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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第七章 シルヴィア=ラインスターク
83/251

シルヴィア=ラインスターク(6)



     残り二日



 食堂へ行ったのは、今朝は舞が一番最後だった。三人は既に食事をほとんど終えていた。舞を見てアルガスはやや眉をひそめ、フレドリックは丁重にあいさつをし、フェリスタは、


「遅えよ」

「ごめんなさい」


 舞は謝って、食事をとりに行った。席に残した背嚢の中で、シルヴィアは今も眠っている。


 一睡もできなかった。寝台に潜ってうとうとはしたのだが、枕元でシルヴィアが身動きをするたびに目が覚めた。いろいろな事柄が頭の中をかけ巡って、時間が経つのがひどく遅くて、ようやく夜が明けた時にはへとへとだった。風呂に入って無理やり体を目覚めさせたが、疲労がどんよりと体の奥にたまっている。


 情けない、と思った。

 シルヴィアはだから、舞に言わなかったのだろう。この気高い姫君は。





 食事をとって戻っては来たが、食欲が全然なかった。今日もラインディアに向かわなければならないのに、だから少しでも食べなければと思うのに、口に入れても喉を通らない。仕方ないので弁当にすることにした。と、フェリスタが立ち上がった。フレドリックもだ。


「ちょいと馬車を借りてくるわ」


 舞は口の中の食べ物を無理やり飲み込んだ。えずきそうになって水で流し込む。


「……馬車、を?」

「一刻を争う事態ではなくなった。それにラインスターク将軍にお目にかかれるような身分の令嬢は、普通自分で馬を操ったりはしないものだ」


 アルガスが言い、フレドリックが頷く。


「いい機会ですから、馬車の借り方も習って来ます」

「でも……」

「反論はなしだ、娘っ子」


 フェリスタは冷たい口調で言ったが、目は優しかった。


「いいから食ってな。ここまで来たら馬車でも馬でも同じだ、明日の夕暮れに着くか夜半過ぎに着くかの違いだけで、訪問の時刻は変わらねえ。お前にもいい機会だ。ちったあ令嬢らしいふるまいを覚えやがれ」


 言い捨てて、フェリスタはさっさと歩いて行ってしまった。フレドリックもその後を追って行く。舞はうつむいた。何てことだ。

 迷惑をかけてしまうなんて、なんて情けないんだろう。


「……食べないのか」


 アルガスの声も優しい。食べるよ、と言って、舞はパンを口に入れた。パンの味がした。柔らかくて甘かった。口の中がもそもそしたので茶も飲んだ。茶の味がする。

 味は分かる。でもちっとも美味しくない。


「令嬢っていうからには服装も変えなきゃダメかな」


 言ってみると、アルガスは、少しホッとしたようだった。


「持ってるのか?」

「……持ってないけど。自分じゃ着られないしお化粧もできないし髪も結えないし、ああ……令嬢ってすごいなあ……」

「どんな令嬢もひとりじゃしないだろう」


 シルヴィアはできる、と、もう少しで言うところだった。舞はパンと一緒に言葉を飲み込んだ。機械的に食事を詰め込んで、無理やり噛んで飲み下して、残りは包んだ。シルヴィアに、そして鴉に、山盛り食べてもらおう、と思った。




 御者台にはフェリスタとフレドリックが座った。流れ者は御者の仕事もするのだろうか、と舞は思った。四人分の荷物と鳩の籠と、アルガスと舞が乗ると、小ぶりの馬車の中は満杯だった。乗り心地は悪くない。かなり高級な馬車のようだ。外観も何やらふんわりとしていて、なるほど令嬢が乗りそうな馬車だった。


 舞は眠るシルヴィアを膝に乗せて、ぼんやりと窓の外を見ていた。ゆっくりと景色が流れて行く。風光明媚というだけあって、確かに、斜面を下って行く景色は迫力があった。しばらく眺めた後、背嚢から、昨日の書きかけの手紙を取り出した。これはエルヴェントラに宛てたものだった。ヒリエッタの行く先がウルクディアだったこと、でもやはり警告はしにいくこと、ルーウェン=フレドリックに案内を頼めたから面会にも心配はないこと、もうすぐラインディアに着くことまでは書いてあった。まだ書くことがあったはずだ。でもなんだったか思い出せなかった。筆入れを取り出して、革で包んだ木炭の棒で、馬車の振動に合わせてニーナの容態はどうかと書いた。でも訊ねてもしょうがなかったとすぐに思った。しかし消すわけにも行かず、革の端を噛んだ。昨日は書かなければならないことをやすやすと思い浮かべられたのに、今は何にも浮かんでこない。


 すぐ左隣りに座るアルガスをみると、座席にもたれて目を閉じていた。狭い馬車の中で、足を持て余し気味にしていて、なんだか窮屈そうだ。顔色は本当に良くなった。もう、先日大ケガをしたばかりなんて信じられない。と思っていると、アルガスが目を開けた。


 静かな灰色の瞳が舞を気遣うように瞬いた。


「大丈夫か」

「……それはこっちの台詞」


 アルガスは微笑んだ。


「俺はだいぶいい。だが馬車に乗れて助かったことは確かだ。将軍にお目にかかる頃には元に戻れる。眠ったまま目的地に着くなんて便利なものだな」

「あまり乗らないの?」

「実は初めてだ」

「……初め、て?」

「高いしな。馬車を借り切るなんて発想がそもそもなかった。フレドリック殿はさすがに貴族だ」


 そしてアルガスは静かに続けた。


「……フレドリック殿もご存じだったそうだ」

 何を、とは、言わなかった。舞は手紙を丁寧に畳んだ。炭筆を筆入れに戻し、手紙と一緒に仕舞って、それからシルヴィアのすべすべした羽を撫でた。

「黙っていて申し訳なかった」


 どうしてこんなに優しい声を出すのだろうと、舞はぼんやり考えた。ううん、と言って、シルヴィアの体を、向かいの座席、背嚢の隙間に敷いた毛布の上に移した。そして靴を脱いで、座席の上で膝を抱えた。自分を抱き締めるようにうずくまる。


「口止めしてたって言ってたし。……わかっていて良かったはずなのに。覚悟が足りなかった」

「シルヴィア姫は本当に気高い姫君だ」

「うん」

「あなたのことを案じておられる」

「……うん」


 頷いて、抱えた膝の上に顔をうずめた。


「ごめんなさい。迷惑かけて。……もう少しだけ」


 声が震えた。眠らなければと思う。眠らなければ動けない、体調を崩してしまうかもしれない、そんな暇は全然ないのだ。そう思うのに、疲れているのに、頭の奥がじんじん痺れているようなのに、ちっとも眠れる気がしない。ニーナに話せればいいのに、と思った時、アルガスが動いた。右腕が伸びて、指先がそっと舞の髪に触れた。本当に軽く、優しく、気遣うように――何か、問うように。誘うように。その感触のあまりの優しさに、舞は顔を歪めた。衝動を止めることが、どうしてもできなかった。顔をあげて、体をずらした。アルガスの伸ばした右腕の中に入って、肩に顔を寄せた。すがりつくように。


 腕が舞の体に回された。しっかりと支えられて、呼吸が震えた。この腕はどうしてこんなに暖かいのだろう。


 かすれた声が出た。


「……ごめんね。今だけ」

「俺はちっとも構わない」


 言われて、舞は暖かな体に右腕を回して、目を閉じた。体の中に凝り固まっていた悲しみが、その暖かさによって、少しずつ溶け出して行くような気がした。




    *




 いつしか眠っていたようだった。ふと気が付くと馬車が止まっていて、アルガスはいなかった。舞は座席に身を横たえていた。毛布が体の上にかけられていて、向かいの座席で、シルヴィアはまだ眠っている。

 窓の外はもう夕暮れだった。舞はぼんやりしたまましばらく考えていたが、よっこらしょ、と体を起こした。事態を把握するのにしばらくかかる。

 ぺちぺちと顔を叩いていると、ごんごんごん、と戸が叩かれた。この叩き方はフェリスタに違いない。


「おす、娘っ子。目が覚めたか」


 令嬢の馬車にならば絶対にしないだろう乱暴さで扉を開け、過たずフェリスタが顔を覗かせた。


「何か食った方がいいぜ。出ろよ。今夜はここで野宿だ」


 大きな街道沿いには普通、馬車で一日進んでたどり着ける場所に街か集落があるはずなのに、とふと疑問が兆したが、舞は素直に馬車を降りた。アルガスはおらず、フレドリックがたき火を熾していた。舞を振り返って、フレドリックは微笑んだ。


「眠れたようですね。何よりです」

「ご迷惑を……」

「なにが迷惑なものですか。第一将軍にお目にかかれる貴族のご令嬢らしく、馬車に引っ込んでいていただけるのは全くありがたいことです」

「そうそう、全くそのとおり。珍しいんじゃねえか、あんたがこんなにおとなしくしてるってのは」

「そんなことありませんわよ」


 言ってみるとフェリスタは盛大に笑った。フレドリックも口元をほころばせた。失敬な、と思いつつ、フレドリックの向かいに腰を下ろした。ぱちぱちと火の粉がはぜた。明るい橙色の炎が目に染み入ってくる。

 フェリスタがお茶を入れてくれた。そして言った。


「娘っ子、薯、むいてくれ」

「うん」

「汁物飲めば体があったまるからな。はるか東方から伝わった、変わった素があるんだ。しょっぱいし匂いもきついが汁に溶かして飲むと旨い」


 舞が薯を剥いて、汁物向きに細かく切り分けていると、アルガスが戻って来た。薪を拾って来たらしく、細い枯れ枝をたくさん抱えていた。彼は舞をみて微笑んだ。


「おはよう」


 言って薪を降ろし、舞の左隣りに座り込んだ。舞は感謝を込めて、微笑んだ。「おはよう」と言うと、優しい視線が降ってくる。たき火にかけられた大きな鍋のなかでふつふつと湯が沸き始め、舞は切るそばから薯をその中に滑り込ませていたが、フェリスタが取り出した『素』をみて目を見開いた。


 味噌だ。

 ……たぶん。


「香草と芋と肉とをこれで煮ると美味いんだ」


 言いつつフェリスタは味噌を鍋の中に溶かした。舞は身じろぎをした。沸騰したところに入れる奴があるか、と思ってしまった。味噌は具材を煮込んで、火を外して、最後に溶かして、火に戻して、ひと煮立ちで止めるべき物だと思っていた。でもこういう食べ方もあるのだろうか。なつかしい匂いが鼻をくすぐり、唐突に、自分が壮絶に空腹だということを思い知った。情けない気分が兆した。なんて節操のない胃袋だろう。


 キュウリがほしい、と思う。

 味噌をつけて食べるのが、舞の大好物だった。

 お母さんにはみそ・キュウリ姫、というあだ名をつけられたし、お父さんには、前世はキリギリスだったんだろうお前、と呆れられた。


「変わった匂いだな……」


 フレドリックが鼻をひくつかせ、アルガスも興味深そうに見つめている。ぐらぐらぐらと汁が沸き返り、舞はさらに身じろぎをする。ほどなくできあがった汁は、しかしなかなか美味しかった。胃に染み渡った。骨の髄から暖まるような気がする。


「美味いか?」


 フェリスタの問いに、舞は頷いた。あんまり懐かしくて、言葉がでなかった。

 もう十年も経った。朝の慌ただしい風景が目の奥に見えた。目玉焼きとサラダと、ほかほかご飯とおみそ汁。舞、早く食べなさい。遅刻するわよ。絵里花ちゃんが来ちゃうじゃないの。

 ――絵里花ちゃん……


「東方から伝わったって?」


 フレドリックが訊ね、舞は現実に引き戻された。


「そうだ。東にでっかい大陸があるんだ、キファサ、と言う。そのさらに先に、小さな島国があるらしい。そこから伝わったんだとか、まあ、眉唾だけどな」

「キファサのさらに先か。そんな場所にも人が住んでいるのか」

「らしいぜ。まあ人間が作ったかどうかもさだかじゃねえが、毒じゃねえし味も慣れれば悪くねえし、保存も効くから重宝してる」


 ああ、むずむずする。

 舞は思い出を振り切るように、後ろの茂みを振り返った。それで気づいたが、すっかり日が暮れていた。それでもネギに似た菜はすぐに見つかった。しゃりしゃりした歯ごたえと、かすかにぴりりとした刺激のある味を持ち、生食できる。それを引き抜き、水で洗った。皮を剥いて根っこを取り、味噌に向けて手を伸ばした。


「少しください」

「あん? 何を?」

「それ。ちょっとでいい。ほんのちょっと」


 つけてかじると懐かしいしょっぱさが口中に広がる。三人は目を丸くしている。しゃりしゃり食べながら、舞は言った。


「うーん……やっぱり違う……ああ、ますますキュウリが食べたい……」

「キュウリって、酢漬けならあるがな」

「酢漬けにする前の」

「そりゃ無理だ。もたねえし。で……美味いのか?」


 舞は首を傾げた。


「これは毎日食べたい感じじゃないかな。悪くはないけど。生のキュウリはとってもおいしい。毎日食べたい」

「食べたことがあるのか? これを?」


 今度訊ねたのはアルガスだ。舞は頷いた。


「うん。懐かしい味。故郷では毎日こういうの飲んでた。作り方はちょっと違うけど」


 まだたくさん残っている汁を指さすと、フェリスタが黙って舞の器を取り上げて、お代わりをよそってくれた。


「ありがとう」

「……そういや、異国の物が手に入りやすいところに住んでたって言ってたっけか」

「はい。でもこれは異国の物じゃなくて、あたしの故郷の食べ物」


 アルガスとフェリスタが舞に向き直った。そろってまじまじ見つめられた。


「キファサのさらに東があなたの故郷なのか」

「……どうだろう。違うと思う。不思議だな。アーモンドもあるしチーズもあるし。全然違う食べ物もあるのに、そっくり同じ食べ物もある。まさか味噌まであるなんて」

「みそ?」

「これのこと。フェリスタさん……」


 フェリスタが歯をむいた。紛れもない威嚇の表情に、舞は一瞬きょとんとして、すぐに悟って、言い直した。


「……フェリスタ。これ、なんて言う名前なの?」

「さあ」フェリスタは満足げに頷いてみせた。「東方でどう呼んでるかまではな。俺たちはカシロって呼ぶが。しかし、お前、どっから来たんだ、娘っ子?」

「……分からない」

「わからねえのか?」

「そう。でもすごく遠く」

「どうやって来たんだ、そんなに遠くから」


 ――どうやって。

 落ちたのだ。いや、落ちたというよりも――


「……通って、来た」


 舞は眉をしかめた。ガルシアの話が耳に甦った。

 【穴】を、通って、来た――


「どこをだ?」


 舞はたき火を見つめた。呼吸を整えた。思い浮かんだことを拾い上げた。


「【穴】を通って来た……? のかな。でもそれだとおかしい……」

「おかしいのか。何が?」


 アルガスが静かに訊ねた。誘うように。舞は、


「おかしいよね。だって、アルベルトがヒリエッタ=ディスタのいるところに【穴】を空けられるんだとしたら、」

「あんだよ、なんの話――」


 言いかけたフェリスタを、アルガスが止めた、ようだ。ヒリエッタ、と聞いて、フレドリックが座り直した。舞はぎゅっと顔をしかめた。


「そうか、それでだ。それが引っ掛かってたんだ。だってヒリエッタはエスメラルダに来たことないもの。エスメラルダにも、アルベルトを呼んでる人がいるかもしれないんだ」


 それでオーレリアに頼まなければならない気がしたのだろう。ビアンカだけでなく、ニーナのことまで。そうか。そうだ。何か、ひどく単純なことを見落としているような気がして堪らなかった。

 アルガスが訊ねた。


「エスメラルダに? ディスタ伯爵令嬢のような誰かがいると思うのか?」

「うん……ああそっか、ガスは聞いてないよね。ガルシアさんたちが突然出現したのは【穴】を通って来たから、なんだって。それをあけたのは多分アルベルトだ。エスメラルダは清浄な地だから、アルベルトは入りたがらないと思うけど、だから【穴】だけ空けたんだと思うけど、でも、出口にはヒリエッタのような誰かがいなきゃおかしい。でも誰が……」


 ぞっとした。誰が。一体、誰が?

 スヴェンとマスタードラの顔が脳裏をよぎった。もしかして温泉で、アルガスとシルヴィアとビアンカに何か証拠をつかまれたとか? だから脅していたのだろうか? 浮かんだ考えを、舞は即座に捨てた。マスタードラがエルギンのためにならないことをするはずがない。それならばアルガスが今、そう言うはずだ。案の定、アルガスは全く違うことを言った。


「魔物は【穴】を空けられるのか? 【穴】というのは……」

「空間の歪みだよ。【最初の娘】が払っている歪みのことをガルシアさんはそう呼んでた。いろんなところにつながるんだって、くぐってみるまで行き先は誰にも分からないらしいんだけど、アルベルトはヒリエッタのいる場所にその【穴】をつなげることができるんじゃないかって……だから消えたり現れたり出来るんじゃないかと……ああ……そっか、そうだ、やっぱりそうだよ。少なくとももうひとり、そういう人がいないとおかしい」

「もうひとり。エスメラルダにか?」


「違う、ああ、ううん、そうかもしれないけど……つまり同一人物かもしれないってことだけど、ああ、ううん、やっぱり違う。じゃあ最低でもあとふたりだ。ええと」

「ゆっくりでいい」

「……うん。ええと、王妃宮にヒリエッタがいた、アルベルトはだから、あの夜あそこに現れた、でもその後は? 消えたのはどこにいったのかな? あたしをどこに連れて行くつもりだったんだろう――」

「そうだな。ヒリエッタがいたのは王妃宮だ。そこに連れていっても仕方がない。だからもうひとりか。成る程」


 それにまだ何か、と思ったとたん、アルガスが続けた。


「その時、まだ時間がある、と、言ってたそうだな」

「そうそれ。それそれ。時間……時間……」

「【穴】が空くまで時間がかかるということだろうか?」

「そうかな……でもなにか準備してる様子はなかったけど……それにそういう場合、時間がある、なんて言うかな……」


 ガルシアは、あの日を指定したのはアルベルトだったと言っていた。一番いい時を計ると言われたと。一番いい時、というのは一体何なのだろう。


「それに王妃宮で、【穴】を空けるのになにか儀式みたいなのがいるなら、あんなことしてる場合じゃ……」


 ――あんなこと。

 唐突に壮絶な嫌悪感が甦って思考が濁った。全身に鳥肌が立って、舞は硬直した。息が詰まった、が、アルガスが、舞の思考をそこからそらしてすくい上げるように促した。


「では呼ぶ側に準備がいるのかもしれないな?」

「そう……かも……ええと、ええと」


 舞はたき火を睨んで、鳥肌の立った腕をさすった。


「……そう、呼ぶ側に何かきっかけがいるってことかも。合図みたいな、ヒリエッタが何かの合図をして、それで」

「合図。ここに空けろ、と、指示を出せるということか」

「アルベルトが好きな時に好きな場所に自由に空けられる訳じゃないってことはわかってる、よね。そういう合図があるからその場所に行けるんだとすればどうかな。誰かと時間の打ち合わせをして、例えば真夜中に合図を出すことにしておけば……それなら……でもそれってどんな……」

「誰でもできることだろうか」

「誰でも……」

「素養がなくても」

「ああ、王にはエスティエルティナが普通の剣に見えた、だから王には素養がない……ああそうか、ひとりは王だよね、もちろん。地下牢の時の出口は多分王だ。危なかった。そう、だから素養は関係ないんじゃないかな。でも王がエスメラルダに来るわけないから、やっぱりもうひとり。ヒリエッタと王とエスメラルダの誰か。少なくとも三人だ」

「ムーサはどうだろう」

「……わかんない。でもムーサもエスメラルダには入れない。ムーサを入れれば四人……そんなに大勢……?」


 舞は腕をまだ無意識にこすりながら、しばらく考えていた。でももう何も浮かんで来なかった。アルガスも考えていたが、ため息をついた。


「本当にオーレリアに頼んで良かったな」

「うん」


 舞はこれ以上は諦めて、姿勢を崩した。まだ何か出て来そうな気もするのだが、今は無理のようだ。フレドリックとフェリスタは顔を見合わせ、フェリスタが、安心したように口を出した。


「おいおい、オルリウスまで絡んでんのか。随分ややこしい事態のようだな」

「あ……すみません、失礼しました。ああ、本当にこんがらがっちゃって。ややこしいんです。でも一歩進んだかな。少なくとも不安の理由は分かった。ガス、ありがとう」

「イーシャットの真似をしただけだが、役に立ったなら良かった。……成る程な」


 アルガスは呟いて、冷めた汁を飲んだ。成る程って、何だろう。思ったが、聞く前にフェリスタが言った。


「さっきガルシアって言ったな?」

「ええ」

「ガルシア……聞き覚えがあるんだが。故郷に間借りしてた民の長じゃなかったかな」

「ああ。そういえばそう言ってました。草原の民としばらく一緒にいたって」

「そいつらが【穴】とやらを通ってルファ・ルダに行ったって? 王の差し金で? でもよ、何百人もいたって聞いたぜ」

「そう。何百人もいました。そんなに大勢通れる【穴】も空けられるんだ……」

「何でもありだな、魔物ってのは」

「自在に空けられる訳じゃないみたい。出口に誰かが待機して、アルベルトを呼ばないと駄目、これも仮定ですけど……」

「しかし恐ろしい話だ。エスメラルダは良く助かったな。偶然、集落の外に王子の護衛とグウェリンが出ていたから良かったようなものの」


 フレドリックが言い、


「ええ、本当に……」


 言いかけて、舞は瞬きをした。

 偶然、なのだろうか。本当に。

 ―― 一番いい刻を計るからと言われて……

 あの日本当は、エルギンは行くはずじゃなかった。シルヴィアとビアンカとミネアと、マスタードラだけの、はずだった。


「ガス……あの時あなたを誘ったのは誰? だったの?」

「温泉にか。……マスタードラだが。何か気になるか」

「いつ決まったの、それ」

「あなたと王子に会う直前だ。マスタードラは素直な人だ。女性三人を相手にするのは自分ひとりでは荷が重いから、一緒に来てくれと頼まれた」

「じゃあ本当は、あなたもエルギンも行くはずじゃなかった……」

「そうだな。そもそもどうしてマスタードラがビアンカを案内するはめになったんだろう。デリクが行くんじゃないか。普通は」


「うん、そうだ。そう、デリクもそう言ってた。自分に頼めばいいのに、わざわざ王子の護衛の手を患わせることないだろう、って。そしてそれだと、ミネアは行かなかったね、きっと。ごめん、気になるというか……気になるんだけど……エルギンが行かなければいくらマスタードラでもビアンカをほうり出したりしないよね。ミネアとビアンカを両方守ろうとするなら素直に投降するのが一番、ああ……でも考え過ぎかな」


「言ってみな、娘っ子。言ってみれば考え過ぎかどうかもわかるだろ」

「何かこんな話ばっかりですみません……ええとね。ガスもエルギンも行かなかったら。賊に取り囲まれたら、多分マスタードラは逃げなかった。だってミネアが一緒だもの。ビアンカも。だから黙って抵抗せずに捕まったと思う、んだけど。どうかな」

「そうだな。馬も三人乗りだ。速度は出せまいし、そもそも逃走を諦めるのが一番被害が少ない」


 舞はアルガスの同意に勇気づけられて頷いた。


「うん。じゃあどうなったかというと。エスメラルダに、何百人もの賊が不意打ちでなだれ込んでた。大混乱だ。その上マスタードラがいない。潜んでいる誰かがその混乱に乗じて、エルギンを」

「……首を取るのは簡単だな。温泉行きも仕組まれていたということか?」

「やっぱり考え過ぎ……?」


 フェリスタが口を出した。


「――いや、考え過ぎとは思わねえな、俺は。同盟はほとんど完成してるようなもんなんだろう? でもここで王位継承者が殺されれば同盟は白紙に戻る。王の在位はまだ続く。ルファ・ルダになだれ込んだのは王の兵士でもねえから非難も逸らせる。そうすりゃそのうち第二位のぼんやり王子が継げる、王の地位は安泰だ」


 そうか、フェリスタもフレドリックも、カーディス王子が本当はどんな人なのか、知らないのだ。アルガスは口元だけで苦笑しているが、訂正する気はないようだ。舞も黙っておくことにした。今はまだ。


「――エルヴェントラに知らせる価値はある、かな?」

「戻られるおつもりか?」


 フレドリックが静かに訊ねた。

 舞は少し考えて、首を振った。


「いいえ。あたしはこのまま第一将軍にお目にかかりに行きます。警告は絶対必要だし、早い方がいい。だからエルヴェントラには手紙を書く。ビアンカを連れて行くようにマスタードラに頼んだ人を捜してもらう。……エルヴェントラの取り調べか……ビアンカなら大丈夫かな……エルギンに聞いてもらった方がいいかも……無理か」


 方針を決めるとホッとした。再び姿勢を崩して、汁椀を取り上げて、冷めた汁を飲もうとした。その前にフェリスタの腕が伸びて、舞の椀を取り上げ、ほかほか湯気を立てる新しい汁椀を渡してくれた。


「……ありがとう」

「練り粉も食え、な? 頭使った後は食わねえと。あんたさ」

「はい?」

「いいかげん敬語はやめねえか。くすぐってえんだよ」

「……うん」

「よしよし、いい子だ。馬車の中で良く眠れたな? うらやましい体格だぜ。今夜も馬車の中で寝ろよ、寒いから」

「でも、三人は……?」

「俺らが馬車の中で足延ばして眠れる訳ねえだろうが。気にすんな。明日の夜中にゃラインディアに着く。明日は宿をとる。で、ゆっくり休んで明後日には将軍だ。いいな?」

「……うん。明日もおとなしくしとかなきゃ。手紙をたくさん書かなきゃいけないし。本当に馬車って便利だ。借りてくれてありがとう」


 フェリスタの目は今、びっくりするくらい優しかった。舞をじっと見て、いかつい顔がほころんで、本当に優しく微笑んだ。


「なに、いいってことよ。少しは元気が出たようで良かったぜ。馬車のすぐ外には三人もいるから危険は全然ねえ。ゆっくり休みな――親愛なる娘っ子殿」


 舞が頷いて、汁を飲み干して、立ち上がろうとした時だ。アルガスが目を細めてフェリスタを見ているのに気づいた。フェリスタはアルガスの視線に気づいて、うししし、と笑った。二人の間に何か舞には分からない意志の疎通が行われたようで、


「……なに?」

「なんでもねえよ。顔洗うついでに器、洗ってくれるか?」

「あ、うん」


 細々としたものをいれた巾着袋を取りに行っても、シルヴィアはまだ眠っていた。舞は拭布と巾着袋を持ってたき火に戻り、重ねた器を持って、そうっと斜面を降りて行った。川のせせらぎが近づいてくる。と、下生えを鳴らして追いかけて来たのはフレドリックだった。舞はフレドリックと並んで器をゆすいだ。水はとても冷たかった。洗い終えると水を汲んで飲み、それから顔を洗った。フレドリックは黙って待っている。

 歯を磨き、それが終わるころになって、フレドリックの静かな声が聞こえた。


「アリエディアであなたがたにお会いできて良かった」

「……」


 返事はできなかった。まだ歯を磨いている途中だからだ。フレドリックの顔は闇に沈んで見えない。


「お礼を申し上げたい。エスティエルティナ=ラ・マイ=ルファ・ルダ。あなたのような方がエスメラルダにいてくださって本当に良かった」


 舞は口を漱いで、拭布で拭ってから、一礼した。


「恐れ入ります」

「昨日は本当に失礼しました。でももう大丈夫です。私にはもう本当に、あなたを責めるような気持ちなど微塵もない」


 声は本当に優しかった。顔は闇に沈んで見えないが、たぶん声以上に優しい表情を浮かべているのだろうとわかった。


「しかしなぜたったひとりの護衛だけを連れて来られるのか」


 口調がやや変化して、呆れるような、揶揄するような、不思議な色をおびた。【最後の娘】ともあろうものがと思っているのだろう。いろいろな人に言われることだ。これで護衛じゃない、案内人だ、なんて言ったらどうなるだろう。イーシャットのように罵ったりはしないだろうが、試してみる勇気はなかった。舞はおとなしく答えた。


「……いえ、大勢ですと目立つので」

「確かにそうだが、五人程度では目立つとは言えますまい。わかっておられるか。草原の民は――」


 言いかけてフレドリックは、苦笑したようだった。


「いや、私が申し上げることではないな。失礼しました、【最後の娘】」

「はあ……?」

「ヒリエッタ=ディスタ、クレイン=アルベルト。その名を示していただけて、目標ができてありがたい」


 フレドリックはあっさり話を変えた。舞の持っている器をそっと取り上げて、たき火の方へ戻るよう身振りで促した。


「私はシルヴィア姫の仇を取りたい。これ以上このような非道を許してはおけない。将軍がなんとおっしゃろうと」


 たき火に戻ると、フレドリックは微笑んで、鄭重な礼をひとつした。


「シルヴィア姫はあなたを大切な友人だと言われた。どうか覚えておかれよ、【最後の娘】。かの気高き姫のご遺志を継いで、私は出来得る限りあなたをお守りする」

「グウェリンが護衛で、フレドリックもそういうつもりで、さらに草原の民の庇護もある。あんたの旅路はなかなか安全そうだな、姫」


 フェリスタが揶揄するような口調で言った。アルガスは眉を上げて見せた。護衛ならばよかったんだが、と言いたいのだろうと舞は思って、旗色が悪くなる前に挨拶をして馬車に入った。


 シルヴィアは起きなかった。朝までずっと。

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