か。意外だな」
先に降りたアルガスが珍しくからかうように言った。フェリスタも当然のようにからかった。
「あんたでも緊張なんかすんのかよ」
「……失礼だな君たち」
「参りましょう。大丈夫です。将軍は気さくなお方です」
フレドリックが手を差し出した。舞はその手をじっと見た。馬車から降りるのに、手を差し出されるなど初めてのことだ。するとフェリスタがすかさず言った。
「まさかその手をどうすればいいかもわかんねえとか言わねえよな」
「……うるさいなあ、もう」
仕方なく舞はフレドリックに手を預けて馬車を降りた。こんな旅装のくせに、誰かに手を取られて降りるなんて、滑稽ではないだろうか。
ラインスターク家は二階建てだが、とても広々として豪奢だった。とんがり屋根の優美な外観で、外側の壁は真っ白だった。汚れる前にいつもきちんと掃除がなされているのだろう。玄関にいつの間にか黒服の執事と年かさの侍女が現れて、舞を見ると深々と頭を下げた。あの人がシルヴィアの言っていた、レノアだろうか。目尻が下がっていて温和そうな顔立ちだが、きびきびして有能そうな人だ。居心地がとても悪かった。やはりせめてドレスでも着てくるべきだったのだろうか。令嬢にふさわしい身なりをしていたら、こんな気後れなど感じずに済んだだろうか。
二階の窓に人影がちらついたのは見えたが、フレドリックに手を取られてしずしずと進んでいたので顔までは分からなかった。やはりドレスを着ないでよかったと、近づいてくる執事と侍女と玄関口を見ながら考えた。ドレスだったら絶対今頃転んでいるに違いない。
玄関の段を上がりきった時だった。
大きな音がした。玄関から誰かが駆け出して来た、シルヴィアがかあっと鳴いて地面に降りた、侍女と執事とフレドリックがそれぞれ狼狽の声を上げたが、それを聞き取る前に、舞は誰かの腕の中に抱きすくめられていた。気が付くと視界が真っ暗で何も見えず、顔には誰かの肩が押し付けられていて、
「生きていたのか……!」
懐かしい、懐かしい、あの優しい人の声が聞こえた。耳元で。
「旦那様!」
この声は執事だろうか。「閣下、」とフレドリックが声を上げた。その人は舞を放したが、腕はまだ舞の肩に乗せられていて、そしてあの顔が舞を覗き込んだ。七年経って皺が増え、白髪もだいぶ増えたが、見まちがうはずがない。ヒルヴェリン=ラインスターク将軍は、舞の顔をまじまじと見て、泣き出しそうに顔を歪めた。
「生きて――いたのか。よくぞ」
「将軍。【最後の娘】をご存じなのですか」
フレドリックが訊ねた。将軍はフレドリックを見、舞に視線を戻した。
「知っている。ひと目で分かった。いや、大きくなった。美しくもなったが――【最後の娘】? そうであった、ルーウェンがご案内すると手紙にあったな。しかし驚いたぞ。そなたのことであったのか」
「ご無沙汰……しています」
舞はようやく微笑んだ。声がうまく出ない。咳払いをした。
「フレドリック様、第一将軍とは、七年前にティファ・ルダでお会いしていました」
説明するとフレドリックは腑に落ちた顔をした。執事が将軍と舞のわきに立ってたしなめるように言った。
「旦那様、ここは寒うございます。どうぞ中へ」
「お。すまん」
将軍はようやく舞の肩を放し、自分の足元を見て苦笑した。柔らかそうな室内履きが汚れている。
「どうぞ、入ってくれ。今茶を出そうから」
舞はシルヴィアを捜した。将軍の突進に驚いて地面に降りていたシルヴィアは、いつの間にかフレドリックの肩に乗っていた。なぜだか、将軍を避けるようにしている。どうしたのだろう、と疑問がよぎった。
中で侍女が用意したきれいな室内履きに履き替えて、将軍は一行を中へ導いた。居間へ着く間にも、幾度も確かめるように舞を振り返った。七年前の悲痛な顔が思い出された。そなたをつれては行けぬ、と言った時の顔を。エスメラルダにたどり着ければ、助かる道もあるやもしれぬ、と言った時の顔を。
将軍には舞を助けたという意識はなかったのだと、初めて思い至った。
将軍には、舞を見捨てたという意識しか、なかったのだ。きっと。
通された客間は暖かく、こぢんまりとしていてとても居心地がよかった。暖炉でぱちぱちと火が燃えていて、鉢植えが多く、この季節だというのに色とりどりの風変わりな花が咲いて、いい匂いがしていた。シルヴィアはここに住んでいたのだと舞は思った。そして納得した。確かに、シルヴィアのような素敵な人が、住んでいそうな家だ。
将軍はまず舞を小さな肘掛椅子に座らせた。自分は向かいに座って、フレドリックは舞の隣に座り、アルガスとフェリスタは舞の後ろに立った。すぐにいい匂いのする茶が配られた。
「よくぞ生きていてくれた」
将軍は舞をつくづくと見た後、ようやくそう言った。
「あれからどうしておった。エスメラルダへたどり着けたのだな。よくぞ……おっと、まだ……御名すらうかがっておらぬとは。私はヒルヴェリン=ラインスターク。間違っていたら許してくれ――マイラ=アルテナ姫?」
懐かしい名前だ。舞は笑った。
「はい、戸籍上はそうですが、本名は、舞です。生まれが遠い場所なので。三年前にエスティエルティナに選ばれ、エスティエルティナ=ラ・マイ=ルファ・ルダという名を得ました」
「さようか。重責を担われたな」
「いえ。……そしてこちらは」
舞はアルガスを振り返った。
「ご存じだとか。ヴィード=グウェリンの養子の、アルガス=グウェリンです」
「――」
将軍は目を見開いた。まじまじと、アルガスを見た。アルガスは軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しています」
「それからこちらは、草原の民の、フェリスタです。フレドリック様と三人で、私をここまで――どうなさいました、か」
舞は驚いた。将軍がアルガスを見たまま腰を浮かせた。舞のことはひと目で見分けたのに、アルガスはそうとわからなかったのだろう。だがこの驚きようは一体なんだろう。将軍はまじまじとアルガスを見、それから舞に視線を移した。
「グウェリン……ヴィードの養子だと?」
「はい」
「ヴィードの養子……あの?」
「あの?」
「は……ははは」
将軍はどさりと椅子に腰を下ろした。
そして立ち上がった。
「アルガス=グウェリン。ようやく会えたな。何度も呼んだのに一度も現れなかったではないか。――息災そうで何よりだ」
「恐れ入ります」
アルガスが頭を下げる。将軍はまだ信じられない、と言いたげにアルガスを見、そして舞を見て、椅子に座り直した。
「生きているとは知っていた。流れ者をやっているとも聞いていた。何度も地下街とやらに伝言を預け、ラインディアに立ち寄る際にはここに来てくれるよう伝えたのだが、今まで現れなんだ。強情なところまでヴィードを見習ったとみえる」
「そうだったんですか」
それであんなに驚いたのだろうか? けれど、
「……しかし、ふふ。本当に男であったとは」
将軍は額に手を当てて笑った。舞は首をかしげた。
「男?」
「ヴィードが拾った子どもの性別についてはさまざまな物議を醸した。私も兵たちと賭けたものだ」
するとフェリスタが笑った。
「なんだ、将軍も流れ者と変わらねえんだな。五年前、俺らも賭けた。あの新参の流れ者は一体どっちか、ってな」
フェリスタのぞんざいな口調にフレドリックは眉をひそめたが、将軍は笑った。
「そうか。そなたはどちらへ賭けた。今わかったが、私は負けたぞ」
「俺は随分前から知ってたが、やっぱり負けたな」
「ヴィードはこだわらぬ男だった。少女でも剣の才さえあれば拾うだろうと思ったし、いらぬ波風を立てぬために男の名を与え、男のふりをさせるくらいは、やりそうだと思ったのだがなあ」
アルガスがため息をついた。将軍は苦笑した。
「おお、すまぬ。立派な若者に対して数々の暴言、どうか許されよ」
「しかし時の流れってのは残酷だよ。あの可愛いのがこうなるんだからなあ」
「全くだ。――失礼、【最後の娘】」
将軍は笑いをおさめて、座り直した。
「つい懐かしくてな。しかしあなたも七年前の彼を見たらきっと驚くだろう。今とは別人のようだ。まあ目許はそう言えばあまり変わらぬが……似顔でもどこかに残っておらなんだか」
部屋の隅に控えていた執事が首を振る。将軍は残念そうに微笑んだ。
「まあよい。申し訳ない、お忙しい身であろうに、年寄りの戯れ言につきおうている暇は無かろうな。火急の用でいらしたとか?」
「ああ……はい。あの。アイオリーナ姫は、今、どちらにいらっしゃいますか」
舞はフレドリックの肩に乗ったままのシルヴィアをちらりと見た。将軍がレノアを見、レノアが答えた。
「お部屋にいらっしゃいますが……」
「よろしければ、ご同席いただけませんか。お忙しくなければ……」
「今はお礼状を書いていらっしゃると思います。お呼びいたしましょう」
「お願いします」
それは多分天啓だったのだろう。嫌な予感が胸を締め付け、舞は、聞き返した。
「待ってください。お礼状?」
「先ほど、ディスタ様より小包が届きまして」
彼女は、そう言って一礼しようとした。だが舞はその前に立ち上がっていた。
「ディスタ……ヒリエッタ=ディスタ!?」
「さ、然様でございますが、」
「失礼します!」
舞は将軍に言うとレノアの向かおうとした扉へ突進した。彼女は呆気に取られている。部屋の場所を聞き出すのにかかる時間が惜しいと思った矢先、羽音が聞こえ、フレドリックの肩にいたシルヴィアが舞を追い越した。舞が扉を開くと先に出て、廊下を弾丸のように飛んで行く。
二階で悲鳴が聞こえた。子どもの声だ。
シルヴィアは長い廊下の半ばで右に折れ、現れた豪奢な階段を二階へ進んだ。後ろをアルガスとフェリスタが追いかけて来ているのを感じながら続いて階段を駆け上がると、辛うじて、右手の部屋に、シルヴィアが滑り込んだのが見えた。
「待て娘っ子、俺らが先だ!」
フェリスタが怒鳴って、その剣幕に一瞬足を緩めた隙に、アルガスが舞を追い越した。フェリスタもすぐ後に続いた。ふたりの後ろから、その部屋に駆け込む――鉄くさい匂いが鼻を突いた。血だ、と思ってぞっとした。優美な部屋の中央に、少年がひとり倒れていた。血まみれだった。アルガスが少年を覗き込んだ。他には誰もいない。と、か細い声が聞こえた。
「アイオリーナ様……金髪の……男が……!」
フェリスタは窓へ向かっている。舞はざわつく胸に手を当てて周囲を睨んだ。肌がちりちりしていた。ひどく居心地が悪かった。歪んでいる、と全身の感覚が訴えていた。
歪んでいる。まだ。
「男が消えたのはどの辺り」
少年に訊ねると切羽詰まった目が舞を見た。血はたくさん出ているが、意識ははっきりしているようだった。フレドリックと将軍と執事と、侍女たちが次々に部屋に入ってくる、その騒音に紛れて、少年のか細い声が届いた。
「見えないのかよ、まだそんなに歪んでるのに――」
舞は少年の視線を辿ってそこに目をこらした。この部屋の持ち主の、文机がある辺りだ。そこに手をかざした。何も見えないが、手を伸ばすと、指先にかすかに抵抗を感じた。抵抗を手がかりにして、両手をさし入れ、上下に押し開いた。
あっけなく空間が開いた。
冷たい風がごうっと吹き付けて舞の髪を吹き荒らした。舞はそこに、緩やかに流れる景色を見た。家々の屋根がすぐ真下を通り過ぎて行く。一瞬景色が遮られ、次に見えたのは、壁だ。町を取り囲む城壁を抜けた、と舞は思った。思う間にものどかな田園風景が過ぎて行く。緩やかに走る電車の最後尾に乗ってるみたいだ。
「なんだ、それは――」
少年を誰かに預けたアルガスが背後で声を上げたが、答えている暇は無かった。その間にも景色は緩やかに、けれど着実に流れていく。遅れれば遅れるほど遠ざかってしまう。それに閉じようとする圧力を確かに感じた。閉じてしまっては手遅れになる、ウルクディアからラインディアまでは旅慣れた者の馬でも二日半、そんなに放ってはおけない。断じて。
舞はさらに穴を開いてそこに体を差し入れた。「待て!」とアルガスが怒鳴ったが、舞は抵抗を乗り越えて、飛び降りた。寸前にアルガスが舞の腕をつかんだ。景色が流れた。落下の距離はかなり長く、その間にアルガスが舞を腕の中に包み込んで、自分が下になるように向きを変えた。舞は衝撃に備えてしっかり歯を閉じた。
どだん、と重い音と共に衝撃が走り、ごろごろ転がってようやく止まった。頭がくらくらしたが、自分の真下にいるアルガスがうめき声を漏らして我に返った。即座にアルガスの上からどいて、覗き込んだ。
「ごめん、大丈夫!?」
「ウルクディアだ――!」
フェリスタの声がして、少し離れた場所に、重い音を立ててフェリスタが落ちて来た。フェリスタも転がって止まり、少しの間だけ衝撃を逃すように歯を食いしばったが、すぐに仰向いて怒鳴った。
「フレドリック! ウルクディアだ!」
上を見ると遠ざかる穴が閉じるところだった。フレドリックは間に合わなかったらしい、が、腕が引っ込む寸前に、了解したというように指を立てた。見る間にフレドリックの腕が遠ざかる。青空に飛び出た腕が揺らいで、消えた。
空間が正常さを取り戻した。肌がちりつく感触がかき消えた。
「……消えた。どうなってんだ」
フェリスタが呟き、舞はアルガスに視線を戻した。アルガスは顔をしかめつつ身を起こして、座り直して、舞を睨んで、
「無茶をするな!」
怒鳴った。
「ごめん」
「どうして真っ先に飛び込むんだ。もはや令嬢らしくないとかそういう問題じゃない。あんなところをくぐったらどうなるかわからないとか、落ちたらケガをするかもしれないとか、そういう通常の判断力すらないのか」
「……ごめんなさい」
アルガスはつくづくと舞を見た。
そして息をついた。
「申し訳ない。八つ当たりだ。――肝が冷えた」
「まあな、アイオリーナ姫とやらが拐かされたってのに、二日半もちんたら移動してられねえからな。飛び込んだのは悪かねえが、護衛の身にもなってみろ。ああいう場合、グウェリンとか、せめて俺とかに、先に行かせるべきだ」
フェリスタが取りなすように言った。舞は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
以後気をつけます、とは言えなかった。たぶん同じ状況になったら同じことをするだろうからだ。あなたは護衛じゃない、とも言えなかった。そう言う問題でもたぶん、ない。
アルガスの瞳から藍色が少し薄れ、彼は再び息をついた。
「で、あれが【穴】というものか」
「……たぶん。見たのは初めてだけど、なんか気持ち悪かった……正常なものじゃない、という感じがした。でもあの子が教えてくれなきゃ場所まではわかんなかった。大丈夫かな、あの子」
「傷は浅かった。血が出ていたから毒の心配も無さそうだ。すぐ医師に見せるだろうから大丈夫だ」
アルガスはそう言って、立ち上がった。両手を握ったり放したりして、異状が無いか確かめている。舞はおずおずと彼を見上げた。
「本当にありがとう。大丈夫?」
「ああ」
アルガスはうなずいて、大丈夫だというように手を振った。そして腰に手を当てて、周囲を見回した。少し離れた場所にあの無骨な剣が落ちていて、ホッとした、というように取りに行く。
舞も首元に手を当てた。エスティエルティナはちゃんとここにある。
フェリスタの腰にも剣があった。三人とも武器はあったが、それ以外は手ぶらだった。背嚢は馬車の中に置いてきてしまった。旅慣れた者でも二日半かかる場所に。
「ウルクディアの北、馬で五分ってとこか。短い間にすげえ移動するんだな、【穴】ってのは。相手は俺らがついてきたことをしらねえだろう。油断してるはずだ。その点はありがてえな」
「アイオリーナ姫はきっとアルベルトの屋敷だね。急がないと――」
舞は言って、ぞっとした。即座に殺されたりはしないだろう、そう思いたかったが、そもそもアイオリーナ姫をさらうことだってしないはずだったのだ。第一将軍から見限られるようなことを、王がするとは思えない。アイオリーナ姫は王にとっての命綱だったはずなのだ。それをさらって行った。いったいどうして。こうなった以上、生かしておいても意味はないと思ったりはしないだろうか、
「シルヴィアがあの部屋にいなかった。入ったはずなのに。だから多分、あたしたちより先に【穴】を通ってアイオリーナ姫のそばにいる」
言いながら舞は速足でウルクディアに向かって歩き始めた。本当は走りたいところだったが、城壁はかなり遠くに見えており、たどり着いた時にへとへとでは意味がない。アルガスとフェリスタが舞の両脇に追いついて来た。舞は呼吸を整えようと努めた。
「背嚢も身分証も全部置いて来ちゃった。あたしが持ってるのはシルヴィアがアイオリーナ姫に宛てた手紙と、エスティエルティナと、あとは手巾くらいのものだ。だから――」
わずかにためらった。今この時期、よりによってウルクディアとは!
けれど他にとる手はない。エルヴェントラが顔をしかめるだろうと思いながら、舞は言った。言いながら、覚悟を決めた。
「ギーナ=レスタナに会わないと」
「誰だ」とフェリスタが言った。
「ウルクディアの代表。あたしを覚えてるはず。ウルクディアは同盟に加わった。要請すれば街の所属の兵は動いてくれる……動くと思う。今この時期にエスメラルダに恩を売れる機会を逃す代表がいるわけない……ウルクディアだからなおさらだ。ああでも、屋敷を取り囲むだけじゃ駄目だ、よね。またどこかに連れて行かれたら今度は追いかけられないかもしれない。追い詰めないようにしてこっそり中に入るのが一番いい? でも危険すぎる。こっちは三人しか……って、フェリスタ、手伝ってくれるの?」
「おっと」
フェリスタは顔をしかめた。
「つい飛び込んじまったが、そういや俺はフレドリックに流れ者の作法を教えるってだけだったんだよなあ」
「雇われてくれる? 棒十本出すから」
「棒十本だあ!? ふざけんな!」
「それが大まじめなんだ」
アルガスが口を挟んだ。
「棒がぎっしり詰まった大壷をぽんと流れ者の前に投げ出す人だ」
「……あんたが【最後の娘】ってようやく信じられそうだぜ……あのなあ。いや、いい。わかった。危険だし魔物相手だから破格の報酬を分捕っても悪くねえだろうな。だから棒一本だ」
「……破格で一本なの? でも」
フェリスタはため息をついた。
「あんたみたいな重要人物を十日護衛すんのと同じ額だ。一回の仕事にしちゃ破格だろう。勘弁してくれよ、あんまりぼったくると沽券にかかわる。それ以上出すっつうなら契約しねえぞ」
「それは困る。じゃあ一本で……ありがとう」
舞はフェリスタを見、感謝を込めて微笑んだ。それからアルガスを見た。アルガスは呆れたように見返した。
「アイオリーナ姫は誰の思い人だ?」
「ああ、そっか。じゃあ協力しあおう。うん。運が良かった。……でもやっぱり三人か。このまま乗り込みたいところだけどそれは却下」
「当然だ」
「その程度の判断力はあるようで助かるぜ」
「ウルクディアに雇えそうな流れ者っているかな」
ウルクディアの街兵だけに協力を要請するのはさすがにためらわれた。他にも誰かの手を借りておかないと、事後処理が面倒になり過ぎる。フェリスタは唸った。
「流れ者も草原の民もどこにでもいるもんだが、大勢かと言われるとなあ」
「少しでも充分助かる。雇うにはどうすればいい?」
「まず金だな」
「後払いでも?」
フェリスタはうめいた。
「……難しいかもな。俺とグウェリンが保証すればなんとかなるか……」
「ぜひお願いします。棒一本でいいのかな……魔物相手なのに」
「いい。それ以上出しても来ねえ奴は来ねえ。つうか後払いであんまり出すっつうとうさん臭いだろう。何人までなら雇えるんだ?」
「出来るだけ大勢。第一将軍が荷物を届けてくれれば払えるから、それまで待っててもらわなきゃならないけど」
「だから何人まで――おいおいおいおい! あの荷物がくれば払えるって、お前んな大金持って出歩いてんのかあ!?」
「えっとひゃく、」
「言うな! 言わねえでくれ! どんな神経してんだあ!」
「本当にあなたがたルファルファの二人娘ときたら」
アルガスがため息をついた。舞は話を先に進めることにした。今は自分とふたりの金銭感覚について論じ合っている暇はない。
「で、何人かはそれで集まる? 兵を頼むのとどっちが速いかな。中に入ってアイオリーナ姫を捜して、できればアルベルトをアイオリーナ姫から引き離して、その間に兵と流れ者に屋敷の周囲を取り囲んでもらう……それしかない」
舞は城壁を睨んだ。
「流れ者の方は頼むね。あなたがたの顔に泥を塗ることは絶対しないから安心して、できるだけ大勢雇って、アルベルトの屋敷に連れて来て。あたしは代表に会いに行く」
「ひとりでか」
アルガスに言われて、どうしてひとりでじゃ駄目なのかと問い直そうとして、はたと気づいた。アルベルトの屋敷にどう行けばいいのか分からない。兵を要請できても路頭に迷うだけだ。呻いた舞に、フェリスタが言った。
「……何だかよくわかんねえが、わあった。んじゃグウェリン、お前が姫について行きな。俺の方が顔が広えからよ。居場所の見当はついてんのか。場所を教えな」
アルガスが説明している間にも、舞は近づいてくる城壁を睨んでいた。間に合うだろうか。真っすぐアルベルトの屋敷に向かいたいと思う気持ちをなんとか押さえ付けなければならなかった。
でき得る限り最善の手を打たなければならない。
アイオリーナ姫は絶対に絶対に救い出さなければならない。そうでなければシルヴィアに顔向け出来ない、カーディス王子にも。これ以上王に誰かを殺されてたまるものか。
だから準備を整えてからにしなければならないのだ、そう言い聞かせ続けても、心臓はざわざわと不吉に波打つのをやめようとはしない。はやくはやく、はやくはやくはやく、と、シルヴィアが叫んでいるような気がする……




