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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第七章 シルヴィア=ラインスターク

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シルヴィア=ラインスターク(5)

「それでは」


 すべてを聞き終えて、フレドリックは低く呟いた。


「シルヴィア姫を拐かしたのも、ヒリエッタ=ディスタの差し金だったということですね」

「そのおそれはあります。最後の晩餐会で――」

「確かに来ていました。その場にクレイン=アルベルトもいた。ヒリエッタならばシルヴィア姫を……」


 フレドリックは額に手を当てて、目を閉じて、しばらく動かなかった。いつの間にか食事も飲み物も届いていたが、誰も手をつけなかった。ややして、フレドリックは、苦笑した。


「ありがたい」

「……ありがたい?」

「これであなたにこのやり場のない気持ちをぶつけずに済む。私の矜恃は守られる。手の届く場所にいる仇の存在に、私は本当に感謝する。そして――ありがとう、グウェリン。おかげで助かった。【最後の娘】、私にはもはやあなたを恨まねばならぬ理由もない。目標も出来た。クレイン=アルベルト、ヒリエッタ=ディスタ、そして王。あなたは将軍に警告するためにわざわざ来てくださった方だ」

「は……」


 舞は咳払いをした。


「はい。ありがとう、ルーウェン=フレドリック殿」


 そしてアルガスにも感謝した。本当に。

 雰囲気がやや和んだ。フレドリックは舞を見て、見事ににっこりと微笑んだ。


「このままでは冷めてしまう。どうぞ、召し上がってください」


 そして洗練された手つきで、麦酒の入った器を手に取った。フェリスタが、舞の視線をとらえて、ニヤリとした。お前の過去の話なんか全然気にならないぜ、というような笑みで、舞はホッとした。フェリスタは自分も器を掴んで、さばさばした口調で言った。


「しかし偶然たあすごいもんだな。まさかこんな場所でまた会うとは。フレドリック、流れ者は一緒に食事をするもんだ」

「だが、この方は――」

「あの、どうか、お気遣いなく。旅先ですし、立場を知られても困りますし」


 舞が口を挟むとアルガスが眉を上げた。旅先でなくても構わなかったくせにと言いたいらしい。フレドリックはまだ渋った。どうやら骨の髄まで礼儀作法をたたき込まれている人のようだ。フェリスタはさっさと食事に取りかかりながら、舞を見て意地悪げな笑みを見せた。


「このご令嬢殿はあの地下街でぐーすか眠りやがった娘っ子殿だ。全然気にしねえだろうよ。なあ?」


 フレドリックが聞きとがめた。


「地下街……地下街で? ぐーすか?」

「他にもいろいろ聞いたぜ。想像してたのとは全く違った。【最後の娘】ともあろうものがとあんたは呆れるかもしれねえがな」


 舞は身を縮めた。フェリスタを恨みたくなった。舞だってイーシャットやフェリスタやオーレリアに言われるまでもなく、自分が【最後の娘】としてはかなりの出来損ないであることくらい分かっている。でもフレドリックにまでそんなことを暴露しなくても良さそうなものなのに。それもあんな話をした後で。

 フェリスタは全く気にする様子もない。


「全くいろんな意味で予想を裏切ってくれやがる。てっきり十六かそこらかと思ってたのに、十九とは恐れ入ったな」

「……」

「発育って言葉を知ってるか?」

「…………」

「おら食えよ、ちゃんと食わなきゃ背も伸びねえぞ。おっと十九じゃもう手遅れか。ははは」

「………………」

「しかし草原の民にとっちゃ体格が華奢なのは悪いこっちゃねえが、【最後の娘】としてはもうちっといろんなところが――」

「……余計なお世話」


 ついに毒づくとフェリスタは、してやったりという風に笑った。


「よしよし。悪口を言われてるってわかるくらいの頭はあるようだ」

「むむむ」

「ほら食えよ。悔しかったらもうちっと発育してみやがれってんだ。地下街のあの棚寝台で足を伸ばして寝られるとは、本当に羨ましい体格だぜ。しかしなあ、【最後の娘】ってのはあのルファルファの愛娘なんだろう? 本当なんだろうな? グウェリン、間違いじゃねえだろうな」

「それが本当なんだ。信じがたいが」


 アルガスまで。

 ヴェガスタとフィガスタのことを思い出すまでもなく、これが舞を気遣ってのことだとわかっている。わかっているが、悔しいものは悔しい。


 フレドリックは諦めて、居心地悪げにではあるが、食べ始めていた。フェリスタは取り皿に、食事を山のように取り分けては、どんどん舞の目の前に置いた。


「ほら、食えってんだよ。けど何で護衛がひとりなんだよ。【最後の娘】ってのは普通大勢お供を連れて歩くもんじゃねえのか」

「大勢だと目立つから」

「と彼女は言う」


 アルガスが付け加えた。自分は違う意見だと言いたいのだろう。


「ここまで何で来た。さすがに馬車だろうな」

「……馬の方が速いから」


 これにはアルガスは付け加えなかった。自分も同意見だからだろう。

 フェリスタはつくづくと舞を見た。


「ほれ、食え。止まるな。……そんで、こいつはな、除隊するんだとよ」


 言いながらフェリスタはフレドリックを顎で示した。舞は思わず食べるのを止め、フェリスタが睨んだ。


「止まるなっつうの。……以前第一将軍が草原から馬を買った。草原でも自慢の駿馬で、たいそうなお気に入りでな、草原までわざわざ礼を言いに来たことがあったのさ。こいつはそんときのお供でな。それで俺とも面識があった。そのつてで今回雇われたんだよ」

「正式にはまだですが、これからラインディアに行って第一将軍にお目にかかり、戸籍を焼くつもりでいます。先ほど申し上げた、お願いというのはそれに関係するのです。……流れ者は食事のさなかでもかまわずに話をするものか」


 フェリスタはニヤリとした。


「時間がもったいねえだろう」

「戸籍を……どうしてですか」

「それを申し上げるのは、ひどく苦しいことだ」


 フレドリックは舞をまっすぐに見た。


「だから察していただきたい。私は第一将軍を尊敬申し上げている。今でも、もちろん。だから今までお仕えしてきた。だが先日シルヴィア姫にお目にかかって覚悟が出来た。もっと早くにしておかなければならない覚悟だった」

「……」


 舞は考えた。よく。

 戸籍を焼くというのは、第一将軍の部下ではなくなるということだ。それも第一将軍に会って、わざわざ目の前で焼くという。それは、つまり。

 もうあなたの部下でいる気はないと、将軍に宣言するのと同じことだ。

 あなたを見限ると。あなたはもう自分の主には値しないと。そう宣言することだ。


「……わかりました」


 頷くと、フレドリックは目を細めた。


「流れ者になるからには、流れ者の作法を知るべきだ。そう思ったのでフェリスタを雇ったのですが……先はまだまだ長そうです」

「あんたは生真面目すぎるんだよ。どっかの【最後の娘】を見習うといいや。なあ娘っ子、あんたが流れ者になるときゃ、作法を教える流れ者になんぞ必要ねえだろうな」

「むむむむ」


 舞が睨むと、フェリスタは今度は意外そうな顔をした。


「何で怒るんだ。褒めてんのに」

「褒めてるんですか」

「おいおいまだ敬語なのかよ。俺が流れ者だって本当にわかってるか? 面白えなああんた。あんたにゃどうも、世界で一番偉大な女神の愛娘だという自覚がねえようだな。俺ぁあんたに庇護が移ったと聞いたとき、ものすごく厭だったんだ。……ほれ、止まるな。食え。どんどん食え」


 フェリスタは、舞がようやく攻略しつつあった食べ物の山を、再び元のように積み上げた。


「長の命令は絶対だから庇護はしなきゃなんねえが、心底厭だった。他のやつらも同様だったろうよ。庇護ってのは対象が死ぬまで変えるもんじゃねえって俺は思ってたし、俺たちぁそもそも権力ってもんが死ぬほど嫌いなんだ。そうでなきゃ一族を飛び出して流れ者なんかやるもんかよ。

 だからあんたを地下街で見た時ゃぞっとしたぜ。王妃は少なくとも俺たちの前に姿は見せねえし、庇護してえ奴だけすればいい、で済んでた。だがあんたの場合はなあ、グウェリンの野郎、わざわざ地下街に連れて入るし、よりによって俺んとこ連れてくるしよ」


「申し訳ないとは思ったんだが」


 アルガスがわずかに笑みを含んだ声で言い、フェリスタはちっ、と舌打ちをした。


「まあ護衛だからしょうがねえがよ。外で待たしとける状況でもねえし、俺がお前の立場でもそうしただろうからな」

「だから無視してたんだ……」


 呟くとフェリスタが眉を上げて笑った。


「おう。ほれ、止まるなってんだ。食え食え。……しかし本当に想像とは全然違った。剣も使えるようだし馬にも乗るし、雑魚寝で構わないと言いやがるし、本当にあの宿で気持ち良さそうに寝やがるし。山羊のチーズもちゃんと食ったな。自分の護衛に流れ者を選び、貴族にまで紹介する。その上礼を言う」

「礼を?」

「馬の店主と自分の護衛と寝台を譲った男にさ。全員流れ者だ。な?」


 何が?

 舞は思ったが、フェリスタは説明はしなかった。実に美味しそうに鶏肉に噛みついた。わしわし噛んで、飲み下して、


「んでまあ、今は歓迎してるぜ、親愛なる娘っ子殿」

「……本当に先は長そうだ」


 フレドリックが苦笑した。そして食べるのをやめて、口元を拭き、居住まいを正した。


「さて、先程も申し上げたが、私は戸籍を焼きに第一将軍のところへ伺います。その際、シルヴィア姫のことをどうお話しするべきか、考えあぐねていたのです。シルヴィア姫はもう、ラインディアにお帰りになるおつもりなのでしょうか」

「はい」

「それでは事情もわかって頂けよう。良かった。――【最後の娘】、ヒリエッタ=ディスタのことを警告しに第一将軍の元へ赴かれるのですね。どうか、私を共にお連れください」

「はい」


 舞は頷いて、表情を緩めた。


「良かった。……よろしくお願いします」


 と、フェリスタが朗らかに言った。


「よし、娘っ子、短い間だがよろしくな。グウェリン、お前の仕事を横取りする気はねえが、こいつぁ何しろ庇護の対象だからよ。構わねえだろ?」


 何が? と舞はまた思ったが、アルガスには通じたようだ。簡潔にうなずいた。


「構わない」

「よし。ラインディアまであと二日か。明後日の夕には着くな。お目どおりがかなうのはその翌日ってところか」

「そうだな。将軍はずっとアイオリーナ姫のおそばについておられる。お屋敷に行けばお会いできるはずだ。今夜手紙を書き、明朝出発前に出しておく」

「それがいい」


 フレドリックの瞳には、もう、先ほどの血を吐くような感情の片鱗は覗えなかった。

 なんて強い人なんだろうと舞は思う。まだ舞へのわだかまりは拭えていないはずなのに、その様子を微塵も見せず、舞を見る目は揺らぎもしない。

 戸籍か、と、食べながら考えた。戸籍を焼いて、流れ者になるのだ。フレドリックは。第一将軍の前で。

 それもシルヴィアへの思いゆえになのだろう。暗い色の旅装も、真っ黒の外套も、シルヴィアを悼むためなのだ。これを知ったらシルヴィアはどう思うだろうと、考えて、舞は背嚢を覗き込んだ。シルヴィアはまだ丸くなって眠っている。よくよく目を凝らすと、体が静かに動いている。だから眠っているだけなのだろう。でも――


 一昨日の夜は普通だったのに。

 自分の爪で、手紙まで書いていたのに。


 具合でも悪いのだろうか。でも誰に診せればいいのだろう。ラインディアには鴉を診てくれるお医者さんなどいるだろうか。黒い寝姿を見守る内に、どんどん不安が募ってきた。そして――


 ――フレドリックさんはシルヴィアを悼んでいるのだ。


 唐突にその事実が胸にずしりと落ちてきた。

 ヒリエッタを、アルベルトを、仇と思い定めることで、シルヴィアを失った心の安定を得ようとしているのだ。

 舞がシルヴィアと初めて出会ったとき、シルヴィアは既に鴉だった。舞は人間だった頃のシルヴィアを知らない。

 でもフレドリックは知っている。フレドリックが愛したのは人間だった頃のシルヴィアだ。絶世の美貌と謳われたシルヴィアの体はもう、ない。

 わかっていたはずなのに。

 既に知っていたはずの事実なのに。


 ――どうして。


「どうかそのまま」

 フレドリックが静かに言って、舞は頷いた。もちろん起こす気はないのだが、でも。

 どうして起きないのだろう。手紙を書いてから、ほとんどずっと眠っていた。

 小さな器を手にして、おいしそうなものをいろいろ取り分けた。起きたらきっと食べたがるだろう、だから……




     *




 シルヴィアが起きたのは、舞が風呂から戻って、しばらく経ってからだった。背嚢の中から寝台に移しておいたのだが、もぞもぞもぞ、と動いて、眠たげに頭をもたげた。


『……お腹がすいた』


 第一声はそれだった。もちろんそうだろう。昼のときも眠そうでほとんど食べていなかったし、もうとっくに夜だ。


「取ってあるよ。どうぞ」


 分岐点の集落の宿と比べて格段に豪華な机で舞が呼ぶと、よろよろとこっちにやってきた。舞は書いていた手紙をどけて場所を作った。シルヴィアは机の上に乗り、すぐさま食事に取り掛かった。がつがつ、と言えるような性急な動きだ。

 最近、シルヴィアの食べっぷりが変化している、と舞は思い出した。


 ウルクディアで初めて会った時は飢え死にしかけていたこともあり、むさぼるようにミルクを飲んだ。アルベルトの屋敷で睡眠薬入りの食事を食べてしまった時もがっついていた。でもそれ以降はずっと優美な食べ方だった、【アスタ】ではビアンカを含む少女たちの感動を呼んだし、その後地下街で会ってからもずっと。

 でも今は……アルベルトの屋敷でがっついた時と少し似た動きのような。

 記憶が甦った。


 ――エルティナ放して、お願い。

 ――この子はお腹がすいているのよ。


「この子って……?」


 あの時。止めようとした舞の手をシルヴィアはつついた。血が出る程。ごめん、と謝られたが、シルヴィアの言葉に反して、鴉の動きは止まらなかった、


「鴉の……」


 思わず呟いても、シルヴィアは無言だった。でも食事を続けるうちに、食べる勢いは少し落ちたようだ。舞はシルヴィアを覗き込んだ。


「美味しい?」

『美味い』


 答えたのは男の声に聞こえた。舞はぞっとした。思わず腰が浮いた。


「――シルヴィア!?」


 シルヴィアは瞬きをした。我に返ったように。そして首を傾げた。


『なあに、姫?』


 ――シルヴィアだ。戻ってきた。

 思って、舞は、硬直した。

 戻って、きた――?

 シルヴィアは舞の形相に驚いたようだった。


『あら、どうしたの……?』

「な……なんでもない。美味しい?」

『ええ、とっても』


 嘴に食べかすがついている。舞がようやく硬直をふりほどき、手巾を取り出して差し出すと、礼を言って、嘴を押し付けて丁寧に拭った。舞は自分の手が震えているのに気づいた。変化はいつからだっただろう。いつから。エスメラルダではほとんど一緒にいられなかった。アルガスがケガをしてからは、ずっとアルガスと一緒にいたはずだ。彼は変化に気づいただろうか。変化がエスメラルダからなら、アルガスが気づいているはずだ。


『あら、もう寝るところなのね』


 シルヴィアは辺りを見回して、言った。


『いい部屋ね。そうか、高級そうな宿だったものね』

「フレドリックさんに会ったよ」


 様子を見守りながら、言ってみた。シルヴィアは首を傾げた。


『フレドリック? もしかして、ルーウェン=フレドリック?』

「そう」

『懐かしいわ。でもどうして?』


 ――懐かしい、


「こ……この町にいたんだ。この食堂でばったり会ったんだよ」

『まあ、偶然だわね。でもどうしてあなたがルーウェン様を知ってるの?』


 シルヴィアは心底不思議そうだった。ああ、と舞は思った。記憶が抜け落ちている。

 こないだフレドリックに会って、シルヴィアだと認識されたことも、全て忘れている。

 エスメラルダで、【アスタ】の小川のほとりでのことを聞いたとき、シルヴィアはひどく不安そうに答えた。


 ――ごめんなさい。覚えていないのよ。


 心臓が跳ね回っていた。どうするべきかわからなかった。

 でも、エスメラルダに着く前も。


 ――最近忘れっぽくなっちゃって。

 ――最近我慢が……我慢するのをやめたの。


 我慢が。言い直す前は何と言おうとしたのだろう。

 最近我慢が……できなくなってきた、なんて、


「……前に会ったことがあるんだ」


 とっさに嘘をついた。問いただすのが怖かった。事実を知るのが。

 でも放ってはおけない。でもどうしたらいいんだろう。どうやったら治せるんだろう、鴉を診てくれるお医者さんを見つけても、これはお手上げだろう。

 デクターなら治せるだろうか。でもデクターなら舞より先にシルヴィアの変化に気づいていそうな気がする、


『ねえ、手紙を書いていたのね』


 シルヴィアの声は本当に可憐で、優しい。昨日までと全く変わらない。舞は平静を装って、空になった食器を片付けながら頷いた。


「そう。今夜も手紙、書く?」


 シルヴィアは少しの間、考えた。

 舞は息を詰めるようにして返答を待った。シルヴィアの使い終えた食器を水で洗って伏せ、戻ってくると、シルヴィアは言った。


『ええ、書くわ』

「代わりに書こうか?」

『ううん。いいの。たいしたこと書くわけじゃないし。この前の手紙、見せてちょうだい? 全部書き上げたわけじゃないの、時間がかかっちゃって……ああ、あなたが終わってからでいいのよ、もちろん』

「全部書いたわけじゃなかったんだ。誰に書いてるって言ってたっけ」

『……えっと』


 ごめん、と舞は思う。カマをかけるようなことをして。

 シルヴィアは答えを捻り出した。


『……あなたの親友によ』

「ああ、マーシャに書いてたんだっけ?」


 シルヴィアはほっとしたようだった。


『ええそう。お別れもちゃんと言えずに来ちゃったから』


 舞は顔だけで微笑んだ。そして机に戻って、灰皿に墨を入れてシルヴィアの前においた。一昨日の手紙を取り出して中を見ないようにして広げ、自分の手紙は片付けた。


『あなたはもういいの?』

「うん」


 書けるわけがない。声も体も震え出しそうだ、まともな字になるわけがない。アルガスに会わなければ、なんとか方策を考えなければ。舞は声を整えた。


「あたし、ちょっとお風呂に入ってくる。シルヴィアも入りに行く?」

『ううん、いいわ。ありがとう、これで書けるわ』

「どういたしまして」


 アルガスを捜さなければ。聞いてみなければ。舞は動揺を悟られないように戸口へ向かった。けれど、戸を出る寸前に、シルヴィアの優しい声がした。


『まあ……ふふふ。姫ったら、マーシャじゃないじゃないの』

「……」

『ここに書いてあるわ。ニーナって。いやねえ、もう。あなたってどうしてそう、勘が鋭いのかしら。朴念仁のくせに』

「……」

『戻って来て。ごめんなさい、隠していて。ねえ、怒らないで。悪気はなかったの。ただ、ラインディアまで保つと思ったの。あなたに背負わせたくなかっただけなのよ。ああ、この手紙がいけなかったのかしら……書いて安心したのが……ねえ、戻ってきて、姫。名前、間違っていないでしょ、私?』


 舞はのろのろと戻って行った。シルヴィアは優しい、優しい目で、舞を見守っている。聞きたくなかった。聞かずに逃げていれば、その事実も消えるのではないかと、子どもじみた考えが兆した。でも聞かなければならなかった。どうしても。


『ひどい顔。……もしかして、涙が出ないのかしら』


 座るとすぐに、シルヴィアが言った。


『そう。そうか。あなたは、そうやって泣くのね。……前から知っていたかしら、私』


 机の上を歩いて来て、とん、と舞の膝の上に飛び降りた。そのまま膝の上を歩いて、うつむいた舞の胸の辺りに、頭を差し伸べた。抱き着くように羽を広げた。


『ねえ姫。あなたの護衛を……護衛、だったかしら。護衛をしてくださってる人は……ああ、名前が出ないわ。彼は、もうご存じの事なの。あの人を責めないでね、私がきつく口止めをしたのだから。

 ……ねえ姫、私はあなたが大好きよ。あなたに会えて良かった。この体を手に入れたこと、後悔なんてひとつもしてない。ねえ、いいのよ。鴉での時間は、おまけだったのよ。私の体はもうない。あなたに会う前に、私は死んでいたの。……それだけのこと、なのよ』


 ――ああ。


 舞は顔を歪めた。

 なんて自分は、愚かだったんだろう。


『私はあなたに会って、いろいろできたと思ってる。忘れてしまったけど……あなたが危険になるのを、止めることができた、気がする。それからあなたの大切な人の危険も、あなたに知らせることができた。でしょう? それからアイオリーナが危険になるかもしれないと知って、知らせに来てくれたあなたに、心からお礼を言うこともできた。アイオリーナの思い出を、あなたに話したわ、きっと、アイオリーナのことを、好きになってくれたでしょ。他にもいろいろできたわ、そんな気がする、おまけの命にしては、上出来だわ。だから……そろそろこの鴉を、解放してあげなくては』


「……鴉を」


『そう。この体は鴉のものだもの。随分長い間我慢してくれていた。……ねえ姫。心配しないで。悪い気分じゃないの。私、今はとっても気分がいいの。だってこの子が許してくれた。あなたに拾われたころ、この子は私を怒っていたわ。体を勝手に使われて、美味しい物を食べようとするのを止められて、私のことを憎んでいた。でもね、最近は違うの。私を受け入れて、消えるまでの間ここにいていいって。それどころか、私が消えるのを惜しんでくれてさえいるの。体が自分を憎むというのは嫌なものよ……そして居場所を許されるというのは、ここにいていいって、いてくれって、言われるというのは、本当にいい気持ち。あなたに出会ったころよりも、私は幸せなの。本当よ』


 シルヴィアはそっと首を伸ばして、舞の頬に嘴を寄せた。


『どうかあなたが幸せになりますように』


 真摯な祈りが聞こえた。


『道はまだまだ険しそうだけれど、いろいろと乗り越えたその先に、平和と平穏と、何よりあなたにとっての幸せが、待っていますように』

「……シルヴィア」


 鴉の黒い体に重なるように、シルヴィアの、人間のシルヴィアの、笑顔が見えた。この世に存在してはいけないのではないかと、惧れさえ抱いてしまいそうな、泣きたくなるほどの美貌が。


『覚えておいてね。私はあなたが大好きよ。どうか忘れないで。あなたとアイオリーナが元気で生きていてくれること、そして幸せでいてくれることが、私の望みなの。それを忘れないで――

 ごめんなさい。昨日の手紙、本当はアイオリーナに書いたものなの。自分で渡すのは無理そうだわ……渡して頂戴、ね』


 羽が落ちた。舞は呆然と、自分の膝の上で動きを止めた鴉の体を見つめた。死んだわけではない、だって、体は静かに上下している。眠っている。眠っている。どうして、とこの期に及んで舞は思う。どうしてこんなに突然に――

 もう会えないのだろうか。

 もう、この人の、可憐で優しい声を、聞くことはないのだろうか。


「……シルヴィア?」


 声はかすれた。揺り起こしたいと強く思った。揺り起こして、もう一度声を聞きたかった。嘘だと言ってほしかった。だってほんの最近まで、普通だったのに。普通――

 ぞっとした。本当に普通だっただろうか。エスメラルダで、アルガスの部屋で、シルヴィアはずっと黙っていた。エスメラルダを出てからはまた口数が増えたけれど、それは多大な努力の賜物だったのではないだろうか。舞に気取らせないために。


「そんな……」


 体中が強ばっているようで、全然動かせなかった。舞はそのまま、長い間、シルヴィアの小さな体を見つめていた。

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